教皇ベネディクト十六世の123回目の一般謁見演説 聖アウグスチヌス(一)

1月9日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の123回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2006年3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話の64回目(2007年3月7日から開始した教父に関する講話の32回目)として、「聖アウグスチヌス」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
演説に先立って、使徒言行録20章27-28節が朗読されました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 偉大な降誕節の後、教父についての考察に戻りたいと思います。今日はもっとも偉大なラテン教父である聖アウグスチヌス(Aurelius Augustinus 354-430年)についてお話しします。聖アウグスチヌスは、情熱と信仰の人であり、また高い知性とうむことのない司牧的配慮の人でした。この偉大な聖人・教会博士は、キリスト教をまったく知らない人や、キリスト教をよく知らない人からも、その名前だけはよく知られています。アウグスチヌスは西洋世界また全世界の文化生活に深い刻印を刻んだからです。聖アウグスチヌスはその特別な重要性のゆえにきわめて大きな影響を及ぼしました。そのため、キリスト教ラテン文学の道はすべて、ヒッポ(アルジェリアの海岸の、現在のアンナバ)に通じるといえます。ヒッポはアウグスチヌスが司教を務めた場所です。また、アウグスチヌスが395年から430年に没するまでその司教だった、ローマ帝国に属するこのアフリカの町ヒッポから、その後のキリスト教と西洋文化の他のさまざまな道が発するともいえます。
 ある文明がこれほど偉大な精神を見いだすことは滅多にありません。この偉大な精神は、文明の価値あるものを受け入れ、その本質的な豊かさを高めるとともに、その後の時代を培うことのできたさまざまな理念と方法を生み出しました。パウロ六世も次のように強調するとおりです。「古代哲学全体がアウグスチヌスの著作に流れ込み、アウグスチヌスの著作から、続く諸世紀の教理の伝統全体に行き渡る思潮が発するといえます」(AAS 62, 1970, p. 426)。さらにアウグスチヌスはきわめて多数の著作を残した教父です。アウグスチヌスの伝記作者ポッシディウス(Possidius 437年以降没)がいうように、一人の人がその生涯の中でこれほど多くの著作を行えたのはありえないことのように思われます。アウグスチヌスのさまざまな著作については、次回の講話でお話しします。今日わたしたちはアウグスチヌスの生涯に目を向けます。アウグスチヌスの生涯はその著作、とくに『告白』(Confessiones)から再構成することができます。『告白』は、神を賛美するために書かれた、たぐいまれな霊的自伝です。アウグスチヌスのもっとも有名な著作でもあります。アウグスチヌスの『告白』は、その内面性と心理への関心のゆえに、現代に至るまで、非宗教的文学を含めた西洋と西洋以外の文学の独自のモデルとなったといえます。霊的生活、自己の神秘、自己のうちに隠された神の神秘への注目は、前例を見ない特別なものであり、これからもずっと、いわば霊的な「頂点」であり続けます。
 さて、生涯に戻ると、アウグスチヌスは354年11月13日、ローマ帝国の属州であった、アフリカのヌミディアのタガステで、パトリキウス(Patricius)とモニカ(Monica 332頃-387年)から生まれました。パトリキウスは異教徒で、後に洗礼志願者となりました。モニカは熱心なキリスト教徒でした。聖人として崇敬されている、情熱的な女性モニカは、息子に大きな影響を与え、彼をキリスト教信仰へと導きました。アウグスチヌスも志願者として受け入れられたしるしである塩を受けました。アウグスチヌスはイエス・キリストの姿に常に引きつけられました。自らいうように、彼はいつもイエスを愛していました。けれども彼は教会の信仰と実践からますます離れていきました。現代の多くの若者に見られるのと同じです。
 アウグスチヌスには弟のナウィギウス(Navigius)と姉がいます。この姉は名前が知られていませんが、やもめとなり、後に女子修道院の院長となりました。鋭い知性をもった青年アウグスチヌスは、優れた教育を受けましたが、常に模範的な生徒だったわけではありませんでした。彼は生まれた町タガステで、次いでマダウラで、まず文法学を十分に学び、370年からはカルタゴで修辞学を学びました。カルタゴはアフリカにおけるローマ帝国属州の首都です。彼はラテン語を完全に習得しましたが、ギリシア語と、同郷人の言語である古代カルタゴ語はあまりできませんでした。このカルタゴでアウグスチヌスは初めて『ホルテンシウス』(Hortensius)を読みました。『ホルテンシウス』は、後に失われた、キケロ(Marcus Tullius Cicero 前106-43年)の著作です。この著作はアウグスチヌスの回心への道のりの始まりとなりました。実際、このキケロの文書はアウグスチヌスのうちに知恵への愛を呼び覚ましました。司教となったアウグスチヌスが『告白』の中で書いているとおりです。「この書物は、わたしの気持を変えてしまいました」。そこで「突然、すべてのむなしい希望がばかげたものになり、信じられないほど熱烈な心で不死の知恵をもとめ、立ちあがり・・・・はじめました」(『告白』:Confessiones III, 4, 7〔山田晶訳、『世界の名著14』中央公論社、1968年、112頁〕)。
 しかし、アウグスチヌスはイエスなしに本当の意味で真理を見いだすことができないと確信していました。しかもこの魅力的な書物の中にイエスの名は書かれていませんでした。そこで彼はこの書物を読んだ後、すぐに聖書を読み始めました。ところがアウグスチヌスは失望しました。それは、聖書の翻訳のラテン語の文体が不十分だったからだけでなく、その内容そのものが満足できないものに思われたからです。戦争や他の人間的な出来事についての記述の中に、彼は哲学の崇高さや、哲学がもつ真理の探求の輝きを見いだすことができませんでした。にもかかわらず、アウグスチヌスは神なしに生きることを望みませんでした。そこで彼は、自分の真理への望みと、イエスに近づきたいという望みに合った宗教を探しました。こうしてアウグスチヌスはマニ教徒の罠にはまりました。マニ教徒は自分たちをキリスト教徒として示し、完全に理性的な宗教を約束しました。マニ教徒は世界が善と悪の二つの原理に分かれると信じました。こうして人間の歴史が複雑なわけが説明されます。聖アウグスチヌスも二元論的な道徳が気に入りました。なぜなら、それは選ばれた者のための優れた道徳を示したからです。そして、アウグスチヌスのようにこの道徳に従う者にとって、時代に合った、とくに若者に適した生活を送ることを可能としたからです。そこでアウグスチヌスはマニ教徒になりました。当時は、理性、すなわち真理の探求と、イエス・キリストを愛することとを統合できたと信じたからです。マニ教徒になることは、アウグスチヌスの生活にとっても具体的に好都合でした。実際、マニ教徒の信者になれば、容易に仕事に就くことができました。この宗教には多くの有力な人が属していたからです。アウグスチヌスはマニ教を信じることにより、ある女性ともち始めた関係を続けると同時に、仕事を続けることができました。この女性から息子アデオダトゥス(Adeodatus 372-390年)が生まれました。アウグスチヌスの最愛の子であるアデオダトゥスは、たいへん聡明で、後にアウグスチヌスがコモ湖で洗礼の準備をするときに同伴し、聖アウグスチヌスがわたしたちに伝える対話にも参加しています。残念ながらこの息子アデオダトゥスは若くして亡くなりました。アウグスチヌスは20歳の頃、故郷の町タガステで文法学を教えた後、やがてカルタゴに戻り、そこで優秀かつ有名な修辞学の教師となりました。しかし、時が経つにつれてアウグスチヌスはマニ教の信仰から離れ始めました。マニ教は彼の疑問を解決できなかったので、知的な意味で彼を失望させたからです。アウグスチヌスはローマ、後にミラノに移りました。この当時ローマ皇帝の座所が置かれていたミラノで、アウグスチヌスはローマ市長官で異教徒のシュンマクス(Quintus Aurelius Symmachus 340頃-402年)の執り成しと推薦によって、名誉ある地位を得ました。シュンマクスはミラノの司教聖アンブロジオ(Ambrosius Mediolanensis 339頃―397年)の敵対者です。
 アウグスチヌスはミラノで――初め、自らの修辞学の内容を豊かにすることを目的として――司教アンブロジオの美しい説教を聞くことを習慣とするようになりました。アンブロジオはかつて北イタリアにおける皇帝の代理人でした。アフリカの修辞学教師アウグスチヌスは、この偉大なミラノの司教のことばに引きつけられました。それは、その雄弁のためだけでなく、何よりもその内容がアウグスチヌスの心にますます触れるようになったからです。旧約に関する大きな問題――すなわち、旧約が修辞学的な美しさと、哲学の崇高さを欠いていること――は、アンブロジオの説教の中で、旧約の予型論的な解釈によって解決しました。アウグスチヌスは、旧約がイエス・キリストへと向かう旅路であることを理解したのです。こうしてアウグスチヌスは旧約の美しさと哲学的な深みを理解するための鍵を見いだしました。そして、歴史におけるキリストの神秘の独自性、また、哲学すなわち合理性と、信仰が、「ロゴス」において、すなわち肉となった永遠のみことばであるキリストにおいて統合されることを、ことごとく悟りました。
 アウグスチヌスは短期間のうちに聖書の比喩的な読み方を理解しました。また、ミラノの司教アンブロジオが用いていた新プラトン主義哲学の助けによって、若い頃、聖書のテキストに最初に近づいたとき、乗り越えることが不可能のように思われた、知的な困難を解決することができました。
 アウグスチヌスは哲学者の著作を読み続けるとともに、あらためて聖書、とくにパウロの手紙を読みました。それゆえ、386年8月15日のキリスト教への回心は、長く苦しい内的な旅路の頂点に位置づけられます。これについては、別の講話であらためて述べたいと思います。アフリカの人アウグスチヌスは、洗礼の準備を行うために、コモ湖に近い、ミラノ北部の郊外に、母モニカ、息子アデオダトゥスと小さな友人のグループとともに移りました。こうしてアウグスチヌスは32歳のとき、387年4月24日の復活徹夜祭に、ミラノの司教座聖堂でアンブロジオから洗礼を受けました。
 洗礼の後、アウグスチヌスは友人たちとともにアフリカに帰ることに決めました。神に仕えるために、修道的な形の共同生活を送ろうと考えたためです。しかし、オスティアで出発を待っていたとき、母が突然病気になり、ほどなくして死んでしまいます。残された息子は心から嘆き悲しみました。ついに故郷に帰ると、回心者アウグスチヌスは修道院を創立するためにヒッポに住みました。アウグスチヌスはこのアフリカの海岸の町ヒッポで、抵抗したものの、391年に司祭に叙階されました。そして、幾人かの仲間とともに彼が長年考えていた修道生活を始めました。アウグスチヌスは自分の時間を祈りと勉学と説教に分けました。彼は真理に奉仕することだけを望み、自分が司牧生活のために招かれているとは思っていませんでした。しかし、やがて彼は、神の召命は、自分が他の人々の司牧者となって、真理のたまものを人々に与えることであると悟りました。4年後の395年、アウグスチヌスはヒッポで司教に叙階されました。聖書とキリスト教の伝統的な諸文書の研究を深め続けながら、アウグスチヌスは、うむことのない司牧活動において模範的な司教となりました。彼は週に数回、信者に対する説教を行い、貧しい人や孤児を助け、聖職者の教育と女子と男子の修道院の運営を監督しました。要するに、このかつての修辞学者は、当時のキリスト教のもっとも重要な代表者の一人になりました。35年以上にわたる司教職を通じて、きわめて積極的に教区を統治し、一般社会に対しても際立った成果を上げた、このヒッポの司教は、実際、ローマ帝国領アフリカのカトリック教会の指導と、さらに当時のキリスト教全体にきわめて大きな影響を与えました。当時のキリスト教は、マニ教、ドナトゥス派、ペラギウス派のような、手強く破壊的な異端的宗教思潮に直面していたからです。これらの思潮は、唯一にして憐れみ深い神に対するキリスト教信仰を危険にさらすものでした。
 アウグスチヌスは生涯の最後に至るまで、日々自らを神にゆだねました。ヒッポが侵入した蛮族によって3か月間包囲されていたとき、司教アウグスチヌスは熱病に冒されていました。友人ポッシディウスは『アウグスチヌス伝』(Vita Augustini)でこう記します。アウグスチヌスは痛悔の詩編を大きな文字で書き写すように求めました。そして「その紙片を壁にはらせ、病気で床にふしているとき、それを見たり読んだりして、絶えず心ゆくまで熱い涙を流していた」(『アウグスチヌス伝』:Vita Augustini 31, 2〔『聖アウグスチヌスの生涯』熊谷賢二訳、創文社、1963年、109頁〕)。このようにしてアウグスチヌスは生涯の最後の日々を過ごしました。アウグスチヌスは430年8月28日、76歳に達することなく亡くなりました。次回からの講話でわたしは彼の著作、教え、そして内的経験を取り上げたいと思います。

略号
AAS Acta Apostolicae Sedis

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