教皇ベネディクト十六世の124回目の一般謁見演説 聖アウグスチヌス(二)

1月16日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の124回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2006年3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神 […]

1月16日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の124回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2006年3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話の65回目(2007年3月7日から開始した教父に関する講話の33回目)として、前回に続いて再び「聖アウグスチヌス」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
演説に先立って、シラ書39章7-9節が朗読されました。
演説の後、イタリア人の巡礼者に対するあいさつの中で、教皇は、18日(金)から25日(金)まで行われる「キリスト教一致祈祷週間」に向けて次の呼びかけを行いました。
「明後日の1月18日(金曜日)から恒例の『キリスト教一致祈祷週間』が始まります。今年の『キリスト教一致祈祷週間』は特別な意味をもっています。開始から100周年となるからです。今年のテーマは、聖パウロのテサロニケの信徒に対する招きである、『絶えず祈りなさい』(一テサロニケ5・17)です。この招きをわたしは自分のものとして、全教会に送ります。実際、休むことなく祈ることが必要です。わたしたちは主のすべての弟子の一致という偉大なたまものが与えられるよう、神に絶えず願わなければならないからです。聖霊の限りない力が、わたしたちを、一致の追求のために真心から努めるよう駆り立ててくださいますように。こうしてわたしたちが皆ともに、イエスが世の唯一の救い主であることを告白することができますように」。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 今日も、先週の水曜日と同じく、偉大なヒッポの司教、聖アウグスチヌス(Aurelius Augustinus 354-430年)についてお話ししたいと思います。死ぬ4年前、聖アウグスチヌスは後継者を任命しようと望みました。そのために426年9月26日、彼は民をヒッポの平和大聖堂に集め、この務めのために指名した者を信者に告げました。アウグスチヌスはいいます。「わたしたちは皆、死すべき者です。しかし、生涯の最後の日は誰にもわかりません。いずれにせよ、わたしたちは、子どものときは青年になることを望み、青年になると成人になることを望み、成人になると中年になることを望み、中年になると老年になることを望みます。なれるかどうかはわからなくても、わたしたちはそう望むのです。けれども老年の後には、望むべき別の時期がありません。老年がどれだけ続くかもわかりません。・・・・わたしは神のみ旨によって、生涯の元気なときにこの町に来ました。しかしわたしの若さは過ぎ去り、今やわたしは年老いています」(『書簡213』:Epistulae 213, 1)。このときアウグスチヌスは司祭エラクリウス(Eraclius)を後継者として指名しました。会衆は割れるような拍手をもってこれを承認し、23回、次のことばを繰り返しました。「神に感謝。キリストに賛美」。信者たちは、この後アウグスチヌスが自分の将来の計画について話すと、さらに拍手をもってそれを承認しました。すなわちアウグスチヌスは、残された生涯を聖書の研究に集中してささげることを望んだのです(『書簡213』:Epistulae 213, 6参照)。
 実際、その後の4年間、アウグスチヌスは特別に知的な活動を行いました。アウグスチヌスは重要な著作を完成し、別の重要な著作に着手し、異端者との公の議論を続け――アウグスチヌスは常に対話を求めたからです――、アフリカの属州に平和をもたらすために努力しました。アフリカの属州は南方の蛮族によって脅かされていたからです。そのためにアウグスチヌスは皇帝弁務官ダリウス(Darius)に手紙を書きました。ダリウスは、アフリカ軍指揮官ボニファティウス(Bonifatius)とローマ皇帝宮廷との不和を仲裁するためにアフリカに来ていました。マウレタニアの部族はその侵入によってローマ皇帝宮廷より優勢だったからです。アウグスチヌスは手紙の中でいいます。「偉大な栄誉の称号は、剣によって人を殺すよりも、ことばによって戦いを終わらせるためのものです。すなわち、戦いによってではなく、平和によって平和をもたらし、維持するためのものです。たしかに兵士も、よい兵士であれば平和を追求します。けれどもそれは血を流すことを代償とします。しかしあなたはいかなる人も血を流すことがないようにするために派遣されたのです」(『書簡229』:Epistulae 229, 2)。残念ながらアフリカ地域における和平への望みは裏切られました。429年5月、ボニファティウス自身の恨みに基づいてアフリカに召喚されたヴァンダル族は、ジブラルタル海峡を渡り、マウレタニアに入って来ました。ヴァンダル族の侵入はすぐにアフリカの他の豊かな属州にも広がりました。430年5月ないし6月、ポッシディウスがこれらの蛮族を呼んだ言い方に従えば、「ローマ帝国の破壊者」はヒッポを包囲しました。
 ボニファティウスもヒッポの町に避難しました。遅きに失したとはいえ、ボニファティウスは宮廷と和解し、今度は侵入者の来襲を防護しようとしましたが、それは無駄でした。伝記作者ポッシディウスはアウグスチヌスの苦悩をこう述べています。「常にもまして、涙は彼の昼夜のパンとなった。そして彼は、まさに終わろうとしている晩年の日々を、他の人々の悲しみにまさる悲しみを耐え忍びながら暮らした」(『アウグスチヌス伝』:Vita Augustini 28, 6〔『聖アウグスチヌスの生涯』熊谷賢二訳、創文社、1963年、84頁参照〕)。ポッシディウスは解説していいます。「神の人アウグスチヌスは、諸都市が廃墟と化したのを見た。同じく村々でも、ある人々は敵に殺害され、ある人々は逃散し、住む人も住む家もなくなったのを見た。教会には、司祭も聖職者もいなくなった。祝聖された処女や修道者たちはばらばらに散っていった。これらの人々のうち、ある人々は拷問のために死んでいった。ある人々は剣で殺された。しかしある人々は、捕らえられているうちに心身の健全さを損なわれ、信仰を失い、下劣で過酷な待遇のもとで敵に仕えるようになった」(同:ibid. 28, 8〔前掲熊谷賢二訳、84-85頁〕)。
 老いて疲れながらも、アウグスチヌスは難局に立ち向かい、祈りと、摂理の計りがたい計画についての瞑想をもって自分と他の人々を励ましました。アウグスチヌスは「世の老い」について語りました。ローマ世界は実際に年老いていました。アウグスチヌスは数年前の410年にアラリック(Alaric 西ゴート王在位395-410年)に率いられたゴート族がローマの町に侵入したために、イタリアから来た難民を慰めるときにも、この世の老いについて語りました。老いるとともに病気は増えます。すなわち、咳(せき)、カタル、目のかすみ、不安、衰弱です。世は年老いますが、キリストはとこしえに若いいのちを保ちます。そこでアウグスチヌスは人々をこう招きます。「世が年老いても、キリストと一つに結ばれて、再び若返ることを拒んではなりません。キリストはあなたにこういわれます。『恐れるな。若い鷲のように、あなたは再び若さを取り戻す』」(『説教81』:Sermones 81, 8参照)。それゆえキリスト信者は困難な状況にあってもくじけてはなりません。むしろ困っている人を助けようと努めるべきです。偉大な博士アウグスチヌスはこのようにティアベの司教ホノラトゥスにこたえて助言します。ホノラトゥスは、蛮族の侵入が迫っているとき、司教や司祭、あるいは教会に属する者がいのちを救うために逃げてもよいかどうか尋ねたからです。「司教、聖職者、信徒を含めてすべての人が危険を共有しているとき、他の人の助けを必要としている人を、必要とされている人が見捨ててはなりません。このような場合には、すべての人を安全な場所に移動させるべきです。けれども、ある人がそこにとどまる必要がある場合、聖なる奉仕職によってその人を助けなければならない人は、その人を見捨ててはなりません。ですから、ともに助かるか、家族の父であるかたによって受けるべく望まれた災いをともに受けるかのいずれかでなければならないのです」(『書簡228』:Epistulae 228, 2)。アウグスチヌスは終わりにいいます。「これが愛の最高の証明です」(同:ibid. 228, 3)。多くの司祭が何世紀にもわたって受け入れ、自分のものとしてきた英雄的なメッセージを、このことばの中に認めずにいられるでしょうか。
 さて、ヒッポの町は抵抗しました。アウグスチヌスの居宅の修道院は、避難してきた同僚の司教たちを受け入れるために門戸を開きました。この司教の中にはすでにアウグスチヌスの弟子となっていたポッシディウスもいました。こうしてポッシディウスはアウグスチヌスの最後の悲惨な日々に関する直接の証言をわたしたちに残すことができました。ポッシディウスは語ります。「アウグスチヌスは敵の包囲の3か月目に熱病に冒されて床に伏し、最後の闘病を始めた」(『アウグスチヌス伝』:Vita Augustini 29, 3〔前掲熊谷賢二訳、87頁〕)。年老いた聖アウグスチヌスは、最後の自由な時間を用いて深い祈りに身をささげます。アウグスチヌスはいつもこういっていました。司教であれ、修道者であれ、信徒であれ、どれほどその行いが申し分がないように見えても、誰もふさわしく悔い改めることなしに死に直面することはできないと。だからアウグスチヌスは、涙を流しながら痛悔の詩編を繰り返し唱え続けたのです。それは彼が民とともに何度も唱えた詩編でした(同:ibid. 31, 2参照)。
 病が重くなると、死を間近にした司教アウグスチヌスは、独りになって祈る必要を感じました。「彼は誰からも潜心を妨げられないようにするために、死ぬ10日ぐらい前、医者が診察に来るときと食事を運んで来るとき以外は、誰も彼の部屋に入らぬよう、そこにいたわれわれに頼んだ。われわれはこの願いを聞き入れ、それを守った。それで彼は死ぬまでの10日間というもの、ひとりで、まったく祈りに没入していたのである」(同:ibid. 31, 3〔前掲熊谷賢二訳、109頁〕)。アウグスチヌスは430年8月28日に亡くなりました。アウグスチヌスの偉大な心はついに神のうちに安らぎを得たのです。
 ポッシディウスはこう伝えています。「われわれの参列のもとに神にいけにえがささげられてから、彼の遺体への告別がなされ、その後彼の遺体は埋葬された」(『アウグスチヌス伝』:Vita Augustini 31, 5〔前掲熊谷賢二訳、109-110頁〕)。アウグスチヌスの亡骸は、時期は不明ですが、サルデーニャに移転され、そこから725年頃パヴィアのサン・ピエトロ・イン・チェル・ドーロ聖堂に移転され、今もそこに安置されています。アウグスチヌスの最初の伝記作者ポッシディウスはアウグスチヌスの最終的な評価についてこう述べます。「彼は教会のために、非常に多くの聖職者と、長上のもとにあって貞潔を守って生きている人々で満ちている男子と女子の修道院と、自分自身と他の聖者らの書いた本や論文などを蔵した図書館とを残した。これらの彼の著書を読めば、信者は、彼が神の助けにより、どれほど優れた人物であり、教会の中でどれほどの力をもっていたかということを発見し、これらの書物のうちに、彼が常に生きているということを見いだしうるであろう」(『アウグスチヌス伝』:Vita Augustini 31, 8〔前掲熊谷賢二訳、110頁〕)。わたしたちもこれと同じ評価を行うことができます。わたしたちも彼の著書のうちに「彼が常に生きていることを見いだします」。聖アウグスチヌスの著作を読むとき、わたしは彼が1600年近く前に死んだ人だという気がしません。むしろわたしは彼を現代の人のように感じます。この同時代の友人は、わたしに語りかけます。彼はその新鮮で現代的な信仰をもってわたしたちに語りかけます。聖アウグスチヌスはその著作の中でわたしたちに語りかけてきます。わたしに語りかけてきます。ですからわたしたちは聖アウグスチヌスのうちに、彼の信仰の変わることのない現代的な意味を見いだします。この信仰は、永遠の神のことば、神の子にして人の子である、キリストから来るものです。この信仰はたしかに過去に宣べられたものですが、わたしたちはそれを過去のものだと考えることができません。それは常に現代のものです。なぜなら、まことにキリストは、昨日も今日も、また永遠に変わることのないかただからです。キリストは道であり、真理であり、いのちです。だから聖アウグスチヌスはわたしたちを励まします。この永遠に生きておられるキリストに自分をゆだねなさい。そこから、いのちの道を見いだしなさいと。

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