第42回「世界広報の日(2008年4月27日)」教皇メッセージ

第42回「世界広報の日(2008年4月27日)」教皇メッセージ 利己主義と奉仕の岐路に立つメディア― 他者と分かち合うための真実を求めて 親愛なる兄弟姉妹の皆様 1.今年の「世界広報の日」のテーマは、「利己主義と奉仕の岐 […]

第42回「世界広報の日(2008年4月27日)」教皇メッセージ
利己主義と奉仕の岐路に立つメディア―
他者と分かち合うための真実を求めて

親愛なる兄弟姉妹の皆様

08sc1.今年の「世界広報の日」のテーマは、「利己主義と奉仕の岐路に立つメディア―他者と分かち合うための真実を求めて」です。その中でわたしは、個人の生き方や社会の中でのメディアの重要な役割について明らかにします。実にこれまでの人間の歴史の中で、とくに、グローバル化現象がますます拡大する中で、人間関係においても、社会・経済・政治・宗教の発展においても、これほどメディアが重要な位置を占めるようになったことはありません。今年の「世界平和の日(2008年1月1日)」のメッセージでわたしがお伝えしたように、「とくに教育的な能力のあるマス・メディアは、家庭の尊重を推進し、家庭への期待と家庭の権利を明らかにし、家庭のすばらしさを示す上で特別な責任をもっています」(同5) 。

2.急速な技術の進歩によって、メディアは驚くべき可能性を得たと同時に、新たな、今まで想像もつかなかったような疑問や問題をもたらしています。ニュースの伝播や事実を知らせること、情報の普及にメディアが貢献できることは否定できません。メディアは、民主主義の発展や民族間の対話において重要な働きをしてきただけではなく、たとえば、識字の普及や個人と国家の社会化という面でも決定的に重要な役割を果たしてきました。国家間の理解をはぐくみ、強め、世界のいたるところで平和に向けた対話にいのちを吹き込み、情報を入手するという基本的な善を保証すると同時に、思想の自由な伝達、とりわけ連帯と社会正義の理念を確実に実現へと向かわせることは、メディアの働きなくしては実に困難だといえるでしょう。確かに、包括的に見た場合、メディアは思想を広めるためだけの手段ではありません。メディアは、より大いなる正義と連帯に向けて奉仕する手段とも成りえるし、また成るべきです。しかし、残念ながらメディアは、今日のもっとも有力な利害関係者によって押し付けられた方針に向かって、人類を支配することをねらったシステムへと変貌する危険を冒しています。そのようなことが起こるのは、広報がイデオロギー目的のために、あるいは商品の刺激的な広告のために利用される場合です。この場合メディアは、現実を表しているだけだと主張しますが、個人や家族、社会生活のゆがめられたモデルを正当化しがちであり、またそれらを押し付ける傾向にあります。さらに、視聴者を魅了し、より多くの聴衆を獲得するために、時としては俗悪な次元や暴力に頼ること、度を越すことさえも躊躇しません。その一方でメディアはまた、豊かな国と貧しい国との間での技術の分かち合いを減少させるのではなく、むしろ増大させることに奉仕する発展のモデルを示し、それを援助することもできます。

3.人類は今、岐路に立っています。進歩は、善への新たな可能性を開くと同時に、これまで存在しなかった、がく然とさせられるまでの悪への可能性をも開きます。この進歩の両義性について書いた回勅「スペ・サルビ(キリスト教的希望について)」の中でわたしが述べていることを、メディアに適切に応用することもできるでしょう(同22参照)。それゆえ、広報の手段が、見識のない「利己主義」のために利用されることを認めること、あるいは人間の良心を操作するためにそれらを利用する人々の思うままになることが果たして賢明なのかどうかを、わたしたちは問わなければなりません。メディアは人類と共通善への奉仕に徹し、「人間の倫理教育・・・人間の内面的成長」(同上)を助けることを最優先にすべきではないでしょうか。メディアが個人の生活と社会に与える並々ならぬ影響については広く認識されていますが、今メディアが経験している、その役割の完全な変化といってもいいほどの、今日の極端な変化については大きく取り上げる必要があります。今日、広報は、現実を単に表現するだけでなく、自らが持つ暗示の力と影響力とを利用して現実そのものを決定するのだ、とますます主張しているように見えます。たとえば、ある状況においては、メディアが情報の伝播という適切な目的のためにではなく、出来事を「作り出す」ために使われているのは明らかです。教会の指導者たちの多くは、こうしたメディアの機能の危険な変化を、案じながら注目してきました。わたしたちの生活のあらゆる分野(道徳、知識、宗教、感情、文化)は、現実から甚大な影響を受けています。ですから、その生活の中で人間の善が危機にさらされている今、技術的に可能なことすべてが、倫理的にも許されるものではないということを、わたしたちは声を大にしていわなければなりません。したがって、広報機関が現代社会に与えた影響によって引き起こされている避けられない問題に対して、選択し解決策を講じることを、わたしたちはもはや先送りすることはできないのです。

4.広報機関が社会で獲得してきた役割は、今日、第3千年期における重要な挑戦として明らかになってきている「人類学的」な問いの欠かせない一部になっていることを考慮に入れなければなりません。ちょうど、生命そのもの、結婚や家族といった領域において、また正義と平和と地球環境保護など現代社会の大きな問題においてもそうであるように、広報機関の分野においても、人間と真実に関する重要な領域があり、そこに人間がかかわり始めています。広報がその倫理基盤を失い、社会からの統制をかわすとき、最優先されるべきであり、また侵すべからざる人間の尊厳を、もはや考慮しなくなります。その結果、広報は、人々の良心と選択に否定的な影響を及ぼし、人々の自由とその生命さえも決定的に左右することになります。こうした理由から、広報機関は、たゆまず人間を擁護し、人間の尊厳に十分に敬意を払うべきであり、それが不可欠です。多くの人が今、医療の分野や生命に関連した科学的研究に生命倫理があるように、この領域においても「情報倫理」が必要であると考えています。

5.メディアは、現代の真の災いのもとである、経済的物質主義や倫理的相対主義の代弁者となることを避けなければなりません。それよりむしろ、人類についての真実を広く知らせ、それを否定したり破壊したりしようとするものから人類を守ることに貢献することが可能であり、またそうしなければなりません。広報機関の第一の使命は、人類についての真実を探求し、それを示すことだとさえいえるでしょう。この目的のために、メディアが持っている自由に駆使できる多くの洗練された、魅力ある技術を活用するという仕事は、心躍る務めです。その務めはまず、部門の管理者や技術者に最初に任されます。しかし、それはある程度わたしたち皆にかかわる務めでもあります。なぜなら、このグローバル化の時代にあっては、わたしたち皆が広報機関の消費者であり、操作者でもあるからです。とくに電気通信やインターネットなどの新しいメディアは、まさに伝達の様相そのものを変えています。ですから今のこの時が、広報機関を新たに築き直し、わたしの尊敬する前教皇ヨハネ・パウロ二世がいわれたように、人間の真実について重要で必須の要素を、より明白なものにする貴重な機会なのかもしれません(使徒的書簡「急速な発展」10参照)。

6.人は真実に渇き、真実を探し求めます。この事実は、数多くの出版物や番組、あるいはすばらしい小説が注目され、成功したことによっても明らかにされています。その中では宗教的側面も含む人間の真実、美しさ、偉大さが認められ、好意的に描かれています。イエスはいいます。「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8・32)。わたしたちを自由にする真理は、キリストです。なぜなら、人の心にあるいのちへの渇きと愛に完全にこたえることができるのは、キリストだけだからです。キリストと出会い、彼のメッセージを喜んで熱心に受け入れた人は、この真理を分かち合い、伝えたいという思いを抑えきれなくなります。それを福音記者聖ヨハネは、次のように書いています。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、いのちのことばについて。・・・・わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです」(一ヨハネ1・1-4)。

勇気ある伝達者、真実の真の証人、キリストの教えに忠実で、信仰のメッセージに熱心であり、そして「現代の文化が必要としているものを理解し、このメディア中心の時代を、孤立と混乱ではなく、真実の探求と、人間および民族間のコミュニケーションを育てるための貴重な時として受け止め、全力を傾けて働く」(ヨハネ・パウロ二世「メディアと文化で働く人々のための会議でのあいさつ」2002年11月9日)伝達者を、聖霊が立ち上がらせてくださるように願いましょう。

これらの願いを込めて、皆様に心からの祝福を送ります。

2008年1月24日
聖フランシスコ・サレジオの祝日に
バチカンにて
教皇ベネディクト十六世

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