教皇ベネディクト十六世の126回目の一般謁見演説 聖アウグスチヌス(三)

1月30日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の126回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2006年3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話の66回目(2007年3月7日から開始した教父に関する講話の34回目)として、再び「聖アウグスチヌス」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。


親愛なる友人の皆様。
 キリスト教一致祈祷週間の後、今日わたしたちは偉大な人物である聖アウグスチヌスに戻ります。わたしの敬愛する前任者であるヨハネ・パウロ二世は、アウグスチヌスの回心1600周年である1986年に、使徒的書簡『ヒッポのアウグスチヌス』という、アウグスチヌスに関する長く詳細な文書を発布しました。教皇自身、この文書が「神への感謝」だと述べます。この感謝は「神がアウグスチヌスのすばらしい回心をもって、教会に向けてまた教会を通して、全人類に与えられた恵み」(使徒的書簡『ヒッポのアウグスチヌス』序文)のゆえにささげられます。わたしは回心というテーマに別の謁見で戻ります。回心は、アウグスチヌス個人の生涯にとってだけでなく、わたしたちの生涯にとっても根本的なテーマです。先日の主日の福音の中で、主ご自身がご自分の宣教を「悔い改めよ」(マタイ4・17)ということばでまとめました。わたしたちは聖アウグスチヌスの歩みをたどることによって、回心とはいかなることであるかを考察することができます。回心ははっきりとした決定的なことがらです。しかし、わたしたちはこの根本的な決断を成長させなければなりません。すなわち、わたしたちの生涯全体を通してそれを実現しなければなりません。
 しかし、今日の講話は信仰と理性というテーマを扱います。これは聖アウグスチヌスの生涯を決定づけるテーマの一つです。さらにいえば、これこそが聖アウグスチヌスの生涯を決定づけるテーマだといえます。アウグスチヌスは幼いときから母モニカからカトリック信仰を学びました。しかし彼は青年時代になるとこの信仰から離れました。彼はこの信仰を理性にかなったものと認めることができなかったからです。また彼は、自分にとって理性すなわち真理を表現していないと思われる宗教を望まなかったからです。アウグスチヌスの真理への渇望は徹底的なものでした。それゆえ、この渇望がアウグスチヌスをカトリック信仰から遠ざけることになりました。けれどもアウグスチヌスはその徹底的な性格により、真理そのものに到達しておらず、したがって神に到達していないさまざまな哲学を受け入れることもできませんでした。神は、たんなる宇宙の究極的な理念ではなく、真の神でなければなりません。いのちを与え、わたしたちの人生の中に入ってくる神でなければなりません。それゆえ聖アウグスチヌスの知的・霊的な歩みの全体は、現代にも通用する、信仰と理性の関係における模範となります。このテーマは信仰者のものだけでなく、真理を求めるすべての人のテーマです。それはすべての人の判断と運命にとって中心的なテーマなのです。わたしたちはこの信仰と理性という2つの領域を、分離させても、対立させてもいけません。むしろ両者を常に同時に歩ませなければなりません。回心の後にアウグスチヌス自身が述べているように、信仰と理性は「わたしたちを認識へと導く二つの強い力」(『アカデミア派駁論』:Contra Academicos III, 20, 43)です。そのためアウグスチヌスの有名な二つの定式(『説教集』:Sermones 43, 9)はこの信仰と理性の不可分の統合を表現します。すなわち、「理解するために信じなさい(crede ut intelligas)」――信仰は真理への扉を通る道を開くからです――。しかし同時に、これと切り離すことができないのがこれです。「信じるために理解しなさい(intellige ut credas)」。すなわち、神を見いだし、信じることができるようになるために真理を究めなさい。
 アウグスチヌスの二つのことばは、2つの問題の統合をきわめて直接に、またこの上なく深いしかたで表現しています。カトリック教会はこの統合のうちに自らの道を見いだしてきました。歴史的にいえば、このような統合は、すでにキリストの到来以前から、ヘレニズム化したユダヤ教におけるユダヤ教信仰とギリシア思想の出会いによって行われました。その後、歴史の中で、この統合は多くのキリスト教思想家によって受け入れられ、発展させられました。信仰と理性の一致は、何よりも神が遠くにおられるかたではないことを意味します。神はわたしたちの理性、わたしたちの生活から離れたところにいるかたではありません。神は人間の近くにおられます。わたしたちの心の近くにおられます。わたしたちの理性の近くにおられます。しかしそのためにわたしたちは真実に道を歩まなければなりません。
 アウグスチヌスは、まさにこのように神が人間の近くにおられるということをきわめて強烈に体験しました。神は深く神秘的なしかたで人間のうちにおられます。しかしわたしたちはこのことを自らの内面においてあらためて認識し、見いださなければなりません。回心者アウグスチヌスはいいます。「外に出て行くな。あなた自身の中に帰れ。真理は内的人間に住んでいる。そして、あなたの本性が可変的であることを見いだすなら、あなた自身をも超えなさい。しかし、記憶しなさい、あなたが超えてゆくときには理性的魂をもあなたが超えてゆくことを。それゆえ、理性の光そのものが点火されるそのところへと、向かって行きなさい」(『真の宗教』:De vera religione 39, 72〔茂泉昭男訳、『アウグスティヌス著作集2』教文館、1979年、359-360頁〕)。アウグスチヌス自身、このことを『告白』冒頭の有名なことばで強調しています。『告白』は神への賛美のために書かれたアウグスチヌスの霊的自伝です。「あなたはわたしたちを、ご自身にむけてお造りになりました。ですからわたしたちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです」(『告白』:Confessiones I, 1, 1〔山田晶訳、『世界の名著14』中央公論社、1968年、59頁〕)。
 ですから、神から離れているとは、自分自身から離れていることにほかなりません。アウグスチヌスは直接神に向かっていいます(『告白』:Confessiones III, 6, 11)。「あなたは、わたしのもっとも内なるところよりももっと内にましまし、わたしのもっとも高きところよりもっと高きにいられました(interior intimo meo et superior summo meo)」(前掲山田晶訳、116-117頁)。別の箇所で、アウグスチヌスは回心前の時期を思い起こしながらさらにいいます。「たしかに御身はわたしの眼前にましました。しかるにわたしは、自分自身からはなれさり、自分を見いだしていなかった。まして御身を見いだすことなどは、思いもよらなかった・・・・」(『告白』:Confessiones V, 2, 2〔前掲山田晶訳、160頁〕)。アウグスチヌスは自らこの知的・霊的旅路を歩んだからこそ、自らの著作の中で、直接に、深く、知恵をもってそれを表現することができました。アウグスチヌスは『告白』の別の2つの有名な箇所で(『告白』:Confessiones IV, 4, 9; 14, 22)、人間が「大きな謎(magna quaestio)」(前掲山田晶訳、138頁)であり、「大きな深淵(grande profundum)」(同150頁)であることを認めます。すなわち人間は、キリストのみが照らし、救うことのできる謎であり、深淵です。このことは重要です。神から離れた人間は、自分自身からも離れ、自分自身から疎外されています。だから彼は、神と出会うことによって初めて自分を見いだすことができます。このようにして彼は自分自身に、すなわち真の自分、真の自分のあり方へと導かれます。
 アウグスチヌスが後に『神の国』(De civitate Dei XII, 28)の中で強調するように、人間は本性的に社会的な存在ですが、悪徳によって反社会的なものとなっています。人間を救うことができるのはキリストだけです。キリストは神と人類の間の唯一の仲介者であり、「自由と救いをもたらす普遍的な道」(『ヒッポのアウグスチヌス』21)です。わたしの前任者であるヨハネ・パウロ二世が繰り返して述べたとおりです。同じ著作の中でアウグスチヌスはまたいいます。人類に与えられたこの普遍的な道を通ることなしに「誰も救われたことはなく、誰も救われることはなく、誰も救われるだろうこともないのである」(『神の国』:De civitate Dei X, 32, 2〔茂泉昭男・野町啓訳、『アウグスティヌス著作集12』教文館、1982年、382頁〕)。救いのための唯一の仲介者であるキリストは、教会の頭(かしら)であり、教会と神秘的なしかたで結ばれています。だからアウグスチヌスはいいます。「わたしたちはキリストとなったのである。彼が頭であれば、わたしたちは肢体であり、彼とわたしたちとは『全き一人の人』なのである」(『ヨハネ福音書講解』:In Johannis Evangelium tractatus 21, 8〔泉治典・水落健治訳、『アウグスティヌス著作集23』教文館、1993年、381頁〕)。
 神の民は神の家です。それゆえ、アウグスチヌスの考えでは、教会は「キリストのからだ」という思想と密接に関連づけられます。この「キリストのからだ」という思想は、キリストの観点から見た旧約聖書の新たな読み方と、聖体を中心とした秘跡の生活に基づきます。主は聖体によってわたしたちにご自身のからだを与え、わたしたちをご自身のからだへと造り変えてくださるからです。ですから根本的なことはこれです。社会的な意味ではなくキリスト的な意味で神の民である教会は、まことにキリストと一つに結ばれています。アウグスチヌスがきわめて美しいことばで述べるように、「キリストはわたしたちのために祈り、わたしたちの内で祈っておられるとともに、わたしたちもわたしたちの神であるキリストに祈っている。キリストはわたしたちの祭司としてわたしたちのために祈り、わたしたちの頭としてわたしたちの内で祈り、わたしたちはわたしたちの神であるこのかたに祈っている。それゆえわたしたちはキリストの内にわたしたちの声を認め、わたしたちの内にキリストの声を認めるのである」(『詩編注解』:Enarrationes in Psalmos 85, 1)。
 使徒的書簡『ヒッポのアウグスチヌス』の終わりに、ヨハネ・パウロ二世は聖アウグスチヌスに対して、現代の人々に何を語っているかを尋ねます。そしてヨハネ・パウロ二世は、何よりもアウグスチヌスが回心の直後に書いた手紙の中で述べたことばでこたえます。「人間は真理を見いだすことへの希望へと導かれなければならないと、わたしは思います」(『書簡集』:Epistulae 1, 1)。この真理とは、まことの神であるキリスト自身です。『告白』のもっとも美しく、またもっとも有名な祈りの一つは(『告白』:Confessiones X, 27, 38)、このキリストにささげられます。
 「古くして新しき美よ、おそかりしかな、
 御身を愛することのあまりにもおそかりし。
 御身は内にありしにわれ外にあり、
 むなしく御身を外に追いもとめいたり。
 御身に造られしみめよきものにいざなわれ、
 堕(お)ちゆきつつわが姿醜くなれり。
 御身はわれとともにいたまいし、
 されどわれ、御身とともにいず。 
 御身によらざれば虚無なるものにとらえられ、
 わが心御身を遠くはなれたり。
 御身は呼ばわりさらに声高くさけびたまいて、
 わが聾(ろう)せし耳をつらぬけり。
 ほのかに光りさらにまぶしく輝きて、
 わが盲目の闇をはらいたり。
 御身のよき香りをすいたれば、
 わが心は御身をもとめてあえぐ。
 御身のよき味を味わいたれば、
 わが心は御身をもとめて飢え渇く。
 御身はわれにふれたまいたれば、
 御身の平和をもとめてわが心は燃ゆるなり」(前掲山田晶訳、365-366頁)。
 ご覧のように、アウグスチヌスは神と出会い、その全生涯を通じてこの出会いを体験し続けました。こうしてこの現実――それは何よりもまずイエスという人格との出会いでした――はアウグスチヌスの人生を変えました。イエスと出会う恵みを与えられたあらゆる時代の人々の人生を変えたのと同じように。祈りたいと思います。主がこの恵みをわたしたちにも与え、そこから、わたしたちが主の平和を見いだすことができますように。

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