教皇ベネディクト十六世の127回目の一般謁見演説 四旬節の意味

2月6日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の127回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、この日の灰の水曜日から始まる四旬節の意味について解説しました。以下はその全訳です […]

2月6日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の127回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、この日の灰の水曜日から始まる四旬節の意味について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
演説に先立って、マルコによる福音書8章34-36節が朗読されました。
謁見の終わりに、教皇はイタリア語で次の呼びかけを行いました。
「ここ数日、わたしは痛ましい内戦で混乱した、愛するチャドの国民にとくに思いを寄せています。内戦は多数の犠牲者を出し、首都からは数千人の市民が避難しています。わたしは皆様の祈りと連帯にこの苦しむ兄弟姉妹をゆだねます。彼らはさらなる暴力から免れ、必要な人道的支援を保障されることを求めています。わたしはまた、戦闘をやめ、対話と和解の道を歩むことを呼びかけます」。
中央アフリカのチャドではデビー大統領に不満をもつ反政府勢力と政府軍の間で戦闘が激しさを増し、2、3両日に起きた戦闘で市民ら100人以上が死亡したと伝えられています。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の2月5日の発表によると、4日以来、カメルーンに避難した住民は2万人に上っています。
なお、四旬節第1主日の2月10日(日)から、教皇と教皇庁の四旬節の黙想会が行われます。今年の黙想会のテーマは「わたしたちの大祭司キリストを迎え入れよう。『わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかりと保とうではありませんか』(ヘブライ4・14)」です。黙想会を指導するのは前・教皇庁聖書委員会事務局長のアルベール・ヴァンホイエ枢機卿(84歳、イエズス会)です。黙想会は午後6時から、晩の祈りと最初の黙想と聖体礼拝と聖体賛美式をもって開始されます。黙想会のスケジュールは以下の通りです。午前9時から朝の祈りと黙想。午前10時15分から三時課と黙想。午後5時から黙想。午後5時45分から晩の祈りと聖体礼拝と聖体賛美式。黙想会は2月16日(土)午前9時の朝の祈りと結びの黙想をもって終了します。黙想会中、2月13日(水)の一般謁見を含めてすべての謁見は行われません。


親愛なる友人の皆様。
 今日の灰の水曜日から、例年のように、わたしたちは四旬節の歩みをあらためて始めます。四旬節の歩みは、深い祈りと考察、悔い改めと断食の心によって導かれます。わたしたちは「集中した」典礼の季節に入ります。この季節は、わたしたちを復活祭に向けて準備しながら――復活祭は典礼暦年とわたしたちの生活全体の中心です――、わたしたちをキリスト教生活へと促し、――もっと正確にいえば――駆り立てます。わたしたちは務めと心配と気遣いとを通じて毎年、同じことを繰り返すので、キリストがわたしたちにあずからせる出来事がどれほど特別なものであるかを忘れてしまう危険があります。それゆえわたしたちは日々、あらためて福音的生活が求める歩みを始め、心を生き返らせる休みの時を通じて、自分自身のうちへとあらためて戻る必要があります。教会は古来の灰をかける式によって、40日間続く長い霊的な黙想としての四旬節へとわたしたちを導き入れるのです。
 こうしてわたしたちは四旬節の雰囲気の中へと入っていきます。四旬節は、わたしたちが洗礼によって与えられた信仰のたまものを再発見するための助けとなります。また、わたしたちをゆるしの秘跡に近づくように促します。ゆるしの秘跡は、わたしたちの回心のわざを神のいつくしみのしるしのもとに置きます。もともと古代教会において四旬節は、洗礼と聖体の秘跡に向けて洗礼志願者が準備を行うために特別に与えられた時期でした。洗礼と聖体は復活徹夜祭のときに与えられたからです。四旬節はキリスト信者になる時期だと考えられるようになりました。キリスト信者になるというのは、瞬間的に実現することではなく、長い回心と刷新の過程を必要とするからです。すでに洗礼を受けた者もこの準備に加わりました。そして、与えられた秘跡をあらためて思い起こし、復活祭を喜び祝うことのうちにキリストとの交わりを新たにする準備をしました。こうして四旬節は洗礼への導入の性格をもちましたし、今も保ち続けています。すなわち、四旬節は、キリスト信者「である」ことは常にキリスト信者「になる」ことによって実現されることを自覚し続けるための助けとなります。キリスト信者「である」ことは、完結した歴史としてわたしたちの後にあるものではなく、常に新たな訓練を必要とする歩みなのです。
 頭に灰をかけるとき、司式者はいいます。「あなたは塵であり、塵に帰って行くのです」(創世記3・19参照)。または、イエスの勧めを繰り返していいます。「回心して福音を信じなさい」(マルコ1・15参照)。この2つのことばはともに、人間存在に関する真理を思い起こさせます。すなわち、人間は限界のある被造物であり、常に悔い改めと回心を必要とする罪人です。このような呼びかけに耳を傾け、それを受け入れることは、現代にあってどれほど重要なことでしょうか。現代人は、神からの完全な自律を宣言することによって、自分自身の奴隷となり、孤独と失意に陥ります。それゆえ、回心への招きは促します。神の腕の中に戻りなさい。神は優しく憐れみ深い父だからです。神に信頼しなさい。神の子とされた者として、神に自分をゆだねなさい。神の愛によって生まれ変わりなさい。教会は、知恵に満ちた教えによって繰り返し述べます。回心は何よりも恵みであり、神の限りないいつくしみに心を開かせるたまものです。神は、回心へのわたしたちの望みに先立って恵みを与え、救いをもたらす神のみ旨に完全に従おうと努力するわたしたちとともに歩んでくださいます。それゆえ、回心するとは、イエスに捕らえられようとすることであり(フィリピ3・12参照)、イエスとともに父のもとに「帰る」ことです。
 ですから回心するとは、イエスの学びやにへりくだって入ることであり、イエスの後に従順に従いながら歩むことです。キリストご自身が、その真の弟子であるための条件を示したことばは、このことをよく理解させてくれます。「自分のいのちを救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のためにいのちを失う者は、それを救うのである」。こう述べた後、キリストはさらにいいます。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の得があろうか」(マルコ8・35-36)。成功の獲得、名誉へのあこがれ、快適さの追求。これらのものが完全に生活を支配し、自分の視野から神を排除するまでに至ったとき、そこから真の幸福へと導かれるでしょうか。神なしで真の幸福はありうるでしょうか。経験が示すとおり、物質的な望みと必要が満たされても、幸福にはなりません。実際には、人間の心を満たすことのできる唯一の喜びは、神から来る喜びです。まことにわたしたちは限りない喜びを必要としています。日々の心配も、生活の困難も、神との友愛から生まれる喜びを打ち消すことはできません。自分の十字架を背負って、わたしに従いなさいというイエスの招きは、初めは厳しく、わたしたちの望みに反するように見えるかもしれません。それはわたしたちの自己実現への望みを抑えるかのように見えるかもしれません。しかし、よく考えてみると、そうではないことがわかります。聖人たちのあかしが示しているように、キリストの十字架のうちに、すなわち、自分を与え、自分のもっているものを放棄する愛のうちに、深い平安が見いだされます。この平安こそが、兄弟、とくに貧しい人や困っている人に対する寛大な献身の源泉です。これがわたしたちにも喜びをもたらします。それゆえ、わたしたちが今日、全教会とともに始める四旬節の歩みは、わたしたちがあらためて子として神に身をゆだね、イエスがわたしたちに繰り返して述べ続けることを実践するための、よい機会であり、「恵みの時」(二コリント6・2参照)です。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マルコ8・34)。そして、愛と真の幸福への道を歩みなさい。
 教会は四旬節の間、福音に従い、特別な務めを示します。この務めは、この内的な刷新の道を歩む信者とともに歩みます。すなわち、祈りと断食と施しです。数日前に発表された今年の「四旬節メッセージ」の中で、わたしは「施しの実践」に注目しようと望みました。「施しは、困っている人々を助ける具体的な方法であるだけでなく、自制することで地上の物への執着から自らを解放する鍛錬でもあります」(同1)。ご存じのように、残念ながら、物質的な富への誘惑が現代社会に深く浸透しています。イエス・キリストの弟子であるわたしたちは、地上の富を偶像化せず、貧窮のうちにある他の人を生かし、助けるための手段としてそれを用いるよう招かれています。教会はわたしたちに施しの実践を示しながら、隣人の必要にこたえ、イエスに倣うようわたしたちを導きます。聖パウロが述べているように、イエスは、ご自分の貧しさによってわたしたちを豊かにするために、貧しくなられたからです(二コリント8・9参照)。このことをわたしはすでに引用した「四旬節メッセージ」で詳しく述べました。「主の学びやでは、自分のいのちを完全な贈り物とすることを学ぶことができます。つまり、キリストに倣って、わたしたちはもっているものの一部ではなく、自分自身を与えることができるようになるのです」。続けてわたしはいいます。「福音書全体は、ただ一つの愛のおきてに集約できるのではないでしょうか。ですから、四旬節の施しの実践は、わたしたちキリスト信者の召命を深める手段となります。キリスト信者は無償で自分自身を与えることによって、自らの生活のおきてを定めるのは物質的な富ではなく、愛であることをあかしするのです」(同5)。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。神の母であり、教会の母である聖母に祈り求めようではありませんか。四旬節の歩みをわたしたちとともに歩んでください。この歩みが真の回心への歩みとなりますように。聖母に導いていただこうではありませんか。こうしてわたしたちは、内面から新たにされて、キリストの過越の偉大な神秘の祝祭に到達します。キリストの過越の神秘は、神の憐れみ深い愛の最高の啓示です。
 皆様にとってよい四旬節となりますように。

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