教皇ベネディクト十六世の2008年2月17日の「お告げの祈り」のことば 主の変容

教皇ベネディクト十六世は、四旬節第2主日の2月17日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイタ […]

教皇ベネディクト十六世は、四旬節第2主日の2月17日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイタリア語)。
「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で、最近のレバノン情勢に関して次の呼びかけを行いました。
「わたしはレバノンにおいて絶えず緊張が見られることを懸念をもって見守っています。約3か月にわたりレバノンは国家の元首を選出することができずにいます。国際社会の多くの代表者が示している、危機を鎮静化しようとする努力と支援は、いまだ結果を生み出していないにせよ、大統領を決めることへの望みを示しています。大統領は、全レバノン国民のためのものであり、こうして現在の分裂を乗り越えるための基盤となるからです。残念ながら懸念すべき理由がたくさんあります。何よりも、ことばによる尋常でない暴力が振るわれ、武力と、敵対者の排除に信頼を置く人々がいるからです。
 マロン典礼教会の総大司教とレバノンの全司教とともに、レバノンの聖母への祈願をわたしとともに行ってくださるよう皆様にお願いします。レバノンの聖母が愛するレバノン国民、とくに政治家を力づけてくださいますように。こうして彼らが、和解と、真心からの対話と、平和的共存と、皆が深く感じている祖国の善をもたらすために絶えず働くことができますように」。
レバノンではエミール・ラフード大統領(1998年11月就任、2004年9月の憲法改正で3年間の任期延長)の任期が2007年11月23日に満了した後、大統領選が行なえずにいます。2月9日、2月11日に予定されていた議会での大統領選が26日に延期されることが発表されました。延期はこれで14回目となります。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 昨日、教皇公邸での黙想会が終わりました。例年のように、この黙想会では教皇とローマ教皇庁における教皇の協力者がともに祈りと黙想を行いました。霊的に支えてくださったかたがたに感謝します。主がこの寛大なかたがたに報いてくださいますように。今日の四旬節第2主日に、悔い改めの道を歩み続ける典礼は、先週の主日に神殿におけるイエスの誘惑に関する福音を示した後、山上における主の変容という特別な出来事を考察するようにわたしたちを招きます。この二つの出来事は、一緒に考えると、ともに過越の神秘を先取ります。イエスの誘惑との戦いは、受難における最後の大きな戦いの前奏です。変容した主のからだの光は、復活の栄光を先取ります。わたしたちはまず、イエスが完全な意味で人であることを見つめます。イエスは誘惑までもわたしたちと共有しました。他方で、わたしたちは神の子を仰ぎ見ます。神の子はわたしたちの人間性を神化しました。こうしてわたしたちは次のようにいうことができます。この2つの主日は、柱の役割を務めます。この柱の上に、復活祭に至るまでの四旬節という建物全体と、そればかりか、キリスト教的生活の骨組み全体が据えられています。キリスト教的生活は、本質的に、死からいのちへという、過越の運動から成るからです。
 タボル山やシナイ山といった山は、神に近い場所です。日常生活と比べて、山は高いところにある空間です。人はこの高いところにある空間で、被造物の中の清浄な空気を吸います。山は祈りの場所です。モーセやエリヤのように、人はそこで主のみ前に立ちます。モーセとエリヤは、変容したイエスとともに現れ、エルサレムでイエスを待ち受けている「出エジプト」、すなわち主の過越についてイエスと語り合いました。主の変容は祈りの出来事です。イエスは祈りながら、神のうちに浸され、内的に神と一致し、父の愛のみ旨にご自分の人間としての意志を従わせます。こうして光がイエスを満たし、イエスの存在に関する真理が目に見える形で現れます。イエスは神であり、光よりの光です。イエスの服までも白く光り輝きました。わたしたちはそこから、洗礼のとき、受洗者がまとう白い衣のことを考えます。洗礼を受けて生まれ変わった者は、光をまとう者となります。こうしてその人は天上の生活を先取ります。黙示録が白い衣という象徴で示すとおりです(黙示録7・9、13参照)。大事なのはこのことです。主の変容は復活の先取りですが、復活は死を前提とします。イエスがご自分の栄光を使徒たちに現したのは、使徒たちに十字架のつまずきに向き合うことのできる力を得させるため、そして、神の国に達するには多くの苦しみを経なければならないことを悟らせるためでした。天から聞こえた父の声は、ヨルダン川での洗礼のときと同じように、イエスはわたしの愛する子だと告げました。そしてさらにこう付け加えました。「これに聞け」(マタイ17・5)。永遠のいのちに入るには、イエスに聞かなければなりません。イエスに従って十字架の道を歩まなければなりません。イエスと同じように、心に復活への希望を抱かなければなりません。「わたしたちは希望によって救われているのです(Spe salvi)」。現代のわたしたちはこういうことができます。「わたしたちは希望によって造り変えられているのです」。
 今、祈りのうちにマリアに向かいたいと思います。わたしたちは、マリアがキリストの恵みによって内面から造り変えられた人間であることを認めます。そしてわたしたちはマリアの導きに自分をゆだねます。わたしたちが信仰と寛大な心をもって四旬節の道のりを歩むことができますように。

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