教皇ベネディクト十六世の128回目の一般謁見演説 聖アウグスチヌスの生涯と著作

2月20日(水)午前10時30分から、サンピエトロ大聖堂とパウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の128回目の一般謁見が行われました。教皇はまずサンピエトロ大聖堂で、パウロ六世ホールに入ることのできなかった信者との謁見を行いました。その後、教皇はパウロ六世ホールに移動し、そこで、2006年3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話の67回目(2007年3月7日から開始した教父に関する講話の35回目)として、前々回に続いて「聖アウグスチヌスの生涯と著作」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 先週の黙想会で休んだ後、わたしたちは今日、偉大な人物である聖アウグスチヌス(Aurelius Augustinus 354-430年)に戻ります。わたしは聖アウグスチヌスについて水曜日の講話の中で何度もお話ししてきました。聖アウグスチヌスは著作の大部分が残っている教父です。わたしは今日、これらの著作について短く話したいと思います。アウグスチヌスのいくつかの著作は、キリスト教史にとってだけでなく、西洋文化全体の形成にとっても決定的に重要な意味をもちます。そのもっとも明らかな例は『告白』(Confessiones)です。『告白』が古代キリスト教文書の中で今なおもっともよく読まれている書物であることは間違いありません。実際、最初の数世紀のさまざまな教父と同じように、けれども比類なく広範なしかたで、このヒッポの司教は大きく持続的な影響を与えました。アウグスチヌスの著作の写本の多さが示すとおりです。それはまことに膨大なものです。
 アウグスチヌスは死の数年前、『再考録』(Retractationes)の中で自ら自分の著作を検討しました。『再考録』は、アウグスチヌスの死後間もなく、『インディクルス(小索引)』(Indiculus)に注意深く収録されました。『インディクルス(小索引)』は、アウグスチヌスの忠実な友人ポッシディウス(Possidius 437年以降没)による聖アウグスチヌスの伝記『アウグスチヌス伝』(Vita Augustini)の付録です。アウグスチヌスの著作のリストは、ローマ帝国領アフリカ全域へのヴァンダル族の大規模な侵入の中でアウグスチヌスの著作を守るという、はっきりとした意図をもって作成されました。このリストは著者自身が数え上げた1030の著作と、他の著作を含みます。後者は「著者が番号をつけなかったために、数えることができない」ものです。ヒッポ近郊の町の司教のポッシディウスは、このことばをヒッポで口述筆記しました――ポッシディウスはヒッポに避難しており、友人であるアウグスチヌスの死を看取りました――。そしてポッシディウスはアウグスチヌスの個人図書館の目録に基づいてこのリストをほぼ確実な形で確認しました。今日、ヒッポの司教アウグスチヌスによる300以上の書簡(Epistulae)と約600の説教(Sermones)が現存しています。しかし説教は、もとはもっと多く、おそらく3000から4000あったと思われます。説教はかつての雄弁家による40年間の説教が生み出したものだったからです。そして、このかつての雄弁家は、イエスに従い、皇帝宮廷の身分の高い人に対してだけでなく、ヒッポの民衆にも語りかけることを決意したからです。
 近年発見された一群の書簡と説教は、この偉大な教父についての知識を豊かなものとしてくれました。ポッシディウスは述べます。「アウグスチヌスは、非常に多くのことを口述したり書物に記して出版したりした。また、彼が教会で討論した非常に多くのことも記録され、修正された。それらは、いろいろな異端者に対して書かれたものか、教会の聖徒らの教化のために聖書を解明したものかであった」。友人である司教ポッシディウスは強調していいます。「このようにして書かれたアウグスチヌスの著作は、膨大な量にのぼったので、彼を研究しようとしても、それらを全部読み尽くしたり理解したりすることはほとんどできないであろう」(『アウグスチヌス伝』:Vita Augustini, 18, 9〔熊谷賢二訳、『聖アウグスチヌスの生涯』創文社、1963年、61-62頁〕)。
 アウグスチヌスの生み出した著作は――それは、哲学、護教論、教理、道徳、修道思想、聖書解釈、異端反駁の各分野に及び、書簡と説教を含めて1000以上の著作です――、深い神学と哲学に基づく、たぐい稀なものといえます。何よりもまずすでに挙げた『告白』を思い起こさなければなりません。『告白』は、神への賛美として397年から400年に書かれた13巻の著作です。この著作は、神との対話という形による一種の自伝です。この文学ジャンルは聖アウグスチヌスの生涯を反映しています。聖アウグスチヌスの生涯は、自分自身に閉じこもるものでも、多くのことがらに分散したものではありません。それは本質的に神との対話であり、そこから、他者とともに過ごす生涯となりました。『告白』という標題がすでにこの自伝の特異な性格を示しています。詩編の伝統から発展したキリスト教的ラテン語において、「告白」(confessiones)ということばは2つの意味をもっています。この2つの意味は互いに関連し合います。「告白」はまず、自分の弱さ、すなわち罪の惨めさを告白することです。同時に「告白」は、神を賛美すること、すなわち神に感謝することを意味します。神の光のもとに自分の惨めさを見つめることは、神への賛美と感謝となります。神はわたしたちを愛し、受け入れ、造り変え、ご自身へと高めてくださるからです。この『告白』――この書物はすでに聖アウグスチヌスの生前から大きな成功を収めていました――について、アウグスチヌス自身、こう述べます。「本書はわたしに対してこのような作用をもったし、またわたしがそれを読むときにも、そのような作用をしている。本書は多くの兄弟たちを喜ばせた」(『再考録』:Retractationes, II, 6〔宮谷宣史訳、『アウグスティヌス著作集5/Ⅱ 告白録(下)』教文館、2007年、417-418頁参照〕)。わたしもこの「兄弟たち」の一人だといわなければなりません。『告白』のおかげで、わたしたちはこの神に情熱を傾けた特別な人物の内面の歩みを一歩一歩たどることができます。あまり知られていませんが、同じように独創的で重要な著作が『再考録』です。『再考録』は427年頃著された2巻の書物です。この書物の中で、すでに年老いた聖アウグスチヌスは、自分の著作全体の「再考」(retractatio)をまとめました。こうして彼は、独自の貴重な文書とともに、誠実さと知的な謙遜の教えを残したのです。
 『神の国』(De civitate Dei)――これは西洋政治思想とキリスト教歴史神学の発展にとって重大かつ決定的な著作です――は413年から426年の間に書かれた22巻の書物です。著作のきっかけとなったのは、410年のゴート族によるローマ略奪です。生き残った多くの異教徒だけでなく、多くのキリスト教徒もいいました。「ローマは陥落した。キリスト教徒と使徒の神はローマの町を守ることができなかった。異教の神がいた頃、ローマは『世界の首都』(caput mundi)であり、偉大な首都だった。そして、だれもそれが敵の手に落ちるなどと考えることはできなかった。今、キリスト教徒の神とともに、この偉大な町は安全でなくなった。それゆえ、キリスト教徒の神は守護してくれないし、信頼できる神でもありえない」。キリスト教徒の心も深く感じていたこの反論に対して、聖アウグスチヌスは大著『神の国』でこたえました。彼は、神から期待すべきものと、期待すべきでないものを明らかにしました。すなわち、政治の領域と信仰の領域、すなわち教会の領域の関係を明らかにしたのです。今日でもこの著作は、真の意味での世俗性、教会の権限、そしてわたしたちに信仰をもたらす真の偉大な希望を、適切に定義するための典拠となっています。
 この偉大な著作は、人間の歴史が神の摂理によって導かれながら、二つの愛に分裂することを示します。二つの愛の戦いという、この根本的な計画が、アウグスチヌスの歴史解釈です。二つの愛とは、「神を軽蔑するに至る」自己愛と、「自分を軽蔑するに至る」神への愛です(『神の国』:De civitate Dei, XIV, 28〔泉治典訳、『アウグスティヌス著作集13 「神の国」(3)』教文館、1981年、277頁〕)。神への愛は、神の光のもとで他の人のために自分をささげる完全な自由に至ります。それゆえ、『神の国』はおそらく聖アウグスチヌスのもっとも偉大な著作であり、いつまでも重要性を保ち続けるだろうと思います。同じく重要な著作は『三位一体論』(De Trinitate)です。『三位一体論』は、キリスト教信仰の核心である、三位一体の神への信仰に関する15巻の書物です。『三位一体論』は2つの時期に書かれました。399年と412年の間に書かれた最初の12巻はアウグスチヌスが知らないうちに公刊されました。アウグスチヌスはこれを420年頃完成し、全体を改訂しました。アウグスチヌスは神のみ顔について考察し、この神の神秘を理解しようとしました。神は唯一であり、世界とわたしたちすべての唯一の造り主です。しかし、この同じ唯一の神は三位一体であり、愛の円環です。アウグスチヌスはこのはかりしれない神秘を理解しようとします。3つの位格から成る、三位一体の存在そのものが、唯一の神のもっとも現実的で、もっとも深い一性にほかならないのです。これに対して、『キリスト教の教え』(De doctrina christiana)は、聖書解釈と、決定的な意味では、キリスト教への、真性かつ固有な文化的入門書です。この書物は西洋文化の形成にとって決定的に重要な意味をもちました。
 アウグスチヌスは、謙遜ではありましたが、自らの知的水準を自覚していたことは間違いありません。けれども彼にとっては、高度な神学に基づく大著を書くよりも、民衆にキリスト教の教えを伝えることのほうが重要でした。アウグスチヌスの全生涯を導いたもっとも深い望みは、同僚であるエウォディウス(Evodius)に宛てて書いた一つの手紙に示されています。この手紙の中で、アウグスチヌスは、『三位一体論』の口述を一時的に中止することに決めたと知らせます。「それはたいへん骨の折れる仕事ですが、わずかな人しか理解できないと思うからです。それゆえ、多くの人に役立つとわたしが希望する文書のほうが急を要します」(『書簡集』:Epistulae, 169, 1, 1)。ですからアウグスチヌスの考えでは、大きな神学書を書くよりも、すべての人にわかる形で信仰を伝えることのほうが有益だったのです。キリスト教信仰の普及に強い責任を感じたことが、『教えの手ほどき』(De catechizandis rudibus)や――『教えの手ほどき』は、信仰教育の理論と実践です――、『ドナトゥス派反駁の詩』(Psalmus contra partem Donati)のような著作を書いた理由です。ドナトゥス派は聖アウグスチヌスの時代のアフリカの大きな問題でした。ドナトゥス派はアフリカの分派です。彼らは、真のキリスト教はアフリカのキリスト教だと主張しました。こうして彼らは教会の一致に反対しました。偉大な司教アウグスチヌスはこの分派と生涯を通じて戦いました。そのために彼は、アフリカの教会は一致することによって初めて真にアフリカの教会になることができるのだということをドナトゥス派に納得させようと努めました。雄弁家の優れたラテン語を理解できない民衆にわかってもらうために、アウグスチヌスはいいます。「わたしは文法の間違いを犯してでも、とても単純なラテン語で書かなければなりません」。これは何よりも『ドナトゥス派反駁の詩』でアウグスチヌスが行ったことでした。『ドナトゥス派反駁の詩』は、ドナトゥス派を反駁するための単純な詩です。それは、教会の一致を通して初めて、わたしたちは神との関係を真の意味で実現し、世界の平和を推進することができるのだということを、すべての人に理解させるためでした。
 広く一般の人に向けた著作の中で、多くの説教がとくに重要な位置を占めます。説教はしばしば「即興」で行われ、説教中に速記者によって筆記された後、ただちに配布されました。説教の中でもっとも優れたものが『詩編講解』(Enarrationes in Psalmos)です。『詩編講解』は中世によく読まれました。アウグスチヌスの何千もの説教が出版されたことが――それはしばしば著者の校閲なしに行われました――、説教の流布とその後の散逸、そしてその影響力を説明してくれます。実際、ヒッポの司教の説教のテキストは、説教者の評判のために、すぐに多くの人々が求めるところとなり、それを他の司教・司祭が模範として用い、新たな状況に適用していきました。
 6世紀にさかのぼるラテラノ大聖堂のフレスコ画にすでに見られる肖像画の伝統は、聖アウグスチヌスを書物を携えた姿で描きます。それがアウグスチヌスの著作活動を示すためであることは間違いありません。アウグスチヌスの著作はキリスト教精神と思想に大きな影響を与えたからです。しかしまた、この姿は、アウグスチヌスの書物への愛を、すなわち、自分に先立つ偉大な文化を読み、知ることへの愛をも表しています。ポッシディウスが語るところによれば、アウグスチヌスは死に際して何も残しませんでした。しかしアウグスチヌスは「教会の図書館とその中にあるすべての本」、何よりも自分自身の本を「後の人々のために注意深く保存するよう、絶えず繰り返し命じていました」。ポッシディウスは強調します。この本の中にアウグスチヌスは「常に生きていて」、彼の著作を読む人を助けます。たとえ――ポッシディウスは終わりにこういいます――「彼が教会で話しているのを実際に見たり聞いたりすることができた人々や、とくに、人々の間における彼の生活を知っている人々は、いっそう大きな進歩をとげえたこととわたしは思う」(『アウグスチヌス伝』:Vita Augustini, 31〔前掲熊谷賢二訳、110-111頁〕)にしてもです。まことに、生前のアウグスチヌスの姿を見聞きすることができたなら、どんなにすばらしいことでしょう。けれども、アウグスチヌスは本当にその著作の中に生きています。彼はわたしたちの中にいます。こうしてわたしたちは、彼が全生涯をささげた信仰の変わることのない力を目にすることができるのです。

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