教皇ベネディクト十六世の2008年2月24日の「お告げの祈り」のことば イエスの渇き

教皇ベネディクト十六世は、四旬節第3主日の2月24日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイタ […]

教皇ベネディクト十六世は、四旬節第3主日の2月24日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイタリア語)。
「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で、洪水の被害に遭ったエクアドルの人々に関して次の呼びかけを行いました。
「最近の洪水が広くエクアドル沿岸地域に荒廃をもたらしました。洪水は深刻な被害を生じました。またこの被害に、トゥングラワ火山の噴火による被害が加わりました。わたしはこの災害の犠牲者を主にゆだねながら、不安と苦難の時を過ごしているかたがたにわたし個人として心を寄せます。そして、すべての人が兄弟として援助の手を差し伸べてくださるようお願いします。この地域の人々が一刻も早く普通の日常生活に戻ることができますように」。
南米エクアドルでは、1月中旬からの豪雨と洪水により、これまでに少なくとも16人が死亡し、30万人が被災、2万人が自宅から避難しています。2月6日には首都キトの南約130キロにあるトゥングラワ火山の活動が活発化し、約3000人に避難命令が出ています。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 今日の四旬節第3主日に、典礼は今年、聖書の中でもっとも美しく深みのある箇所を示します。すなわち、イエスとサマリアの女の対話です(ヨハネ4・5-42参照)。わたしは水曜日の講話の中で聖アウグスチヌスについて詳しくお話ししています。この聖アウグスチヌスは、適切にもこの箇所に心をとらえられ、記念すべき解説を行っています。この福音の箇所の豊かな意味を簡単に説明することは不可能です。わたしたちは自分で読み、黙想しなければなりません。そして、この女と自分を重ね合わせなければなりません。この女はある日、他の人々と同じように、井戸から水をくむために来ました。そして、暑い真昼に、「旅に疲れて」井戸のそばに座っておられたイエスを見いだしました。イエスは女に、「水を飲ませてください」といって、女を深く驚かせました。実際、ユダヤ人が交際しないサマリアの女に話しかけるのはきわめて異例のことだったからです。しかし女の驚きはいっそう大きなものとなりました。イエスは「生きた水」について語ったからです。この「生きた水」は、渇きをいやすことができ、女のうちで「泉となり、永遠のいのちに至る水がわき出」ます。さらにイエスは、自分が女の個人的生活について知っていることを示します。イエスは、霊と真理をもって真の神を礼拝する時が来たことを示します。ついにイエスは、自分がメシアであることを女に――これはきわめて稀なことでした――打ち明けます。
 これらすべてのことは、実際に感じることのできる渇きという経験から出発しました。渇きというテーマは、ヨハネによる福音書全体にわたっています。サマリアの女との出会いから、仮庵祭のときに行われた偉大な預言まで(ヨハネ7・37-38)。そして十字架に至るまで。イエスは十字架上で、死ぬ前に、聖書のことばを実現するためにいわれました。「渇く」(ヨハネ19・28)。キリストの渇きは神の神秘に近づくための扉です。神は、わたしたちを豊かにするために貧しくなられたように(二コリント8・9参照)、わたしたちの渇きをいやすために渇く者となりました。まことに神は、わたしたちの信仰と愛に渇いておられます。神はいつくしみと憐れみに満ちた父のように、わたしたちのためにできるかぎりよいものを望みます。このよいものとは、神ご自身です。サマリアの女は、探しているものを見いだすことができない人々の実存的な不満を代表します。女には「五人の夫」がいましたが、今は、夫ではない別の男と暮らしていました。女が水をくむために井戸を行き来するのは、あきらめを繰り返す生活を表しています。けれども、この日、主イエスと語ることによって、女にとってすべてが変わりました。イエスが女を驚かせたからです。そこから、女は、水がめをそこに残して、町に行き、町の人々にこう告げるよう導かれたからです。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、このかたがメシアかもしれません」(ヨハネ4・28-29)。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。わたしたちも心を開いて、神のことばに信頼をこめて耳を傾けようではありませんか。それは、サマリアの女と同じように、イエスと出会うためです。イエスはわたしたちにご自分の愛を示して、いわれます。あなたの救い主であるメシア、「それは、あなたと話をしているこのわたしである」(ヨハネ4・26)。肉となったみことばの最初の、また完全な弟子であるマリアの執り成しによって、わたしたちがこのたまものを得ることができますように。

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