教皇ベネディクト十六世の130回目の一般謁見演説 大聖レオ

3月5日(水)午前10時30分から、サンピエトロ大聖堂とパウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の130回目の一般謁見が行われました。教皇はまずサンピエトロ大聖堂で、イタリアの学生のグループとの謁見を行いました。その後、教皇はパウロ六世ホールに移動し、そこで、2006年3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話の69回目(2007年3月7日から開始した教父に関する講話の37回目)として、「大聖レオ」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  教父をめぐる旅を続けます。教父は遠くで輝くまことの星です。今日の集いでわたしは、1754年にベネディクト十四世によって教会博士と宣言された教父、すなわち大聖レオ(Leo Magnus 400頃-461年、教皇在位440-没年)を取り上げます。伝統的につけられた呼び名が示すとおり、大聖レオはもっとも偉大な教皇の一人としてローマ聖座に栄誉を与えました。聖レオはローマ聖座の権威と名誉の強化のために大きく貢献しました。聖レオは初めてレオを名乗ったローマ司教です。その後12人の教皇がレオの名を名乗りました。聖レオはまた、祭儀の際に集まった民への説教をわたしたちが読むことのできる初めての教皇でもあります。わたしはこの水曜日の一般謁見の状況の中で自然に聖レオのことを考えます。水曜日の一般謁見は、最近の数十年で、ローマ司教が世界中から来た信者や多くの訪問者と定期的に会う機会となりました。
  レオはトゥスキア州の出身です。430年頃ローマ教会の助祭となり、やがて重要な地位を占めるようになりました。こうした地位により、440年、彼は当時西ローマ帝国を治めていたガッラ・プラキディア(Galla Placidia 390頃-450年)によって、ガリアに派遣されました。困難な状況を解決するためです。しかしその年の夏、教皇シクスト三世(在位432-440年)が亡くなりました(シクスト三世の名はサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂のすばらしいモザイク画と結びついています)。そして、シクスト三世の後継者としてレオが選ばれました。レオはガリアで治安回復の使命を果たしているときにこの知らせを受けました。ローマに戻ると、新教皇は440年9月29日に叙階されました。こうして開始したレオの教皇職は21年以上続きました。そして、レオの教皇職が教会史の中でもっとも重要なものの一つであることは間違いありません。461年11月10日に亡くなると、教皇は聖ペトロの墓所の近くに埋葬されました。レオの聖遺物は今でもサンピエトロ大聖堂祭壇に保存されています。
  教皇レオはきわめて困難な時代に生きた人でした。蛮族が何度も侵入し、西方における帝国の権力は日増しに衰え、社会の危機が長く続きました。そこからこのローマ司教は――150年後、大グレゴリウス(Gregorius Magnus 540頃-604年、教皇在位590-没年)の教皇職のときにもはっきりと示されたように――、当時の国家と政治においても重要な役割を果たさざるをえませんでした。当然そのことはローマ聖座の重要性と名誉を高めました。レオの生涯の中で何よりも有名で記憶にとどめられる一つの出来事があります。452年、教皇はマントヴァで、ローマの代表者とともにフン族の王アッティラ(Attila 在位434-453年)と会いました。そして、戦争と侵入を続けることをやめるよう説得しました。この侵入はすでにイタリア東北部を荒廃させていたからです。こうして教皇はイタリア半島のその他の地域を救いました。この重要な出来事はただちに人々の記憶にとどめられるとともに、教皇による平和への行動の象徴となりました。残念ながら、3年後に教皇が再度行った介入は成功しませんでした。けれどもそれは驚くべき勇気を示すものでした。実際、455年春、レオはゲンセリック(Genseric ヴァンダル王在位428-477年)に率いられたヴァンダル族がローマの城門に迫るのを止めることができませんでした。ヴァンダル族は無防備なローマの町に侵入し、2週間にわたってローマを占拠しました。いずれにせよ、教皇の行動が――教皇は武具をまとわず、聖職者たちとともに侵入者と会い、侵攻をやめるよう願いました――、少なくともローマに火がつけられるのを止め、サンピエトロ大聖堂、サン・パオロ大聖堂、サン・ジョヴァンニ大聖堂を恐るべき略奪から救いました。これらの大聖堂には、恐怖におののく人々の一部が避難していたのです。
  すばらしい説教(Sermones)と――レオの輝かしく明快なラテン語による説教は約100点が残っています――、約150通の書簡(Epistulae)から、教皇レオの行動がよくわかります。これらの文書は教皇の偉大さをあますところなく示します。教皇は熱心に語りかけることによって、愛のうちに真理に仕えました。そのことばは、教皇が神学者であると同時に司牧者であったことを示しています。大レオは、信者とローマ市民をたえず心にかけながら、同時にさまざまな教会の交わりと、教会が必要とすることにも配慮しました。彼はローマの首位権をうむことなく支え、推進し、使徒ペトロの真の後継者として振舞いました。カルケドン公会議に参加した多くの司教――その大部分は東方教会の司教でした――はこのことを十分意識していました。
  451年、350人の司教が参加して開催されたカルケドン公会議は、教会史の中でもっとも重要な会議でした。カルケドン公会議は、これに先立って開かれた3つの普遍公会議のキリスト論の堅固な到達点を示しました。すなわち、325年のニケア公会議、381年のコンスタンチノープル公会議、431年のエフェソ公会議です。実際、すでに6世紀に、古代教会の信仰をまとめたこれら4つの公会議は、4福音書になぞらえられています。大グレゴリオが有名な手紙(Epistulae I, 24)の中で述べるとおりです。グレゴリオはこの手紙の中でいいます。「わたしたちは聖なる4福音書と同じように、4公会議を受け入れ、たたえなければなりません」。グレゴリオはさらに解説します。なぜなら、これら4公会議という「いわば4つの礎石の上に、聖なる信仰の建物が建てられたからです」。カルケドン公会議はエウテュケス(Eutyches 378頃-454年)の異端を排斥しました。エウテュケスは神の子の真の人間性を否定したからです。こうしてカルケドン公会議は、唯一の位格のうちに、人間性と神性の2つの本性が混合されることも分離されることもなしに存在することを確認しました。
  この真の神にして真の人であるイエス・キリストへの信仰を、教皇は、コンスタンチノープルの司教にあてた重要な教理的文書の中ではっきりと述べました。このいわゆる『フラウィアヌスへの手紙(トムス)』(Epistula 28 ad Flavianum Constantinopolitanum [Tomus Leonis])は、カルケドン公会議で読まれ、公会議参加司教によってはっきりとした歓呼のうちに受け入れられました。公会議の議事録はそれをこう記しています。公会議教父は声を一つにして叫びました。「ペトロはレオの口を通して語った」。この発言や、当時のキリスト論論争の中で示された他の発言から、はっきりわかることがあります。それは、教皇がペトロの後継者としての責務を特別に切迫した形で感じていたということです。ペトロの後継者の役割は教会の中で独自のものです。なぜなら、「すべての使徒に伝えられたことが、ただ一人の使徒にゆだねられた」からです。レオが聖ペトロ・聖パウロの祭日の説教の一つの中で述べるとおりです(Sermones 83, 2)。教皇はこの責務を西方教会でも東方教会でも果たすことができました。そのため教皇は、自らの書簡や使節を通じて、知恵深く、力強く、またはっきりと、さまざまな状況の中で発言を行いました。このようにして教皇は、現代と同様、当時も必要とされたローマの首位権の行使を行いました。それは、唯一のキリストの教会の特徴である交わりに力強く仕えるためです。
  大レオは、自分の生きている歴史的時期と、深刻な危機の時代の中で異教的ローマがキリスト教的ローマに変わりつつあることを自覚しながら、司牧活動と説教を通じて、ローマ市民と信者のそばにとどまることができました。レオは飢饉、避難民の流入、不正と貧困に苦しむローマで愛のわざを行うことを奨励しました。異教の迷信やマニ教徒の集団のさまざまな行為に反対しました。典礼をキリスト信者の日常生活と結びつけました。たとえば、とくに「4つの典礼の季節」において、断食の実践を愛のわざや施しと一致させました。「4つの典礼の季節」は1年の季節の変化を表します。とくに大レオは信者にこう教えました。レオのことばは現代のわたしたちにも当てはまります。キリスト教の典礼は過去の出来事を思い起こすだけでなく、一人ひとりの生活の中で起こる目に見えない現実を再現します。ある説教(Sermones 64, 1-2)の中でレオは強調します。わたしたちは復活祭を「過去に起こったこととしてではなく、むしろ現在の出来事として」祝わなければなりません。聖なる教皇はいいます。これらのことはすべて、一つの計画にまとめられます。実際、造り主は、地の泥から形づくった人に理性的ないのちの息を吹き込みました。それと同じように、人が原罪を犯した後、造り主は御子を世に遣わしました。それは、人の失われた尊厳を回復し、新しい恵みのいのちによって悪魔の支配を打ち砕くためです。
  このキリストの神秘について、大聖レオは、カルケドン公会議への手紙によって、生き生きとした本質的な説明を行いました。こうして彼は、公会議を通じ、すべての時代の人に向けて、聖ペトロがフィリポ・カイサリア地方で述べたことを確認しました。ペトロとともに、またペトロと同じように、レオは告白します。「あなたはキリスト(メシア)、生ける神の子です」。神であり人であるかたは、「人間と変わりませんが、罪とは無縁です」(『説教集』:Sermones 64参照)。レオはキリストへの信仰の力によって、平和と愛をもたらした偉大な人でした。ですからレオはわたしたちに道を示します。すなわち、わたしたちは信仰によって愛を学びます。それゆえ、大聖レオとともに学ぼうではありませんか。真の神にして真の人であるキリストを信じることを。そして、日々、平和をつくり、隣人を愛することによって、この信仰を実現することを。

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