教皇ベネディクト十六世の2008年3月9日の「お告げの祈り」のことば ラザロの復活

教皇ベネディクト十六世は、四旬節第5主日の3月9日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイタリ […]

教皇ベネディクト十六世は、四旬節第5主日の3月9日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイタリア語)。
「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で、次の呼びかけを行いました。
「この数日、暴力と恐怖が再び聖地を血で染め、破壊と死の連鎖を生み出しています。この連鎖は終わることがないように見えます。わたしは皆様にお願いします。全能の主がこの地域に平和のたまものを与えてくださるよう、粘り強く願ってください。そしてわたしは、多くの罪のない犠牲者を主のあわれみにゆだね、ご家族と負傷者に寄り添うことを表明したいと思います。
  さらにわたしは、イスラエルとパレスチナの当局者が、交渉を通じて、国民のために将来の平和と公正を築き続けることをめざすよう勧めます。そしてわたしはすべての人に神の名によって呼びかけます。憎悪と復讐に基づく邪悪な道を捨て、対話と信頼に基づく責任ある道を歩んでください。
  わたしはまたこのことをイラクのためにも願います。わたしたちはラッホ大司教と多くのイラク国民の行く末を案じ続けています。イラク国民は見境のない愚かな暴力によって苦しみ続けているからです。それが神のみ旨でないことはいうまでもありません」。
イスラエルでは3月6日(木)夜、エルサレムにあるユダヤ教神学校で銃乱射によるテロ攻撃が起き、学生8人が死亡しました。イラクのバグダッドでも同じ6日夕、中心部で爆弾テロが2件連続して発生し、55人が死亡しています。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  四旬節の旅路を歩むわたしたちは四旬節第5主日に到達しました。四旬節第5主日はラザロの復活についての福音によって特徴づけられます(ヨハネ11・1-45)。ラザロの復活はイエスが行った最後の大きな「しるし」です。この後、祭司長たちは最高法院に集まって、イエスを殺そうと諮りました。祭司長たちはラザロをも殺そうと決めました。ラザロはキリストが神であることの生きたあかしだからです。キリストはいのちと死の主です。実際、福音の箇所はイエスが真の人にして真の神であることを示します。何よりも福音書記者は、キリストが、ラザロとその姉妹マルタとマリアの友であったことを述べます。福音書記者は強調していいます。「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」(ヨハネ11・5)。だからイエスは偉大な奇跡を行おうと望みます。「わたしたちの友ラザロは眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」(ヨハネ11・11)。イエスはこのように弟子たちに話して、眠りという比喩で、神が肉体の死をどのように見ておられるかを示しました。神はまさに死を眠りとみなします。神はわたしたちをこの眠りから目覚めさせることができるのです。イエスはこの死に対する絶対的な力を示しました。イエスがナインのやもめの息子や(ルカ7・11-17参照)、12歳の少女を生き返らせたときに(マルコ5・35-43参照)それが示されます。イエスは少女についていいます。「子どもは死んだのではない。眠っているのだ」(マルコ5・39)。このことばに対してそこにいた人々はあざわらいました。しかし、真実はそのとおりでした。肉体の死は眠りです。神はいつでもこの眠りからわたしたちを再び目覚めさせることができます。
  このように死を支配していても、イエスは悲しみと死別に対して心から同情を示さずにはいられませんでした。マリアとマルタ、また彼女たちを慰めに来た人々が泣いているのを見て、イエスも「心に憤りを覚え、興奮し」、ついには「涙を流された」(ヨハネ11・33、35)。イエスの心は、神の心であると同時に、人の心です。イエスにおいて、神と人は、分離することも混合することもなしに完全に一致します。神は愛であり、あわれみであり、いつくしみ深い父また母です。神はいのちであるかたです。イエスはこの神の姿であり、それどころか、受肉した神です。それゆえイエスはおごそかにマルタに告げます。「わたしは復活であり、いのちである。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、けっして死ぬことはない」。そしてイエスはさらにいいます。「このことを信じるか」(ヨハネ11・25-26)。これはイエスがわたしたち皆に向けて発する問いかけです。もちろん、この問いかけはわたしたちをはるかに超えています。わたしたちの理解する力を超えています。それはわたしたちに、自分をイエスにゆだねるように求めます。イエスが父にご自分をゆだねたのと同じように。マルタのこたえは模範となります。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、キリスト(メシア)であるとわたしは信じております」(ヨハネ11・27)。はい、主よ。わたしたちも信じます。たとえ自分の中に疑いと暗闇があっても。わたしたちはあなたを信じます。あなたは永遠のいのちのことばをもっておられるからです。わたしたちはあなたを信じたいと望みます。あなたはわたしたちに、来世のいのちへの信頼できる希望を与えてくださるからです。来世のいのちとは、あなたの光と平和の国で真実で完全に生きることです。
  この祈りを至聖なるマリアにゆだねたいと思います。マリアの執り成しによって、とくに試練と困難のときに、わたしたちのイエスへの信仰と希望が強められますように。

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