教皇ベネディクト十六世の131回目の一般謁見演説 ボエティウスとカッシオドルス

3月12日(水)午前10時30分から、サンピエトロ大聖堂とパウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の131回目の一般謁見が行われました。教皇はまずサンピエトロ大聖堂で、イタリアの学生のグループとの謁見を行いました。その後、教皇はパウロ六世ホールに移動し、そこで、2006年3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話の70回目(2007年3月7日から開始した教父に関する講話の38回目)として、後期ラテン教父の「ボエティウスとカッシオドルス」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 今日わたしはボエティウス(Anicius Manlius Severinus Boethius 480頃-524年頃)とカッシオドルス(Flavius Magnus Aurelius Cassiodorus Senator 485頃-580/582年)という、二人のキリスト教著述家についてお話ししたいと思います。二人はとくにイタリア半島における西方キリスト教のもっとも苦難に満ちた時代を生きた人々です。ヘルリ族と呼ばれるゲルマン民族出身のオドアケル(Odoacer 総督在任476-493年)が反乱を起こし、476年に西ローマ帝国を滅亡させました。しかしオドアケルはすぐにテオドリック(Theodoric 東ゴート王在位471-526年)の東ゴート族に破れました。東ゴート族は数十年間イタリア半島の統治権を握りました。ボエティウスは、480年頃ローマで、貴族のアニキウス家の家系から生まれました。若年のときから公的生活を開始し、わずか25歳で元老院議員となりました。家族の伝統に忠実に従い、政治活動を始めたボエティウスは、ローマ社会の原則を新しい民族の価値観と一致させることができると確信していました。諸文化が出会うこの新しい時代の中で、ボエティウスは、自分の使命は、古典ローマ文化と、東ゴート族の文化という二つの文化を一致させ、統合することだと考えました。彼はテオドリックの治世下でも積極的に政治活動を行いました。テオドリックも初めはボエティウスをたいへん重んじたからです。公的活動に従事しながらも、ボエティウスは勉学をおろそかにしませんでした。とくに彼は哲学と宗教の領域に属する問題を深めようと努めました。しかし彼は算術、幾何学、音楽理論、天文学に関する教程も著しています。ギリシア・ローマの偉大な文化を新しい世代と新しい時代に伝えたいと望んだためでした。上記の分野、すなわち、二つの文化の出会いを推進するという作業の中で、ボエティウスはギリシア哲学の概念を用いてキリスト教信仰を表現しました。ボエティウスもまた、ギリシア・ローマの遺産と福音のメッセージを総合することをめざしたのです。まさにそのために、ボエティウスは古代ローマ文化の最後の代表者であるとともに、中世知識人の最初の人と呼ばれます。
 ボエティウスのもっとも有名な著作が『哲学の慰め』(De consolatione philosophiae)であることは間違いありません。ボエティウスはこの著作を獄中で著しました。それは不当な拘留を意味あるものとするためでした。実際彼は、友人である元老院議員アルビヌス(Albinus)の裁判を弁護するために、テオドリック王に陰謀を企てた罪で告発されていました。しかしこれは口実にすぎませんでした。実際には、アレイオス派で蛮族のテオドリックは、ボエティウスが東ローマ皇帝ユスティニアヌス(Justinianus I 在位527-565年)と同調しているのでないかという疑いを抱いたのです。実際、ボエティウスは裁判にかけられ、死刑判決を受けると、524年10月23日、わずか44歳で処刑されました。この悲劇的な最期のゆえに、ボエティウスは心からその経験を現代人に、とくに多くの地域で「人道上の」不正に苦しむ多くの人々に、語りかけることができます。『哲学の慰め』の中で、獄中のボエティウスは、慰めと、光と、知恵を探求します。ボエティウスはいいます。まさにこのような状況の中で、わたしは見せかけの善――それは牢獄の中で消え失せます――と、真の善を区別することができます。真の善とは、たとえば真実の友愛です。真実の友愛は、牢獄の中でも失われることがないからです。最高の善は神です。ボエティウスは、運命論に陥らないことを学び、またわたしたちに教えます。運命論は希望を消してしまうからです。ボエティウスはわたしたちに教えます。わたしたちを支配するのは運命ではなく、摂理であるかたです。そして摂理であるかたはみ顔をもっています。わたしたちは摂理であるかたと語ることができます。摂理であるかたは神だからです。だから、獄中にあっても祈ることができます。わたしたちを救ってくださるかたと対話することができます。同時にボエティウスは、このような状況にあっても、文化の美についての感覚を失わず、古代ギリシア・ローマの偉大な哲学者の教えを思い起こします。たとえば、プラトン、アリストテレス――ボエティウスは両者のギリシア語著作をラテン語訳し始めていました――、キケロ(Marcus Tullius Cicero 前106-43年)、セネカ(Lucius Annaeus Seneca 前4/後1-65年)です。また、ティブッルス(Albius Tibullus 前55/48-前19年)やウェルギリウス(Publius Vergilius Maro 前70-前19年)のような詩人です。
 ボエティウスにとって、真の知恵の探求としての哲学は、魂の真の薬です(『哲学の慰め』第1巻)。他方、人は自分の内面でのみ真の幸福を味わうことができます(同第2巻)。ボエティウスは旧約の知恵の書(知恵7・30-8・1)に照らして自分の個人的な悲運を考察し、そこに意味を見いだすことができました。ボエティウスは引用します。「知恵が悪に打ち負かされることはない。知恵は地の果てから果てまでその力を及ぼし、いつくしみ深くすべてをつかさどる」(『哲学の慰め』:De consolatione philosophiae III, 12, PL 63, 780)。それゆえ、いわゆる悪の繁栄は偽りであることがわかります(同第4巻)。そして、「不運(adversa fortuna)」の摂理的な性格が明らかにされます。人生の困難は、最終的に短くはかないものであることがわかります。そればかりでなく、それは人間の間の真の関係を示し、保つためにも役立ちます。実際、わたしたちは「不運」によって、偽の友と真の友を見分け、人間にとって真の友情よりも貴重なものはないことを知ることができます。さらに信仰者であるボエティウスはいいます。運命論に従って苦難の状況を受け入れることはきわめて危険です。なぜなら、「人間と神との間のあの唯一の交わり、すなわち望みをかけることも祈ることもなくなる」(同:ibid. V, 3, PL 63, 842〔渡辺義雄訳、『世界古典文学全集26 アウグスティヌス/ボエティウス』筑摩書房、1966年、425頁〕)からです。
 『哲学の慰め』の最後の弁明は、ボエティウスが、自分自身と、同じような境遇に置かれたすべての人に向けた教え全体のまとめと考えることができます。ボエティウスは獄中にあっていいます。「だから、あなたがたは悪徳に逆らい、徳性を養い、心を正しい希望へ高め、つつましい祈りを天にささげなさい。あなたがたが偽ろうとしないかぎり、あなたがたは誠実への大きな必然性を負わされています。あなたがたは万物を見通す裁き主の目の前で行動しているからです」(同:ibid. V, 6, PL 63, 862〔前掲渡辺義雄訳、433頁。ただし表記を一部改めた〕)。拘留された者は皆、いかなる理由で拘留されようとも、この人間の特別な状況がどれほど辛いものかを知っています。とくにボエティウスと同じように、拷問が行われ、状況がいっそう悪くなった場合にそれがいえます。とくにこのボエティウスの場合のように、自分の政治的・宗教的信念のみを理由に、拷問によって殺害されるような状況はいっそう不合理です。ボエティウスはパヴィアの町で信仰のための殉教者として典礼で記念されます。ボエティウスは、すべての時代、すべての地域で、不当に拘留された数多くの人々の象徴です。実際、彼は、わたしたちをゴルゴタの十字架の神秘の観想へと導く、この上ない入口です。
 マグヌス・アウレリウス・カッシオドルスはボエティウスの同時代人です。カッシオドルスは485年頃カラブリアのスキュラケウムで生まれ、580年頃ウィウァリウムで没しました。カッシオドルスも社会的身分が高く、政治活動と文化事業のために献身しました。当時の西ローマでカッシオドルスのような人は多くありません。おそらくカッシオドルスに比べることができるのは、すでに述べたボエティウスと、将来のローマ教皇大グレゴリオ(Gregorius Magnus 540頃-604年、教皇在位590-没年)だけです。カッシオドルスは、ローマ帝国の黄金時代に集められた人間的・人文的遺産がすべて忘却のうちに失われることがあってはならないことを自覚していました。そこで彼は、惜しみなく、高度な政治的領域で、帝国外から侵入し、イタリアに定住した新しい民と協力しました。カッシオドルスも、文化の出会いと対話と和解の模範を示しました。歴史的な事情によって、カッシオドルスは自分の政治的・文化的な夢を実現できませんでした。彼の夢は、イタリア・ローマのキリスト教的伝統と、新しいゴート族の文化を統合することをめざしていました。しかし、同じ歴史的事情によって、カッシオドルスは修道院運動が摂理的なものであることを確信しました。修道院運動はキリスト教地域に広まりつつありました。カッシオドルスはこの修道院運動を支援しようと決め、自分の物質的な富と霊的な力のすべてをそのために用いました。
 カッシオドルスの考えは、古代の膨大な文化遺産が失われないために、これを修復し、保存し、後代に伝えるという課題を修道士にゆだねるというものでした。そのために彼は「ウィウァリウム」を創立しました。「ウィウァリウム」は一種の修道院です。この修道院は、何よりも修道士の知的活動を貴重でかけがえのないものと考え、これを推進することをめざしました。カッシオドルスはまた、知的な教育を受けていない修道士も、農作業のような身体的労働に従事するだけでなく、写本の筆写を行うようにさせました。こうして偉大な文化を後の世代に伝えるのを手伝わせたのです。以上のことが、霊的・修道的・キリスト教的務めや、貧しい人に対する愛のわざをなおざりにすることなく行われました。カッシオドルスの教えはさまざまな著作の中で、何よりも『霊魂論』(De anima)と『(聖書ならびに世俗的諸学研究)綱要』(Institutiones divinarum et saecularium litterarum)において示されました。この教えによれば、聖書、とくに詩編の熱心な観想によって養われる(PL 69, 1149参照)祈りは(PL 69, 1108参照)、すべての人を養う糧としてつねに中心的な位置を占めます。たとえば、このカラブリアの教養人カッシオドルスは『詩編講解』(Expositio Psalmorum)の序文でこう述べます。「わたしはラヴェンナでの政治的職務の要求を捨ててこれを後にしました。これらの職務はこの世の心配によって不快な味がしたからです。そして、詩編を味わいました。詩編は、魂のまことの蜜のような、天から下った書です。こうしてわたしは渇いた人のように詩編に飛び込み、休むことなくこの書を究めました。それは、活動的生活の苦味を十分に味わった後、この有益な甘さでわたしをいっぱいに満たすためでした」(PL 70, 10)。
 カッシオドルスはいいます。神を探求し、神を観想すること、これが修道生活の変わることのない目標です(PL 69, 1107参照)。しかし――とカッシオドルスは続けていいます――、神の恵みの助けによって(PL 69, 1131; 1142参照)、ギリシア人やローマ人がすでにもっていた学問の知見や、「世俗的な」文化的手段を用いて、みことばをよりよく味わうことができます(PL 69, 1140参照)。カッシオドルス自身も哲学・神学・聖書釈義の研究に努めました。この研究は特別に独創的なものではありませんでしたが、彼は他の人の役に立つと考えられる洞察に注意を向けました。カッシオドルスは何よりもヒエロニモ(Eusebius Hieronymus 347-419/420年)とアウグスチヌス(Aurelius Augustinus 354-430年)を尊び、熱心に読みました。アウグスチヌスについてカッシオドルスはいいます。「アウグスチヌスのうちにはきわめて豊かな宝があります。それゆえ、わたしにはアウグスチヌスが十分に考察していないことを見いだすことができないように思われます」(PL 70, 10参照)。これに対してカッシオドルスはヒエロニモを引用しつつ、ウィウァリウムの修道士たちに勧告します。「勝利を得るのは、流血と戦ったり、処女性を生きる人だけではありません。神の助けによって肉体の悪徳に打ち勝ち、正しい信仰を守る人も勝利を得ます。しかし、つねに神の助けを得ながら、この世の要求と誘惑によりたやすく打ち勝ち、たえず旅する旅人として世にとどまることができるために、何よりもまず詩編第1編が示す手段を用いるよう努めなさい。詩編は昼も夜も主のおきてを思いめぐらすよう勧めているからです。実際、あなたがただキリストだけに注意を向けているなら、敵は攻撃するための突破口を見いだすことができないでしょう」(『(聖書ならびに世俗的諸学研究)綱要』:Institutiones divinarum et saecularium litterarum 32, PL 69, 1147)。これは、わたしたちにとっても有効な警告として受け入れることができるものです。実際、わたしたちは、文化が出会い、暴力が文化を破壊する恐れにさらされている時代に生きています。わたしたちは、偉大な価値を伝え、和解と平和の道を新しい世代に教えようと努めなければなりません。わたしたちは、神に向かうことによってこの道を見いだします。この神は人間の顔をもっておられるからです。この神は、キリストのうちにわたしたちに現された神だからです。

略号
PL Patrologia Latina

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