教皇ベネディクト十六世の134回目の一般謁見演説 ヌルシアの聖ベネディクト

4月9日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の134回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は2006年3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話の71回目(2007年3月7日から開始した教父に関する講話の39回目)として、「ヌルシアの聖ベネディクト」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。謁見には20,000人の信者が参加しました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  今日わたしは聖ベネディクト(Benedictus de Nursia 480頃-547/560年頃)についてお話ししたいと思います。聖ベネディクトは西方修道制の父であり、わたしの教皇職の守護聖人でもあります。大聖グレゴリオ(Gregorius Magnus 540頃-604年、教皇在位590-没年)が聖ベネディクトについて書いた次のことばから始めます。「神の人が数多くの奇跡によってこの世で光り輝いただけではなく、その教えたことばによって少なからず光彩を放っていたことを伏せておこうとは思わない」(『対話』:Dialogi II, 36〔矢内義顕訳、上智大学中世思想研究所編訳・監修『中世思想原典集成5 後期ラテン教父』平凡社、1993年、498頁。ただし表記を一部改めた〕)。大教皇グレゴリオはこのことばを592年に書きました。聖なる修道士はその約50年前に亡くなっていましたが、人々の記憶の中に、また何よりも、繁栄していた、ベネディクトが創立した修道会の中に、なおも生き続けていました。ヌルシアの聖ベネディクトは、その生涯と著作によって、ヨーロッパ文明と文化の発展に根本的な影響を与えました。聖ベネディクトの生涯に関するもっとも重要な資料は大聖グレゴリオの『対話』第2巻です。この書物は古典的な意味での伝記ではありません。大聖グレゴリオは、当時の考え方に従って、一人の具体的な人間――すなわち聖ベネディクト――の模範を通じて、観想の頂に上ることについて明らかにしたいと望みました。この観想は、神に自分をゆだねた人が実行できるからです。こうして大聖グレゴリオは、完徳の頂点へと登った人生の模範をわたしたちに示します。大聖グレゴリオはこの『対話』の中で、聖人が行った多くの奇跡についても語ります。その場合も、グレゴリオは、どのような変わった出来事が起こったかを語ることだけを望みませんでした。むしろグレゴリオは、神が、警告し、助け、場合によって罰することを通じて、人間生活の具体的な状況にかかわることを示そうと望んだのです。グレゴリオは、神が世界の起源として遠く離れたところにおられるのではなく、人間の生活の中に、すなわち、すべての人の中におられることを明らかにしようとしたのです。
  「伝記」のこのような目的は、当時の一般的な状況からも説明することができます。5世紀から6世紀にかけて、世界は価値観と制度の大きな危機に瀕していました。その原因は、ローマ帝国の崩壊と、新しい民族の侵入、そして生活習慣の堕落です。グレゴリオは、「光り輝く星」である聖ベネディクトの姿を示すことによって、まさにこのローマの町が直面している恐るべき状況の中で、「歴史の暗夜」から抜け出る道を指し示そうと望みました(教皇ヨハネ・パウロ二世『教え』:Insegnamenti, II/1, 1979, p. 1158参照)。実際、聖ベネディクトの著作、とくにその『戒律』(Regula)は、真の意味での霊的なパン種となりました。このパン種は、ベネディクトの祖国の境界と時代を超えて、数世紀にわたり、ヨーロッパの姿を変容させました。そして、ローマ帝国が作った政治的統一が崩壊した後、新たな霊的・文化的統一を生み出しました。この統一とは、ヨーロッパ大陸に住む人に共通の、キリスト教信仰による統一にほかなりません。こうしてわたしたちが「ヨーロッパ」と呼ぶものが生まれたのです。
 聖ベネディクトは480年頃生まれました。聖グレゴリオによれば、ベネディクトは「ヌルシア地方の出身(ex provincia Nursiae)」でした。ベネディクトの裕福な両親は、勉学のために彼をローマに送りました。しかしベネディクトはこの永遠の都に長くはとどまりませんでした。グレゴリオは、きわめて信頼できる理由として、次のことを指摘しています。すなわち、青年ベネディクトは、放埓な生活を送っていた多くの学友の暮らしぶりを嫌い、彼らと同じ過ちに陥ることを望みませんでした。ベネディクトは「ただ神にのみ喜ばれることを願い(soli Deo placere desiderans)」(『対話』:Dialogi, Prologus, 1〔前掲矢内義顕訳、447頁〕)ました。そこでベネディクトは、勉学を終えないうちにローマを離れ、ローマの東の山地で独り隠世生活を送りました。初め彼はエンフィデ(現在のアッフィレ)の村にとどまりました。このエンフィデで、彼は一時期、修道士たちの「修道共同体」に加わりました。しかしその後、彼はその近くのスビアコで隠修生活を送りました。ベネディクトは3年間、洞窟で完全な独居生活を行いました。この洞窟は中世盛期から、「サクロ・スペコ(聖なる洞窟)」と呼ばれ、ベネディクト修道院の「中心」となりました。スビアコの時期、すなわち神とともに独りで過ごした時期は、ベネディクトを成長させました。このスビアコで、ベネディクトはすべての人がもつ3つの根本的な誘惑を耐え忍び、乗り越えなければなりませんでした。それは、自分が認められることへの誘惑、すなわち、自分を中心に置きたいという願望。肉欲の誘惑。そして最後に、怒りと復讐への誘惑です。実際、ベネディクトは確信していました。これらの誘惑に打ち勝って初めて、自分は苦境にある他の人の役に立つことばを語ることができるのだと。こうして彼は、自分の魂と和解することによって、我を通そうとする欲求を完全に抑えることができるようになりました。そして、自分の中で平和をつくることができました。その後、初めてベネディクトは、スビアコの近くのアニオ谷に最初の修道院を創立することを決めました。
  529年、ベネディクトはスビアコを離れ、モンテ・カッシーノに住みました。ある人の説によれば、この転居は、その地方の嫉妬深い聖職者の企みから逃れるためだったといいます。しかしこの説明の試みはあまり信憑性がありません。なぜなら、この聖職者が不慮の死を遂げた後も、ベネディクトはスビアコに戻らなかったからです(『対話』:Dialogi II, 8参照)。ベネディクトがこの決定をしたのは、実際には、彼が内面的成長と修道生活の経験の新しい段階に入ったためでした。大グレゴリオによれば、人里離れたアニオ谷からモンテ・カッシーノ――モンテ・カッシーノは、広い平原に囲まれ、遠くからも見える高台にあります――ヘの移動は、象徴的な性格を帯びています。隠れた形で行う修道生活にも存在意義はあります。しかし、修道院は、教会生活の中で、また社会生活の中で公的な目的ももっています。修道院は、信仰を生活の力として目に見える形で示さなければならないからです。実際、地上の生涯を終えた547年3月21日、ベネディクトは、その『戒律』と、彼が創立したベネディクト修道家族という遺産を残しました。この遺産は、世界中で、その後数世紀にわたって実りをもたらし、また、今なお実りをもたらし続けています。
  グレゴリオは『対話』第2巻の全体で、聖ベネディクトの生涯が祈りの雰囲気に満たされており、祈りは聖ベネディクトの生活の基盤だったことをわたしたちに示します。祈らなければ、神を体験することはできません。しかし、ベネディクトの霊性は、現実と無関係の内面的な霊性ではありませんでした。不安と混乱の時代の中で、ベネディクトは神のまなざしのもとに生きました。こうしてベネディクトは、日常生活の義務や、具体的な困難を背負った人間を見失うことがありませんでした。ベネディクトは、神を見ることによって、人間の現実と自分の使命を知りました。『戒律』の中でベネディクトはいいます。修道生活は「主に仕えるための学校」(『戒律』:Regula, Prologus, 45〔古田暁訳、『聖ベネディクトの戒律』すえもりブックス、2000年、13頁〕)です。またベネディクトは自分の修道士たちに命じます。「何事も『神のわざ』(すなわち、聖務日課ないし時課の典礼)に優先してはなりません」(同:ibid. 43, 3〔前掲古田暁訳、176頁。ただし表記を一部改めた〕)。けれどもベネディクトは強調します。祈りは何よりも聞くことです(同:ibid., Prologus, 9-11)。聞いたことを、後に具体的な行動に移さなければなりません。ベネディクトはいいます。「主は・・・・わたしたちが日々、実践によって聖なるみ教えにこたえることを期待しておられます」(同:ibid., Prologus, 35〔前掲古田暁訳、11頁。ただし一部表記を改めた〕)。こうして修道士の生活は、活動と観想の実り豊かな共存となります。それは、「すべてにおいて神に栄光が与えられるように」(同:ibid. 57, 9〔前掲古田暁訳、229頁〕)するためです。現代においては、安易な自己実現や自己中心的な思想がしばしばもてはやされます。それとは反対に、聖ベネディクトの弟子の第一のけっして放棄してはならない務めは、神を本心から求めることです(同:ibid. 58, 7)。そのために、謙遜で従順なキリストの後をたどらなければなりません(同:ibid. 5, 13)。また、キリストの愛にはどのようなことも優先させてはなりません(同:ibid. 4, 21; 72, 11)。こうして、他の人に仕えながら、奉仕と平和の人とならなければなりません。修道士は、愛に促された信仰に基づく行動によって従順を実践しながら(同:ibid. 5, 2)、謙遜を勝ち得ます(同:ibid. 5, 1)。『戒律』はこの謙遜に一つの章をあてています(同:ibid. 7)。こうして人はますますキリストに似せて形造られ、神の像と似姿として造られた真の自己を実現します。
  弟子の従順に、修道院長の知恵が伴わなければなりません。修道院長は修道院において「キリストの代理者」(同:ibid. 2, 2; 63, 13〔前掲古田暁訳、19、259頁〕)です。『戒律』はおもに第2章で、すばらしい霊的資質と果たすべき責務を備えた者として修道院長の姿を述べます。わたしたちはこの修道院長の姿を、ベネディクトの自画像と考えることができます。なぜなら、大グレゴリオが述べるように、「聖なる人の教えと生活とは別のものではありえないから」(『対話』:Dialogi II, 36〔前掲矢内義顕訳、498頁〕)です。修道院長は慈愛あふれる父であると同時に、威厳ある師(『戒律』:Regula 2, 24)、すなわちまことの教育者でなければなりません。修道院長は、悪徳に対しては断固とした態度をとります。しかし彼は、何よりも優しいよい羊飼いに倣い(同:ibid. 27, 8)、「人の上に立つよりも人に仕え」(同:ibid. 64, 8〔前掲古田暁訳、265頁〕)なければなりません。そして、「ことばよりは行為によって、善で聖なることをすべて弟子に示し」、「自ら行為によって神の教えを示さなければなりません」(同:ibid. 2, 12〔前掲古田暁訳、21頁。ただし表記を一部改めた〕)。修道院長は、責任をもって決定を下すことができるために、「修友たちの意見」(同:ibid. 3, 2〔前掲古田暁訳、30頁〕)にも耳を傾けなければなりません。なぜなら、「主がしばしばより若い者によりよい道を示すことがあるからです」(同:ibid. 3, 3〔前掲古田暁訳、30頁〕)。このような姿勢のために、約15世紀前に書かれた『戒律』は驚くほど現代的です。公的な責任を負う人は、小さなグループの責任者であっても、つねに人のいうことに耳を傾け、聞いたことから学べる人でなければなりません。
  ベネディクトは『戒律』を「初心者のために記したこのもっとも控えめな戒律」(同:ibid. 73, 8〔前掲古田暁訳、295頁。ただし表記を一部改めた〕)といっています。しかし、実際には『戒律』は、修道士にとってだけでなく、神への道への導きを求めるすべての人にとって有益な指示を与えてくれます。ベネディクトは、その中庸と謙遜、霊的生活において本質的なこととそうでないことを冷静に識別する力によって、現代に至るまで光り輝く力を保ち続けています。パウロ六世は、1964年10月24日に聖ベネディクトをヨーロッパの守護聖人と宣言しました。こうして教皇は、聖人が『戒律』を通じて、ヨーロッパ文明と文化の形成のために驚くべきわざを成し遂げたことを認めようと望んだのです。2つの世界大戦によって深く傷ついた世紀が去り、偉大なイデオロギーが崩壊して、それが悲惨なユートピア思想にすぎないことがわかった後、ヨーロッパは自らのあるべき姿を捜し求めています。新たな永続的な統一を作り出すために、政治・経済・法律という手段はたしかに重要です。しかし、倫理的・霊的な刷新を生み出すことも必要です。この倫理的・霊的な刷新は、ヨーロッパ大陸のキリスト教的起源に基づきます。こうした刷新を行わなければ、ヨーロッパを再建することは不可能です。この生きた力がなければ、人間は、自分で自分をあがなおうとする、昔からの誘惑に負ける危険にさらされ続けます。教皇ヨハネ・パウロ二世が明らかにしたとおり、このユートピア思想は、20世紀のヨーロッパにおいて、さまざまな形で「これまでに前例のない、人類の苦難の歴史への逆戻り」(『教え』:Insegnamenti, XIII/1, 1990, p. 58)を引き起こしました。まことの進歩を求めるわたしたちは、現代においても、わたしたちの歩みを照らす光として、聖ベネディクトの『戒律』に耳を傾けたいと思います。偉大な修道士ベネディクトはまことの教師であり続けます。わたしたちはこの教師の学びやで、真の意味での人間中心主義を生きる方法を学ぶことができるからです。

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