教皇ベネディクト十六世の国連総会での演説

2008年4月15日(火)から20日(日)まで行われたアメリカ合衆国司牧訪問の4日目の4月18日(金)午前10時45分に、教皇ベネディクト十六世は初めてニューヨークの国際連合(国連)本部を訪れました。潘基文(パン・ギムン […]

2008年4月15日(火)から20日(日)まで行われたアメリカ合衆国司牧訪問の4日目の4月18日(金)午前10時45分に、教皇ベネディクト十六世は初めてニューヨークの国際連合(国連)本部を訪れました。潘基文(パン・ギムン)国連事務総長との会談の後、教皇は、第62回国連総会を開催中の会議場で192加盟国代表に向けて演説を行いました。以下は教皇の演説の全文の翻訳です。演説は前半がフランス語、後半が英語で行われ、最後の祝福は、国連の公式言語である英語、フランス語、スペイン語、アラビア語、中国語、ロシア語で行われました。
国連総会での教皇の演説は、パウロ六世(1965年10月4日)、ヨハネ・パウロ二世(1979年10月2日、1995年10月5日)に続いて今回が4回目となります。


 

 議長と総会参加者の皆様。
 本総会で演説を始めるにあたり、まず、温かいことばを賜った(スルジャン・ケリム)総会議長に対して心より感謝申し上げたいと思います。また、パン・ギムン事務総長にも感謝申し上げます。事務総長はわたしの国連本部訪問を招請し、歓迎してくださったからです。加盟国大使、外交官と、ご列席のすべての皆様にごあいさつ申し上げます。皆様を通して、皆様がここで代表しておられる国民の皆様にごあいさつ申し上げます。諸国民はこの機関が、平和と発展という「共通の目的の達成に当たって諸国の行動を調和するための中心となる」(「国際連合憲章」第1条2項-4項〔国際連合広報センター訳〕参照)という創立理念を実践することを期待しています。ヨハネ・パウロ二世が1995年に述べたように、国連は「世界のすべての国が、そこで自分がその一員であると感じ、いわば『諸国から成る家族』としての共通の意識を発展させることのできる、道徳的な中心」(「国連創立50周年にあたっての国連総会への演説(1995年10月5日、ニューヨーク)」14)とならなければなりません。

 諸国家は国連を通じて普遍的な目的を打ち立てました。この普遍的な目的が、人類という家族の共通善の全体と一致しないまでも、その根本的な部分を代表していることは間違いありません。国連の創立理念――すなわち、平和への望み、正義の追求、人格の尊厳の尊重、人道的な協力と援助――は、人間精神の正当な願望を表すとともに、国際関係の基礎となるべき諸理念となっています。わたしの先任者であるパウロ六世とヨハネ・パウロ二世がこの同じ演台から述べたように、カトリック教会と聖座は、これらの理念に注意と関心を向けながら、国連の活動の中に、国際社会にかかわるさまざまな問題と紛争を共同で管理しうる方法の模範を見いだしています。国連は「これまでのやり方をさらに押し進めた形の国際協力、国際秩序」(ヨハネ・パウロ二世回勅『真の開発とは――人間不在の開発から人間尊重の発展へ』43)への望みを実現しています。このような国際秩序は、補完性の原理によって霊感を受け、導かれなければなりません。それゆえそれは、拘束力のある国際的な規則と、諸国民の日々の生活を調和あるものとするのに適したさまざまな制度を通じて、人類という家族の必要にこたえることのできるものでなければなりません。多国間合意が危機にさらされ続けるという、明らかな逆説を経験している現代の状況にあって、このような国際秩序はますます必要とされています。世界のさまざまな問題は、国際社会が共同行動の形で介入することを求めているにもかかわらず、多国間合意は依然として少数の国の決定に従属しているからです。

 実際、安全保障、開発目標、地域と世界レベルでの格差の解消、環境・資源・気候の保護といった問題は、世界の指導者が協調して行動し、信頼をもって、法を尊重しつつ、地球上のもっとも脆弱な地域との連帯を推進するために進んで働くことを求めています。わたしはとくにアフリカや他の大陸の一部の国のことを考えています。これらの国は依然として真の意味での完全な発展ができずにおり、それゆえ、グローバル化の悪影響だけを経験する危険にさらされています。国際関係との関連において、規則と制度の果たす重要な役割を認識することが必要です。規則と制度は、本質的に、共通善の推進と、人間の自由の擁護に向けて秩序づけられているからです。こうした規制は自由を制限するものではありません。その反対に、このような規制は自由を推進します。なぜなら、共通善に反し、共通善の効果的な実施を妨げ、したがってすべての人の人格の尊厳をないがしろにする態度や行動を、この規制は禁じるからです。自由の名のもとにおいては、権利と義務の相関関係がなければなりません。この権利と義務の相関関係によって、すべての人は、他の人間とかかわることによってなされる、自分の選択に責任をとるよう求められます。ここでわたしたちは、科学研究や技術の進歩の成果が用いられる際にときとして見られるあり方に思いを致します。たとえ人類が大きな利益を得られるとしても、科学と技術の用い方の一部は、被造物の秩序を明らかに冒すものです。それは、生命の神聖性に反するだけでなく、人間の人格と家庭からその自然な本質を奪うまでに至ります。同じく、環境を保全し、地上の生物の多様性を保護する国際的な行動も、科学技術の合理的な使用に努めるだけでなく、被造物の本来の姿を再発見するものでなければなりません。これは科学と倫理の一方を選ばなければならないことを意味しません。むしろ問われているのは、倫理的命令を真の意味で尊重する科学的方法を採用するということです。

 人間の家庭の唯一性の認識と、すべての女性と男性に本来備わる尊厳に対する関心は、現代、責任をもって守るべき原則としてこれまでにもまして重視されています。この原則は最近になって初めて定義されましたが、すでに国連の始まりから暗黙のうちに存在しており、ますますその活動を性格づけるようになっています。すべての国家は、自国民を、人権の深刻かつ度重なる侵害から守ると同時に、自然を原因とするものであれ、人間の行動が引き起こすものであれ、人道的な危機の結果から守るための本質的な務めを有します。国家がこうした保護を行うことができない場合、国際社会は、国際連合憲章が定めた合法的な方法や、他の国際的な手段によって介入すべきです。国際社会やその機関の行動は、国際秩序の基にある原則を尊重するかぎり、不当な強制や、主権の制限として解釈されてはなりません。その反対に、無関心や不干渉こそが現実の被害を生み出します。紛争を予防し、管理するための方法を深く検討する必要があります。そのために、外交的な行動が用いうるあらゆる手段を使用し、対話と和解への望みのどんな些細なしるしをも見逃すことなく、それを支えなければなりません。

 古代の「万民法(ius gentium)」は、「保護する責任」の原則を、統治者が被統治者に対してとるあらゆる行動の基盤と考えました。主権を有する国民国家の概念が発展し始めた時代に、国連の理念の先駆者とみなすべきドミニコ会の修道士フランシスコ・デ・ビトリア(1483/1486頃-1546年)は、この責任が、すべての国が共有する自然理性の一部であり、国際法から生み出されるものだと述べました。国際法の課題は、諸民族間の関係を管理することだからです。当時と同じように、現代も、この原則は、造り主の像としての人格の理念と、絶対的なものへの望みと、自由の本質を表すはずです。ご存じのように、国連の創立は、人類を苦しめたさまざまな深い混乱と同時期に行われました。この混乱の中で、超越の意味と自然理性を基準とすることが放棄され、その結果、人間の自由と尊厳の大規模な侵害が行われました。このような状況において、国際秩序を導き、規制する諸価値の客観的な基盤が脅威にさらされ、国連が表明し、強化した、譲ることのできない強制力をもった諸原則が突き崩されました。繰り返される新たな問題に対して、過去の実際的な方法で満足するのは誤りです。実際的な方法は「共通の基盤」を規定することに限られるからです。「共通の基盤」の内容は最小限で、その有効性は薄弱です。

 保護する責任の基盤であり目的である、人間の尊厳に目を向けることによって、わたしたちは今年の特別なテーマへと導かれます。今年は「世界人権宣言」60周年を記念するからです。「世界人権宣言」という文書は異なる文化的・宗教的伝統の歩み寄りの成果です。これらの諸伝統は皆、人間の人格を社会の制度・法・行動の中心に置き、これを文化・宗教・科学の世界にとって本質的なものと考えたいという共通の望みに駆られました。人権はますます国際関係の共通の言語、また倫理的基盤として示されるようになっています。人権はその普遍性、不可分性、相互依存性ゆえに、人間の尊厳を守るための保障でもあります。しかし、このことは明らかです。すなわち、「世界人権宣言」が認め、示した諸権利は、人格という共通の起源をもつがゆえに、すべての人に当てはまります。人格は、造り主である神の世界と歴史に対する計画の中心であり続けるからです。人権は、人間の心にしるされ、異なる文化や文明のうちにも存在する自然法に自らの基盤を見いだします。人権をこのような連関から切り離すなら、その射程を狭め、相対主義的な思想に屈することになります。相対主義的な思想によれば、諸権利の意味と解釈は変わりうるもので、その普遍性は文化・政治・社会・宗教的思想の違いによって否定されることがありえます。人権が普遍的であるだけでなく、権利の主体である人間の人格もまた普遍的です。観点の大きな違いによって、このことを忘れてはなりません。(以上フランス語。以下、英語)

 国内的な次元においても、国際的な次元においても、共同体の生活ははっきりと次のことを示します。すなわち、権利の尊重と、権利と結びついた権利を保障するものの尊重とは、共通善の基準です。この基準を用いて、正義と不正、発展と貧困、安全と紛争の関係が測られます。人権の推進は依然として、諸国間、社会集団間の格差をなくし、安全保障を強化するためのもっとも有効な戦略です。実際、人間の尊厳が蹂躙されたにもかかわらず、処罰が行われず、悲惨と絶望のうちにある犠牲者は、容易に暴力に訴える誘惑に駆られます。こうして犠牲者が平和の破壊者となります。しかし、人権の助けによって実現しようとする共通善は、正しい手続きを当てはめるだけでも、対立する権利の均衡をとるだけでも達成できません。「世界人権宣言」の優れた点は、異なる文化、法的表現、制度的モデルが、諸価値の根本的な核心、それゆえ諸権利の根本的な核心の周りに歩み寄ることを可能にしたことにあります。しかし、現代、「世界人権宣言」の基盤を再解釈し、その内的統一性をあいまいにし、それによって、人間の尊厳を擁護することから、単なる利害、それもしばしば個別的な利害を満足させることへと移行させようとする圧力があります。この圧力に反対するために、いっそうの努力を行わなければなりません。「世界人権宣言」は「達成すべき共通の基準」(前文〔外務省訳〕)として採択されました。流行や勝手な選択によってこの「宣言」が部分的に使用されることがあってはなりません。こうした流行や勝手な選択は、人間の人格の統一性に逆らい、そこから、人権の不可分性にも反対する危険があります。

 経験が示すように、しばしば法が正義を支配することがあります。それは、権利の主張によって、正義が、権力をもつ諸機関が定めた法的規定や規制の決定の単なる結果のように見えるようになる場合です。権利が法の形式でのみ示されると、権利は、その基盤と目的をなす倫理的・合理的な次元と切り離された、脆弱な命題となる危険があります。実際には、「世界人権宣言」は次の確信をあらためて確認しました。すなわち、人権の尊重は何よりもまず、変わることのない正義を基盤とします。さまざまな国際的宣言の拘束力もこの正義を基盤としています。人々が狭い意味での功利主義的な観点に基づいて、諸権利からその真の機能を奪おうと試みようとするとき、このような側面はしばしば見過ごされます。権利と、権利に基づく義務は、人間同士の関係から自然に生じます。ですから人々は、権利と義務が共通の正義感から生じるものだということを容易に忘れてしまいます。しかし、この正義感は、何よりもまず社会の構成員の間の連帯にもとづくもので、したがって、すべての時代、すべての民族にとって有効なものです。このような洞察はすでにキリスト紀元5世紀に、わたしたちの知的遺産の教師の一人であるヒッポのアウグスチヌス(354-430年)によって表明されました。アウグスチヌスは教えます。「『あなたは、自分にしてもらいたくないことを他人にしてはならない』ということは、民族の相違によって変わることは決してありえない」(『キリスト教の教え』:De doctrina christiana III, 14〔加藤武訳、『アウグスティヌス著作集6』教文館、1988年、170頁。ただし表記を一部改めた〕)。それゆえ人権は、単に立法者の意志によって強制できるからではなく、正義の表現として尊重されなければなりません。

 総会参加者の皆様。
 歴史が進展するにつれて、新たな状況が生じ、この状況を新しい権利に結びつけようとする試みがなされます。個人、共同体、民族の生活と行動にかかわる必要との関連で、識別、すなわち善と悪を見分ける力がますます必要不可欠なものとなっています。権利というテーマを扱う際には、重要な状況と重大な現実がかかわるので、識別という徳は不可欠であるとともに、多くの実りをもたらします。

 それゆえ、識別は次のことを示します。個人、共同体、民族全体の望みにこたえる最終的な責任を、法と制度を具えた個々の国家にのみゆだねるなら、場合によって、社会秩序が個人の尊厳と権利を尊重するのを不可能にする結果をもたらすことがありえます。他方、宗教的な次元に堅く根ざした生命観は、個人の尊厳と権利の尊重の実現を助けることができます。なぜなら、すべての人間の超越的な価値の認識は、心の回心を促すからです。そして、心の回心は、暴力とテロと戦争に反対し、正義と平和を促進する取り組みへと人を導きます。このことはまた、宗教間対話に適切な場を与えます。国連は、他の人間の活動分野における対話を支持する使命をもつのと同様に、宗教間対話を支持する使命をもっています。対話を、社会のさまざまな構成員が自分の見解を表明し、特定の価値や目的をめぐる真理について合意を実現するための手段として認めなければなりません。宗教が思想や生活に関する対話を自律的に行いうることは、自由に実践される宗教の本性に属します。このような次元においても、宗教の領域が政治行動から分離されるなら、個人と共同体に大きな利益をもたらします。他方、国連は宗教間対話の成果に期待し、宗教者が自らの経験を進んで共通善への奉仕のために用いることからさまざまな実りを得ることができます。宗教者の務めは、信仰に基づく思想を、不寛容と差別と対立によって示すのではなく、真理と共存と権利と和解の完全な尊重によって示すことだからです。

 いうまでもなく、人権は信教の自由を含みます。信教の自由とは、個人的であると同時に共同体的でもある次元の表現を意味します。信教の自由という思想は、個人の唯一性を示すとともに、市民の次元と宗教者としての次元を明確に区別します。近年の国連の活動は、公共的議論において、宗教的思想に促された観点に場を与えるよう努めてきました。ここでいう宗教的思想は、儀式、礼拝、教育、広報、また、信教を表明し選ぶ自由を含む、あらゆる次元を伴います。それゆえ、宗教者が、市民として積極的に活動するために、自分自身の一部である信仰を抑制しなければならないというのは、考えられないことです。自らの権利を享受するために神を否定しなければならないということは、決してありません。信教にかかわる権利を保護することがますます必要です。信教の権利は、支配的な世俗主義的思想や、排他的な性格をもった多数派の宗教的立場と対立すると考えられているからです。信教の自由の完全な保障は、礼拝の自由な実践に限られてはなりません。宗教の公共的次元、すなわち、宗教者が社会秩序を築くために役割を果たしうることを考慮すべきです。宗教者は実際にこのような役割を果たしています。たとえば宗教者は、大学、学術機関、学校から、貧しい人や社会の底辺に置かれた人に奉仕する保健機関や慈善機関に至る、広大な活動のネットワークを通じて、影響力のある、惜しみない取り組みを行っています。こうした社会貢献は、宗教的な次元と、絶対的な存在の探求に基づいており、この探求は、本来、人間の交わりを表しています。こうした社会貢献を認識することを拒むなら、事実上、個人主義的な態度を優先し、個人の唯一性を分解することになります。

 わたしがこの総会に来たのは、国連への敬意を示すしるしです。そしてわたしは、国連がますます諸国家間の一致のしるし、また人類という家族全体に仕える道具として奉仕してほしいという望みを表すためにここに参りました。わたしがここに来たのは、すべての個人またすべての民族がそれぞれ自らの重要性を感じることができるようなしかたで国際関係を築くために、カトリック教会が進んで適切な貢献を行いたいという意向を示すためでもあります。教会はまた、カトリック信者の自由な活動に寄与する、倫理的・道徳的次元における貢献と一致するしかたで、聖座の国際的活動を通じて、このような国連の目的の実現のために働きます。実際、聖座はつねに国連総会の中に席をもち、国際的な分野において主権者としての特別な性格を示してきました。それゆえ、最近、国連が確認したとおり、聖座は国際法の規定に従って貢献し、国際法の定義を助け、国際法に対して訴えかけます。

 国連は特別な場であり続けます。この特別な場の中で、教会は「人間性に関する」自らの経験を分かち合おうと努めます。この経験は、人種と文化を異にするあらゆる民族の中で、何世紀にもわたって成長してきたものです。そして教会は、国際社会のすべての成員に使ってもらうためにこの経験を提供します。すべての宗教者が自由を獲得することを目指した、教会のこの経験と活動は、個人の諸権利がますます保護されることをも求めます。個人の諸権利は、人格の超越的な性格に基づき、またそれによって形づくられます。この人格の超越的な性格によって、人間は信仰の道を歩み、世にあって神を探し求めることができるのです。もしわたしたちが、よりよい世界に向けた人類の望みを支え、平和と、発展と、協力と、将来の世代に権利を保障するための条件を造り出したいのであれば、このような次元の認識を強めなければなりません。

 最近著したわたしの回勅『希望による救い』の中で、わたしはこう述べました。「すべての時代の人には、人間に関することがらを秩序あるものとするための正しい方法をいつもあらためて探究する務めがあります」(同25)。キリスト信者にとって、この務めはイエス・キリストの救いのわざから湧き出る希望によって促されます。だから教会は、全地の平和と善意を推進する責任を帯びた、この尊敬すべき機関の活動に喜んで協力するのです。親愛なる友人の皆様。今日皆様にお話しする機会を与えてくださったことに感謝致します。そしてわたしは、皆様が尊い使命を果たしていくために、祈りによって皆様を支えることを約束致します。

 この誉れある総会を後にするに先立ち、ここに代表者を派遣しておられるすべての国に、公式言語を用いて祝福を送りたいと思います。(以下、英語、フランス語、スペイン語、アラビア語、中国語、ロシア語)
 神の助けによって平和と栄えがありますように。
 本当に有難うございます。

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