教皇ベネディクト十六世の135回目の一般謁見演説 アメリカ合衆国司牧訪問を振り返って

4月30日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の135回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は4月15日(火)から21日(月)まで行ったアメリカ合衆国司牧訪問を振り返りました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。謁見には20,000人の信者が参加しました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  ローマに戻ってからすでに数日が経ちましたが、今日の講話では、慣例に従って、去る4月15日から21日にかけて行った、国際連合(国連)とアメリカ合衆国への使徒的訪問についてお話ししたいと思います。何よりもまず、全米司教協議会とブッシュ大統領に、わたしを招いてくださり、温かく迎えてくださったことをあらためて感謝します。また、わたしにあいさつするためにワシントンとニューヨークにいらしてくださり、教皇への愛を示してくださったすべてのかたがた、また、祈りをもって、犠牲をささげながら、わたしに同伴し、わたしを支えてくださったすべてのかたがたに感謝したいと思います。ご存じのように、今回の旅行の目的は、アメリカの最初の教区であるボルチモアの大司教区への昇格と、ニューヨーク、ボストン、フィラデルフィア、ルイビルの司教座創設の200周年を記念することでした。この典型的な教会の記念行事を機会に、自らペトロの後継者として、初めて愛するアメリカ合衆国の国民を訪問できたことをうれしく思います。それは、カトリック信者の信仰を強め、すべてのキリスト者との兄弟愛を新たにするとともに深め、そして、すべての人に「わたしたちの希望であるキリスト」のメッセージを告げ知らせるためでした。「わたしたちの希望であるキリスト」が今回の訪問の標語でした。
  公邸での大統領との会見(4月16日)で、わたしはこの偉大な国に敬意を表することができました。アメリカ合衆国は初めから、宗教的・倫理的・政治的原則の幸いな結びつきを基盤として建設され、今なお健全な世俗主義の有効な模範となっています。そこでは多様な表現をとった宗教的な次元が、ただ許されるだけでなく、国家の「魂」として、また、人間の権利と義務を保障する基盤として評価されます。このような状況の中で、教会は福音宣教と人間性を推進し、「批判的な良心」ともなるという使命を、自由に、また力強く果たすことができます。そして、人間の人格にふさわしい社会を建設するために貢献します。すべての人は合衆国を国際情勢において主要な役割を果たす国の一つと考えています。そこで教会は同時に、合衆国を初めとする国家を、ますます緊急に必要とされるグローバルな連帯と、国際関係における忍耐強い対話の実行へと促します。
  当然のことながら、教会共同体の使命と役割が、ワシントンの無原罪の聖母大聖堂で行われた司教団との集会(同日)の中心となりました。晩の祈りという場の中で、わたしたちは、合衆国を歩んできた神の民と、熱意ある牧者、そして熱心で寛大な信者について、主を賛美しました。信者の熱心と寛大さは、深い尊重をもって信仰に心を開く態度、国内と国外における多くの愛のわざと人道的な援助に示されます。同時にわたしは、大きな矛盾に満ちた社会の中で福音の種をまくという困難な課題を担う、わたしの兄弟である司教たちを励ますことができました。社会は信者と聖職者自身の一貫した態度に対する脅威となっているからです。わたしは司教たちをこういって励ましました。現代のさまざまな倫理的・社会的問題に対して声を挙げてください。家庭という基本的な細胞から出発して、市民社会のよい「パン種」となることができるように、信徒を教育してください。この意味でわたしは、結婚の秘跡がたまものであり、男と女の間の不解消の誓約であり、子どもを迎え入れ、育てる自然な場であることをあらためて示すよう、司教たちに勧告しました。教会と家庭は、学校――とくにキリスト教的精神をもった学校――とともに、若者に堅固な道徳教育を与える上で協力しなければなりません。しかし、この道徳教育の務めにおいて、メディアと娯楽の分野で働く人々にも大きな責任があります。叙階された役務者による未成年者への性的虐待という悲しむべき出来事を思いながら、わたしは司教たちの支えとなることを表明しました。そして、傷をいやし、司祭との関係を強化するべく努めるよう司教たちを励ましました。司教たちの述べた質問にこたえて、わたしはいくつかの重要な側面を強調しました。それは次のものです。福音と「自然法」の本質的な関係。愛のうちに理解され、実現される、健全な自由の概念。キリスト教的経験の教会的な次元。とくに青年に対して、完全ないのちとしての「救い」を新たなしかたで告げ知らせ、祈ることを教えなければならないこと。主の招きに対する寛大なこたえは、祈りから芽生えるからです。
  ワシントンのナショナルズ・パーク球場での大規模で盛大な感謝の祭儀(4月17日)で、わたしはアメリカ合衆国の教会全体に聖霊が降ることを祈り求めました。それは、教会が、父祖から伝えられた信仰にしっかりと根ざし、深く一致し、また新たにされながら、勇気と希望をもって現在と未来に立ち向かうことができるためです。この「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5・5)。合衆国の教会が直面している問題の一つが教育問題であることはいうまでもありません。それゆえ、わたしは、アメリカ・カトリック大学で、さまざまなカトリック総合大学と単科大学の学長、教区の教育担当者、教員と学生の代表者との集いを行いました(同日)。教育事業は、教会の宣教にとってなくてはならない部分です。そして、アメリカ合衆国の教会共同体はつねに教育事業に大きな力を注いできました。同時にこの教会共同体は国家全体に対して多大な社会的・文化的奉仕を行っています。こうした活動を継続できることが重要です。カトリック教育機関の質を保つこともきわめて重要です。それは、カトリック教育機関において、学生がキリストの「満ちあふれる豊かさになるまで」(エフェソ4・13参照)真の意味で育てられ、信仰と理性と真理と自由を結び合わせることができるようになるためです。それゆえ、わたしは、教育者たちが尊い知的な愛の務めを果たしていることを、喜びのうちに確認しました。
  多文化に仕える使命をもった、アメリカ合衆国のような国で、他宗教の代表者との集いを行うことは特別な意味があります。ワシントンのヨハネ・パウロ二世文化センターでは、ユダヤ教徒、イスラーム教徒、ヒンドゥー教徒、仏教徒、ジャイナ教徒の皆様との集いをもちました(同日)。ニューヨークではシナゴーグを訪れました(4月18日)。とくに後者の訪問はきわめて真心のこもったものとなりました。この訪問は、対話と、平和と霊的・道徳的な価値観の推進のための共通の取り組みを強めてくれたからです。信教の自由の祖国と考えることのできるこのアメリカという国で、わたしはあらためてこう述べたいと望みました。信教の自由を一致した努力によってつねに擁護しなければなりません。それは、あらゆる差別と偏見を避けることができるためです。わたしはまた、他者の尊重や非暴力を教える上でも、人間の良心に関する深い問いを生き生きと保つ上でも、宗教指導者の責任がきわめて大きいことを強調しました。セント・ジョゼフ小教区聖堂でのエキュメニカルな集い(同日)も、たいへん心のこもったものでした。わたしたちはともに主に祈りました。どうかイエス・キリストへの共通の信仰によって、つねに深い一致のうちに、自分たちの抱いている偉大な希望について説明できる力を(一ペトロ3・15参照)、キリスト者のうちに強めてください。
  今回の旅行のもう一つのおもな目的は、国連本部の訪問でした(同日)。これは1965年のパウロ六世の訪問、1979年と1995年のヨハネ・パウロ二世の2回の訪問に続く、4回目の教皇の国連本部訪問です。「世界人権宣言」60周年を記念するにあたり、摂理は、もっとも広く権威をもった、諸国家の集う会議場において、この宣言の価値を確認する機会をわたしに与えてくれました。わたしは、この宣言の普遍的な基盤が人間の人格の尊厳であることを指摘しました。人間の人格は、神がご自身の像と似姿として創造したものです。それは、世にあって、いのちと平和に関するご自身の偉大な計画に協力させるためです。平和と同様に、人権の尊重も「正義」を基盤とします。すなわち、すべての時代とすべての民族に当てはまる倫理的な秩序を基盤とします。この「正義」を有名な格言にまとめることができます。「あなたは、自分にしてもらいたくないことを他人にしてはならない」。あるいは、イエスのことばによって積極的な形でいえば、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイ7・12)。聖座の国連に対する貢献の特徴となっている、この基盤に基づいて、わたしは、国際関係の強化に寄与するためにカトリック教会が有効な取り組みを行うことをあらためて述べましたし、今日もあらためて述べます。この国際関係は、責任と連帯の原則によって特徴づけられなければなりません。
  ニューヨーク滞在における他のいくつかの出来事の印象もわたしの心に今なお強く残っています。マンハッタンの中心にあり、まことに「すべての民族のための祈りの家」である、セント・パトリック司教座聖堂で、わたしは、アメリカ中から来た司祭、奉献生活者のためにミサをささげました(4月19日)。このかたがたが、わたしのペトロの使徒座への選出3周年を心から祝ってくださったことを、けっして忘れることができません。それは感動的な瞬間でした。そのときわたしは、わたしの奉仕職を教会が支えてくださることをすべて、手で触れることができるように体験しました。教区神学校で行われた青年と神学生との集い(同日)にも同じことがいえます。この集いの前、わたしは、障がいをもつ子どもたち、およびそのご家族と、きわめて意味深い時を過ごしました。若者は、本来的に真理と愛を渇望しています。この若者たちに、わたしは、アメリカの地で模範的なしかたで福音をあかしした人々の姿を示しました。この真理の福音は、愛と、奉仕と、他の人のために生涯をささげることへとわたしたちを解放します。自分たちの人生を脅かす現代の闇を目の当たりにしながらも、若者は、聖人たちのうちにこの闇を打ち払う光を見いだすことができます。それは、すべての人の希望である、キリストの光です。罪と死よりも強い、この希望に力づけられながら、わたしはグラウンド・ゼロの深淵で、深い思いに満ちた一時を沈黙のうちに過ごしました(4月20日)。そこでわたしは一本のろうそくに火をともして、この恐るべき悲劇の犠牲となったすべての人のために祈りました。最後に、わたしの訪問はニューヨークのヤンキー・スタジアムにおける感謝の祭儀で頂点に達しました(同日)。この信仰と兄弟愛の祭典のことは今なおわたしの心にあります。この祭典の中で、わたしたちは北米最古の諸教区の200周年を祝いました。最初の小さな群れが大きく成長し、その後の大勢の移民の信仰と伝統によって豊かにされました。今、現在の諸問題に直面しているこの教会に、きのうも今日も、永遠に変わることなく「わたしたちの希望であるキリスト」を新たに告げ知らせることができたことをうれしく思います。
  親愛なる兄弟姉妹の皆様。皆様にお願いします。わたしとともに、わたしたちの心を慰める、今回の使徒的訪問の成果を感謝してください。また、おとめマリアの執り成しによって、神に願い求めてください。どうかこの使徒的訪問が、アメリカと世界中の教会に豊かな実りをもたらすことができますように。

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