「世界司祭の聖化のための祈願日」メッセージ

「世界司祭の聖化のための祈願日」が5月30日(金)のイエスのみ心の祭日に試行として行われます(ただし、地域の事情に応じて、各教区は別の日にこれを行うことができます)。以下は、この祈願日を開始するにあたり、教皇長聖職者省が発表したメッセージの全訳です。
【参照】「司祭の祈り」「司祭のための祈り」:「世界司祭の聖化のための祈願日」メッセージと同時に発表されました。

「世界司祭の聖化のための祈願日」メッセージ
(2008年5月30日 イエスのみ心の祭日)

親愛なる司祭職にある兄弟の皆様。
 
イエスのみ心の祭日に、わたしたちの思いと心の目を、絶えざる愛のまなざしのうちに、わたしたちの人生と世の唯一の救い主であるキリストに向けようではありませんか。キリストに目を注ぐとは、そのみ顔に目を注ぐということです。意識するとしないとにかかわらず、すべての人は、抑えることのできない幸福への渇望を満たしてくれるこのみ顔を探し求めています。
 
わたしたちはこのみ顔に出会いました。そして、そのとき、キリストの愛がわたしたちの心に深い愛の傷を与えたので、わたしたちはキリストがともにいてくださることを絶えず願わずにはいられなくなりました。「主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください。朝ごとに、わたしはみ前に訴え出てあなたを仰ぎ望みます」(詩編5・4)。
 
典礼はわたしたちを導いて、あらためてみことばの受肉の神秘を仰ぎ見させます。みことばの受肉の神秘は、教会の交わりの起源であり、本質です。アブラハム、イサク、ヤコブの神は、イエス・キリストのうちにご自分を現してくださいました。「だれも、肉の卑賤さによっていやされなければその栄光を見ることはできない。・・・・あなたは埃(ほこり)によって見えなくなったが、埃によっていやされるだろう。肉はあなたの目を見えなくしたが、肉があなたをいやすのである」(聖アウグスチヌス『ヨハネによる福音書講解説教』:In
Johannis Evangelium tractatus
2, 16〔泉治典・水落健治訳、『アウグスティヌス著作集23 ヨハネによる福音書講解説教(1)』教文館、1993年、40頁〕)。
 
イエス・キリストは今も生きて働いておられます。キリストはわたしたちにご自身を現し、今日も深く特別な愛をもってわたしたち皆に身をかがめ続けてくださいます。わたしたちを引きつける、このイエス・キリストの完全な人間性をあらためて仰ぎ見ることによって、初めてわたしたちはこのかたを輝かせ、わたしたちのきわめて貧しい人間性を満たしていただくことができます。わたしたちは確かな希望に出会うからです。あわれみそのものであるかたに確信を抱くからです。このあわれみは、わたしたちの限界を受け入れ、わたしたちが自分でゆるすことのできないことをもゆるすことを教えてくださるからです。「あなたの注ぐ激流のとどろきにこたえて、深淵は深淵に呼ばわる」(詩編42・8)。
 
イエスのみ心の祭日に伝統的に行われる「世界司祭の聖化のための祈願日」にあたり、祈りが活動に優先することを思い起こしたいと思います。活動が実りをもたらすかどうかは、祈りにかかっているからです。教会の宣教は大部分、一人ひとりの人の主イエスとの個人的な関係にかかっています。それゆえ、宣教は祈りによって養われなければなりません。「行動主義や世俗化の進行が見られます。そのため、ここでわたしは祈りの重要性をあらためて強調したいと思います」(教皇ベネディクト十六世回勅『神は愛(Deus
Caritas est
)』37)。うむことなく、イエスのあわれみにより頼もうではありませんか。わたしたちの罪の痛ましい傷をイエスに見ていただき、いやしていただこうではありませんか。それは、わたしたちのあがなわれた人間性の上に常に新たな驚くべき奇跡が行われるためです。
 
親愛なる兄弟である司祭の皆様。わたしたちは、わたしたちの間に示された神のあわれみの専門家です。このような専門家であることを通して、初めてわたしたちは、常に新たなしかたで傷ついた人間性をいやす神の道具となります。「キリストはわたしたちの人間性からわたしたちを救うのではありません。わたしたちの人間性を通してわたしたちを救うのです。キリストは世からわたしたちを救うのではありません。キリストは世に来られました。それは、キリストを通して世が救われるためです(ヨハネ3・17参照)」(教皇ベネディクト十六世「2006年12月25日の復活祭メッセージ(ローマと全世界へ)」)。最後に、わたしたちは叙階の秘跡を通して司祭となりました。叙階の秘跡は、神のあわれみの最高のわざであると同時に、神の特別な選びの最高のわざです。
 
第二に、わたしたちには、抑えることのできないキリストへの渇きとあこがれがあります。それゆえ、わたしたちの司祭職のもっとも本質的な要素は、乞い求めることです。乞い求めるとは、ひたすら、絶えず祈ることです。わたしたちはこの祈りを沈黙の祈願によって学びます。乞い求めることは常に聖人たちの生涯の特徴をなすものです。わたしたちはこの態度をいつも願い求めなければなりません。日々の試練によって清められながら、このようなキリストとの関係を自覚しなければなりません。わたしたちは毎日、「頭であるキリストの代理者として(in
Persona Christi Capitis)」行動する奉仕者であるわたしたちでさえも、試練を免れないことをあらためて思い知ります。キリストを知り、キリストと一致し続けたいという甘美なあこがれを抱かなければ、わたしたちは一刻もキリストのみ前で生きることができません。司祭であることを、避けることも代りにやってもらうこともできない重荷と考える誘惑に屈することのないようにしようではありませんか。そこから人は、司祭職を、定められた一貫した計画に従って「機械的に」果たせるかのように考えるからです。司祭職は召命であり、道であり、生き方です。この生き方を通して、キリストはわたしたちを救い、招き、今もご自分のそばにいるように招いてくださいます。

 
召命に関する唯一の適切な基準は、妥協を許さないことです。自分が不忠実であることを自覚しながらも、自分のすべてをささげること――このことは、祈りのうちに決断を更新することによって初めて可能となります。そしてキリストはこの決断を日々実現させてくださいます。妥協を許さず、完全にキリストに似たものとなることを通じて、司祭の独身制というたまものを受け入れ、生きなければなりません。キリストとの関係を実現する他のいかなる方法も、観念的なものとなる恐れがあります。
 
現代の司祭の奉仕職を取り巻く状況は大きな労力をわたしたちに課すことがあります。しかしこのような労力は、わたしたちを不安にさせるどころか、むしろ司祭であることにいっそう深く注意を払うようわたしたちを促します。司祭であることが神から与えられたものであることは、議論の余地がないからです。このことに関連して、世の考え方に反対する司祭職の特別な状況は、わたしたちが霊的生活を「高める」よう促します。そのためにわたしたちは、主のみに属する者であることを、ますます強い確信をもって、はっきりとあかししなければなりません。
 
わたしたちは、まずわたしたちを愛してくださったかたによって、自分のすべてをささげることを学びました。「わたしは、わたしを探し求めない人によって見いだされるために用意された。わたしは、わたしの名を呼び求めない国民にいった。『わたしはここにいる。わたしはここにいる』と」。聖体は優れた意味で完全な献身が行われる場です。なぜなら、「イエスが聖体によってわたしたちに与えるのは、『もの』ではなく、ご自身です。イエスはご自身のからだをささげ、ご自身の血を流します」(教皇ベネディクト十六世使徒的勧告『愛の秘跡(Sacramentum
Caritatis
)』7)。
 
親愛なる兄弟である司祭の皆様。毎日ミサをささげる務めを忠実に果たそうではありませんか。それは、司牧の務めや、ゆだねられた共同体の要求にこたえるためだけではありません。わたしたちは、ミサをささげることを、絶対的な意味で個人的に必要とするからです。それは、息をすることや、生活のためのあかりと同じです。ミサをささげることは、完全な意味で司祭として存在することの、唯一の十分な理由なのです。
シノドス後の使徒的勧告『愛の秘跡』の中で、教皇は聖アウグスチヌスのことばをあらためてはっきりとわたしたちに示します。「誰もまず礼拝することなしにこの肉を食べてはなりません。礼拝しなければ、わたしたちは罪を犯すことになります」(聖アウグスチヌス『詩編注解』:Enarrationes
in Psalmos
98, 9)。わたしたちは、毎日の聖体礼拝によってキリストに自分を見ていただき、自分を生かしていただかなければ、生きることも、自分の真実を見つめることもできません。「聖体に生かされた女性」であるマリアが御子の十字架のもとに「立つ(Stabat)」姿は、わたしたちに与えられた神のいけにえを仰ぎ見、礼拝するためのもっとも意味深い模範です。

 
宣教精神は教会のあり方にとって本質的です。それゆえ、宣教も司祭としてのあり方の中に本来含まれています。ですから宣教が緊急に必要とされていることはいうまでもないことです。わたしたちの司祭としてのあり方は、わたしたちの主に日々「回心」することによって形づくられ、更新されます。わたしたちは主との関係を絶えざる祈りによって培います。そこからただちに、この関係をわたしたちの周りにいるすべての人と分かち合う必要が生じます。実際、わたしたちは、日々願い求める聖性を、実りのない、抽象的なしかたで個人として受け入れるものと考えてはなりません。それはかならずキリストの聖性でなければなりません。この聖性はすべての人に伝えられます。「イエス・キリストとの交わりは、わたしたちを『すべての人のための存在』であるかたへと引き寄せます。そしてこれがわたしたちのあり方となります」(教皇ベネディクト十六世回勅『希望による救い(Spe
salvi
)』28)。
 
キリストが「すべての人のための存在」であることを、わたしたちは、三つの任務(Tria Muneraによって実現します。この三つの任務を通じて、わたしたちは司祭職の本性そのものを身に帯びるからです。わたしたちの奉仕職のすべてであるこれらの任務は、わたしたちを疎外するものでもなければ、さらに悪い意味で、わたしたちを単なる役職におとしめるものでもありません。むしろそれは、わたしたちがキリストに属する者であることを真の意味で表します。それはわたしたちがキリストとかかわるための場なのです。教え、統治し、聖化するためにわたしたちにゆだねられた神の民は、わたしたちを「わたしたちの生活」から引き離す存在ではありません。むしろ神の民はキリストのみ顔です。わたしたちはこのみ顔を日々仰ぎ見ます。花婿の愛する者の顔として、すなわち、キリストの花嫁である教会の顔として。わたしたちにゆだねられた神の民は、わたしたちが聖性に至るために通らなければならない道です。いいかえれば、この神の民という道を通して、キリストはわたしたちに父の栄光を現します。
 
「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、深い海に沈められるほうがましである。・・・・しかし、民全体を滅びヘと送る者は・・・・いかなる苦しみと罰を受けなければならないことであろうか」(聖ヨハネ・クリゾストモ『司祭職について』:De
sacerdotio
VI, 1498)。わたしたちはこれほど重大な責務を担い、自分の人生と救いのためにこれほど大きな責任を負っています。この責任において、キリストへの忠実と、魂のあがないのために必要とされることを「忠実に果たすこと」は一致します。このことを自覚するなら、与えられた恵みに関して疑いをはさむ余地はありません。わたしたちはただ、キリストの愛に可能な限り身をゆだねられるよう願い求めるしかないのです。それは、キリストがわたしたちを通して働いてくださるためです。わたしたちのうちに働くキリストに世を救っていただくか、わたしたちの召命の本質に背く危険を犯すか、そのどちらかしかないからです。親愛なる兄弟である司祭の皆様。献身の基準は、いつも新たに自分のすべてをささげることです。そうです。「五つのパンと二匹の魚」は、多くはありませんが、それがすべてなのです。神の恵みは、乏しいわたしたちから、神の民を満腹させる糧を造り出します。高齢や病気でも、日々、奉仕職を果たす司祭がいます。彼らは自らをキリストの受難と結びつけ、司祭としての生涯を教会のまことの善益と魂の救いのためにささげます。このような司祭はとりわけこの「完全な献身」にあずかります。

 最後に、聖なる神の母は、司祭生活全体にとって欠くことのできない基盤であり続けます。聖母との関係は敬虔な信心行に尽きるものではありません。聖母との関係は、わたしたちの生涯全体と、わたしたちの奉仕職全体を、終生おとめであるかたのみ手に絶えずゆだねることによって深められます。至聖なるマリアはまた、ヨハネと同じように、わたしたちをも、マリアの御子であり、わたしたちの主であるかたの十字架のもとに導きます。それは、マリアとともに神の限りない愛を仰ぎ見させるためです。「そこでこの地上にわれわれの生命そのもの(キリスト)がくだりたまい、われらの死をしのび、そののちに死を、あふれる生命によって殺した」(聖アウグスチヌス『告白』:Confessiones IV,
12〔山田晶訳、『世界の名著14』中央公論社、1968年、147頁〕)のです。
 
父である神は、わたしたちをあがなうための条件として、また、わたしたちの人間性を完成させ、御子の受肉を実現させるために、天使のお告げに対して、おとめであるかたが「おことばどおり、この身に成りますように(フィアット)」というのを待つことを選びました。キリストも、いわばご自分の生涯を母であるかたの愛に満ちた自由にゆだねることを選びました。「マリアはキリストを懐胎し、生み、育て、神殿で父に奉呈し、十字架上で死にたもう子とともに苦しむことによって、従順、信仰、希望、燃える愛をもって、人々の超自然的生命を回復するために、救い主のみわざにまったく独自な方法で協力された。このためにマリアは恩恵の世界においてわれわれにとって母である」(『教会憲章(Lumen
gentium
)』61)。
 
教皇聖ピオ十世はいいます。「あらゆる司祭職への召命は、神のみ心から来ますが、それは母のみ心を通って来るのです」。このことははっきりとした生物学的な意味での母性についてもいえますが、さまざまな形でキリストの召し出しに従う人が生まれる場合にもいうことができます。わたしたちは、霊的な母としての愛なしに司祭生活を送ることができません。聖なる母である教会全体の祈りに、すなわち、神の民の母としての愛に、信頼をもって自らをゆだねようではありませんか。わたしたちは神の民の牧者です。しかし、わたしたちを保護し、聖なる者とすることは、この神の民にゆだねられています。この根本的な支えを願い求めようではありませんか。
 
親愛なる兄弟である司祭の皆様。「24時間の永久聖体礼拝を中心とした祈りの運動」が緊急に必要とされています。「礼拝、感謝、賛美、祈願、つぐないの祈りが、絶えず地上のあらゆるところから、神にささげられるためです。それは何よりも、十分な数の司祭の身分への聖なる召命を呼び覚ますためです。そして、同時に、役務としての司祭職へとすでに召し出され、永遠の大祭司に似るように存在を造り変えられたすべての人を、神秘体としての教会において、いわば霊的な母としての愛と霊的に結びつけるためです。この運動は、キリストとその兄弟への優れた奉仕となります。キリストの兄弟である司祭は、頭であり、牧者であり、教会の花婿であるキリストを表すものとして、『教会の中に』立てられるばかりでなく、『教会に対して』も立てられます(教皇ヨハネ・パウロ二世使徒的勧告『現代の司祭養成(Pastores
dabo vobis
)』16参照)」(教皇庁聖職者省「書簡(2007年12月8日)」)。
 
霊的な母としての愛の別な形もあります。これは教会史の中で、選ばれた司祭たちとともにいつも静かに歩んできました。それは、わたしたちの奉仕職を特別な人に、すなわち奉献された魂に具体的な形でゆだねることです。この特別な人は、キリストに招かれ、必要な犠牲と避けがたい生涯の戦いとともに、自分をささげることを選びます。慈悲深いキリストのみ前に住んで、わたしたちの司祭生活のために執り成しの祈りをささげるためです。
 
わたしたちは、マリアの愛に満ちたみ顔を体現した、この霊的な母としての愛を祈り求めなければなりません。神のみがこの母としての愛を生み出し、支えることができるからです。このことに関連して、多くのすばらしい模範があります。たとえば、息子アウグスチヌスのために聖モニカが流した、恵みに満ちた涙です。モニカはアウグスチヌスのために「世の母親たちが息子のなきがらにそそぐ以上の涙を・・・・流していたのです」(聖アウグスチヌス『告白』:Confessiones III,
11〔前掲山田晶訳、126頁〕)。
 
エリーザ・ヴォーン(Eliza Vaughan)はもう一人のすばらしい模範です。ヴォーンは13人の子どもを産んで、主にゆだねました。8人の息子のうち6人が司祭となり、5人の娘のうち4人が修道女となりました。キリストは聖体の神秘のうちに驚くべきしかたで隠されています。キリストがわたしたちのそばに置いてくださった人々の力強い助けと祈りを願い求めることができなければ、真の意味でこのキリストに乞い求める者となることはできません。ですから、恐れずに、霊的な母としての愛に自分をゆだねようではありませんか。聖霊はかならずこの母としての愛をわたしたちに与えてくださいます。
 
幼いイエスの聖テレジアは、すべての司祭、とくに生温い司祭のために祈ることが何よりも必要であることを自覚していました。そこで聖テレジアは姉のセリーヌへの手紙にこう書いています。「人々の霊魂のために生きましょう。使徒となりましょう。とくに、司祭がたの霊魂を救いましょう。・・・・彼らのために祈りましょう。苦しみましょう。そうすれば、終わりの日に、イエズスさまは『感謝して』くださるでしょう」(幼いイエスの聖テレジア『手紙73』〔福岡女子カルメル会訳、『幼いイエズスの聖テレーズの手紙』中央出版社、1963年、182頁。ただし表記を一部改めた〕)。
 
使徒の元后であり、わたしたちのいとも優しいみ母である聖なるおとめの執り成しに身をゆだねようではありませんか。聖なるおとめとともにキリストを仰ぎ見ようではありませんか。自分のすべてが徹底的にキリストのものとなるよう絶えず努めながら。これこそわたしたちのあるべき姿です。
 
小教区司祭の守護聖人であるアルスの司祭ヨハネ・マリア・ビアンネのことばを思い起こそうではありませんか。「天国に一歩足を踏み入れながら、地上に戻って罪人の回心のために働くように命じられたなら、わたしは喜んで地上に戻ります。そして、そのために世の終わりまで地上にとどまり、真夜中も目覚めて今のように苦しまなければならないとしても、わたしは心からそうしますというでしょう」(Frere
Athanase, Proces de l’Ordinaire, p. 883)。
 
わたしたちは絶えず愛のために生涯をささげます。このわたしたちの生涯を通して、主がすべての人を、とくに病気の人、苦しむ人を導き、守ってくださいますように。

教皇庁聖職者省長官
クラウディオ・フンメス枢機卿
同局長、ヴィットリアーナ名義大司教
マウロ・ピアチェンツァ

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