教皇ベネディクト十六世の2008年5月11日の「アレルヤの祈り」のことば 聖霊降臨

教皇ベネディクト十六世は、聖霊降臨の祭日の5月11日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「アレルヤの祈り」(復活祭から聖霊降臨の主日まで「お告げの祈り」の代わりに唱えられる祈り)を行 […]

教皇ベネディクト十六世は、聖霊降臨の祭日の5月11日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「アレルヤの祈り」(復活祭から聖霊降臨の主日まで「お告げの祈り」の代わりに唱えられる祈り)を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイタリア語)。
「アレルヤの祈り」を唱えた後、教皇はイタリア語で、内紛が続くレバノンにおける和平を求める次の呼びかけを行いました。
「わたしはレバノンの情勢を深い懸念をもって見守っています。レバノンでは政治活動が停滞する中で、ことばによる暴力が続き、その後、武力衝突が起こり、多くの死者と怪我人が生じました。この数時間は緊張が弱まったとはいえ、今日わたしは、レバノン国民に対して、攻撃的な対立の論理を捨てるよう勧告しなければならないと考えます。攻撃的な対立の論理は、愛するレバノンに取り返しのつかない損害を与える可能性があるからです。
  対話と相互理解と合理的な妥協の追求が、レバノンの政治制度を回復し、尊厳のある、明日への希望に満ちた日常生活のために必要な安全をレバノン国民にもたらすための唯一の道です。
  レバノンの聖母の執り成しによって、レバノンが勇気をもって自らの召命にこたえることができますように。レバノンの召命とは、中東と全世界に対して、人々の平和的で建設的な共存が現実に可能であることを表すしるしとなるということです。シノドス後の使徒的勧告『レバノンのための新たな希望』(同1参照)が述べるように、レバノンを構成するさまざまな共同体は、同時に『豊かさと独創性と困難となっています。しかし、レバノンを生かすことはレバノンの住民全員に共通の責務です』。聖霊降臨を祈るおとめマリアとともに、全能の神に祈ろうではありませんか。どうか、一致と和合の霊である聖霊を豊かに注いでください。聖霊はすべての人に平和と和解の思いを生み出すからです」。
レバノンでは首都ベイルートで5月7日(水)に始まった、与党を支持するスンニ派勢力と親シリア・イランのイスラム教シーア派原理主義組織ヒズボラなど野党武装勢力の衝突により、13日までに少なくとも59人が死亡、約200人が負傷しています。
この日午前10時からサンピエトロ大聖堂で、教皇は聖霊降臨の祭日のミサを司式しました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  今日わたしたちは聖霊降臨の祭日を祝います。聖霊降臨(五旬祭)は古代ユダヤ教の祭です。この祭は、シナイ山で神と神の民の間で結ばれた契約を記念しました(出エジプト19章参照)。この祭は、イエスの復活後50日後のこの日起こったことによって、キリスト教の祭にもなりました。使徒言行録に書かれているとおり、弟子たちが二階の広間で一つになって祈っていると、聖霊が風と炎のように力強く彼らの上に降りました。すると弟子たちは、多くのことばで、キリストの復活に関する福音を告げ知らせ始めました(使徒言行録2・1-4参照)。それは「聖霊による洗礼」でした。洗礼者ヨハネはこの「聖霊による洗礼」をすでにあらかじめ告げました。洗礼者ヨハネは群衆に向かっていいます。「わたしは・・・・あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来るかたは、わたしよりも優れておられる。・・・・そのかたは、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(マタイ3・11)。実際、イエスの宣教全体は、人々に聖霊を与え、ご自分のよみがえりの「洗い」によって洗礼を授けることを目指していました。それはイエスが栄光を与えられたとき、すなわち、イエスの死と復活によって実現します(ヨハネ7・39参照)。こうして神の霊は、すべての人の心を清め、悪の火を消し、世に神の愛の炎を燃え上がらせることのできる滝のように、世に豊かに注がれました。
  使徒言行録は、聖霊降臨がイエスの約束の成就であり、したがって、イエスの宣教全体の完成であることを示します。イエス自身、復活の後、弟子たちにエルサレムにとどまっているように命じました。イエスはいいます。「あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」(使徒言行録1・5)。続けてイエスはいいます。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒言行録1・8)。それゆえ聖霊降臨は、特別な意味で、教会の洗礼です。教会は、エルサレムの通りから出発して、人類のさまざまなことばで驚くべき説教を行うという、全世界への宣教を始めるからです。この聖霊による洗礼において、個人の次元と共同体の次元を切り離すことはできません。「わたし」という弟子と、「わたしたち」である教会とは切り離すことができないのです。聖霊は個人を聖別すると同時に、この個人をキリストの神秘体の生きた部分とします。そして、キリストの愛をあかしする使命にあずからせます。これが、洗礼と堅信という、キリスト教入信の秘跡によって実現されることです。2008年「世界青年の日メッセージ」の中で、わたしは若者の皆様をこう招きました。自分の生活の中で聖霊がともにいてくださることを再発見してください。そして、洗礼と堅信の秘跡の重要性を再発見してくださいと。今日わたしはこの招きをすべての人に申し上げたいと思います。親愛なる兄弟姉妹の皆様。聖霊によって洗礼を受けることのすばらしさを再発見しようではありませんか。洗礼と堅信が、つねに生き生きとした恵みの源であることをあらためて自覚しようではありませんか。
  おとめマリアに祈り願いたいと思います。どうか今日も教会が新たな聖霊降臨の恵みを得ることができますように。この聖霊降臨の恵みが、すべての人、とくに若者のうちに、福音を生き、あかしする喜びを呼び覚ましてくださいますように。

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