教皇ベネディクト十六世の137回目の一般謁見演説 偽ディオニュシオス・アレオパギテス

5月14日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の137回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2007年3月7日から開始した教父に関する講話の40回目として、「偽ディオニュ […]

5月14日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の137回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2007年3月7日から開始した教父に関する講話の40回目として、「偽ディオニュシオス・アレオパギテス」について解説しました。以下はその全訳です。
謁見の終わりに、教皇は、最近、中国の四川省を襲った大地震の被災者のために祈るよう呼びかけました。イタリア語で行われた教皇の呼びかけは次のとおりです。
「このときにあたり、わたしの思いは大きな地震の被害に遭った中国の四川省と、隣接する省の人々に向かいます。この大地震は、多くの死者と、数多くの不明者と、甚大な損害を生み出しました。皆様にお願いします。いのちを失ったすべての人のためにわたしとともに心から祈ってください。わたしはこのような大きな破壊をもたらした災害で苦しむ人々に霊的に寄り添います。神がこの人々の苦しみを和らげてくださるよう祈り求めたいと思います。主が被災者の緊急支援に努めるすべての人々を支えてくださいますように」。
5月12日(月)に中国・四川省で起きたマグニチュード7.9の大地震では、15日までに1万5000人近くの死者が確認されたほか、なお2万5000人以上が生き埋めとなったままです。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  教父に関する連続講話を行っています。今日わたしはきわめて謎めいた人物についてお話しします。この人物は6世紀の神学者で、名前は知られておらず、ディオニュシオス・アレオパギテス(Dionysios Areopagites 500年頃)という偽名で著述を行いました。この偽名によって、著者は、たった今朗読された聖書の箇所を暗示します。すなわち、ルカが使徒言行録17章で述べた出来事です。この箇所でルカは、パウロがアテネのアレオパゴスでギリシアの知的世界の選ばれた人々に向けて説教を行ったことについて語ります。しかし、結局、パウロのことばを聞いた大部分の人々は興味をもたず、パウロをあざ笑いながら立ち去りました。けれども、ルカがわたしたちに語るように、ある、ほんの一握りの人がパウロに近づき、心を開いて信じました。福音書記者ルカは二人の名前をわたしたちに伝えます。アレオパゴスの議員ディオニシオと、ダマリスという婦人です。
  5世紀後、わたしたちの取り上げる著作の著者は、ディオニュシオス・アレオパギテスという偽名を選びました。ですから、この著者は、ギリシアの知恵を福音への奉仕のために用いることを望んだことがわかります。すなわち彼は、ギリシアの文化・知性と、キリストを告げ知らせることとの出会いを進めようとしたのです。著者はディオニシオが目指したことを望みました。すなわち、ギリシア思想を聖パウロの宣教と出会わせることです。ギリシア人のディオニシオは、聖パウロの弟子となり、そこからキリストの弟子となりました。
  著者はなぜ本名を隠して、偽名を用いたのでしょうか。その答えの一部はすでに示したとおりです。すなわち、自分の思想の根本的な意図を示したかったためです。しかし、著者名が不詳であることと、偽名を用いたことについて、2つの説が唱えられています。一つの説は、これは意図的な偽造だといいます。著者は自分の著作を1世紀の聖パウロの時代にさかのぼらせることによって、著作にいわば使徒的な権威を与えようとしたというのです。この説はわたしには信じがたいものです。しかし、この説よりもよい、もう一つの説があります。すなわち、著者は謙遜のわざを実践することを望んだというものです。著者は自分の名前に名誉を与えず、著作によって自分の名を残すことも望みませんでした。むしろ、真の意味で福音に仕えようとしました。すなわち、自分自身による個人的な神学ではない、教会の神学を造り出そうとしたのです。実際、著者は、たしかに6世紀に書かれたものだとはいえるものの、当時の特定の人物に帰することのできない、一つの神学を構築することができました。それはいわば「個人の手を離れた」神学です。つまり、この神学は共通の思想と言語を表現しています。当時はカルケドン公会議(451年)後の激しい論争の時代でした。しかし、著者は『第7書簡』の中でいいます。「わたしは論争を望みません。ただ真理について語り、真理を追求するだけです」。真理の光は、それ自体によって誤謬を滅ぼし、善を輝かせます。著者はこの原則によってギリシア思想を清め、これを福音と関連づけました。著者が『第7書簡』で述べるこの原則は、真の対話の精神の表れでもあります。分裂をもたらすことを求めず、真理そのもののうちに真理を求める――そうすれば、真理は光り輝き、誤謬を滅ぼします。
  それゆえ、著者の神学はいわば「個人を超えた」、まことに教会的な神学です。にもかかわらず、わたしたちはそれを6世紀に位置づけることができます。なぜでしょうか。著者は、彼が福音に仕えさせたギリシア精神を、485年にアテネで死んだプロクロス(Proklos 410/412-485年)の著作のうちに見いだしたからです。プロクロスは後期プラトン主義に属します。後期プラトン主義は、プラトン哲学を一種の宗教に造り変えた思潮です。この思潮が最終的に目指したのは、ギリシアの多神教の優れた護教論を造り出し、キリスト教の成功の後に、古代ギリシア宗教に回帰することでした。後期プラトン主義は、実際に、神が宇宙の中で働く力であることを示そうとしました。そこから次の結論が導かれます。すなわち、多神教は、唯一の造り主である神を信じる一神教よりも真実だということです。プロクロスが示すところによれば、神秘的な力である神による、偉大な宇宙の体系が存在します。この神秘的な力によって、人間は、この神的な宇宙の中で、神に近づくことができます。しかし、プロクロスは、単純な人々のための道と、知恵ある人々のための道を区別します。単純な人々は、真理の頂点に上ることができません。このような人々はある種の儀式を行うだけで十分です。一方、知恵ある人々は、純粋な光に達するために自らを清めなければなりません。
  おわかりのように、この思想はきわめて反キリスト教的なものです。それは、キリスト教の勝利に対する、遅まきながらの反動です。そこでは、すでに偉大な哲学者プラトンのキリスト教的な使用が行われていたにもかかわらず、プラトンが反キリスト教的に用いられます。興味深いことに、偽ディオニュシオスは、キリストの真理を示すためにこのような思想をあえて用いました。それは、この多神教的な宇宙論を、神によって造られたものとしての宇宙観へと造り変えるためでした。この神の秩序ある宇宙においては、すべての力が神を賛美し、偉大な調和、すなわち宇宙の和合を示します。この和合は、セラフィムと天使と大天使から始まり、人間とすべての被造物に及びます。これらすべてのものは、ともに神の美しさを映し出す、神への賛美だからです。こうしてディオニュシオスは、多神教的世界観を、造り主への被造物の賛美へと造り変えました。そこからわたしたちは、ディオニュシオスの思想の本質的な特徴を見いだすことができます。ディオニュシオスの思想は、何よりもまず宇宙の行う賛美です。全被造物が神を語り、神を賛美します。被造物が神への賛美であるために、偽ディオニュシオスの神学は典礼的な神学となります。わたしたちは、考察によってだけでなく、何よりも賛美することによって神を見いだすのです。典礼は、わたしたちが造り出したものでも、一定の時間、宗教体験を行うためにいわば発明したものでもありません。典礼とは、被造物の聖歌隊とともに歌い、宇宙という現実そのものの中に入ることにほかなりません。典礼はたしかに教会的なものにすぎませんが、こうして広く偉大なものとなり、わたしたちを全被造物の言語と結びつけます。ディオニュシオスはいいます。わたしたちは神について抽象的なしかたで語ることはできません。神について語るとは――ディオニュシオスはギリシア語でいいます――「ヒュムネイン(賛美すること)」です。すなわち、被造物の偉大な歌声によって神に賛歌をささげることです。この被造物の偉大な歌声が、典礼の賛美のうちに映し出され、実現します。ディオニュシオスの神学は宇宙的、教会的、典礼的です。しかし、たとえそうだとしても、それはまたきわめて個人的なものでもあります。ディオニュシオスは最初の偉大な神秘神学を造り出しました。さらに、「神秘的」ということばは、ディオニュシオスによって新たな意味をもつようになりました。この時代まで、キリスト教徒にとって、このことばは「秘跡的」と同じ意味でした。「ミュステーリオン(神秘)」に属するものは、秘跡的だったのです。ディオニュシオスによって、「神秘的」ということばはもっと個人的で内面的なものとなりました。それは魂の神への道を表すことになったのです。どうすれば神を見いだすことができるでしょうか。ここでわたしたちは、ディオニュシオスにおけるギリシア哲学と、キリスト教、とくに聖書の信仰の対話のうちに、あらためて重要な要素を認めます。プラトンや偉大な哲学者が神について述べたことは、はっきりと高められ、より真実なものとなりました。聖書はきわめて「野蛮」で、単純で、(現代のことばでいえば)無批判的なものに思われるかもしれません。しかし、ディオニュシオスはまさにこのことが必要だと考えました。なぜなら、それによってわたしたちは、神についてのもっとも崇高な観念も、そのまことの偉大さに達しないことを理解できるからです。いかなる崇高な観念も、つねに不十分なのです。実際わたしたちは、聖書の比喩によって、神があらゆる観念を超えることを理解するようになります。わたしたちは、単純な比喩の中に、偉大な観念によるよりも真実を見いだします。神のみ顔とは、わたしたちは神がいかなるかたであるか言い表しえないということです。そこでわたしたちは――偽ディオニュシオス自身も――「否定神学」について語ることになります。神がほんとうにいかなるかたであるかを言い表すよりも、神が何でないかを述べることのほうが容易です。このような比喩を通じて初めて、わたしたちは神のまことのみ顔に触れることができます。また、この神のみ顔はきわめて具体的です。それはイエス・キリストだからです。ディオニュシオスはプロクロスに従って、天上の聖歌隊の調和を示しました。そこではあたかも、すべての者がすべての者と支え合っているかのように思われます。そうだとしても、神へと歩むわたしたちが、神からきわめて遠いこともまた、依然として真実です。偽ディオニュシオスはわたしたちに示します。最終的に、神への道は神ご自身です。神ご自身が、イエス・キリストのうちに、わたしたちに近づいてくださったからです。
  こうして、偉大な神秘神学は、典礼の解釈と、イエス・キリストについての考察によって、きわめて具体的なものとなります。これらすべてのことによって、ディオニュシオス・アレオパギテスは中世神学全体に、すなわち、東方教会と西方教会の神秘神学全体に大きな影響を与えました。ディオニュシオスは、13世紀、とくにボナヴェントゥラ(Bonaventura 1217/1221-1274年)によっていわば再発見されました。偉大なフランシスコ会神学者のボナヴェントゥラは、この神秘神学のうちに、聖フランシスコ(Francesco 1181/1182-1226年)の、きわめて素朴でありながら深遠な遺産を解釈するための手段となる概念を見いだしたからです。ディオニュシオスと同じように、貧しい人フランシスコはいいます。最終的に、理性よりも愛がものごとを見究めます。愛の光があるところでは、理性の暗闇は消え去ります。愛はものごとを見る目です。そして、経験は考察よりも多くのことをわたしたちにもたらします。ボナヴェントゥラは、経験とはいかなるものであるかを、聖フランシスコのうちに見いだしました。経験とは、日々、へりくだって、現実を歩むことです。キリストの十字架を受け入れながら、キリストとともに歩くことです。この貧しさと謙遜のうちに、すなわち、教会の中でも体験された謙遜のうちに、わたしたちは神を経験します。この経験は、考察を通じて得られるものよりも崇高です。この経験によって、わたしたちは実際に神のみ心に触れるからです。
  現代において、ディオニュシオス・アレオパギテスは新たな意味をもちます。ディオニュシオスは、現代におけるキリスト教とアジアの神秘神学の間の対話の偉大な仲介者となるからです。よく知られているように、アジアの神秘神学の特徴は、神がいかなるものであるかを語ることはできないという確信です。神について語るには、否定的な形式によるほかありません。神については、「・・・・でない」かたとして語ることしかできません。この「無」の経験に入ることによって、初めて神に達することができます。ここに、ディオニュシオスの思想とアジア宗教の思想の類似点があります。ディオニュシオスは、かつてギリシア精神と福音の間の仲介者となったのと同じように、現代においても仲介者となることができるのです。
  その際、対話が表面的なものとならないように気をつけなければなりません。深くキリストと出会うことによって、対話のための広い場も開けます。真理の光を見いだすとき、人はそれがすべての人のための光であると悟ります。そのとき、論争はやみます。互いに理解し合うこと、あるいは、少なくとも、互いに語り合い、近づくことができるようになります。対話への道はまさに、神との深い出会いによって、すなわち、真理の経験のうちに、キリストを通して神に近づくことです。真理の経験はわたしたちの心を光へと開き、わたしたちが他の人と出会う歩みを助けてくれます。真理の光は、愛の光です。結局、ディオニュシオスはわたしたちにいいます。経験の道を歩みなさい。すなわち、日々、へりくだって、信仰を経験しなさい。そうすれば、心は開かれ、見ることができ、理性を照らすこともできるようになります。それは、理性が神の美しさを仰ぎ見ることができるようになるためです。主に祈り求めようではありませんか。主の助けによって、わたしたちが今日も、現代の知恵を福音への奉仕のために用いることができますように。そして、キリストのうちに神を信じ、神と出会うことのすばらしさをあらためて見いだすことができますように。

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