教皇ベネディクト十六世の139回目の一般謁見演説 教皇大聖グレゴリオ

5月28日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の139回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2007年3月7日から開始した教父に関する講話の42回目として、「教皇大聖グレゴリオ」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  先週の水曜日に、わたしは、西方教会ではあまり知られていない教父ロマノス・メロドスについてお話ししました。今日わたしは、教会史上最大の教父の一人であり、西方教会の4教会博士の一人である教皇聖グレゴリオ(Gregorius Magnus 540頃-604年、教皇在位590-没年) を紹介したいと思います。グレゴリオは590年から604年までローマ司教を務めました。グレゴリオは、伝統的に名づけられた「大(Magnus)」という称号にふさわしい人物です。グレゴリオはまことに偉大な教皇であり、偉大な教会博士です。グレゴリオは540年頃、アニキウス家(gens Anicia)の富裕な貴族の家柄に生まれました。彼は高貴な血統によってだけでなく、キリスト教信仰への忠実と、使徒座への奉仕によっても傑出していました。グレゴリオ以前にアニキウス家出身の二人の教皇がいます。グレゴリオの高祖父(曽祖父の父)フェリクス三世(Felix III 在位483-492年)と、アガペト(Agapetus 在位535-536年)です。グレゴリオが育った家はスカウルス丘(Clivus Scauri)に建っていました。家は古代ローマの偉大さとキリスト教の霊的な力を示す壮麗な建物に囲まれていました。さらに、グレゴリオに高邁なキリスト教精神を吹き込んだのは、ともに聖人として崇敬されている、両親のゴルディアヌス(Gordianus)とシルウィア(Silvia)、そして、父方の叔母のエミリアナ(Emiliana)とタルシリア(Tarsilia)の模範です。エミリアナとタルシリアは、家庭内で、奉献されたおとめとして生活し、ともに祈りと禁欲の道を歩みました。
  ほどなくグレゴリオは、父と同じ行政官としての職務を開始しました。572年、グレゴリオは行政官の長であるローマ市長官となりました。この職務は、当時の悲惨な状況から、難しいものでした。そこでグレゴリオはあらゆる種類の困難な行政問題に取り組み、将来の課題のための光を見いだしました。グレゴリオには秩序と規律についての特別に深い感覚が備わっていました。教皇になると、グレゴリオは司教たちにこう勧めました。公務員に見られる勤勉さと法の尊重を、教会を統治する際の模範としなさいと。公職の生活はグレゴリオの心を満たしませんでした。間もなくグレゴリオは、公務を離れて自宅に退き、修道生活を始めることを決断しました。そのためにグレゴリオは家族の家をチェリオの聖アンデレ修道院に変えました。グレゴリオは修道生活の中で、主と絶えず対話し、主のことばに耳を傾ける生活を送りました。グレゴリオはいつもこの時期を懐かしみます。グレゴリオはこの思いを説教の中で繰り返し表明しています。司牧のために心を砕くただ中でも、グレゴリオは著作の中で、修道生活を送った頃のことを、幸いな時期として何度も思い起こしました。修道生活において、グレゴリオは神に精神を集中し、祈りに身をささげ、落ち着いた心で勉学に励みました。こうしてグレゴリオは聖書と教父に関する深い知識を得、後にこの知識を著作の中で用いることができました。
  しかし、グレゴリオの隠世生活は長くは続きませんでした。グレゴリオは深刻な問題を抱えた時期にあって公職を務めることによって貴重な経験を積みました。この職務の中で東ローマ帝国とも関係をもちました。また彼はだれからも名声を得ていました。そこで教皇ペラジオ(Pelagius II 在位579-590年)はグレゴリオを助祭に任命し、(現代の教皇大使にあたる)教皇特使(apocrisiarius)としてコンスタンチノープルに派遣しました。それは、単性説論争の最後の影響を克服し、また何よりもランゴバルド族の侵入に対抗するために皇帝の支持を得るためでした。コンスタンチノープル滞在中、グレゴリオは修道士のグループとともに修道生活を再開しました。このコンスタンチノープル滞在は、グレゴリオにとってきわめて重大な意味をもちました。なぜなら、グレゴリオは、東ローマ世界を直接に体験し、またランゴバルド族の問題に直面したからです。ランゴバルド族問題は後に、教皇となったグレゴリオの能力と力を厳しく試すことになります。数年後、教皇はグレゴリオをローマに呼び戻し、秘書に任命しました。それは困難な時期でした。長雨が続き、河川が氾濫し、飢饉(ききん)がイタリアの多くの地域、またローマをも襲いました。ついにペストまでもが流行し、多くの死者を出しました。死者の中には教皇ペラジオ二世も含まれました。司祭、民衆、元老院は一致して、ペラジオ二世後のペトロの座の後継者として、ほかならぬグレゴリオを選びました。グレゴリオはこれを拒み、逃亡まで試みましたが、すべては効を奏さず、ついにグレゴリオは教皇職を受け入れました。590年のことでした。 
  これらの出来事を神のみ旨と知った新教皇グレゴリオは、すぐに力強く仕事にとりかかりました。グレゴリオは初めから、自分が立ち向かわなければならない現実についてのたぐいまれな明確な認識と、教会と公共のことがらを扱うための並外れた能力と、職務上なすべき勇気ある決断を行う際の不変の平衡感覚を示しました。約800通に及ぶ『書簡摘要』(Registrum epistularum)のおかげで、グレゴリオの統治に関する詳細な記録が残されています。『書簡摘要』は、執務室に押し寄せる複雑な問題にグレゴリオが日々取り組むさまを示しています。これらの問題は、司教、修道院長、聖職者(clerici)、またさまざまな職位の行政官からもたらされました。当時、イタリアとローマを悩ませた問題のうち、国家にとっても教会にとってもとくに重大だったのは、ランゴバルド問題でした。この問題の真に平和的な解決を見いだすために、教皇グレゴリオはあらゆる努力を払いました。東ローマ皇帝は初めから、ランゴバルド族は粗暴な略奪者にすぎず、これを打ち負かし、滅ぼさなければならないと考えました。これとは異なり、聖グレゴリオはよい羊飼いの目でランゴバルド族に接しました。聖グレゴリオは彼らに救いのことばを告げ知らせようと望み、将来の平和に向けた友好関係を築こうとしました。この平和は、相互の尊重と、イタリア人と東ローマ皇帝とランゴバルド族の平和的共存に基づきます。グレゴリオは、新しい民族とヨーロッパの新たな政治勢力の回心を望みました。スペインの西ゴート族、フランク族、サクソン族、ブリタニアへの移住者、そしてランゴバルド族は、グレゴリオの福音宣教の特別な対象でした。昨日わたしたちはカンタベリーの聖アウグスチヌス(Augustinus episcopus Cantuariensis 605年頃没)を記念しました。カンタベリーの聖アウグスチヌスは、グレゴリオがイングランドへの福音宣教のために派遣した修道士のグループの指導者です。
  教皇グレゴリオは、まことの平和をもたらす人として、ローマとイタリアに現実の平和を実現するよう心から努めました。そのために教皇はランゴバルド王アギルルフ(Agilulf 在位591-615/616年)と緊密な交渉を行いました。この交渉は、約3年間続いた(598-601年)休戦期間をもたらしました。その後、603年に、より安定した休戦協定を結ぶことができました。こうしたよい結果が生み出されたのは、この間、教皇グレゴリオが王妃テオデリンデ(Theodelinde)と並行して接触したおかげでした。テオデリンデはバイエルンの王女で、他のゲルマン民族の王族と異なり、カトリック信者でした。それもきわめて敬虔なカトリック信者でした。
  教皇グレゴリオが王妃テオデリンデに送った一連の書簡が残っています。これらの書簡の中でグレゴリオは王妃への敬意と友愛を示しています。テオデリンデは王を少しずつカトリック信仰へと導くことに成功しました。こうして彼女は平和への道を準備したのです。教皇も、テオデリンデがモンツァに建てたサン・ジョヴァンニ・バッティスタ聖堂のために、テオデリンデに聖遺物を贈りました。また、王妃の息子アダルヴァルド(Adalwald 602年生まれ)の誕生と洗礼の際に、祝いのことばと、同じ聖堂のための高価な贈り物を送りました。王妃テオデリンデの行動は、教会史における女性の重要性のすばらしいあかしです。要するに、グレゴリオがつねに目指したのは次の3つのことでした。すなわち、イタリアにおけるランゴバルド族の拡大を阻むこと。テオデリンデを教会の異端の影響から守り、カトリック信仰を強めること。そして、ランゴバルド族と東ローマ帝国を仲裁することです。それは、イタリア半島の平和を保障し、ランゴバルド族への福音宣教活動を発展させることにもなる、協定を結ぶためです。それゆえ、複雑な状況の中でグレゴリオがつねに目指した目的は次の2つです。すなわち、政治・外交的な次元での協調を推進すること。そして、諸民族にまことの信仰を伝えることです。
  聖グレゴリオは、純粋に霊的・司牧的な活動だけでなく、さまざまな社会事業を積極的に推進しました。イタリア、とくにシチリアにローマ聖座が所有する莫大な土地の収益によって、グレゴリオは小麦を購入して分配し、貧しい人を援助し、困窮した司祭、修道者を助け、ランゴバルド族に捕らえられた市民の身代金を支払い、休戦・停戦を実現しました。さらにグレゴリオは、ローマでも、イタリアの他の地域でも、熱心に統治組織を回復するよう努め、そのために詳細な指示を与えました。それは、教会の維持と世における福音宣教活動のために有用な教会財産を、完全な正義に基づきながら、公正とあわれみの原則に従って管理するためです。グレゴリオはこう命じました。教会が所収する土地の使用人の横暴から小作人を守りなさい。不正を行ったときはすぐに弁償しなさい。それは、不誠実な富によってキリストの花嫁の顔が汚されないためです。
  グレゴリオは健康状態が悪く、しばしば何日も床に伏していなければならないことがありました。にもかかわらず、彼はこのように精力的に活動したのです。修道生活を送った数年間に実践した断食のせいで、消化器官に重大な問題が生じていました。さらにグレゴリオは声が小さかったので、ローマの聖堂の信者がグレゴリオのいうことを聞けるように、しばしば助祭に頼んで自分の説教を朗読してもらわなければなりませんでした。それでもグレゴリオはできるかぎり祭日には荘厳ミサ(Missarum sollemnia)を祝いました。そして、その際、自ら神の民の前に姿を見せました。神の民はグレゴリオを心から愛しました。彼らはグレゴリオのうちに、自分たちに確信を与えてくれる権威の基準を見いだしたからです。すぐに人々がグレゴリオに「神の執政官(consul Dei)」という称号を与えたのは偶然ではありません。グレゴリオはきわめて困難な状況の中で活動しなければなりませんでした。しかし彼は、聖なる生活と豊かな人間性によって、信者の信頼を得、自分の時代と未来のためにまことに偉大な実りを残すことができました。グレゴリオは神に満たされた人でした。グレゴリオの心の奥深くにはつねに、神の望みが生きていました。だからこそグレゴリオはいつも隣人のそば近くにいて、当時の人々の求めにこたえたのです。荒廃と絶望の時代の中で、グレゴリオは平和をつくり、希望を与えることができました。この神の人は、平和のまことの源泉のありかをわたしたちに示します。この平和のまことの源泉が、まことの希望を生み、そこから、現代のわたしたちをも導いてくれるのです。

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