教皇ベネディクト十六世の2008年6月1日の「お告げの祈り」のことば イエスのみ心

教皇ベネディクト十六世は、年間第9主日の6月1日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイタリア語)。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  6月の最初の日と重なる今日の主日に、わたしは、今月が伝統的にイエスのみ心にささげられていることを思い起こしたいと思います。イエスのみ心はキリスト教信仰の象徴です。とくに民衆、神秘家、神学者はこのイエスのみ心を愛してきました。なぜなら、イエスのみ心は、単純で真実なしかたで愛の「福音」を表し、受肉とあがないの神秘を要約するからです。わたしたちは先週の金曜日(5月30日)にイエスのみ心の祭日を祝いました。イエスのみ心の祭日は、復活節の後、三位一体とキリストの聖体に続いて3番目に、そして最後に祝われる祭日です。これらの連続して祝われる祭日から、わたしたちは中心へと向かう動きに思いを致します。すなわち、神ご自身によって導かれる、霊の動きです。実際、神はその限りない愛の広がりから、限界のある歴史と人間の条件に入ることを望まれました。すなわち神は、からだと心を受け取りました。こうしてわたしたちは限界のあるもののうちに無限のものを仰ぎ見、これと出会うことができるようになりました。すなわち、ナザレの人イエスの人間の心のうちに、目に見えず、言い表しがたい神秘を仰ぎ見、この神秘と出会うことができるようになりました。愛をテーマとしたわたしの最初の回勅において、出発点となったのは、ヨハネが福音書の中で述べる、キリストの刺し貫かれた脇腹へのまなざしでした(ヨハネ19・37、教皇ベネディクト十六世回勅『神は愛』12参照)。この信仰の中心は、わたしが2番目の回勅のテーマとして取り上げた、わたしたちを救う希望の源泉でもあります。
  すべての人は自分の人生の中でこの「中心」を必要としています。この「中心」は真理と善の源です。わたしたちは、移り変わるさまざまな状況と日々の労苦の中で、この源から水を汲みます。わたしたちは皆、立ち止まって沈黙するとき、自分の心の鼓動だけでなく、もっと深いところで、わたしたちがより頼むことのできる存在の鼓動を感じる必要があります。わたしたちはこの鼓動を、信仰によって、きわめて現実的なものとして感じることができます。それは世の心として、わたしたちとともにいてくださるキリストだからです。それゆえわたしはすべての皆様にお願いします。6月中、キリストのみ心の信心を新たにしてください。そのために、伝統的な日々の奉献の祈りを用いるとともに、わたしが全教会に示した意向にも心をとめてください。典礼は、イエスの聖なるみ心とともに、マリアの汚れないみ心をもあがめるようわたしたちを招きます。つねに大きな信頼をもってマリアに自分をゆだねようではありませんか。わたしは、自然災害の被害を受けた中国とミャンマーの人々と、人間の歩みの特徴である、さまざまな苦しみ、病気、物質的・精神的な困窮のうちに過ごす人々のために、あらためておとめであるかたの母としての執り成しを願い求めます。

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