教皇ベネディクト十六世の2008年6月8日の「お告げの祈り」のことば マタイの召命

教皇ベネディクト十六世は、年間第10主日の6月8日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイタリア語)。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  今日の主日のことばの典礼の中心にあるのは、預言者ホセアのことばです。イエスは福音の中でこのことばをあらためて取り上げます。「わたしが喜ぶのは愛であって、いけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない」(ホセア6・6)。これは、わたしたちを聖書の中心へと導く、鍵となることばです。イエスは、マタイの召命との関連で、このことばを自分のものとして用いました。マタイは「徴税人」を職業としていました。「徴税人」とは、ローマ帝国当局のために税金を集める人です。そのためにユダヤ人はマタイを公の罪人と考えました。イエスは収税所に座っていたマタイを招いて――この状況はカラヴァッジョ(1573-1610年)の有名な絵によく描かれています――、弟子たちとマタイの家に行き、他の徴税人たちとともに一緒に食事をしました。これを見てつまずいたファリサイ派の人々に対して、イエスはいいます。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。・・・・わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9・12-13)。旧約と新約のつながりにつねに注目していたマタイは、ホセアの預言をイエスの口から語らせます。「『わたしが求めるのはあわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい」。
  預言者のこのことばはたいへん重要な意味をもちました。そこで主は別のときに、安息日を守ることとの関連で、それをあらためて引用します(マタイ12・1-8参照)。そこでも主は自らの責任で律法を解釈します。こうして主はご自分が律法そのものを制定した「主」であることを明らかにします。ファリサイ派の人々に対して主はさらにいいます。「もし、『わたしが求めるのはあわれみであって、いけにえではない』ということばの意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人をとがめなかったであろう」(マタイ12・7)。それゆえわたしたちは、このホセアの預言のうちに、人となったみことばであるイエスを、いわば完全な意味で「再発見」します。イエスはこの預言を心からご自分のものとし、自らの行いによって預言を実現しました。それによって、民の指導者の神経を逆なでする危険を犯すことになってもです。この神のことばは、福音を通してわたしたちに伝えられました。これはキリスト教のメッセージ全体のまとめです。すなわち、真の宗教は、神への愛と隣人への愛のうちにあります。このことこそが、礼拝とおきてを守ることに価値を与えるのです。
  今、おとめマリアに向かい、その取り次ぎを祈り願いたいと思います。どうかわたしたちがいつもキリスト教的生活を生きる喜びを味わうことができますように。あわれみの母である聖母がわたしたちのうちに、神に自分をゆだねる子としての心を燃え上がらせてくださいますように。神は限りないあわれみだからです。聖母の助けによって、聖アウグスチヌス(354-430年)が『告白』の有名な箇所で述べた祈りをわたしたちのものとすることができますように。「主よ、あわれみたまえ。ああ、何たることか、見たまえ。わたしは傷をかくさない。あなたは医者で、わたしは病人です。あなたはあわれみ深く、わたしはあわれです。・・・・すべての希望はただひたすら、真に偉大なあなたのあわれみにかかっています」(『告白』:Confessiones X, 28, 39; 29, 40〔山田晶訳、『世界の名著14』中央公論社、1968年、366-367頁。ただし表記を一部改めた〕)。

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