教皇ベネディクト十六世の141回目の一般謁見演説 聖コロンバヌス

6月11日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の141回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2007年3月7日から開始した教父に関する講話の44回目として、「聖コルンバヌス(コロンバン)」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 今日わたしは修道院長聖コルンバヌス(Columbanus 543頃-615年)についてお話ししたいと思います。聖コルンバヌスは初期中世のもっとも有名なアイルランド人です。わたしたちは十分な理由をもって聖コルンバヌスを「ヨーロッパの」聖人と呼ぶことができます。なぜならコルンバヌスは、修道士、宣教者、著述家として、西ヨーロッパのさまざまな国で活動したからです。当時のアイルランド人とともに、コルンバヌスはヨーロッパの文化的統一性を自覚していました。コルンバヌスが600年頃、教皇大グレゴリオにあてて書いた手紙の中で、「全ヨーロッパの(totius Europae)」ということばが初めて用いられました。このことばはヨーロッパ大陸の教会を意味しています(『書簡』:Epistula I, 1参照)。
 コルンバヌスは543年頃、アイルランド南東部のレンスター州に生まれました。彼は自宅で優れた教師たちから教育を受け、自由学芸の研究へと導かれました。その後彼は北アイルランドのクルアン=イニス共同体の修道院長シネル(Sinell)の指導にゆだねられました。コルンバヌスはこの共同体で聖書の勉学を深めることができました。20歳頃、アイルランド東北部のバンゴール修道院に入りました。バンゴール修道院の修道院長は、コンガル(Comgall 515/519-601/602年)でした。コンガルは美徳を備え、厳しい禁欲生活を送ったことで有名でした。コルンバヌスはこの修道院長に心から共感して、熱心に修道院の厳しい規律を守り、祈りと禁欲と勉学の生活を送りました。この修道院でコルンバヌスは司祭叙階も受けました。バンゴールの生活と修道院長の模範が、コルンバヌスの修道制思想に影響を与えました。コルンバヌスはこの思想を次第に深め、後に生涯をかけて広めます。
 コルンバヌスは約50年間、「キリストのために巡礼者となる(peregrinatio pro Christo)」というアイルランド特有の禁欲的理想に従い、アイルランドを離れて、12人の同士とともにヨーロッパ大陸で宣教活動を行いました。実際、わたしたちは北と東からの民族の移動により、すでにキリスト教化していたヨーロッパ全域が再び異教に戻ったことを知らなければなりません。590年頃、コルンバヌスの小さな宣教団はブルターニュ海岸に上陸しました。彼らはアウストラシア(現在のフランス)のフランク王の歓迎を受けましたが、ごくわずかな未開拓の土地しか求めませんでした。コルンバヌスたちは、完全に破壊されて放置され、今や森に覆われていたアヌグレーの古代ローマの要塞をもらいました。極度の自己放棄の生活に慣れていた修道士たちは、数か月で廃墟の上に最初の隠修修道院を建設することができました。こうして彼らの再宣教は、何よりもまず生活のあかしによって始められました。新たな土地を開拓しながら、彼らは新たな魂の開拓も始めました。外国人の修道士が祈りと厳しい禁欲の生活を送りながら修道院を建て、土地を開拓しているといううわさは、すぐに広まり、巡礼者や回心者を引き寄せました。何よりも多くの若者が、修道共同体に入ることを求めました。それは、修道士たちと同じように模範的な生活を送り、大地と魂を新たに開拓するためです。すぐに第二の修道院を設立することが必要になりました。第二の修道院は、数キロ離れた、古代の温泉町の廃墟であるリュクスーユに建てられました。リュクスーユ修道院はやがて、アイルランドの修道生活と宣教の伝統をヨーロッパに広めるための中心地となりました。第三の修道院はリュクスーユからさらに北に1時間ほどの、フォンテーヌに建てられました。
 コルンバヌスはリュクスーユで約20年間暮らしました。彼はこの地で、自分に従う人々のために『修道規則』(Regula monachorum)を著しました。修道士の理想像を示した、この『修道規則』は、ある時期、聖ベネディクトの戒律よりもヨーロッパに広まりました。この書は、現存する唯一の古代のアイルランドの修道規則です。コルンバヌスは『修道規則』を補うものとして、『共住修道制規則』(Regula coenobialis)を書きました。『共住修道制規則』は、戒律を犯した修道士のための一種の罰則規定です。この罰は現代の感覚からすると驚くべきものですが、当時の時代と状況から初めて説明できます。コルンバヌスは、やはりリュクスーユで書いた『定められた償いの基準について』(De poenitentiarum misura taxanda)という標題の有名な著作によって、ヨーロッパ大陸に個人告解と償いを繰り返し行う習慣を導入しました。「定められた償い」と呼ばれたのは、罪の重さと、聴罪司祭が課す償いの種類の間の釣り合いを定めたからです。この新しい方法はその地域の司教の疑惑を招きました。コルンバヌスは勇気をもって、一部の司教の行動をはっきりととがめたので、この疑惑は敵意に変わりました。対立が表れるきっかけとなったのは、復活祭の日付に関する論争でした。実際、アイルランドは、ローマの伝統と異なり、東方教会の伝統に従っていました。アイルランドの修道士コルンバヌスは603年にシャロン=シュル=ソーンに召喚され、司教会議の場で、償いと復活祭に関する自分の習慣についての説明を行うよう求められました。コルンバヌスは司教会議には出ずに、手紙を送りました。この手紙の中でコルンバヌスは、問題は取るに足りないものだと述べます。そして、司教会議参加司教たちに、コルンバヌスによれば小さな問題である復活祭の日付の問題だけでなく、「多くの人が無視している――そして、このことのほうが深刻な問題ですが――あらゆる守るべき教会法の規定についても」(『書簡』:Epistula II, 1参照)検討することを求めました。同時にコルンバヌスは――その数年前に教皇大グレゴリオに手紙を書いたように(『書簡』:Epistula I参照)――教皇ボニファチオ四世(Bonifatius IV 在位608-615年)に手紙を送り、アイルランドの伝統を弁明しました(『書簡』:Epistula III参照)。
 あらゆる道徳問題に関して妥協しなかったコルンバヌスは、やがて宮廷と対立するようになります。コルンバヌスはテウデリヒ二世(Theuderich II 在位596-613年)の不倫関係を厳しくとがめたからです。個人的・宗教的・政治的次元で陰謀の網が張られた末に、610年、コルンバヌスとアイルランド出身の全修道士のリュクスーユからの追放令が発せられ、彼らは終身追放の刑に定められました。彼らは海岸に連れて行かれ、宮廷が費用を負担して、アイルランドに向けた船に乗せられました。しかし、船は海岸からすこし離れたところで座礁してしまいました。これを天からのしるしと考えた船長は、航海をやめ、神の呪いを受けることを恐れて、修道士たちを陸に戻しました。修道士たちは、リュクスーユに戻らずに、新しい宣教活動を始めることにしました。彼らは船に乗ってライン川を上りました。初めチューリヒ湖の近くのトゥッゲンにとどまった後、彼らはコンスタンツ湖(ボーデン湖)の近くのブレーゲンツ地域を回り、ドイツ人に宣教しました。
 しかし、まもなくコルンバヌスは、彼の活動を好まない政治的状況のゆえに、大部分の弟子とともにアルプスを越えることにしました。ガルス(Gallus 550頃-645年頃)という名の一人の修道士だけがその地にとどまりました。このガルスの隠修所が後に有名なスイスのザンクト・ガレン修道院へと発展しました。イタリアに着くと、コルンバヌスはランゴバルド王の宮廷の歓迎を受けました。けれどもすぐに彼は新たな問題に直面しなければなりませんでした。教会生活は、いまだにランゴバルド族の間で盛んだったアレイオス派の異端と、教会分裂によって引き裂かれていました。この教会分裂は、北イタリアの教会の大部分をローマ司教との交わりから引き離していたのです。コルンバヌスは権威をもってこのような状況に介入しました。そして、アレイオス派には反論の書を、ボニファチオ四世には、一致を回復するために決定的な行動をとるよう説得する手紙を書きました(『書簡』:Epistula V参照)。612年ないし613年にランゴバルド王からトレッビア谷のボッビオに土地を与えられたコルンバヌスは、新しい修道院を設立しました。この修道院は後に、有名なモンテカッシーノ修道院に匹敵する、文化の中心地となりました。この地でコルンバヌスは最後の時を迎えました。コルンバヌスは615年11月23日に亡くなりました。ローマ典礼は今日に至るまでこの日にコルンバヌスを記念しています。
 聖コルンバヌスのメッセージの中心にあるのは、永遠の遺産を与えられるために、回心して地上の富から離れるようにという強い呼びかけです。禁欲生活と、堕落した権力者に対する妥協のない態度によって、コルンバヌスは洗礼者聖ヨハネの厳しい姿を思い起こさせます。しかし、コルンバヌスの厳格さは、目的そのものではなく、手段にすぎませんでした。それは、神の愛に進んで心を開き、神が与えてくださるたまものに自分のすべてをもってこたえるためです。そこから、自分のうちに神の像を回復し、地を耕し、人間社会を刷新することができるのです。コルンバヌスの『教え』(Instructiones)から引用します。「人間は、神から自分の魂に与えられた力を正しく用いるなら、神に似たものとなります。初めの状態のときに神がわたしたちにゆだねてくださったすべてのたまものを神に返さなければならないことを、思い起こそうではありませんか。神はご自分の掟によって道を示してくださいました。第一の掟は、心を尽くして主を愛しなさいという掟です。なぜなら、世の初めから、わたしたちがこの世の光を見る前から、神はわたしたちを愛してくださったからです」(『教え』:Instuructiones XI参照)。アイルランドの聖人コルンバヌスは、このことばを本当に自分の生活の中で体現しました。優れた文化人であったコルンバヌスは――コルンバヌスはラテン語の詩や、文法書も書きました――、豊かな恵みのたまものを与えられていました。彼はうむことなく修道院を建設し、妥協することなく悔い改めをのべ伝えました。そして、もてるすべての力を用いて誕生期のヨーロッパのキリスト教の根を育てました。霊的な力と、信仰と、神への愛と隣人への愛をもって、コルンバヌスはまことの意味でヨーロッパの父となりました。コルンバヌスは今日もわたしたちに、わたしたちのヨーロッパの再生の出発点とすることのできる、根源のありかを示してくれるのです。

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