教皇ベネディクト十六世の144回目の一般謁見演説 パウロの生きた宗教的・文化的状況

7月2日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の144回目の一般謁見が行われました。教皇は、2007年3月7日から46回続いた教父に関する講話を前週終えました。この日の謁見で、教皇は、パウ […]

7月2日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の144回目の一般謁見が行われました。教皇は、2007年3月7日から46回続いた教父に関する講話を前週終えました。この日の謁見で、教皇は、パウロ年の開幕に合わせ、聖パウロの人と思想に関する新しい連続講話を開始しました。この日の講話の中で、教皇はとくに使徒パウロが生きた宗教的・文化的状況を考察しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。謁見には8,000人の信者が参加しました。

なお、教皇庁公邸管理部は7月1日(火)、教皇の夏期の予定を発表しました。教皇は7月2日から夏期滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸に移ります。夏の間、個人謁見および特別謁見を行いません。7月6日(日)と27日(日)の「お告げの祈り」はカステル・ガンドルフォで行います。7月9日、16日、23日、30日は水曜一般謁見がありません。7月12日(土)から21日(月)まで第23回ワールドユースデー・シドニー大会参加のためにオーストラリアを訪問します。7月28日(月)から8月11日(月)まで北イタリアのブレッサノーネの神学校で休暇を過ごします。休暇中、8月3日(日)と10日(日)の「お告げの祈り」を滞在先で行います。水曜一般謁見は8月13日から再開します。夏期の日曜・祭日の「お告げの祈り」はカステル・ガンドルフォ教皇公邸で行います。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  今日わたしは、偉大な使徒聖パウロに関する新しい連続講話を始めたいと思います。ご存じのように、わたしは今年を聖パウロの年としました。パウロ年は2008年6月29日の聖ペトロ・聖パウロ使徒の祭日から2009年の同日まで行われます。使徒パウロは、特別でほとんど比類がなく、同時にわたしたちを刺激する人物です。使徒パウロはわたしたちにとって、主とその教会に対する完全な献身の模範であるとともに、人類と人類の文化に対するきわめて開かれた性格の模範でもあります。それゆえ、わたしたちがパウロに特別な位置づけを与えるのはふさわしいことです。そのためにわたしたちは、ただパウロを崇敬するだけでなく、パウロが現代のわたしたちキリスト信者にも何をいおうとしているかを理解しようと努めなければなりません。この最初の回では、パウロが生き、活動した状況を考察したいと思います。このテーマはわたしたちの時代からかけ離れたものに思われるかもしれません。わたしたちは2000年前の世界に身を置かなければならないからです。しかし、それは見かけ上、部分的にそのように見えるにすぎません。なぜなら、さまざまな意味で、現代の社会的・文化的状況は当時とそれほど違わないことがわかるからです。
  まず念頭に置かなければならない基本的な要素は、パウロが生まれ育った環境と、パウロが次第に入っていったグローバルな状況の関係です。パウロは、明確に限定され、いうまでもなく少数派に属する、イスラエルの民とその伝統に基づく文化の出身です。専門家が示すとおり、古代世界、とくにローマ帝国全体の中で、ユダヤ人は全人口の約10パーセントを占めていました。さらに、ここローマにおいては、1世紀半ば頃のユダヤ人の人口はさらに少なく、ローマの人口の3パーセントに満たない数でした。現代と同じように、ユダヤ人の信仰と生活様式は周囲の人々とはっきりと異なりました。このことは二つの結果をもたらす可能性がありました。すなわち、あざけり――それは不寛容にもなりえます――か、賛嘆です。賛嘆はさまざまな共感の形で示されました。たとえば、「神をおそれる人」あるいは「改宗者」の場合です。これらの人々は、会堂(シナゴーグ)に属し、イスラエルの神への信仰を共有しました。この二つの態度の具体的な例として、まず、キケロ(Marcus Tullius Cicero 前106-43年)のような弁論家の辛辣(しんらつ)な批判を挙げることができます。キケロはユダヤ人の宗教と、さらにはエルサレムの町までもさげすみます(『フラックス弁護』:Pro Flacco 66-69参照)。またわたしたちは、ネロ(Nero Claudius Caesar在位54-68年)の妻ポッパエア(Poppaea Sabina)の態度を挙げることができます。フラウィウス・ヨセフス(Flavius Josephus 37-95年頃)はポッパエアをユダヤ人の「共感者」と述べています(『ユダヤ古代誌』:Antiquitates Judaicae 20, 195. 252; 『自伝』:Vita 16参照)。いうまでもなく、ユリウス・カエサル(Gaius Iulius Caesar 前100-前44年)はユダヤ人に正式に特別な権利を認めました。すでに挙げた歴史家フラウィウス・ヨセフスが伝えるとおりです(『ユダヤ古代誌』:Antiquitates Judaicae 14, 200-216参照)。確実なことは、現代と同じように、ユダヤ人の人口が、他国人がパレスチナと呼ぶ地域ではなく、イスラエル以外の地域、すなわちディアスポラ(離散)においてはるかに多かったということです。
  それゆえ、パウロ自身が、わたしたちが述べた二つの相反する評価を受けたことは不思議ではありません。このことは確かです。すなわち、ユダヤ人の特殊な文化と宗教は、ローマ帝国全体に広がる社会の中に容易に見いだせたということです。ナザレのイエスという人を信じるユダヤ人と異邦人のグループの置かれた位置は、もっと困難で苦難に満ちたものでした。彼らはユダヤ教とも、支配的な異教とも区別されたからです。いずれにせよ、二つの要素がパウロの活動に役立ちました。一つは、ギリシア文化、より正確にいえばヘレニズム文化です。ヘレニズム文化は、アレクサンドロス大王(Alexandros III 在位前336-323年)以降、少なくとも地中海東域と中東において共通の遺産となっていました。もっともヘレニズム文化は、伝統的に非ギリシア的と考えられた民族の文化的要素も取り入れていました。このことに関連して、当時の著作家はいいます。アレクサンドロスは「すべての人が祖国をすべて共通と考え、・・・・ギリシア人と非ギリシア人をもはや区別しないことを命じた」(プルタルコス『アレクサンドロスの運命と徳について』:Plutarcus, De Alexandri Magni fortuna aut virtute §6; 8)。第二の要素はローマ帝国の政治・行政制度です。この制度がブリタニアからエジプトに至るまでの平和と安定を保障し、かつてない範囲の領域を統一しました。ローマ帝国のこの版図の中を、人々はまったく自由かつ安全に移動できました。そのために、人々は何よりも特別な道路網を利用することができ、どの目的地においても基盤となる文化的性格を見いだすことができました。この文化的性格は、地域の価値あるものを失わずに、公平な形で(super partes)統一された、共通の構造を示すものでした。そこでパウロの同時代人である、ユダヤ人哲学者アレキサンドリアのフィロン(Philon 前25/20頃-後45/50年頃)は、皇帝アウグストゥス(Augustus 在位前27-後14年)をたたえます。なぜならアウグストゥスは「獣のような民族を穏やかで協調的なものにした・・・・平和の守護者」(『ガイウスへの使節』:Legatio ad Gaium §146-147〔秦剛平訳、『西洋古典叢書Ⅱ・5 フラックスへの反論/ガイウスへの使節』京都大学学術出版会、2000年、138頁〕)だからです。
  聖パウロという人、少なくともダマスコへの道での出来事の後のキリスト教徒としてのパウロに典型的に見られる普遍的な思想が、イエス・キリストへの信仰への基本的な心の促しによるものであることはいうまでもありません。復活したキリストはいかなる特定の限界も超えたかただからです。実際、使徒パウロにとって「もはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3・28)。とはいえ、パウロがその時代に置かれた歴史的・文化的状況も、彼の決断と活動に影響を及ぼさずにはいませんでした。ある人はパウロを「三つの文化の人」だといいます。それは、彼の母胎であるユダヤ教、彼の言語であるギリシア語、そして、パウロがラテン語起源の名前であることにも示されているとおり、その「ローマ市民(civis romanus)」としての特権に基づきます。わたしたちはとくにストア哲学を思い起こさなければなりません。ストア哲学はパウロの時代に優勢で、わずかながらキリスト教にも影響を与えたからです。このことと関連して、幾人かのストア哲学者の名前に触れないわけにはいきません。たとえば、ストア哲学の創始者であるゼノン(Zenon)とクレアンテス(Kleanthes 前331-232年)、それから、年代的にパウロに近い人々、すなわち、セネカ(Lucius Annaeus Seneca 前4/後1-65年)、ムソニウス(Gaius Musonius Rufus 30年以前-101/102年以前)、エピクテトス(Epiktetos 1世紀中葉-2世紀)です。これらの人々のうちには、きわめて優れた人間性と知恵が見いだされます。これがキリスト教に受け入れられたのは当然のことです。ある専門家は優れたしかたでこう述べています。「ストア派は・・・・新しい思想を宣言した。この思想は同胞に対する義務を人間に課したが、同時に人間をあらゆる物理的・自然的な束縛から解放して、純粋に精神的な存在としたのである」(M. Pohlenz, La Stoa, I, Firenze 21978, pp. 565s.)。たとえば、ストア派の宇宙論を考えてみれば十分です。宇宙は調和のとれた一つの大きな身体と考えられます。そこから、すべての人間が社会的区別なしに平等であるという考えが生まれます。少なくとも原則的には、男と女は平等とされます。そして、質素という理想です。質素とは、あらゆる行き過ぎを避けるための正しい基準、また自制です。パウロはフィリピの信徒に向けてこう述べました。「すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい」(フィリピ4・8)。これは、ストア哲学の知恵に見られる厳密に人間中心主義的な概念を取り上げたものにほかなりません。
  パウロの時代には、少なくとも神話と公共的な側面において、実際に、伝統的宗教も危機に瀕していました。すでにその1世紀前にルクレティウス(Titus Lucretius Carus 前94頃-前55年頃)は、「宗教とは、実に、かくもはなはだしい悪事を行わせる力をもっていたのだ」(『物の本質について』:De rerum natura 1, 101〔樋口勝彦訳、岩波書店、1961/1991年、14頁。ただし表記を一部改めた〕)と厳しく宣告していました。それ以降、セネカのような哲学者は、いかなる外面的な儀式も乗り越えて、こう教えました。「神は君のそばに、君と一緒に、君の中にいる」(『倫理書簡集』:Ad Lucilium epistulae morales 41, 1〔高橋宏幸訳、『セネカ哲学全集5 倫理書簡集Ⅰ』岩波書店、2005年、154頁〕)。同じように、パウロもアテネのアレオパゴスでエピクロス派の哲学者の聴衆に向かって、文字どおり次のようにいいました。「神は・・・・手で造った神殿などにはお住みになりません。・・・・『われらは神の中に生き、動き、存在する』」(使徒言行録17・24、28)。パウロがこのことばに、擬人的な形で表されることのない唯一の神へのユダヤ人の信仰を反映させたことはいうまでもありません。しかし彼はまた、聴衆がよく知っていた宗教思潮に沿って語っています。さらにわたしたちは、多くの教養ある異教徒が町の公的な神殿には行かず、信者の入信儀礼のために用いられる個人的な場所に行っていたことを考慮しなければなりません。それゆえ、パウロの手紙が示しているように、キリスト者の集会(エクレシアイ)も個人の家で行われたことは、驚くべきことではありません。さらに当時、公共の建物も存在しませんでした。そこで、キリスト者の集会は当時の人々にとって、こうしたきわめて個人的な宗教活動の一種にすぎないものに見えたにちがいありません。とはいえ、異教の礼拝とキリスト教の礼拝の違いは小さなものではありません。そこでは礼拝の参加者が自分たちがどのような者であるかについて自覚し、男と女が共通に参加し、「主の晩餐」を祝い、聖書を朗読したからです。
  終わりに、キリスト教の最初の1世紀の文化状況についての足早の考察から、次のことが明らかになります。すなわち、当時のユダヤ教と異教の背景を考えることなしに聖パウロを適切な形で理解することはできないということです。こうした背景を考えることによって、パウロの人物像は歴史的・思想的厚みをもつようになり、周辺世界との共通点と独創性が明らかになります。しかし、このことはキリスト教一般についてもいえます。そして、使徒パウロはキリスト教を考える上での第一の基準です。わたしたちは皆、パウロから常に多くのことを学ばなければなりません。聖パウロから学ぶこと。信仰を学ぶこと。キリストを学ぶこと。そこから、ついには正しく生きる道を学ぶこと――これがパウロ年の目的なのです。

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