聖ヨハネ・マリア・ビアンネ記念日(2008年8月4日)のメッセージ

親愛なる司祭の皆様  8月4日のアルスの司祭聖ヨハネ・マリア・ビアンネの記念日にあたり、心よりごあいさつ申し上げるとともに、皆様に兄弟としてこの短いメッセージをお送りします。   現代の教会は、「諸国民への(ad gen […]

親愛なる司祭の皆様

 8月4日のアルスの司祭聖ヨハネ・マリア・ビアンネの記念日にあたり、心よりごあいさつ申し上げるとともに、皆様に兄弟としてこの短いメッセージをお送りします。
  現代の教会は、「諸国民への(ad gentes)」宣教だけでなく、キリスト教信仰が数世紀にわたってのべ伝えられ、根づき、教会共同体がすでに存在している地域に住むキリスト信者への宣教も緊急に必要とされていることを知っています。後者の地域において、宣教または福音宣教の対象は、洗礼を受けてはいるものの、さまざまな理由から、十分な信仰教育を受けていない人々、また、最初の情熱を失い、教会から離れた人々です。ポストモダンの時代である現代社会の文化――相対主義的、世俗的、不可知論的文化――は、多くの人々の信仰を強力なしかたでむしばんでいます。
  教会は本来、宣教的な性格をもっています。イエスは「種を蒔(ま)く人が種蒔きに出て行った」(マタイ13・3)といわれました。種を蒔く人は、窓から外に種を蒔くだけでなく、実際に家の外に出かけます。教会は、じっとして、教会・共同体の中で信仰を求める人を受け入れ、彼らに信仰を伝えるだけではいけないことを知っています。立って、人々や家族が暮らし、生き、働いている場所に出かけていくことも必要です。わたしたちはどんな人のところにも赴かなければなりません。すなわち、会社、組織、団体をはじめとする、人間社会のさまざまな分野です。このような宣教のために、司牧者も修道者も信徒も含めた、教会共同体に属するすべての人が招かれています。
  さらに教会は、司祭が地域共同体の日常生活を動かす大きな力であることを知っています。司祭が動けば、教会も動きます。司祭が動かなければ、教会が宣教の使命を果たすことはきわめて困難です。
  親愛なる司祭の皆様。皆様がキリスト信者のただ中にいるとき、皆様は宝、また力として、司牧と宣教を活気づけます。主がわたしたちを招いたように、皆様が「沖に漕ぎ出して(Duc in altum)」漁をする決断をしなければ、緊急に必要な宣教において、ほとんど何もなし遂げることもできません。「諸国民への」宣教においても、すでに福音がのべ伝えられた地域における宣教においてもです。けれども教会は皆様に信頼できることを確信しています。ほとんどすべての司祭は――弱さや人間的な限界があっても――司祭にふさわしく、日々、神の国のためにいのちをささげ、イエス・キリストと、ゆだねられた人々を愛していることを、はっきりと知っているからです。司祭は毎日の奉仕職の中で自分を聖化し、主が報いてくださるまで耐え忍んでいます。この使命から深刻なしかたではずれた司祭はごく少数にすぎません。教会は、このような司祭が与えた損害を償おうと努めます。しかし、教会は、大多数の司祭がいつくしみ深く、きわめて称賛に値する者であることをうれしく、また誇りに思っています。
  パウロ年が始まり、10月にローマで開催される、神のことばをテーマとした世界代表司教会議(シノドス)を控えたこのときにあたり、わたしたちはこの緊急の宣教の使命を受け入れる人々を招きます。聖霊がわたしたちを照らし、遣わし、支えてくださいますように。それは、わたしたちも出かけて行き、十字架につけられて復活したイエス・キリストと、神の国をあらためて告げ知らせることができるようになるためです。
親愛なる兄弟の皆様。あらためて皆様にごあいさつ申し上げます。わたしはいつも皆様に仕えます。皆様のため、とくに苦しみ、病気、高齢のうちにある司祭の皆様のために祈ります。

2008年7月15日、バチカン市国にて
教皇庁聖職者省長官、サンパウロ名誉大司教
クラウディオ・フンメス枢機卿

PAGE TOP