教皇ベネディクト十六世の146回目の一般謁見演説 八月の聖人たち

8月20日(水)午前10時30分から、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸中庭で、教皇ベネディクト十六世の146回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、前週に続いて、8月20日前後に記念される聖人について考察しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。謁見には約4,000人の信者が参加しました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  教会は毎日、祈願し、倣うべき、一人から数人の聖人また福者をわたしたちが考察するように示します。たとえば今週、わたしたちは民間信心の中でたいへん好まれている幾人かの人を思い起こします。昨日(8月19日)は聖ヨハネ・ユード(1601-1680年)の記念日でした。聖ユードは、17世紀、ジャンセニストの厳格主義に対して、柔和な信心を推進しました。彼はこの信心の汲み尽くすことのできない源泉がイエスとマリアの聖なるみ心であることを示しました。今日(8月20日)、わたしたちはクレルヴォーの聖ベルナルド(1091-1153年)を思い起こします。聖ベルナルドは教皇ピオ八世(在位1829-1830年)によって「蜜の流れる博士」と呼ばれました。聖ベルナルドは「聖書のテキストからその隠れた意味をしたたらせること」において優れていたからです。この神秘家は、観想の「輝く谷」に浸って生きることを望んでいましたが、さまざまな出来事のために、ヨーロッパ中を旅することになりました。それは、当時のさまざまな必要にこたえて教会に奉仕し、キリスト教信仰を擁護するためでした。聖ベルナルドは「マリア博士」ともいわれます。それは、彼が聖母についてたくさんのことを書いたためではなく、教会における聖母の本質的な役割をとらえることができたためです。聖ベルナルドは、聖母が修道生活と他のあらゆるキリスト教的生活の形態の完全な模範であることを示しました。
  明日(8月21日)、わたしたちは聖ピオ十世(1835-1914年、在位1903-没年)を思い起こします。聖ピオ十世は苦難に満ちた歴史的時期を生きました。ヨハネ・パウロ二世は1985年に聖ピオ十世の生誕の地を訪れた際、彼についてこう述べました。「ピオ十世は教会の自由のために戦い、苦しみました。そして、誤解と嘲笑に立ち向かいながら、この教会の自由のために特権と名誉を進んで犠牲にすることを示しました。ピオ十世は、教会の自由こそ、完全で一貫した信仰の最高の保証だと考えたからです」(Insegnementi di Giovanni Paolo II, VIII, 1, 1985, p. 1818)。
  今週の金曜日(8月22日)は、天の元后聖マリアにささげられます。この記念日は神のしもべピオ十二世(在位1939-1958年)によって1955年に定められました。第二バチカン公会議の望んだ典礼刷新は、聖母の被昇天の祭日を補うものとしてこの記念日を置きました。二つの特典は唯一の神秘をなすからです。最後に、わたしたちは土曜日(8月23日)にリマの聖ローザ(1586-1617年)に祈ります。リマの聖ローザはラテンアメリカ大陸で最初に列聖された聖人であり、ラテンアメリカ大陸の第一の守護聖人です。聖ローザはしばしば繰り返してこういいました。「人々が恵みのうちに生きるとはどういうことかを知ったなら、どんな苦しみを恐れることもないでしょう。そして、どんな苦難にも進んで耐えるでしょう。恵みは忍耐が生み出す実だからです」。聖ローザは挫折と苦しみに満ちた短い生涯の後、1617年に31歳で亡くなりました。それは聖バルトロマイ使徒の祭日(8月24日)でした。聖ローザは聖バルトロマイを深く崇敬していました。聖バルトロマイは特別に苦しみに満ちた殉教を遂げたからです。
  親愛なる兄弟姉妹の皆様。それゆえ教会は日々、わたしたちが聖人に伴われて歩めるようにしてくれます。ハンス・ウルス・フォン・バルタザール(1905-1988年)はこう述べています。聖人とは、もっとも重要な福音の解説であり、日々の生活の中で福音を実現した人々です。それゆえ聖人は、イエスに近づくための真実の道をわたしたちに示します。フランスの作家ジャン・ギトン(1901-1999年)はこう述べます。聖人は「光のスペクトルの色のようなものです」。なぜなら、それぞれの聖人は、自らの色調と明暗によって神の聖性の光を映し出しているからです。ですから、毎日、神のことばを黙想し、聖母に子としての愛をささげることに加えて、聖人に関する知識と聖人への信心を深めるよう努めることは、なんと大切で有益なことでしょうか。
  休暇の時期が、特に幾人かの聖人の伝記や著作を手にとるのに役立つ時であるのは確かです。けれども、一年を通して毎日、わたしたちには、天上の守護聖人と親しむ機会が与えられています。聖人の人間的また霊的経験は示します。聖性とは贅沢品でも、少数者のための特権でも、普通の人間には不可能な目的でもありません。実際、聖性は、神の子となるよう招かれたすべての人が目指す共通の目的です。それは、洗礼を受けたすべての人の普遍的な召命なのです。聖性はすべての人に与えられます。もちろん、すべての聖人が皆同じわけではありません。実際、すでに述べたように、聖人は神の光のスペクトルです。また、かならずしも特別なカリスマをもつ人が偉大な聖人であるわけではありません。多くの聖人の名は神にのみ知られています。聖人は地上において、見かけの上ではごく普通の生活を送るからです。そして、神がいつも望まれるのは、まさにこのような「普通の」聖人なのです。聖人の模範があかしするのはこのことです。すなわち、人は主に触れたときに初めて、平和と喜びに満たされます。こうしてその人は、あらゆるところに落ち着きと希望と楽観的な心を広めることができます。偉大なフランスの作家ベルナノス(1888-1948年)は、聖人の理想にいつも心を引かれ、自らの小説の中で多くの聖人のことばを引用しました。ベルナノスは、聖人のさまざまなカリスマについて考察しながら、こう述べます。「あらゆる聖人の生涯は、新たな春の訪れのようなものです」。わたしたちにもこのような新しい春が訪れますように。それゆえ、わたしたちも、聖性の超自然的な魅力に引き寄せられようではありませんか。すべての聖人の元后であり、母であり、罪人のよりどころであるマリアの執り成しによって、この恵みがわたしたちに与えられますように。

PAGE TOP