教皇ベネディクト十六世の147回目の一般謁見演説 聖パウロの生涯

8月27日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の147回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、7月2日から開始した聖パウロの人と思想に関する新しい連続講話の2回目として、「 […]

8月27日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の147回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、7月2日から開始した聖パウロの人と思想に関する新しい連続講話の2回目として、「聖パウロの生涯」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。

演説の後、各国語で行われたあいさつの終わりに、教皇はイタリア語で、最近のインドにおける暴力行為に関して次の呼びかけを行いました。
「ヒンドゥー教指導者スワミ・ラクシュマナンダ氏の悲しむべき殺害に続いて起こった、インド・オリッサ州でのキリスト教共同体に対する暴力についての知らせを知り、深い悲しみを覚えます。幾人かの人が殺され、他の人々は負傷しました。礼拝所、教会財産、個人の家も破壊されました。
わたしは、すべての人が尊重すべき人命に対するあらゆる攻撃を強く非難します。そして、厳しい試練のうちにある信仰における兄弟姉妹の皆様に霊的に寄り添い、彼らと連帯することを表明します。わたしは主がこの苦しみの時に彼らに同伴し、彼らを助けてくださるように、そして、すべての人のために愛の奉仕を続ける力を彼らに与えてくださるように祈り求めます。
宗教指導者と行政当局にお願いします。さまざまな共同体に属する人々の間に、つねにインド社会の特徴であった平和的共存と調和を回復するよう、ともに努めてください」。
インド東部オリッサ州では、8月23日(土)にヒンドゥー教指導者スワミ・ラクシュマナンダ氏が殺害された後、キリスト教徒への暴力行為が生じ、8月27日までに10名が殺されました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 2か月前、7月の初めに行った休暇前の最後の講話で、わたしは、パウロ年にちなんで新しいテーマの連続講話を始め、聖パウロが生きた世界について考察しました。今日わたしは、この異邦人の使徒についての考察を再開・継続して、パウロの生涯を簡単に示したいと思います。来週の水曜日に、ダマスコへの道で起きた、パウロの回心という特別な出来事を扱います。パウロの回心は、キリストとの出会いによる、パウロの生涯の根本的な転換です。そこで今日は彼の生涯全体を簡単に述べることにします。パウロの生涯の両端は、それぞれフィレモンへの手紙――この手紙の中でパウロは自分を「年老いて(プレスビュテース)」(フィレモン9)といいます――と、使徒言行録――使徒言行録はステファノの石打ちのときにパウロを「若者(ネアニオス)」(使徒言行録7・58)といいます――に示されます。たしかに二つの表現は一般的なものですが、古代の数え方によれば、「若者」は30歳の人をさし、「年老いた人」は60歳に達した人をいいました。最終的に、パウロの生年はほとんどフィレモンへの手紙の年代にもとづきます。伝統的にフィレモンへの手紙が書かれたのは60年代の半ば、ローマで獄中にあったときとされます。それゆえ、パウロは紀元8年に生まれたと思われます。フィレモンへの手紙が書かれたときパウロは60歳前後であり、ステファノの石打ちのときには30歳だったからです。この年代は正しいように思われます。わたしたちはこの年代に従ってパウロ年を開催しています。2008年を選んだのは8年前後という生年を考えたためです。
 いずれにせよパウロはキリキア州のタルソスで生まれました(使徒言行録22・3参照)。タルソスの町はこの地域の行政上の首都であり、紀元前51年の地方総督はほかならぬマルクス・トゥリウス・キケロ(Marcus Tullius Cicero 前106-43年)でした。またその10年後の前41年、タルソスはマルクス・アントニウス(Marcus Antonius 前83-前31年)とクレオパトラ(Kleopatra VII 前69-前30年)の最初の出会いの地となりました。ディアスポラ(離散)のユダヤ人であるパウロはギリシア語を話しました。もっとも彼の名はラテン語起源です。この名は元のヘブライ語のサウル/サウロの類似音に由来します。また彼はローマ市民権をもっていました(使徒言行録22・25-28参照)。それゆえパウロはさまざまな文化――つまり、ローマ文化、ギリシア文化、ユダヤ文化――の境界に位置づけられるように思われます。そしておそらくそのために、彼は実り豊かなしかたで全世界に開かれた心をもつことができました。すなわち、諸文化を仲介する、真の普遍性をもつことができたのです。パウロはおそらく父親から、手仕事も学びました。それは「テント造り(スケーノポイオス)」(使徒言行録18・3参照)という職業でした。これは多分、山羊の毛または亜麻糸からマットまたはテントを造る職人を意味しました(使徒言行録20・33-35参照)。12-13年、ユダヤ人の少年が「バール・ミツヴァ(掟の子)」となる年に、パウロはタルソスを離れ、エルサレムに行って、長老ラビ・ガマリエルのもとで学びました。長老ラビ・ガマリエルは大ラビ・ヒレルの甥です。そして、ファリサイ派のもっとも厳格な規律に従い、モーセの律法への強い熱意をもつようになりました(ガラテヤ1・14、フィリピ3・5-6、使徒言行録22・3、23・6、26・5参照)。
 エルサレムのヒレル学派のもとで学んだこの深い正統信仰に基づいて、パウロは、ナザレのイエスの呼びかけに従う新しい運動は危険であり、ユダヤ教の存在と父祖の真の正統信仰の脅威だと考えました。そこから、パウロが激しく「神の教会を迫害し」たわけがわかります。彼が手紙の中で3度認めているとおりです(一コリント15・9、ガラテヤ1・13、フィリピ3・6)。この迫害が具体的にどのようなものであったかを簡単に想像することはできませんが、いずれにせよそれは不寛容な態度でした。ダマスコの出来事はここに位置づけられます。ダマスコの出来事については次回の講話でもう一度扱います。確かなのは、この時からパウロの生涯が変わり、彼がうむことのない福音の使徒となったということです。実際、パウロはファリサイ派としてではなく、むしろキリスト者として、さらに使徒として歴史を生きました。パウロの使徒的活動は伝統的に3回の宣教旅行に従って区分されます。この3回に、囚人としてローマに赴いた4回目の旅行が付け加えられます。そのすべてがルカによって使徒言行録の中で語られます。しかし、3回の宣教旅行については、第1回の旅行と残りの2回の旅行を区別する必要があります。
 実際、第1回の旅行について(使徒言行録13-14章参照)、パウロは直接の責任を負っていませんでした。むしろその責任はキプロス島出身のバルナバにゆだねられていたからです。二人はともに教会によって派遣されて、オロンテスのアンティオキアから出発しました(使徒言行録13・1-3参照)。そして、その後、シリア沿岸のセレウキア港から船出し、キプロス島をサラミスからパフォスまで横断しました。そこから二人は現在のトルコのアナトリアの南岸に行き、アタリアの町、パンフィリアのペルゲ、ピシディアのアンティオキア、イコニオン、リストラ、そしてデルベに立ち寄りました。デルベから二人は出発地に戻りました。こうして諸民族の教会、すなわち異邦人の教会が生まれました。ほどなくして、特にエルサレムで、これらの異教徒からキリスト者となった人びとがどこまでイスラエルの生活と律法(イスラエルを他の世界から区別するさまざまな戒律や規定)にも従うべきかをめぐって、激しい議論が起こりました。それは、彼らが預言者の約束に真の意味であずかり、イスラエルの嗣業を実際に継ぐためです。将来の教会の誕生にとって根本的なこの問題を解決するために、パウロは、エルサレムでいわゆる使徒会議に参加しました。それは、普遍的な教会が現実に誕生するかどうかがかかった、この問題に関する決定を行うためです。そして、改宗した異邦人にモーセの律法の遵守を課さないことが決議されました(使徒言行録15・6-30参照)。つまり、彼らはユダヤ教の規定を義務づけられないことになったのです。唯一必要なことは、キリストに属する者となり、キリストとともに、キリストのことばを守って生きることです。こうしてキリストに属する者となったこの人々もアブラハムと神に属する者となり、すべての約束にあずかりました。この決定的な出来事の後、パウロはバルナバと別れ、シラスを選び、2回目の宣教旅行を始めました(使徒言行録15・36-18・22参照)。彼はシリア州とキリキア州を通り、リストラの町を再訪しました。このリストラでパウロはテモテを同伴させ(テモテはユダヤ婦人と異邦人の父親の子で、初代教会のきわめて重要な人物です)、彼に割礼を授けました。そしてアナトリア中央部を通って、エーゲ海北岸の町トロアスに着きました。ここでもう一つの重要な出来事が起こります。パウロは夢の中で、一人のエーゲ海の向こう岸のマケドニア人が「渡って来て、わたしたちを助けてください」というのを見ました。このマケドニア人は福音の助けと光を求める将来のヨーロッパでした。この幻に促されて、パウロはヨーロッパに入りました。彼はトロアスからマケドニアに向けて船出し、こうしてヨーロッパに入ったのです。ネアポリスに上陸すると、フィリピに行きました。このフィリピでパウロはすばらしい共同体を創設します。その後、テサロニケに行きましたが、ユダヤ人が引き起こした騒動のためにそこを去り、ベレアに行き、アテネに至りました。
 この古代ギリシア文化の中心地アテネで、パウロは、まず広場で、ついでアレオパゴスで説教しました。使徒言行録に語られるアレオパゴスでの説教は、福音をギリシア文化に伝える方法の模範です。この説教はギリシア人に次のことを理解させるものでした。すなわち、このキリスト教徒とユダヤ教徒の神は、自分たちの文化にとってよそ者の神ではありません。かえってそれは、自分たちが待ち望んでいた知られざる神であり、自分たちの文化の奥底からの問いに対する真の答えです。アテネを去った後、パウロはコリントに行きました。パウロはコリントに1年半滞在します。ここで年代的にきわめて確実な出来事が起きます。それはパウロの生涯の中でもっとも確実な出来事です。なぜなら、このコリントでの最初の滞在の間、パウロは、律法に反する礼拝のとがで訴えられて、アカイア州を治める地方総督ガリオンの前に出頭しなければならなかったからです。このガリオンとそのコリント総督時代に関して、デルフォイで発見された古代の碑文は、ガリオンが51年から53年までコリントの地方総督だったと書いています。そこでわたしたちは、完全に確実な年代を手にすることができます。パウロはこの期間コリントに滞在していました。それゆえわたしたちは、パウロが50年前後にコリントに来て、52年までそこにとどまったと推定することができます。その後パウロはコリントから、コリントの東の港ケンクレアイを経て、パレスティナに向かい、海辺のカイサリアに着きました。そこから彼はエルサレムに行き、その後オロンテスのアンティオキアに帰りました。
 第3回宣教旅行(使徒言行録18・23-21・16参照)はいつものようにアンティオキアから始まりました。アンティオキアは異邦人の教会、また異邦人への宣教の出発点だったからです。アンティオキアは「キリスト者」ということばが生まれた場所でもあります。聖ルカが述べるところによれば、このアンティオキアで初めてイエスの弟子は「キリスト者」と呼ばれるようになりました。このアンティオキアからパウロはまっすぐエフェソに行きました。エフェソはアジア州の首都です。パウロはエフェソに2年間滞在して奉仕職を果たしました。この奉仕職はこの地域で多くの実りをもたらしました。パウロはエフェソからテサロニケの信徒への手紙とコリントの信徒への手紙を書きました。しかし、エフェソの町の住民は、その地方の銀細工師にそそのかされてパウロに反対しました。この銀細工師はアルテミスへの礼拝がないがしろにされると自分の収入が減ると考えたからです(エフェソのアルテミスにささげられた神殿アルテミシオンは、古代世界の七不思議の一つでした)。そのためパウロは北に逃れなければなりませんでした。パウロは再びマケドニア州を通り、再度ギリシアに下り、おそらくコリントに行きました。彼はここで3か月を過ごし、有名なローマの信徒への手紙を書きました。
 そこからパウロは歩いてきた道を戻ります。マケドニア州に引き返し、トロアスに向けて船出し、その後、ミティレネ島、キオス島、サモス島に短期間立ち寄って、ミレトスに到着しました。パウロはミレトスでエフェソ教会の長老たちに重要な演説を行い、真の教会の牧者の姿を示しました(使徒言行録20章参照)。そこから彼はティルスに向けて船出し、ティルスから海辺のカイサリアに行きました。それはもう一度エルサレムに上るためでした。エルサレムでパウロは誤解に基づいて逮捕されます。あるユダヤ人たちが、パウロがイスラエル人だけが入れる神殿の境内に案内したギリシア語を話すユダヤ人を、異邦人だと勘違いしたのです。パウロは死刑にされるはずでしたが、神殿区域を守備するローマ人の千人隊長が介入したため刑を免れました(使徒言行録21・27-36参照)。これはユダヤでアントニウス・フェリクスがローマ帝国の総督だったときに起こりました。獄中である期間を過ごした後(この期間の長さは議論されています)、ローマ市民であったパウロは皇帝(当時の皇帝はネロでした)に上訴します。そして、次の総督ポルキウス・フェストゥスはパウロを監視付きでローマに送りました。
 ローマへの旅では地中海のクレタ島とマルタ島に立ち寄り、その後、シラクサ、カラブリアのレギオン、プテオリを通りました。ローマのキリスト者たちはアッピア街道のアピイフォルム(ローマ市の南70キロ)とトレス・タベルネ(同約40キロ)でパウロを出迎えました。パウロはローマでユダヤ人共同体の代表者と会いました。パウロはこの人々に向かって、自分は「イスラエルが希望していること」のために鎖でつながれているのだと語りました(使徒言行録28・20参照)。しかし、ルカの記述はパウロがゆるやかなしかたで監視されながら2年間ローマで過ごしたことを述べて終わり、皇帝(ネロ)の死刑判決にも、死刑執行にも触れていません。後の伝承はパウロが釈放されたといいます。そのため彼はスペインへの宣教旅行を行い、続けて短期間、東方、特にクレタ島、エフェソ、エピルスのニコポリスに赴くことができました。仮説にすぎませんが、パウロは新たに逮捕され、ローマでもう一度投獄され(このときパウロは3通のいわゆる牧会書簡、すなわちテモテへの2通の手紙とテトスへの手紙を書いたと思われます)、2度目の裁判を受けたと推測されます。この裁判はパウロに不利なものでした。けれども、いくつかの理由から、聖パウロの多くの研究者は使徒の伝記を使徒言行録のルカの記述で終えています。
 わたしたちはこの連続講話の先のところでパウロの殉教に戻ります。さしあたり、このパウロの旅路についての簡単な説明では、次のことを考えるだけで十分です。パウロは種々の大きな試練に遭いながら、力を惜しまず福音の告知に身をささげました。これらの試練についてパウロはコリントの信徒への手紙二にリストを書き残しています(二コリント11・21-28参照)。パウロはいいます。要するに「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」(一コリント9・23)。そして、まったく惜しみなく、「あらゆる教会についての心配事」(二コリント11・28)と彼が呼ぶことのために尽力しました。このような熱意は、ただ真の意味で福音の光に引き寄せられ、キリストに心を奪われた魂のみから生まれることがわかります。この魂は次の深い確信に支えられていました。すなわち、キリストの光を世にもたらさなければなりません。福音をすべての人に告げ知らせなければなりません。聖パウロの旅路に関する簡単な説明からわたしたちにもたらされるのはこのことだと思われます。すなわち、福音に対するパウロの情熱を知ること。そこから、福音の偉大さ、すばらしさ、そればかりか、わたしたち皆が福音を必要としていることを悟ることです。祈ろうではありませんか。主はパウロが光を見ることができるようにし、主のことばを聞かせ、その心に深く触れてくださいました。どうか主がわたしたちも主の光を見ることができるようにしてくださいますように。それは、わたしたちの心も主のことばに動かされ、そこからわたしたちも、主を渇き求める現代世界に福音の光とキリストの真理をもたらすことができるようになるためです。

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