「カトリック情報ハンドブック2007」巻頭特集

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「カトリック情報ハンドブック2007」
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特集1 中国のカトリック教会―歴史、現状、展望  松隈康史

 「友人が転勤で中国に行くことになりましたが、中国のカトリックは教皇様とは無関係だと聞きました。ミサに行っても大丈夫でしょうか」
  「中国には愛国教会と地下教会の2つの教会があるそうですね」
  「そもそも中国にはカトリック教会があるのですか」

 このような疑問を持つ人は多い。最近もわたしたちを不安にさせる事件があったばかりだ。
  それは2006年4月30日に雲南(ユンナン)省昆明(クンミン)市で、続く5月3日に安徽(アンホイ)省蕪湖(ウーフー)市で行われた司教叙階である。この叙階は教皇庁が承認しないうちに行われたため、世界中のマスコミが大きく伝えた。中国とバチカンの国交樹立が近いのではないかと注目されている中で強行されたため、中国内外の教会関係者は落胆した。
  教皇庁広報局のホアキン・ナバロ=バルス局長も5月4日、強い口調で抗議する声明を発表した。
ところが、続く5月7日にも遼寧(リャオニン)省瀋陽(シェンヤン)市で司教叙階式があったが、こちらは教皇庁の許可を得ていたのである。

北京の繁華街「王府井(ワンフーチン)」にある聖ヨセフ教会(=東堂)

  司教叙階だけを取ってみても、教皇の許可がある場合とない場合がある。しかもこれら3カ所の叙階は、すべて中国政府が認める教会で行われたのだ。いったい中国の教会はどうなっているのか。
  陳日君(ゼン・ゼーキウン)司教(香港教区/現・枢機卿)の次の話は、わたしたちに大切なヒントを与えてくれるだろう。
  「中国の教会は表面上2つに分かれています。1つは(中国)政府承認の『公開』教会、他方はローマから離れることを拒む『地下』教会です。しかし実際は、1つの教会しかありません」(2005年10月12日、シノドス〔世界代表司教会議〕での発言より)

2つの教会共同体

  確かに中国では以前、教皇の許可がない司教叙階が頻繁に行われてきた。このような叙階を中国では「自選自聖」(中国独自で選び、叙階する。中国語で叙階は「祝聖」と書く)と表現するが、「自選自聖」は長い間、中国政府公認の教会の原則だった。
  しかしこの数年で事情は変わり、司教叙階は教皇の許可を得て行われるのが一般的となっていたし、中国当局も事実上、黙認してきた。その結果、中国の司教の大半は、教皇からも認められている。
  人々はかつて、中国のカトリック教会には愛国教会と地下教会があると言ってきた。官方教会と非官方教会などと呼ばれることもある。そして「中国政府公認の司教=教皇が認めない司教」「地下教会の司教=教皇が認めた司教」という公式を中国の教会に当てはめて判断していた。しかしこの公式は、もはや成り立たない。それゆえ前述した06年4月と5月の教皇が認めていない司教叙階は、世界のカトリック教会にとって驚きだった。
  なぜ強行したのか。報道によると2人の司教候補者は選挙によって選ばれ、教皇庁に許可を求めたが、返答が遅れていたため、中国側は叙階式を一度延期した。返答が遅れた理由は、昆明の新司教が後述する中国天主教(カトリック)愛国会の事務局長であり、選出方法にも疑問があったためらしい。しかも3月には、民主運動の先頭に立ち、中国政府非難の発言をたびたび繰り返している香港の陳日君司教が枢機卿になった。そこで中国側は教皇庁の事前の通告にもかかわらず、教会に強行を迫った。司式した司教たちも教皇の許可が得られると直前まで考えていたようだ。
  このような出来事が起こってしまったが、それでも近年、中国の教会にかかわる人たちは「教会が2つに分かれている」とは言わず、「2つの教会共同体が存在する」と表現するようになった。2つの共同体ともミサに違いがあるわけではない。双方とも台湾など中国語圏で使われているものと同じ典礼書を用いている。
  ただ政府が認めない教会(地下教会)の場合、ミサは個人宅で行われることが多い。しかし、地方によっては教会堂で堂々と行われるなど、事情はそれぞれ異なる。
  なお本書では、中国政府が認める教会共同体を表すことばとして、最近の中国語圏での表記そのままを用い、「公開教会」と呼ぶ。政府非承認教会共同体は「地下教会」と呼ぶ。
  また、中国語ではカトリックを天主教と書き、プロテスタントを基督教と書く。なお中国のプロテスタントは原則として各教派には分かれておらず、1つにまとめられている。 

教会統計

  中国のカトリック教会の信者数については、さまざまな理由により、正確な統計はない。国家宗教事務局によれば約400万人、中国国営の新華社通信によれば約500万人、香港教区によれば約1200万人だというが、どれも根拠がない。
  香港教区の聖霊研究センター(聖神研究中心)が発表した2005年の推計をみてみる。
   信者数 1200万
   教区  138
   司教  公開=64、地下=39
   司祭  公開=180(高齢)、1620(青年)、地下=200(高齢)、900(青年)
   修道女 公開=3600、地下=1200
   神学校 大=14、小=18、地下=10
   神学生 公開=640、地下=約800、公開の小神学生=500
   修練院 公開=40、地下=20
   養成中の修道女 公開=600、地下=600
  中国の教会には大きな特徴がある。それは、外国人が宣教師として働くことが認められていないため、事実上、完全に中国人だけで成り立っていることだ。司祭は基本的に教区司祭のみ、女子修道会は教区立だけである。海外の修道会や宣教会は、それぞれの方針で中国の司祭や修道女にかかわっているが、中国で公に活動することは難しい。 

若い司教、司祭たち

農村の教会で行われた吉林(チーリン)教区の司祭叙階式

農村の教会で行われた吉林(チーリン)教区の司祭叙階式

  中国で最近叙階される司教はほとんど、30歳代から40歳代である。50歳から60歳代の司教はほとんどいない。理由は、中国では1950年代から70年代後半まで神学校が閉鎖させられていたため、その年代の司祭がいないからだ。
  若い司教、司祭、神学生、そして修道女の中には、欧米、フィリピンなど海外に留学した人も少なくない。ローマで教会法を学ぶ司祭らもいる。
  中国の神学校は公開、地下それぞれあるが、公開教会の神学校で学ぶ地下の神学生も珍しくない。
  今は男女とも召し出しはあるが、あと数年すれば一人っ子政策の影響が現れてくると予想されている。

二重の教区区分

  公開教会の司教団は1990年代、中国の最近の行政区分に合わせて、全国の教区を115に整理した。
  ところが教皇庁の区分では、中国の教区は130以上ある。これは中国で位階制(ヒエラルキー)が確立した1946年ごろの区分とほぼ同じだ。つまりある地域では、司祭や信徒らの所属教区がはっきりしないという問題が起こっており、司牧上、かなり深刻な影響を及ぼしている。中国とバチカンの間に外交関係がない今、この問題を解決する方法は見当たらない。  

バチカンとの国交問題

  2005年4月の教皇代替わり前後から今日まで、中国とバチカンの国交問題が世界から注目されている。バチカンは中華民国政府、つまり台湾と正式な外交関係を持つヨーロッパ唯一の国家だが、中華人民共和国との国交樹立に向けた対話も望んでいる。
  教皇庁の元国務長官、アンジェロ・ソダーノ枢機卿は、北京政府が同意すれば、台北にある教皇庁大使館をすぐにでも北京に移すと、たびたび発言している(99年2月、05年10月など)。
  中国政府もまた、バチカンとの外交関係樹立を望んでいるようだ。06年6月27日、中国外交部(外務省)の姜瑜(チャン・ユィ)報道官は、一部メディアがバチカンの元外交官、クラウディオ・チェッリ大司教が北京を訪問中だと伝えたことについて、「この方面の情報は聞いていない」と答えた上で、「中国政府はバチカンとの関係改善に対して終始、誠意を抱いている。わたしたちは2つの基本原則の基礎の上で、バチカンとの建設的な対話を進めることを願っている」と語った。なおチェッリ大司教の訪中は事実だった。
  2つの原則とは、(1)バチカンが台湾との国交を断絶すること(2)教皇による中国司教の任命を認めないこと――を指し、中国政府は一貫してこの原則を掲げている。
  中国とバチカンが互いに関係改善を望む発言を続ける中、カトリック台湾地区司教団の会長、鄭再発(チョン・ツァイファー)大司教(台北大司教区)は06年4月2日、台湾の信者に向けて司牧書簡を発表、バチカンと中国が国交樹立することがあっても、それは中国の信教の自由を守るためであり、台湾の信者数が大陸より少ないからではないと訴えている。

苦難の歴史

  1946年4月、中国に位階制が確立した。
  49年10月1日、中華人民共和国が建国。他国の使節が引き上げる中、教皇庁駐中国公使のアントニオ・リベリ大司教は南京に留まった。
  しかし、まもなく朝鮮戦争が始まると国内が混乱、外国人宣教師が次々と追放されるなどキリスト教への弾圧も強まった。そのころ中国各地では、リベリ大司教らがもたらした「聖母軍」(レジオ・マリエ)運動がかなりの広がりを見せていたが、この運動も弾圧の対象となった。
  リベリ大司教は51年9月、「反革命活動を行った」との理由で国外追放となり、香港を経て52年、台湾の台北に移った。
  当時、四川(スーチョアン)省や天津(ティエンチン)などのカトリック教会の一部では、「自治、自養、自伝」(三自)を掲げる運動も起こっていた。四川の運動はもともと、外国人宣教師追放後の司牧を考えるものだったらしいが、ちょうど大衆運動として反革命鎮圧運動が展開された時期と重なり、各方面での外国勢力の影響を絶とうとする共産党政権は「愛国運動」として大いに利用した。プロテスタント教会でも同様の運動が起こっている。
  教皇ピオ十二世は52年1月18日、使徒的書簡『CUPIMUS IMPRIMIS』を発表。54年10月7日には回勅『AD SINARUM GENTEM』を発表し、中国への憂慮を示した。
  55年9月には、コン品梅(コン・ピンメイ〔コンは龍の下に共〕)・上海教区司教らが「反革命活動」を理由に一斉逮捕されるなど、弾圧が強まっていった。
  そして57年7月15日から8月2日まで、全国から集まった司教、使徒座管理区長、司教総代理、教区事務局長、司祭、修道者、信徒の代表241人による第1回中国カトリック代表会議が、北京市内のホテルで開かれた。諸資料によると、代表会議の中心議題は「中国のカトリック教会とバチカンとの関係」だったようだ。会議では、バチカンとは純粋に宗教的な関係を保ち、信仰生活上の教義では教皇に従うが、政治的、経済的には「宗教を利用した内政干渉に反対する」という、政権の意向に沿った「独立自主自弁教会」(独立自主自営の教会)の方針が出された。
  会議の最終日、「中国天主教友愛国会」(62年に中国天主教愛国会と改称)が成立した。愛国会は聖職者、修道者、信徒からなる「愛国愛教」の組織だが、以後、教会を実質上コントロールしていくようになる。
  またこの時期、司教座空位の教区が多かったため、まず57年12月、四川省成都(チョントゥー)教区で、司教候補者が選挙によって選ばれた。58年に入ると、江蘇(チャンスー)省蘇州(スーチョウ)教区、四川省宜賓(イーピン)教区、雲南省昆明教区などでも選挙による司教候補者選びが行われた。3月には湖北(フーペイ)省の漢口(ハンコウ)教区と武昌(ウーチャン)教区でも選挙があった。結果は電報でローマに伝えられ、宣教聖省(現・福音宣教省)に許可を求めたが、同省は拒否した。
  そして同年4月、武漢(ウーハン)市で、漢口、武昌両教区の司教叙階式が、教皇庁の反対を押し切って行われた。これが「自選自聖」の司教叙階の始まりである。ピオ十二世は同年6月、再度、回勅『AD APOSTOLORUM PRINCIPIS』を出し、中国政府の宗教政策と愛国会を非難した。
  これらの叙階によって中国の教会と教皇庁との関係は絶たれた。58年から63年までの間に、50数人の司教がこの方法で叙階されることになる。

地下教会の形成

  1958年から65年までの間に、多くの聖職者が獄中で亡くなった。そして66年、あの文化大革命が始まる。当時、世界のカトリック教会は第二バチカン公会議を経て大きく変わりかけていたころだったが、中国の教会は混乱のため、公会議の内容を知ることはできなかった。
  文化大革命は、カトリック教会に限らず宗教全般に対して深い傷を残した。教会は閉鎖され、聖職者らは辱めを受け、中には処刑された人もいた。迫害の苦しみに耐え切れず自ら命を絶つ人もいた。また司祭職を離れ、進んであるいは強制的に結婚を選ぶ聖職者も少なくなかった。これが後に地下教会を生み出す大きな要因になる。
  このような動乱の中でも、たとえば70年7月、最後の外国人宣教師だったジェームス・ウォルシュ司教(米国人=メリノール宣教会)が釈放されたり、71年11月、北京の無原罪の聖母教会(南堂)が外交官のために開放されるなど、宗教活動が回復する兆しが見え始めた。
  文化大革命が終わると、50年代に愛国会成立に反対した人たちも含め、聖職者らの釈放が始まり、各地の教会堂や神学校も再開されるなど、教会活動が回復していった。
  しかし政府は、政府に協力的だった司祭ら(結婚した司祭も含む)に小教区を管理させようとしたため、一部の信徒は教会に行くのを拒んだ。また釈放された司祭らの中にも、元の任地に戻らない人もいた。
  教皇庁宣教聖省(現・福音宣教省)のアンジェロ・ロッシ枢機卿は78年、中国の聖職者に対して幾つかの特権を与えた。それは司祭が自教区以外でも秘跡を授けることを認め、司教は正規の神学校教育を受けていない独身男性信徒を司祭として叙階してもよい、というものだった。これが政府と愛国会に協力しない教会共同体、すなわち地下教会が形成される前提となった。
  そして1981年、河北(ホーペイ)省保定(パオティン)教区の范学淹(ファン・シュエイエン)司教はさらに一歩踏み込み、ひそかに3人の司教を叙階した。これが地下教会による司教叙階の始まりだが、最初はやはり、教皇の許可を受けてはいなかった。
  地下教会は地域によって置かれた立場、活動の方法にかなりの違いがあるが、愛国会に協力せず、教皇に忠誠を誓うという姿勢を貫いている点で共通している。
  その性格上、つねに弾圧の危険にさらされ、今でも頻繁に司教、司祭が逮捕されている。とくにクリスマスや復活祭前後には、地下信者が集まれないように、教会指導者が逮捕されることがよくある。地下教会の司祭の中には、信徒が一部の公開教会で秘跡にあずかることは「大罪」であると繰り返し訴える人もいる。  

司教団の成立

  1980年5月、中国天主教愛国会第3回代表会議と中国天主教第1回代表会議が北京で開かれ、「中国天主教教務委員会」と「中国天主教主教団」(司教団)の成立が決まった。しかし当初の司教団には規約がなく、その活動や、教務委員会との区別はあいまいだった。
  司教団の役割が明確になるのは1992年である。同年9月、北京で中国天主教第5回代表会議が開かれ、教務委員会を司教団の一部にすることが決まった。司教団の規約もできた。規約によると司教団は、「中国カトリックの全国的な教務指導機構」であり「対外的に中国のカトリック教会を代表する」とある。だが、5年に1度開かれる「中国天主教代表会議」に責任を負うことになっており、司教団の重要な案件についてはこの代表会議が審議、決定することになっている。つまり中国のカトリック教会の最高権力機関は、この代表会議なのだ。
  また司教団規約には「司教の任命、叙階を審議し、決定する」という項目も含まれており、教皇庁とは無関係に司教候補者を選び、叙階することを明記していた。むろん教皇庁はこの司教団を認めていない。
  なお98年から同司教団の会長だった南京教区の劉元仁(リュウ・ユアンレン)司教は、ヨハネ・パウロ二世が逝去して間もない05年4月20日に、病気のため亡くなった。 

地下司教団

  1989年11月21日、地下教会の司教、司祭らそれぞれ数名が陝西(シャンシー)省高陵(カオリン)県のある村で会議を開いた。この場所は三原(サンユアン)教区に属するため、「三原会議」と呼ばれている。この会議で「中国大陸主教団」、つまり地下教会司教団が結成され、公開教会の司教団に対抗した。会長に選ばれたのは河北省保定教区の范学淹司教だったが、同司教はこの会議には出席していなかった。
  会議後、関係者らの逮捕が始まり、司教、司祭ら数十名が連行された。
  だが教皇庁は、この司教団も認めていない。 

ヨハネ・パウロ二世とバチカンの姿勢

  教皇ヨハネ・パウロ二世は就任直後から、中国の教会のために祈り、関係修復を望んでいた。
  79年、ヨハネ・パウロ二世は新しい枢機卿を任命したが、その中の一人は「イン・ペクトレ」(ラテン語で「胸の内に」=秘密裏にという意味)だった。その枢機卿こそ上海のコン品梅司教で、91年になってその事実が公表された。
  81年2月18日、フィリピン・マニラを訪問していたヨハネ・パウロ二世は、中国と対話を進めたいとの意向を示した。フィリピン訪問後、教皇は日本を訪問し、米アラスカに向かったが、国務長官(当時)のアゴスチノ・カザロリ枢機卿は日本から香港へ飛び、香港滞在中だった中国・広州(コワンチョウ)の鄧以明(タン・イーミン)司教をはじめ関係者と会談している。
  同年5月13日、ヨハネ・パウロ二世はバチカンで狙撃された。その後間もない6月6日には、鄧以明司教を広州の大司教に任命している。
  また82年1月6日には、世界中の司教に向けて書簡を発表し、中国の教会のために祈るよう呼び掛けた。
  このようにヨハネ・パウロ二世は中国への関心を示し続けた。
  98年4月にはアジア特別シノドスに、四川省万県(ワンシエン)教区の段蔭明(トアン・インミン)司教と徐之玄(シュイ・チーシュアン)協働司教の2人を招請すると発表した。段司教はピオ十二世から司教叙階を受けた司教で、公開教会として働いていたため、公開・地下双方の教会共同体から尊敬を受けている人物だった。2人とも出席できなかったが、シノドスの期間中、2人の席は空席のまま用意されていた。
  99年2月、教皇庁国務長官(当時)のアンジェロ・ソダーノ枢機卿が、もし北京政府が認めれば、台北にある教皇庁大使館を明日にでも北京に移すと発言した、とマスコミが報じた。この年の夏以降、中国とバチカンの国交樹立が近いとのうわさが中国内外で流れた。
  ところが2000年1月6日(主の公現)、北京で、教皇の許可のない5人の司教叙階があった。香港の陳日君協働司教(当時/現・枢機卿)は北京の叙階式前の1月4日、滞在先だったタイ・バンコクで、この叙階は中国が「バチカンとの和解を意識していない」ことの表れだ、と非難した。
  さらに同年10月1日、バチカンで中国120殉教者が列聖され、中国の猛烈な反対を招いた。
  この日が中国の建国記念日にあたり、しかも殉教者の多くが義和団事件の起きた1900年前後に殉教していたからだ。中国の言い分を簡単にまとめれば、当時一部の宣教師は帝国主義の中国侵略に直接関与しており、その宣教師らを聖人にするとは許せない、というものだった。
  中国外交部(外務省)は同日、バチカンを強く非難する声明を発表。カトリックの公開教会、プロテスタント教会などもバチカン非難の声明を次々に発表したが、内容はどれも似たり寄ったりだった。
  00年の司教叙階と殉教者列聖で、中国とバチカンの関係改善の動きはほぼ途絶えてしまった。だが以後、中国もバチカンも、互いを刺激する動きは極力控えてきたように思える。
  ヨハネ・パウロ二世は01年10月24日、ローマのグレゴリアン大学で開かれていたマテオ・リッチ北京到着400周年記念国際シンポジウムにメッセージを送り、その中で、過去中国における宣教師らの活動の意義と限界を指摘し、彼らが犯した過ちについて中国人民にゆるしを求めた。中国外交部の孫玉璽(スン・ユイシー)報道官は10月30日、この発言に対して一定の評価はしたが、120殉教者で「中国人民の感情を害した」ことへの謝罪がないと述べ、両国関係の改善までは至らなかった。
  03年9月28日、ヨハネ・パウロ二世は濱尾文郎大司教を含む30人の新枢機卿を任命、さらに氏名を公表しない1人も任命した。この非公開の枢機卿は西安(シーアン)教区の李篤安(リ・トゥーアン)大司教だとのうわさが今でも絶えないが、ヨハネ・パウロ二世は氏名を明かすことなく逝去し、李大司教も06年5月、亡くなった。
  ヨハネ・パウロ二世が亡くなる直前の4月1日、中国外交部は、中国政府は教皇の病状を深く注視しており、「早期の回復を望む」との異例のコメントをした。また逝去後、中国外交部は哀悼の意を示した。
  中国天主教愛国会と司教団も連名で、教皇庁国務省に弔電を送っている。  

ベネディクト十六世の姿勢

  ベネディクト十六世は就任後の05年5月12日、駐バチカンの各国大使らへのあいさつの中で、まだバチカンと外交関係を持たない国家の政府に対しても、「早期に代表を派遣してくれることを望む」と語った。これは中国を念頭にした発言だと受け止められている。
  ベネディクト十六世は同年9月8日、中国の4人の司教を、通常シノドス(世界代表司教会議/10月)に招請した。4人とは(1)陝西省西安教区の李篤安大司教(78歳)(2)上海教区の金魯賢(チン・ルーシェン)司教(89歳)(3)陝西省鳳翔(フォンシャン)教区の李鏡峰(リ・チンフォン)司教(83歳)(4)黒竜江(ヘイロンチャン)省チチハル教区の魏景儀(ウェイ・チンイ)司教(47歳)――だった(年齢は当時)。チチハルの魏司教は地下教会の司教であり、鳳翔の李司教は地下から公開教会に移った司教だった。
  結局4人とも出国できなかったが、この招請はベネディクト十六世の中国の教会に対する配慮を示すものだった。

中国の宗教政策

  中国では少なくとも法律上、信教の自由が認められている。05年3月1日に施行された「宗教事務条例」には、「いかなる組織あるいは個人も、公民に宗教の信仰あるいは宗教の不信仰を強制してはならず、宗教を信仰する公民あるいは宗教を信仰しない公民を差別してはならない」とあり、同様の規定は中華人民共和国憲法第36条にも見られる。
  中国の宗教政策でもっとも重要な点のひとつは、「外国勢力の支配を受けない」ということである。「宗教事務条例」第4条でも、「各宗教は独立自主自営の原則を堅持し、宗教団体、宗教活動場所、宗教実務は外国勢力の支配を受けない」と明記されている。
  前述したように、中国はバチカンとの国交樹立の条件でも、(1)バチカンが台湾との国交を断絶すること(2)教皇による中国司教の任命を認めないこと――を掲げている。中国は教皇による司教任命を「内政干渉」だと見なしているからだ。
  よって中国には、外国人についても「中華人民共和国領内における外国人の宗教活動管理規定」(1994年発布)などの法律があり、中国内に持ち込める宗教書や道具の数、活動場所などを規定している。
  中国では、仏教、道教、イスラム、カトリック(天主教)、プロテスタント(基督教)の5つが公認の宗教であり、国務院(中国の最高行政機関)に属する国家宗教事務局が管轄している。
  中国共産党の場合は、宗教団体を「統一戦線」という考え方の中に位置付けている。統一戦線とは、共産党以外の政党や少数民族、宗教界、知識人らとともに愛国統一戦線を組み、中国独自の社会主義建設と祖国統一に努めるということだ。それを担当する部門として、中国共産党には中央統一戦線工作部(中央統戦部)がある。また、中国人民のもっとも広範な愛国統一戦線組織として、中国人民政治協商会議(人民政協)がある。
  よって中国の宗教団体は、(1)国家宗教事務局(2)中国共産党中央統戦部(3)中国人民政治協商会議――という3つの組織に影響されるのだ。
  中国共産党の宗教理解は、時代とともに変化してきた。
  ひとつの大きな転換点は、1982年3月に党中央が出した「わが国の社会主義時期における宗教問題の基本的観点と基本的政策に関して」という文書で、「19号文件」と呼ばれている。内容は(1)行政の力で宗教を消滅させることはできないし、発展させることもできない(2)信教は公民個人の私事である(3)無神論者も宗教信仰者も、政治経済上の根本的利益は一致している(4)積極的に宗教を社会主義社会に適応させなければばらない――などである。「19号文件」は建国以来30年の宗教政策を総括し、改革開放路線へと向かう上での宗教対策を方向付ける基礎になった。
  党中央は89年2月、カトリック教会対策だけに関する報告(3号文件)を出し、91年2月にも宗教政策に関する通達(6号文件)を出した。
  変化は意外なところからも起こった。
  たとえば2001年11月、国務院経済体制改革弁公室副主任の潘岳(パン・ユエ)氏が、「マルクス主義宗教観は時とともに進歩しなければならない(馬克思主義宗教觀必須與時倶進)」という論文を発表、宗教の積極面を評価し、共産党の宗教観見直しを訴えた。
  01年12月10日、江沢民(チャン・ツォーミン)前国家主席は全国宗教対策会議の席上、宗教管理強化を求める一方、「宗教の中の積極的な作用を発揮」すべきだと強調し、「現在の世界を理解するためには、宗教を理解しなければならない」と考えていると語った。江主席は02年2月21日、訪中していたブッシュ大統領と国内外の記者を前に、自分は宗教の問題にたいへん興味を持っており、聖書などを読んだことがあるとも話している。

社会の中のあかし

 南京のカテドラルでミサをささげる谷大二司教と、さいたま・新潟両教区の司祭

南京のカテドラルでミサをささげる谷大二司教と、さいたま・新潟両教区の司祭

共産党内部から宗教の積極面を評価する動きが出てきている背景には、中国社会が宗教に対する理解を深めていることも大きな要因としてあるだろう。
  中国の大学では90年代以降、宗教研究、とくにキリスト教研究が盛んに行われるようになった。日本のキリシタン時代の研究をしている学者もいる。
  宗教団体自身が社会福祉などに積極的にかかわるようになったことも、人々の宗教理解につながっているだろう。04年7月現在、中国のカトリック教会は老人福祉施設38カ所、病院・診療所103カ所、幼稚園14カ所、障害児施設10カ所を持っている。また数十人の修道女が全国10カ所のハンセン病施設で働いている。
  いま中国の教会の主力となりつつある30歳代、40歳代の司教たちは、中国とバチカンの関係が絶たれた時代を直接には知らない世代だ。20歳代、30歳代前半の司祭や修道女、そして信徒たちは、文化大革命すら直接には知らない世代である。彼らに中国・バチカンの国交問題や、教会内部の対立の責任を負わせられるだろうか。
  それより、中国の教会の前には、貧富の格差の拡大、社会の高齢化、エイズの蔓延など、社会問題が山積している。人々はこれらの分野での宗教団体の活躍に期待している。教会もその期待に応えようとしている。
  一致を目指す動きも出てきている。03年7月、甘粛(カンスー)省蘭州(ランチョウ)教区の韓志海(ハン・チーハイ)司教(当時39歳)が、中国の一部の司教たち(公開・地下双方)に向けた公開書簡を発表した。韓司教自身は地下司教だが、彼は書簡の中で「大多数の司教、司祭、信徒は同じ信仰のうちに結ばれ、教皇と結ばれています。その一方で、わたし自身も体験している、教会にとって非常に不利な事実は、教会がいまだに『官方(公開)教会共同体』と『非官方(地下)教会共同体』に分かれていることです」と指摘、司教らの一致を呼び掛けた。
  また各地の教会では公開、地下双方の司祭たちが共同司式をしたり、ともに祈ったりするようになってきている。地下教会の司教の中には、公開教会との和解を望んでいる人もいるが、立場上、それを口にできない人もいる。

 中国の教会の諸問題を解決する最も有効な手段は、中国とバチカンの外交関係樹立以外に考えられない。教皇庁外務局長(当時)のジョバンニ・ラヨロ大司教は05年6月22日、バチカン放送のラジオ番組で中国との外交関係樹立の可能性に触れ、「私の見解では克服できない問題は何一つありません」と語っている。中国では08年に北京オリンピックが開かれる。10年には上海で万国博覧会が予定されている。それまでには何らかの希望が見えてくることを祈りたい。

(カトリック中央協議会中国教会関係担当部門秘書)

特集2 キリシタン史跡をめぐる―北海道・東北編 カトリック中央協議会出版部・編

 全国のキリシタン史跡を出版部員が実際に訪れ紹介する、連続企画の第1回目。今回は「北海道・東北編」とした。訪問先の選出にあたっては、各教区から提出された教区内巡礼地一覧を基準として、キリシタン関連史跡を抽出した。しかし、一覧には挙げられていなくとも重要と判断した周辺史跡は、適宜取り上げた。逆に紹介できなかった史跡が多々あることも当然承知しているが、完全なる網羅はあまりにも困難であり、その点はご容赦願いたい。

岩手県・宮城県内の史跡(1)

岩手県・水沢(7月25日)
  一関で新幹線から東北本線に乗り換え25分ほど、水沢の地に降り立つ。合併が行われ、旧水沢市は現在奥州市となっている。改札前の観光案内所で目的地までの大まかな道順と所要時間を尋ね、歩き出した。東北本線では、進行方向右側に田が広がっていたが、駅前はごくありふれた地方の町の雰囲気が漂い、小さな飲食店や商店が軒を連ねている。
  まずは水沢教会へと向かう。水沢公園横の通り(公園通り)から横道に入るのだが、「寿庵ホール・水沢カトリック教会」と書かれた大きな案内板が立っているので分かりやすい。駅から教会までは徒歩15分程度。

水沢教会の後藤寿庵像

水沢教会の後藤寿庵像

  聖堂の入り口左には、立派な後藤寿庵の全身像が建っている。口髭をたくわえた威厳のある顔立ちで裃を付け、胸には大きな十字架を下げている。
  キリシタン大名である後藤寿庵は、水沢の人々にとっては郷土の英雄である。イエズス会宣教師アンジェリスをして「アラビアの砂漠の如し」と言わしめたこの地方で、彼は一大開拓事業を行った。後年「寿庵堰」と呼ばれることになるそれは、胆沢(いさわ)川の上流に水門を築いて河水を導くもので、荒れた地を豊かな水田が広がる穀倉地帯へと変え、窮乏にあえぐ幾多の農民を救ったのである。
  その業績により寿庵の名は現在に至るまで長く称えられるものとなったのであるが、彼の生涯に関しては資料が少なく、不明な部分が多い。現在多くの研究家が寿庵伝記の根拠として採用しているのは、寿庵の老臣であり姻戚関係のあった後藤隼人信業の後裔によって記された「平姓葛西之後裔五島氏改後藤之家譜」と題された文書である。以下、おもに菅野義之助氏の『奥羽切支丹史』と浦川和三郎司教の『東北キリシタン史』を参照し、その生涯をかいつまんで紹介したい。
  寿庵は東磐井郡藤沢の城主岩淵近江守秀信の三男として生まれ、幼名を又五郎といった。天正18(1590)年、豊臣秀吉により一家が没落の憂き目にあったあと、又五郎は家名再興の希望を胸に抱き諸国を放浪、やがて肥前・長崎にたどり着いた。当時長崎は、秀吉の迫害がありつつも宣教師の潜伏布教は盛んで、又五郎もいつしかキリスト教を知るようになった。
  慶長2(1597)年に二十六聖人の殉教があり、又五郎は迫害の手を逃れ五島の宇久島に身を潜めこの地で霊名を寿庵として受洗、姓を五島と改めた。
  その後、家康の命によりメキシコ視察を行ってきた田中勝助を江戸に訪ね親交を深めた。長崎での宣教師からの知識吸収もあり海外の事情に精通していた寿庵は、田中勝助の紹介で支倉常長の推薦を受け伊達政宗の臣下となり、千二百石を与えられ水沢・福原の地の城主となった。その際、後藤信康の義弟となって家格を作られたので、姓が後藤と改められた。
  キリシタン大名として、寿庵は教会堂を建て、家臣に教えを伝えるとともに、前述の灌漑事業を始めたのである。浦川司教は、この事業においては、宣教師たちから得た土木の知識を役立てたのであろうと推論している。
  寿庵は政宗から多大な信頼を受けた家臣で、その信仰も言わば見逃されてきた。しかし慶長遣欧使節帰国後、徳川家光の世になると禁教は厳しさを増し、政宗も寿庵をそのままに放置する訳にはいかなくなり、石母田大膳を遣わして棄教を勧めた。しかし、寿庵は石母田の度重なる説得にも一切耳を貸さず、寿庵堰の完成を見ぬまま南部の地に逃亡することとなるのである。南部逃亡以後の消息については、ほとんど伝わるものがない。

毘沙門堂

毘沙門堂

  水沢教会の聖堂横には「後藤寿庵記念ホール」と名付けられた小さな空間がしつらえてあり、いくつかの資料が展示されている。子どもたちが描いた寿庵の業績を解説する絵がほほえましい。
  教会を後にし、寿庵廟とその近辺の関連史跡へと向かう。要所ごとに案内標識や解説板がきちんと立てられている。水沢の人々の寿庵への想いが伝わってくる。
  まずは毘沙門堂。ここは寿庵が建てた教会堂の跡地といわれる場所で、小さなお堂が建っている。昭和初期に、この堂の下からメダイが発見されたそうだ。堂の横に、傾きかけた庚申塚が無造作といった感じで置かれていたのが印象的だった。

 マリア観音堂

マリア観音堂

  毘沙門堂を過ぎ県道を渡ると、寿庵廟までは寿庵ロードと名付けられた石畳の小路が続いている。その途中にマリア観音堂がある。私有地と思しき一角に建てられた小さなお堂だ。この堂は、焼却を命じられた教会のマリア像が、禁教下に子安観音と偽りひそかに収められていたところだと伝えられている。その後、仏教の僧侶にその偽りが看破され、如意輪観音が収められたのだという。しかし、それらの像は発見されてはおらず、箱に入れられた2個のメダイが発見されたのだそうだ。
  この寿庵ロードあたりは寿庵の臣下が居を構えた場所で、途中には寿庵家老屋敷跡の看板も立っている。
  現在はアパートや民家が両脇に立ち並ぶこのロードを抜けると、突然、左右に青々とした水田の風景が広がった。疎水の音が、柔らかに高く響いている。これは何ともドラマチックだ。寿庵の偉業を想うには心憎い演出だとすら思ってしまう。寿庵が起こした事業が、時代を超え今なおこの地を潤し豊かな沃野としている。そのことが如実に感じられた。

寿庵廟

寿庵廟

  右に折れると小さな公園となっている一角があり、ここに寿庵廟がある。寿庵の館跡だ。重厚なコンクリート造りの廟で、向かって右には日本語、左にはラテン語で書かれた碑文がはめ込まれてある。文は菅野義之助氏によるもので、前半が灌漑事業について、後半は信仰についてで「羅馬法王ぱうろ五世ノ下セル罪障全赦ノ教書ニ対シ奥羽二州ノ信徒ヲ代表シテ奉答文ヲ呈セルコトアリ」などの文章がつづられている。毎年5月の最終日曜日には、この廟の前で教会主催の「春の寿庵祭」が挙行される。秋には地元主催の別の寿庵祭があるそうだ。
  反対方向に水田のなかの道を行くと、クルス場という墓地がある。寿庵が設けたキリシタン墓地の跡である。現在はその名が残るばかりの普通の墓地で、現カトリック墓地はすぐ近くの別の場所にある。
  少し離れている寿庵堰の円筒分水を除けば、関連史跡はこれでほぼ見たことになる。しかし、観光案内所でもらった後藤寿庵マップには、もう一つ、東北本線線路沿いに小山崎刑場跡なるものが記されている。この刑場の名前は、わたしが旅の前に目を通しておいたどの資料にも挙がっていなかった。当然キリシタンの処刑があった場所なのだろうが、いわれがまったく分からない。しかし、駅に戻りがてら、ここを最後に訪れることにした。
  ここまでは、丁寧な標識のおかげで、ほとんど道が分からなくなることはなかった。寿庵マップは極端に略された地図だが、これで十分だった。こんども容易に目的地にたどり着けるだろうと楽観していたのだが、その見込みは甘かった。
  小山崎というバス停はすぐに見つけられたのだが、当の刑場跡がどこにあるのか、さっぱり分からない。標識などどこにもない。そこで自分がとんでもない思い違いをしていることに気づいた。考えてみれば、刑場跡は寿庵とはまったく関係がない訳である。町はあくまでも郷土の恩人の功績を称えているのだ。刑場跡の標識など立てる理由がない。
  近くの民家で尋ねてみたが、そんなものはまったく知らないという。その人は親切にも向かいの家の年配の方にも訊いてくれた。すると、たぶんこの先にある大林寺という寺にあるのではとのことだったので、とりあえずそこに足を運んだ。しかし、その境内や墓所にはそれらしきものはない。こうなったら徹底的に探してやるとばかりに、夏の日差しの下、ひたすら歩き回った。市民プールからは子どもたちの歓声が聞こえてくる。バードウォッチングができる林のなかを進む。鬱蒼として蚊が多い。周囲をぐるりと回ったあと、諦めかけて元来た道に戻りかけたとき、それは突然見つかった。
  分かるわけがない。何の標もなく、2基の碑(左側の碑には「山神」と彫られている)が民家の横にぽつねんと並んでいる。寿庵マップに掲げられた小さな画像が唯一の手掛かりだった。これがなかったならば、絶対に見つけることは叶わなかっただろう。
  この場所、小山崎のバス停から駅寄りわずか先の小道を折れてすぐのところである。とんだ無駄足を重ねたことになった。
  しかし、ここに刑場跡なる標識が立っていたならば、隣の民家の住人は、決していい思いはしないだろう。ひっそりとして地元の人すら知らないのは当然といえば当然である。

 小山崎刑場跡に建つ2基の碑

小山崎刑場跡に建つ2基の碑

  後日、改めていくつかの資料にあたってみた。高木一雄氏によれば小山崎の刑場は一般罪人を成敗するところで、元和、寛永の頃キリシタンの処刑は福原あたりで行われたのだという(『東北のキリシタン殉教地をゆく』)。しかし、真偽はさておき一つ興味深い説に行き当たった。はるかに時代は下るが、宝暦4(1754)年に隠し念仏の導師、山崎杢左エ門なる者が小山崎で磔刑に処せられているが、これが実はキリシタンであったというのだ(司東真雄『岩手のキリシタン』および及川吉四郎『みちのく殉教秘史―「隠し念仏」と「隠れ切支丹」をめぐって』)。隠し念仏とは、真言念仏に真宗信仰の合流した秘密宗教で土蔵秘事ともいわれ、キリシタン同様に弾圧を受け秘密集団化したのだそうである(和歌森太郎「信仰集団」、平凡社『日本民族学体系』3)。また、邪教とされて犬切支丹などとも呼ばれたという(「観光水沢」再版等編集委員会編『みずさわ浪漫―歴史と観光』)。
  色々と調べてみたが、結局キリシタンの処刑が小山崎で行われたという確証を得ることはできなかった。教会にも電話で問い合わせてみたが、詳しいことは分からないとのことだった。  

岩手県・宮城県内の史跡(2)

岩手県・大籠(7月26日)
  大籠は岩手県東磐井郡藤沢町の西端で、宮城県との県境に位置している。公共の交通機関をもって現地を訪れるには、一日数本の路線バスに頼るしかない。あらかじめ藤沢町役場に東北本線の駅からアクセスするにはどこが便利かを尋ねてあったので、一関から千厩・気仙沼方面に向かうバスに乗り込んだ。途中、千厩の手前、西小田橋というバス停で大籠方面行に乗り換える。ちなみにこのバス停の近くには、千厩地名発祥の地なる碑が建っている。源義家が雨露をしのぐため岩窟に千頭の軍馬をつないだのがその由来だそうだ。こういったものを偶然発見するのも、旅の楽しみの一つだ。
  藤沢町に入り、役場のあたりを過ぎると、一気に山深い感じになる。わずかな平地に水田が連なっている。
  県道を進み、農協大籠支所前で下車。都合1時間半ほどの行程で、それほどのことではない。手前の坂道を少し上ったところにあるのが大籠キリシタン殉教公園である。県道には矢印の形をした大きな案内板が立っている。

 地蔵の辻

地蔵の辻

バス停付近には、まず二つの史跡がある。一つは地蔵の辻。寛永16(1639)年と翌年に、計178名の処刑が行われた場所だという。「南無阿弥陀仏 寛政四年」と彫られた鋭角な形の碑と首のない地蔵が並んでいる。説明板には、処刑の際には下の二股川が血に染まったとの記述があり、はるかな過去の地獄絵図がまざまざと頭に浮かんでくる。何ともやりきれない気持ちにさせられる場所だ。このあと、大籠内の史跡をいくつも訪ねていくことになるが、そのどれもが同じような思いを抱かせる。それは、それらが、殉教者の栄光を称え顕彰するものではなく、庶民を襲った痛切な悲劇と、遺された者たちの切り裂かれんばかりの悲しみを、ただそれだけを凄まじいまでに突きつけてくるものだからだ。人もまばらなこの地を訪れ、一つ一つの史跡の前にたたずめば、その、暗く湿り気を帯びた独特の雰囲気に、だれもが胸を圧迫されることだろうと思う。
  キリシタン殉教者を「南無阿弥陀仏」と刻まれた碑をもって「供養」しているのである。それが余計に切ないのだ。浦川司教は、これら史跡が史実に裏付けられる確かなものであることを、碑に刻まれた人名と大籠村キリシタン宗門改帳とを照らして精査しているが(前掲書)、そのなかで、後の時代にこれらの碑を建てた者たちは「キリシタンではなかったか、若しくは転びキリシタンで信仰上のことも全く忘れてしまった」と解すべきと書いている。キリシタンの研究者として、また司教として、このような記述をなすのは当然のことなのであるが、そういってしまえば身も蓋もないような気がする。このやりきれなさをそのままに受け止めて歩を進めたいと思う。

首実検石

首実検石

  道を挟んで向かいには、首実検石なるものがある。この石に座って、所成敗(他所に引き連れられるのでなく、捕らえられた現地で処刑されること)を受ける信徒を伊達藩の検視役が首実検したそうだ。石の後ろには、名も知らぬ小さな白い花に囲まれるように、無縁仏の墓石がいくつも転がっていた。
  殉教公園に向かう。民家の庭先の立葵の花が日に照らされて美しい。坂の上には立派な資料館が建っていた。まず、15分ほどのVTRを見せてもらう。大籠地方のキリシタンの歴史が簡単に紹介されていた。
  大籠にどのようにしてキリスト教が伝わり信者が増えていったのかは、詳しいところは分かっていない。このVTRにも登場するのだが、一説に、製鉄の技術を得るため、この地の住人千葉土佐が永禄元(1558)年に備中から千松大八郎・小八郎という名の兄弟を招聘し、その兄弟が製鉄技術指導の傍ら布教に努め、一時は3万もの信徒がいたのだという。藤沢町教育委員会と藤沢町文化財調査委員会が編集した『大籠の切支丹と製鉄』においてこの説は確証をもって語られているが、VTRでは「ともいわれている」といった表現が取られていた。

 大籠キリシタン殉教公園資料館

大籠キリシタン殉教公園資料館

正直、冷静に考えれば、およそ信じられる説ではない。1558年といえば、ザビエル日本上陸から10年も経っていない。『大籠の切支丹と製鉄』には、千松兄弟は「備中の切支丹大名と云われた宇喜多秀家領の出身であるからには、切支丹信徒であることに疑いを持たない」と、とんでもないことが言い切ってある。宇喜多秀家はキリシタンではない。
  この説について、松田毅一氏は「でたらめであることは説くまでもない」とにべもなく断を下し(『キリシタン時代を歩く』)、浦川司教は、そこにいかに無理があるかを前掲書で論考している。
  大籠にキリスト教が伝わり、一時期には多くの信徒(3万ものはずはないが)がいて、そして大殉教があったこと、それ自体は疑うべくもないことであるし、菅野氏、浦川司教ともに紹介している棄教者半三郎の白状書からは、後に江戸で殉教した宣教師フランシスコ孫右衛門(日本名)が大籠地方でも潜伏布教を行っていた事実がうかがわれる(ちなみに、菅野氏をはじめ、この孫右衛門を姉崎正治氏の説を採用しフランシスコ会宣教師バラザスであるとしている論考は多い。それを確定された事実として紹介しているものも多々ある。しかし、浦川司教はこの説に否定的で、バラザスもしくはフランシスコ・デ・サン・アンドレいずれかは不明との立場をとっている。松田毅一氏も同様である)。孫右衛門は大籠においては、支倉常長とともにローマに渡った左沢の九郎左衛門宅に宿っていたであろうことが推測されている。
  東北地方のキリシタンについて考える際、鉱山というのは最重要のキーワードである。当時、鉱夫の人数確保のためもあって、鉱山はいわば治外法権のようなものとなっており、他国からの流入者も数多くいた。禁教下のキリシタンにとっても、そこは絶好の隠れ場であり、九州、関西、江戸などで迫害を受け逃亡してきた者たちなども含め、多くの者が東北各地の鉱山を渡り歩いていたと考えられる。ディエゴ・カルヴァリョ師の広瀬川での殉教(1624年)以後、迫害は一層の苛烈さを極めており、山深い大籠の地の鉱山に、このような流入者が多く入り込んだことは想像に難くない。その者たちがキリシタンのグループを形成し、そして孫右衛門など宣教師の布教が進んでいったのだと思う。いずれにせよ、浦川司教が指摘するとおり、大籠へのキリスト教伝播は支倉常長の帰国(1620年)以降のことと考えるのが、まずもって妥当であろう。

しかし、何もわたしは、このような俗説を一笑に付そうという訳ではない。むしろ、なぜそのような説が生まれるような文書がこの地に残っているのかといったことのほうに興味が沸く。昭和初期に村岡典嗣氏によって発見された『裁増坊物語』がその文書なのであるが、それは荒唐無稽な記述が多々ありつつも、幾多の史実を含んでいる。わたしにはその検証をする力はないが、抄記と概略(『切支丹と製鉄―宮城・岩手県際三町歴史シンポジウム記録』)を読む限り、この文書は、何かしら惹きつけられる魅力を帯びている。史実か否かという検証ではなく、この伝承の成立について、今後、民俗学的な研究がなされることを望んでやまない。

 
 大籠キリシタン殉教公園クルス館

大籠キリシタン殉教公園クルス館

資料館の横の急な階段を上り詰めると、クルス館という建物がある。舟越保武氏の彫刻が3体(十字架像、マグダラのマリア、クララ)展示されている。2階に延びるらせん階段を上り、バルコニーに出て一帯を眺めた。実に見事な眺望だ。鳥の声に混ざって、間延びした牛の鳴き声が聞こえてくる。

  資料館でもらった略地図をもとに、その他の史跡を順に回ってみた。

 
 上の袖首塚

上の袖首塚

県道に戻り、農協支所横の道を上がっていく。15分ほどで上の袖首塚に着く。地蔵の辻で処刑された者の遺族が、その首を袖の下に隠して持ち帰り埋めた場所と伝えられている。
 
台転場

台転場

そのまま10分ほど進んでいくとT字路にぶつかるので右に曲がる。沢のほとりにあるのが台転場。集落の狭窄部であり他に通行する道のないこの場所で、踏絵を使ってキリシタンであるか否かを検分したのだという。南無阿弥陀仏と彫られた碑が建っている。解説板にはこの場所での亡霊譚が書かれていて、たわいない記述が余計に切なさを募らせる。
 
 千松大八郎の墓

千松大八郎の墓

来た道を元に戻り、T字路をわずかに越え、沢に架かった小さな橋を渡ると、藪のようななかに千松大八郎の墓がある。解説板の右下に三つに割れた石が横たわっているのだが、それがそうであるらしい。左には発見者である村岡典嗣氏の碑文が建てられている。

  この近くにもう一つ山神といって、千松兄弟が持っていた「デウス像」を祀ったとされる場所があるそうなのだが、地元の人に訊きながら探しつつも、見つけることができなかった。

 
 カトリック大籠教会

カトリック大籠教会

資料館近くまで戻り、大籠教会へ。普段は無人で入ることはできないが、たまたま草刈りをしていた方が2人いらして、聖堂内をみることができた。祭壇左手のマリア像、および左右の壁に直接描かれた十字架の道行は、舟越氏の姪である欠畑美奈子氏によるもの。とくに道行の絵は、力強さと柔らかさが同居したような線が美しくすばらしいものだった。
  ここから大柄沢キリシタン洞窟に向かう。片道30~40分ほどの行程で、鬱蒼とした山道を進む。ちょっとした軽登山のおもむきである。携帯電話も圏外になった。薄暗い細い山道を歩いていると、往々にしてこちらでいいのだろうかと不安になったりするものだが、方向を示す案内板が細かく立てられているので安心できた。数日前の雨がいまだ乾いていないぬかるんだところもあったが、草を刈ったばかりのようで歩きやすかった。
  額の汗をぬぐいながらようやく近くまで来たとき、一台の軽トラックがバックで近づいてきた。作業着姿の3名の男性が乗っている。この人たちが草刈りをなさっていたようだ。一人の方が「洞窟? 乗っけていこうか」と声をかけてくださったが、せっかくここまでがんばって歩いてきたのだから最後までと思い断った。
 
 大柄沢キリシタン洞窟入り口

大柄沢キリシタン洞窟入り口

洞窟の入り口にたどり着く。藪蚊が耳元でやかましい。なかを覗き込もうとしたとき、突然鳥が飛び立ち驚かされた。入り口からただ覗き込むだけでは何も見えず、懐中電灯で奥を照らしてみる。最前資料館の職員の方が、絶対に必要だからと貸してくださったものだ。
  重い空気の立ち込める何ともいえない場所だ。洞窟の入り口付近は高さ1.3メートル、幅1メートルとのことだが、途中からその3分の2ほどに狭くなっている。しゃがんで入るのもやや厳しいといった感じだ。
 
 大柄沢キリシタン洞窟内部

大柄沢キリシタン洞窟内部

奥行は10メートル。奥には祭壇らしい段が2段掘られていて、下の段にはマリア像が置かれている。右側の壁に小さな穴があるが、ろうそく立てを挿した穴らしい。すべて、岩盤に掘られたものであって、湿り気を帯びた掘り跡が生々しい。
  こんな山奥の硬い岩肌を、おそらく粗末なものであったろう鑿でここまで掘りあげるには、いったいどれほどの時間を要したのだろう。そして、この狭い空間のなかで、いったい何人の信徒が、寄り添ってミサにあずかっていたのだろう。そんな思いが切れ切れに頭のなかを巡っていたが、正直、岩と湿った空気とに圧迫され、とても長い時間なかにいることはできなかった。

  戻りがてら大籠教会付近の史跡を巡る。

  洞窟に向かう途中には祭畑刑場がある。
祭畑刑場

祭畑刑場

地蔵が3基建っているが、一つには首がない。逃亡者を撃ち殺した場所だという。そのすぐ横には処刑を恐れた者が隠れたという穴があり解説板が立てられているが、笹などで鬱然としていて、どこが穴なのかほとんど分からない。
  教会のすぐ下にあるのが元禄の碑。
 元禄の碑

元禄の碑

南無阿弥陀仏と彫られている。怪談めいた話が書かれている解説板は倒れてしまっていた。祭畑、上野の両刑場の遺体を集め「供養した」場所とのことである。
  県道に出て道を挟んだ向かい側には、オシャナギ様と呼ばれている上野刑場がある。
 上野刑場(オシャナギ様)

上野刑場(オシャナギ様)

ちょっとした高さの塚で、寛永17(1640)年に94名が所成敗となった場所とのこと。数基の地蔵(1基はやはり首がない)とともに後年建てられたようである子安観音像がある。

  教会に戻ると、先ほどの草刈りの人たち、教会にいた人と車に乗っていた人、合わせて5人の方が庭先で遅い昼食の卓を囲んでいた。先ほど声をかけていただいた礼を述べると、「一緒にどう?」といってくださり、図らずもご馳走にあずかることになった。そのあたりに自生している筍をただ焚き火で焼いただけのものを食べさせてもらったのだが、筍にはこんなに濃厚な味があるのかと驚くほど美味だった。自家製の漬物もご飯もとてもおいしく頂いたが、暑さのなか長い距離を歩いてきたので、缶ビールがはらわたに心地よく染み渡った。
  話をうかがうと、教会周辺およびキリシタン洞窟までの道の草刈りは、まったく自主的なボランティアだという。教会の関係者でもなければ、ほとんどの方は信者でもない。ただ、この大籠教会が好きだから、こうした作業をしているのだそうだ。笑顔で話される皆さん一人ひとりがとても魅力的に見える。
  色々と事情を話してくださった一人の方は信者とのことで、北仙台教会の所属だとおっしゃっていた。仙台からわざわざ来ているのだ。そのお話によると、整備は年に2回、夏休みに入る頃と秋とに行っているという。教会の前の看板も、洞窟までの道にある案内表示もこの方たちが過去に作られたのだそうだ(案内表示は、現在では町が立てた大きなものも隣り合って立っている)。
  また、洞窟の入り口を木材で補強したのもこの方たちなのだそうだが、それは現在老朽化が進んでいるとのこと。このまま放置しておけば、洞窟が埋まってしまう可能性もある。それを防ぐには、入り口部分だけはコンクリートで補強しなければならない。しかし、それには当然ながらある程度の費用を要する。
  大柄沢キリシタン洞窟がいかに文化遺産として貴重であるかは、訪れればだれもが納得することだと思う。他にはほとんど例のない種類の史跡であり、必ずや保存していかなければならないはずのものだ。
  前述のとおり大籠は宮城県との県境に位置し、洞窟のある場所はすでに宮城県なのである。立派な殉教公園を造られた藤沢町に何とか費用を捻出してもらいたいとも思うが、この地理的な条件からすれば難しいだろうし、地方の町の財政が極端に厳しいのは言わずもがなである。宮城県に史跡として指定してもらうのも高いハードルだろう……。だとすれば、カトリック教会が何とかできないだろうか。貴重な遺産を守るため、何かしらの動きが起こるよう願ってやまない。
  懐中電灯を返すため殉教公園資料館に戻り、女性職員の方に話をうかがった。地方のこういった施設の経営・維持の難しさを色々と聞かせていただいた。町の当初の目論見ほど、キリシタンの里ということでの盛り上がりはないという。何度か「米川のほうが」との言葉を挟まれた。次に触れるが、米川では毎年キリシタンの里まつりが挙行されている。
  お礼を述べて資料館を辞し、最終バス(といっても5時にもならない時間だが)を待ちながら考えた。キリシタンの殉教に関する研究においては、まずは宣教師が本国に送った報告書が第一の資料となる。しかし、大籠で大殉教があった頃、すでにこの地には一人の宣教師もいなかった。したがって西欧に残る文書がない(それは米川も同様である)。研究は日本側の古文献や伝承に頼るしかない。そういった意味で、地元の郷土史家の人たちは別として、多くの歴史家、研究者は、その扱いに関して多少のとまどいを感じているようにも見受けられる。しかし大籠は、ぜひ多くの人が目を向け、訪れてもらいたい土地だ。そして多少体力に自信のある方には、一つ一つの史跡を歩いて巡ることをお勧めする。車は資料館の駐車場に置かせてもらえばよい。連なる山の青さと鳥の鳴き声に包まれて、それとはまったく対照的な、暗く湿った史跡を一つ一つ訪ねてほしい。感じること、得るものは、決して少なくないはずだと、わたしは実感をもっていうことができる。

岩手県・宮城県内の史跡(3)

宮城県・米川(7月27日)
  大籠から10キロほど離れた米川の地に向かうにあたっては、主任司祭である会津隆司師の紹介で、米川教会の信徒の方に車を出していただくことになった。以前は米川へと向かうバスの便もあったようだが、現在は廃線になっている。
  昨日訪れた大籠の農協支所前バス停で待ち合わせる。バスを降りると、先に到着して待ってくださっていた。

  運転してくださるのは曽我部孝行さん。さらに案内をしてくださるとのことで、工藤長子さんが同行してくださることになった。
  まずは、大籠内で昨日見切れなかった史跡を巡った。

 
 保登子首塚

保登子首塚

保登子首塚は教会から2キロほど、県道から左側の枝道にわずかに入ったところにある3メートル程度の高さの塚。殉教者の首を埋めた場所らしい。供養碑があるとのことだが、確認できないほどに草が茂っている。
 
 トキゾー沢刑場

トキゾー沢刑場

トキゾー沢刑場はさらに県道を数百メートル行った先右側。道沿いだがやや上の方にある。トキゾーとは徒刑場のことと考えられている。
 
 ハシバ(架場)首塚

ハシバ(架場)首塚

ハシバ(架場)首塚はさらに百メートルほど先、同じく右側。これもやや高い位置にある。特徴的な平らな石が2基、寄り添うように建っている。殉教者の首を曝した場所だと伝えられている。
  いずれの史跡も、ただ車で走っているだけでは、まず見つけられないと思う。解説板はそれぞれに立てられているが、県道からは目立たない。実際、曽我部さんは以前に見つけきらなかったとおっしゃっていた。しかしこのたびは工藤さんとあれこれ目をやりながらじっくり探すことができたので、割合と簡単に見つけることができた。

  さて、これで大籠を後にし、米川へと向かう。

 
田の中に建つ後藤寿庵の墓を示す碑と墓石群

田の中に建つ後藤寿庵の墓を示す碑と墓石群

まず訪れたのは後藤寿庵の墓。
県道を抜け国道346号線に出てから6キロほどの距離のところにある。右側の枝道を入った田のなかにあるが、少々分かりにくい。しかし、工藤さんの案内があったので苦労はしなかった。
  寿庵の墓は、1951年に宮城県史編纂委員によって発見されたもので、寿庵之墓と彫られた大きな碑が建っている。その右横に十数基の墓石があるが、そのなかで天齢延壽巷主との文字があるものがその墓あるいは供養碑だという。しかし、浦川司教が指摘しているが、その根拠とするところはかなり薄弱なものである。寿庵が南部逃亡後、ふたたび仙台領へと戻ってきたというのはまったく裏付ける資料が存在しないし、考えにくいことだと思う。

  ここから国道を1キロ半ほど進み、北に藤沢方面に折れている県道に入ってしばらく行くと、海無沢三経塚がある。三経塚とは、享保年間(1716~35)に120名の殉教があり、40名ずつが3箇所に経とともに埋められた場所で、海無沢、朴の沢、老の沢とにある。現在、海無沢三経塚だけが原型をとどめている。工藤さんの話によると、朴の沢には十字架も建っていて行くこともできるが、老の沢は山のなかで、場所も詳しくは分からないとのことだった。

 
切捨場霊場

切捨場霊場

塚のあるのは小高い山の上で、途中には切捨場霊場という場所がある。3段になるように平たい石が積まれており、処刑場だったらしい。この場所は、この山の地主であった方が長い間ひそかに供養を行っていたのだが、1982年にその方が北海道に移住する際、初めて世に知られるようになった。松林のなかで薄暗く、いかにも「霊場」といった雰囲気がある。
 
海無沢三経塚

海無沢三経塚

頂上の三経塚は、やはり松に囲まれているが、塚を中心に多少の空間がある。ここで毎年6月の第1日曜日にキリシタンの里まつりの山上ミサが行われている。今年(2006年)は第1日曜日が聖霊降臨の主日と重なり参加者がやや少なかったそうだが、それでも100名ほどは集まったとのことである。
  先に、海無沢三経塚だけが原型をとどめていると書いたが、実は、塚の上の古松は10年ほど前に朽ちてしまい、2、3メートルほどの高さの切り株が残るのみとなっている。太さは直径1メートル近くもあろうか、この巨木が枝を張っていた頃とは随分と雰囲気が変わってしまったのだろうと思う。しかし、切り株の横には、1997年にサレジオ修道会の東木忠彦神父が寄贈した五葉松がすくすくと伸びている。
 
 殉教者顕彰記念碑「林界の星」

殉教者顕彰記念碑
「林界の星」

山のふもとには、米川教会によって2003年に建てられた「林界の星」と題された記念碑がある。殉教者を顕彰する大理石の立派な碑だ。
 
 カトリック米川教会所蔵のキリシタン遺物

カトリック米川教会所蔵の
キリシタン遺物

あらかじめ工藤さんが電話を入れてくださっていて、米川教会にうかがうと、畠山益子さんが出迎えてくださった。
  まずは、所蔵のキリシタン遺物を拝見させていただく。米川教会には、おそらく出山釈迦像に模したのであろう木製キリスト像や、十字の印が見られる位牌箱、聖母子像やマリア観音、キリシタン研究家只野淳氏が先祖の墓を改葬した際に出土したロザリオ、狼河原(おいのかわら)村の宗門改帳などがある。

  一通り拝見させていただいたあとで、皆さんからお話をうかがった。
  まだ聖堂が建つ前、1955年には中学校の講堂を借りて第1回の集団洗礼式が行われ、175名が受洗、集団洗礼式はその年さらに2回あり、59名、77名が受洗している。当時は民家を借り受けてミサが行われていたが、1957年に聖堂が落成された。決して大きくはない聖堂が、当時数百人の信徒であふれていたとのこと。草創当時を知る皆さんは、往時を懐かしく誇らしげに語っておられた。しかし、現在主日のミサにあずかるのは、いずれも60歳以上の方7、8人だそうだ。
  何もこれは教会の責任ではない。もちろん教会に使命があることは確かだが、若者の都市部への流出、人口減、極端な高齢化という、日本の多くの地方が抱える難問の反映である。こういったなかで一つの小教区を維持していくのは大変なことだ。会津神父も築館教会との掛け持ちの主任である。

 
 朴の沢三経塚

朴の沢三経塚

宿泊先まで送ってくださるという曽我部さんの好意に甘えさせていただき車に乗り込んだが、まだほかに見たいところがあるかと訊かれた。せっかくなので朴の沢三経塚に案内していただくことにした。
  朴の沢三経塚は、教会から向かうと海無沢のやや手前にあるが、これは地元の人にでも案内してもらわなければ、まず行き着けないと思う。道案内の表示などは何もなく、草が丈高く生い茂った丘の上に、三経塚と書かれた目印と、やや斜めに傾いた小さな十字架が建っているばかりである。工藤さんが先に立って案内してくれたのだが、道すらないようなところを、草を分けつつ颯爽と登っていかれる。途中、野いちごを摘んでいたりさえした。そんな姿には、少人数で米川の教会を支えている信徒の、明るく朗らかなたくましさを見るような気がした。

岩手県・宮城県内の史跡(4)

宮城県・仙台(7月28日)
    仙台駅からJR仙山線で2駅目、北仙台駅から徒歩5分ほどのところに、光明寺という臨済宗の古刹がある。訪れた日は雨だった。苔むした山門前の石段が、滑りやすく歩きにくい。

 光明寺の支倉常長の墓(左)とソテロの碑

光明寺の支倉常長の墓(左)とソテロの碑

  本堂裏手の墓地の一角に支倉常長の墓があり、その横には1926年に建てられたルイス・ソテロの小さな記念碑がある。
  この墓は1893年に『大言海』で知られる大槻文彦教授が発見したもので、墓所の入り口にはその記念碑が建っている。こちらは大きく立派だ。
  田中英道氏の『支倉六右衛門と西欧使節』によれば、支倉の墓とされるものは、この他に二つある。いずれも宮城県内で、一つは柴田郡川崎村(現在は町)支倉の円福寺、もう一つは黒川郡大郷町東成田の山地に孤立してある墓。田中氏は円福寺の墓がもっとも信憑性が高いように述べているが、大郷町のものも、この光明寺のものも正しいという可能性はあるようだ。
  大郷町の墓に関しては、浦川司教が浅野末治氏の説を紹介していて、それが興味深い。それによると、大郷町の墓石には「承応三年二月十七日」と刻まれてあり、元亀2(1571)年生まれの支倉が84歳まで生きていたことになる。
  一般に、支倉は遣欧使節からの帰国(1620年)後、伊達政宗の命によって棄教し、元和8(1622)年に病死したとされている。ただし、ルイス・ソテロは、支倉は政宗の表彰を受け、最期まで信仰を全うしたと教皇宛の書状に記している。しかし浅野説はこれらいずれとも異なり、政宗が支倉を表向きは転んで病死したこととし「人跡稀なる土地に彼を庇い、気永く余生を送らしめた」とするものである。
  浦川司教が指摘するとおり、この説はそう簡単に受け入れられるものではないが、何とも想像を掻き立てて止まない。大郷の人々が年々その霊を弔っているというのだから、何かしら貴種流離譚のようなものを思わせる。
  遣欧使節として慶長18(1613)年に月の浦湾を出帆し、スペイン、ローマに赴いた支倉は、7年後に帰国した。彼はスペインで洗礼を受けたのであるが、帰国してみると、時勢は大きな変化を遂げており、幕府によるキリシタン弾圧は峻厳さを増していた。伊達政宗は幕府の手前を繕う必要があり、支倉に棄教を命じた。支倉があっさり信仰を捨てたのか、そうではなかったのか、それは知る由もない。しかし彼は、個人の意思など及ばない大きな歴史の波のうねりのなかに、図らずも巻き込まれ翻弄された悲劇の人である。光明寺の小さな墓石は、榊の木の横で雨に濡れ、心なしか寂しげであった。
  ルイス・ソテロはフランシスコ会の宣教師で「神父として奥州に入り継続的布教伝道の端を開いたのは、実にソテロをもって嚆矢」(菅野義之助・前掲書)とされる人物であり、遣欧使節の実行を政宗に勧め、その一行に同伴した司祭である。過剰に情熱的な人物であったようで、その報告書には誇張や偽りも目立ち、浦川司教のソテロ評は少々手厳しい。
  ソテロは、帰国した支倉たちに同行することができなかった。しかし、日本への再渡航の思いは強く、1622年に中国船に身分を偽って乗り込み入国を果たす。しかし、すぐに捕らえられ長崎・大村の牢に送られ、1624年に火刑に処せられ、殉教を遂げた。ともに刑に処せられた4人と比べ、ソテロは火から一番離れていたため、その苦しみはもっとも長きにわたったという。

 仙台キリシタン殉教碑

仙台キリシタン殉教碑

  仙台駅西口から青葉台方面行のバスに乗り、大町西公園前バス停で下車、公園の一角、大橋のたもとに、仙台キリシタン殉教碑がある。1624年2月、真冬の広瀬川に設けられた水籠で水責めの拷問を受け殉教した、ディエゴ・カルヴァリョ師と8名を顕彰する碑である。この殉教の前には6名が火刑に処せられており、計15名の殉教があった。
  殉教碑には村岡典嗣氏により1927年に発見された、カルヴァリョ殉教に関する国内唯一の資料とされる文書が刻まれている。そこに9名の名前がある。
    高橋左々衛門 お浜ノ者
    野口二右衛門 豊前ノ者
    若杉太郎衛門 但馬ノ者
    安間孫兵衛  遠江ノ者
    小山正太夫  越前ノ者
    佐藤今衛門  若松之者
    長崎五郎衛門 なんばん人
    次兵衛    死 相模ノ者
    次右衛門   死 越中ノ者
  長崎五郎衛門がカルヴァリョの日本名である。水責めは2度行われ、最初の水責めで2人が亡くなっている。末尾の2人が死とされているので、この文書は、1度目と2度目の水責めの間にしたためられたものであると分かる。出身地がさまざまで各地にわたっていることが目を引く。
  カルヴァリョは福原の後藤寿庵のもとで司牧を行っていたが、弾圧が厳しさを増すなかそこを去り、胆沢川の上流、下嵐江(おろせ)の銀山で、キリシタンの家に身を潜めていた。しかしついに捕吏におさえられ、水沢を経て仙台に曳かれた。水籠のなかでは、膝を折って正座し他の受難者を励まし続け、真夜中、一同の最後に亡くなったという。
  殉教碑は3人の人物像から成っている。真ん中で両手を広げているのがカルヴァリョで、向かって右は農民、左が武士の像である。この場所では毎年2月の最終日曜日に、仙塩地区カトリック教会代表者合同会議主催による仙台キリシタン殉教祭が開かれている。
  碑の右側に梅の植樹があった。1977年に植えられたもので「宮城県カトリック教会百年記念植樹」「政宗公遺愛の臥龍の梅より取木」とある。後日確認してみると、これは元寺小路教会が創立百年を記念して植樹、仙台市に寄贈したもので、宮城刑務所構内に残る古木から取木されたのだそうだ。政宗を顕彰しているかのようで正直違和感を抱いたのだが、もとより教会にそんな意図はない。

 殉教碑付近から見た大橋

殉教碑付近から見た大橋

  大橋を渡ると、左手に仙台市博物館がある。ここには国宝である慶長遣欧使節が持ち帰った品々が展示されている。数々の書籍のカバーを飾っている有名な支倉常長像や、支倉宛のローマ市民権証書などである。なお、市民権証書は痛みが激しいため、原資料は期間が限定されての展示(3月7日~6月4日、9月12日~12月3日)で、その期間以外は精巧な複製が飾られている。
  博物館を後にし、青葉城址へと登った。青葉城には史跡として見るべきものはほとんどないが、見晴らしのよい場所に、有名な政宗の騎馬像が建っている。戦時中に軍事供出され、戦後偶然その頭だけが見つかり再建されたという像だ。ここから眺める仙台の街の風景はさぞ美しかろうが、あいにくの雨でかすんでしまい、何も見えない。
  伊達政宗――たとえば坂口安吾は、彼を「田舎豪傑」と断じ、その先見のなさ、見通しの甘さを辛辣に批評した(『安吾新日本地理』)。政宗は、その腹のうちに何を抱えていたのかは別として、確かにソテロを歓迎してその便宜を図り、また宣教師の派遣を願う文書を携えた遣欧使節を送り出した。しかし、使節が帰国したときには、彼は厳しさを増した幕府の禁教令に随従せざるをえず、支倉に棄教を命じ、カルヴァリョらの刑を宣告したのである。
  激しくなってきた雨のなか、わたしは一人で、その実に勇壮な騎馬像を、ただじっと見上げ続けていた。 (奴田原智明)

北海道・大千軒岳

 北海道最南端の山・大千軒岳(標高1071m)。「北の小京都」とも呼ばれ、桜の名所として知られる松前城下町の北東に位置する山で、「日本300名山」にも挙げられている。隣町の福島町から大千軒岳に入る登山コースの5合目あたりの金山(かなやま)番所跡と呼ばれる場所には、岩の上に大きな十字架があり、登山客の目を引く。さらに頂上が見える千軒平の尾根にも高さ2m以上の十字架がひっそりと建つ。初めて目にする人たちの多くは、「どうしてこんなところに十字架が?」と不思議に思うことだろう。
  この大千軒岳一帯で370年ほど前の寛永16(1639)年夏、106人のキリシタンが殉教したことを知る人は少ない。

 千軒岳頂上が見える花畑に建つ十字架

千軒岳頂上が見える花畑に建つ十字架

2006年7月最終日曜日の早朝5時、函館市内の宮前町教会に20数名が集まった。今年で47回目となる「千軒岳殉教記念ミサ」(実行委員会代表:熊谷信弘さん)に参加するためだ。当日は小雨模様。世話人の一人浅利元さんによれば「悪天候で中止したことはないよ」とのこと。「巡礼なので、雨に打たれながら殉教者に思いを馳せて登りましょう!」と励まされた。
  車に分乗し国道228号線を松前方面に向かって60km。途中、今年合併した北斗市、木古内(きこない)町、歌手北島三郎の出身地の知内(しりうち)町を通り過ぎ、登山口のある福島町に入る。
  途中立ち寄ったのは、20年前に廃線になった松前線(木古内~松前)の千軒駅跡。今ではレールも撤去され、駅があった面影は見られない。ここで巡礼登山の開会式を行い、殉教者のためにロザリオを1連唱える。各所でロザリオを唱えていき、合わせて1環をする予定と聞く。松前線があった頃は、駅まで汽車で行き、登山口までの林道約8kmを2時間以上かけ徒歩で登ったそうだ。今では、小石が跳ねて車の底に当たるデコボコ道を、車で20分も行くと「奥二股」とよばれる登山口の駐車場に着く。

雨脚が強くなる中、滑らないよう慎重に沢を渡る

雨脚が強くなる中、滑らないよう慎重に沢を渡る

  大千軒岳は函館地方の中でも雨量が多い場所だそうで、当日は小雨が降る中、登山口でカッパを着てリュックを背負い、目的の金山番所跡を目指して出発した。もうすぐ8月になろうという季節にしては肌寒い。まず小さな吊り橋を渡り、いよいよ本格的な登山道に入っていく。ガイド役で登山のベテランが先頭に立ち、道を確認しながら、知内川上流の沢沿いに歩いていく。ブナ林をはじめ広葉樹や草花が生い茂る、ほとんど人の手が入っていない山だ。途中、沢で釣り人を見かけたが、その後はだれに会うこともなかった。
  山に入る前に「熊に遭うかもしれないよ」といわれ、そのうえ「今まで、フンや足跡は見たことがあるけど」と聞くと、多少なりとも緊張が走る。だが、雨でぬかるんだ足下に注意しながら歩くのに必死で、そんなことも忘れてしまった。わずか標高400mほどの目的地だが、「北海道の山は、内地(本州)と違って実際の高さに1000mプラスした険しさ」とアドバイスを受けた。上り下りが連続し、沢の流れは冬に積もった雪で倒された樹木や雪解け水の状況で変化するため、登山道も微妙に変わり、「去年あった道が歩けない」ことも。そのため、一週間前に世話人数名が下見で登り、安全ルートを確認し目印をつけている念の入れ様だ。気づかないうちにカッパの下は汗でびっしょり濡れていた。
  この沢の周辺こそ、「千軒」とよばれるようになった由来ともいわれる、江戸時代に砂金が採れ、砂金場で働く鉱夫たちの小屋が数多くあった場所だ。

  松前藩内には、松前城下に近い大沢川流域や千軒岳金山で砂金が発見されるようになった元和3(1617)年頃から、津軽半島などを経由して砂金採取者が殺到。その中には密航者もいたが、ゴールドラッシュとなった藩は、一人でも多くの鉱夫を得たかったため、本州からえぞ地(北海道)に渡ることに寛大だった。
  そのころ、慶長19(1614)年に発せられた「キリシタン禁教令」によって、京都・大阪から70世帯余りのキリシタンが、流刑地として津軽半島の未開拓地へ送られていた。また東北各地の迫害を逃れてきたキリシタンも、まだ取り締まりのゆるかったこの地に身を潜めていたことだろう。

 キリシタン禁制の高札(トラピスト修道院蔵)

キリシタン禁制の高札(トラピスト修道院蔵)

彼らが信仰を守るため、海峡の彼方えぞ地を求め、鉱夫たちに紛れて渡っていったのも自然の成り行きだったに違いない。
  イエズス会の宣教師アンジェリス神父とカルヴァリョ神父が本部に宛てた報告書『北方探検記』(H.チースリク編)によれば、1618年から22年にかけて、二人の宣教師は、鉱夫に変装するなどして少なくともそれぞれ2度えぞ地へ渡っている。元和4(1618)年、えぞ地を最初に訪れたアンジェリス神父は、10日間の滞在中、松前城下にいたキリシタンと会い、数人に洗礼も授けた。カルヴァリョ神父は、同6(1620)年「雪の聖母」の祝日にえぞ地で初めてのミサをささげ、さらに大沢を経て千軒岳金山集落で「聖母被昇天」のミサをささげている。
  その後、アンジェリス神父は元和9(1623)年に江戸で、カルヴァリョ神父は翌寛永元(1624)年に仙台で殉教した。二人は、慶応3(1867)年教皇ピオ九世によって「日本205福者」として列福されている。

 この時代、全国で迫害が激化する中、松前藩では、地理的に江戸から遠く離れていたことが幸いして、鉱夫として働くキリシタンに対してそれほど厳しくはなかった。しかし、寛永14(1637)年に起きた「島原の乱」を境に、幕府のキリシタン禁制が強化されることによって、同16(1639)年、松前藩内にいたキリシタン106名は捕らえられ殉教した。この殉教の史実は、昭和29(1954)年に新史料として発見された松前家の正史「福山秘府・福山年暦部巻之四」で公となった。史料によれば、大沢で50人、そこから逃げた6人が日市(現上ノ国町石崎)でそれぞれ処刑され、後日さらに金山で50人が捕らえられ殉教した。
  この106人は、城下町に住む者ではなく、鉱夫としてえぞ地へ渡り砂金場近くに住んでいたキリシタンだったようだ。この後、松前藩では史実に残る殉教はないが、5年後の正保元(1644)年に児玉喜左衛門という役人が、キリシタンとして捕らえられ江戸に送られた記録があるので、藩内のキリシタンがまったくいなくなったわけではなかったようだ。しかし、残念ながらその足跡は、強化されていった「寺請制度」や「五人組制度」、「宗門改」などにより風化していき、次代に伝えられることはなかった。「キリシタン禁制の高札(懸賞訴人の高札)」を見ると、執拗なまでに激しい迫害の時代があり、信徒のつながりも次第に断たれていったことがうかがわれる。

 
 聖母のメダイ(松前城資料館蔵)

聖母のメダイ(松前城資料館蔵)

JR木古内駅前から「松前」行の路線バスにゆられて1時間半、「松城」で下車するとバス停から、1960年に再建され現在資料館となっている松前城天守が目に入る。城の辺りは、毎年5月になると桜の名所として観光客でにぎわう公園だ。資料館には、松前藩ゆかりの展示品などに混じって、町内の旧家から発見されたといわれる厨子と十字架、「聖母のメダイ」がはめ込まれた像が展示されている一角があり、来館者も足を止めて観ていた。

資料館を出て公園内にある売店に立ち寄ると、中にいた店員さんが「裏手に10分ほど歩くと松前藩主松前家の墓所があり、代々の墓石とは違って十字架の形に見える墓石や“T”のような印が刻まれた墓石がありますよ」と親切に教えてくれた。さっそく行って探すと、確かに十字架のような形をして、手を合わせた像が刻まれている墓を見つけることができた。だれの墓かは現在も不明だが、かつて堺のキリシタン医師が藩医として松前藩に招かれていたので、そのゆかりの人の墓ではないかともいわれている。

 松前家墓所内にある墓石

松前家墓所内にある墓石

  山肌の岩をつかんで歩き、いくつかの難所を越えて、途中「広い川原」という場所で、雨をさけて木の下で座ることなく休憩した。「もうすぐですよ」という声に後押しされて、歩くこと1時間、採集した金を集めていた場所とされる金山番所跡に着くと、小雨が一時止み、生い茂った緑に包まれるように十字架が見えた。当時、この辺りにも鉱夫たちの小屋が数多くあり、生活の営みがあったのだろう。
  十字架の建つ岩の手前には、殉教記念ミサを行うようになった当初に石を積み重ね作った祭壇がある。十字架は、木の枝をロープで結び合わせて作られていたが、その後金属製に替えられた。豪雪に耐え、現在3代目だ。ミサの前、十字架の周辺に伸びたツルをはらい、花を手向け、鎌で祭壇周りの草を刈る。そして、長年巡礼に参加している小山昭神父(厳律シトー会)の司式で、殉教記念ミサは始まった。

 霧雨の中での殉教者記念ミサ

霧雨の中での殉教者記念ミサ

  殉教者の名前はだれ一人分かっていない。出身も住んでいた場所も殉教した場所も特定されていない。しかし、信仰を守っていくがゆえに命を落としたキリシタンたちの営みがあったことは紛れもない事実である。緑に覆われた千軒岳が、調査を阻んでいるというより、殉教者たちを温かく包みこみ、安息の地を守っているように思えた。
  この行事が始まった当初は、100人以上が参加する年もあったという。子どもたちも親たちと一緒に参加して「広い川原」でテントを張り1泊キャンプをして、「川で釣ったヤマメが夕食のおかず」だったことも。40年前のモノクロ写真を見ると当時ののどかさが感じられる。そして、数年後に50回の節目を迎えるこの「巡礼」を、次の世代に残したいと思う気持ちが、今も有志で続けている世話人の方たちから伝わってくる。これから先のことを心配して、「ぜひ山登りが好きな神父様に来てもらい、一緒にミサをささげてもらいたい」という声も聞かれた。
  「単独で行くのは非常に難しいですよ」と千軒岳に行くことが決まった時にいわれた助言には、今回身をもって実感させられた。服装や靴など登山準備はいうまでもない。国内の殉教地の中で、行くのに苦労する場所としては最上位だろう。ただ、機会があれば再び訪れたいと思う気持ちが沸き上がる。
  一度訪ねてみたいと思う方には、来年も7月最終日曜日に行われるこの「巡礼」に参加されることをお勧めする。お問い合わせは、カトリック宮前町教会(TEL 0138-41-4224)へ。 (松野一男)

福島県・山形県内の史跡

会津のキリシタン史跡を訪ねて
  (7月17日)
  会津城下は梅雨に濡れていた。小雨の降りしきるなか、七日町駅から七日町通りを西に向かう。10分ほど歩くと、湯川に架かる涙橋(柳橋)に差しかかる。薬師堂河原の刑場に向かうキリシタンが、ここで知人たちとの別れを惜しんだという。この橋を渡り、突き当たりを右へと歩を進める。建物にさえぎられてこの道から湯川は見えないが、川沿いに北上する道である。当時、彼らには、自分たちの行き着く先がはっきりと見えていたに違いない。そこは今、キリシタン塚と呼ばれている。JAあいづ旬彩館手前を右に折れ、左手の民家が途絶えたところがそれである。カトリック会津若松教会が整備した祭壇と石碑が、あたりの風景に溶け込むかのように建っている。敷地内にある説明書きには、この地で、寛永12(1635)年、横沢丹波とその一族、および彼らが匿っていたバテレン(宣教師)が処刑されたことが記されている。会津キリシタンについて丁寧な研究を行った山内強氏の『会津のキリシタン』(昭和59年)によれば、丹波は、南山の水無村(現南会津郡田島町)のキリシタンの長であり、このときの捕縛者は60余名にも及び、バテレンは、後日、丹波の屋敷の二重壁内に潜んでいるところを捕らえられたという。ただし、バテレンがだれであったかについては言及していない。特定できる資料がないためであろう。ひっそりとたたずむこの塚は、会津地方に壮絶なキリシタンの歴史があったことを語り続けている。

 薬師堂河原のキリシタン塚

薬師堂河原のキリシタン塚

  会津地方のキリシタンの歴史は、天正18(1590)年のキリシタン大名レオ蒲生氏郷の会津入りに始まる。氏郷は、ジュスト高山右近の勧めにより、会津入りの5年前、天正13(1585)年頃受洗した。また、小西行長を信仰に導いたのは氏郷であったという。
  七日町通りを涙橋とは反対方向に10分も歩くと、レオ氏郷南蛮館がある。中に入ると1階は売店で、2階が記念館になっている。茶人であり、キリシタンであった氏郷にちなんで、メダイや十字架、茶道具が展示されている。また、氏郷が鶴ヶ城に飾った「泰西王侯騎馬の図」(重要文化財、神戸市立博物館蔵)のレプリカが置かれた茶室もある。キリスト教関連の展示物には、その出所が明示されておらず残念だったが、この会津の地にキリシタンが盛んであったことを偲ばせてくれた。
  氏郷は会津入り後4年半で逝去するが、キリシタンであった家臣たちが、東北地方一帯を巡回する宣教師に宿を提供し、その活動を支援した。支城の城代であった蒲生郷安(米沢)、蒲生郷成(白石)、岡越後(猪苗代)ほか、後に棄教して江戸幕府の切支丹奉行となった井上政重(後の筑後守)も氏郷のキリシタン家臣の一人であった。
  傘と地図を手にして、氏郷の墓所を目指しさらに西に向かう。会津若松市を南北に走る明神通りに出てそれを南下すると、左手に「蒲生氏郷公菩提寺興徳寺入口」の案内板が見える。矢印どおりに行けば、墓所はすぐそこである。レオ氏郷南蛮館からは徒歩で15分ほどかかる。ここにあるのは遺髪を収めた五輪塔で、遺骨は京都大徳寺に埋葬されている。
  氏郷は、京都の自宅で40歳の若さで亡くなった。その最期には、高山右近も付き添っていたそうだ。また、その突然の死に、毒殺の疑いもあるという。きっと氏郷自身も、それを疑ったことだろう。さぞ無念であったに違いない。
  辞世の歌――
     「限りあれば 吹かねど花は散るものを 心みじかき春の山風」

 (7月18日)
  猪苗代駅に降り立つと、昨日より雨脚が強くなっていた。とにかく、地元の観光パンフレットの地図を確かめて北へ歩き出す。パンフレットには、「天司のけやき」と呼ばれる欅が紹介されている。それによると、「天司」の名は、隠れキリシタンがこの木を信仰の対象として、天主(ゼウス)を天司と偽って呼んだことに由来するという。地図どおりに20分ほど歩くと、それらしい巨木が確かにあった。その木は、岩でできた塚の上に、パンフレットの挿絵のとおり3本の枝を茂らせている。しかし、現地には案内板一つない。しかも、堂々たる巨木であるのに、その存在が忘れ去られてしまったかのような物悲しさがあたりに漂う。それは、降りしきる雨が演出したものだろうか。決してそうではない。この地の歴史そのものが、この物悲しさを演出しているのだ。

 天司のけやき

天司のけやき

  「天司のけやき」から西に10分ほどのところに、亀ヶ城跡が公園となって残っている。そばに「さる川」と呼ばれた小川があり、そこに処刑場があったといわれているが、今はその記憶をとどめるものを目にすることはできない。
  さらにそこから北上し土津神社へと向かうと白い立派な鳥居があり、その前を右に折れ、しばらく進むと「キリシタン殉教之地」と書かれた白杭が見えてくる。そこから杉林の中へと下り、下りきったところに、バテレン塚と呼ばれる苔むした石塚が3基並んである。カトリック会津若松教会は、ここに碑を建立し、猪苗代のキリシタンの歴史を後代に伝えている。この碑には、次のように記されている。「キリシタン大名レオ蒲生氏郷の治世に猪苗代には城代岡越後を始め多くの熱心な信者があったが、元和8年(1622)より弾圧が起こり、寛永元年(1624)将軍家光の命により棄教に応じない信徒は悉く処刑され亡骸はこの地に葬られた」。
  猪苗代の城代を勤めた岡越後は、イエズス会を招いて修道院を置き、情熱的な宣教を展開し、結果、領内のほとんどの者がキリシタンになったという。しかし、幕藩体制が堅固になるとともに、各藩も幕府の方針であるキリシタンの取り締まりを強化せざるをえなくなった。慶長17(1612)年、徳川家康はキリシタン禁教令を天領に発布、慶長19(1614)年にはこれを全国に広げた。元和2(1616)年の徳川秀忠の禁教強化にともない、翌元和3(1617)年、大村で宣教師4名が、元和5(1619)年、京都で52名が殉教した。このような全国的なキリシタン弾圧の高まりの中で、元和8(1622)年、岡越後は城代職を追われ、碑文にあるとおり、その後激しい弾圧が続いた。城代追放後の岡越後については、諸説があり確定されていない。山内強氏は前掲書において、岡越後は、城代を追われるとき一時の方便として棄教したが、その後家族ともども殉教し、その亡骸はバテレン塚に葬られた可能性があることを強調し、3基の塚が岡越後の家族の墓と伝えられていることも指摘している。
  この日、たまたまカトリック新聞の広告で見つけ予約しておいた、猪苗代に住む数少ないカトリック信者が夫婦で経営するコテージ・シャムロックに宿をとった。ずぶぬれの服を脱ぎ、温泉に入る。体が芯から温まり、疲れが癒されていくのが分かる。その後、奥様の手料理をいただきながら、楽しい会話に心もほぐれた。
  しかし、一人になると、またあのとき感じた物悲しさが蘇ってくる。猪苗代の土地にしみこんだ歴史が、その鮮血が、耳を傾ける者を捜して声を発している。その夜、宿で貸していただいたキリシタン関係の資料を読みながら、その声に耳を傾けた。

 (7月19日)
  翌日は、コテージのご主人が、ステンドグラス工房ジョイハウスに車で案内してくれた。実は、私はすでにインターネット上でこの工房を訪れている。というのも、猪苗代のキリシタンについて、ジョイハウスのホームページに掲載されていたからである。ここでは、本稿の歴史記述の底本とした山内強著『会津のキリシタン』も貸していただいた。
  ジョイハウスを出た後、ドミニコ会雪の聖母修道院にも案内していただく。質素だが、趣のある修道院である。猪苗代には小教区聖堂がないので、彼らにとってはここが教会だ。忙しいにもかかわらず、修道女たちが温かく迎えてくれた。
  彼女たちにお礼を述べて、さらに駅まで送っていただいた。そして、つかの間の出会いを感謝し、会津を後にした。

 龍泉禅寺の子安観音

龍泉禅寺の子安観音

寺に残されたキリシタンの記憶
龍泉禅寺の子安観音

  会津若松駅から福島まで戻り、山形新幹線でさくらんぼ東根まで向かう。駅から関山街道に向けて車で10分ほど行ったところに、目的地の龍泉禅寺がある。関山街道は仙台へ抜ける江戸時代からの街道であり、そこには関所があった。龍泉禅寺は、ちょうどこの街道にさしかかる場所に位置する。
  ここに一風変わった子安観音が安置されている。東根市有形文化財に指定されているこの子安観音は、同市教育委員会が設置した説明書によれば、「かくれキリシタンの遺物である聖母マリア像である」とのことである。
  本堂に入ると右手奥に、その子安観音はあった。ベールを被った女性が片ひざを立てて座り、右手で男児を抱え、切れ長の目が彼に向けられている。まだ髪のない幼い男児は右手を垂直に立てて、女性の胸のなかで、しっかりと彼女と向き合っている。その産着は、和風の寝間着ではなく、襟と袖にフリルのような装飾がほどこしてある。
  若い僧侶が、この子安観音のいわれを説明してくれた。
  江戸の昔、酒田の港から来た一人の旅人が一夜の宿を求めてこの寺に立ち寄った。彼は、翌日、関山街道を越えて仙台へ向かうという。そこには関所があり、役人に見つかると危ないので、自分が戻ってくるまで預かってもらいたいと、この子安観音を住職に託した。次の日、彼は旅立ったが、二度と戻ってくることはなかった。長く寺の床下に隠して置いたのだが、キリシタン禁制が解かれた頃、新たに光背をこしらえて安置し、今に至っている。
  全国には、マリア観音と呼ばれるものが多数存在している。それらの中には、明治中期以降、外国人旅行者のためのお土産品として製造されたものや、安産や子育てを祈願するための子安観音であるものも含まれているという。その所有者がキリシタンであったことが確証されない限り、正式にマリア像であると言い切ることはできない。
  しかし、少なくとも、かつてこの地方に盛んであったキリシタンの記憶を、こうして守っているお寺があることに、いたく心打たれた。

称名寺の起請文
  (7月20日)
  山形県赤湯駅からフラワー長井線に乗り、終点の荒砥駅で下車する。終着駅にふさわしい、のどかな町だ。2時間に一本程度しか発着しないホームの線路脇では、白い蝶々が花と戯れている。気づくと、昨日までの雨も止んでいる。
  米沢盆地を流れる最上川が山形に向けて山のはざ間を抜ける途中に、江戸時代に佐野原村と呼ばれた現白鷹町がある。当時、最上川は新庄、山形、米沢を結ぶ重要な通路であった。当然、奥羽地方をひそかに巡回する宣教師たちも、この川を利用して移動していた。キリシタン取り締まりの中の危険な移動を可能にしたのは、彼らに宿を提供したキリシタンたちであった。高木一雄氏は、その著『東北のキリシタン殉教地をゆく』のなかで、佐野原の宿主として、ジュアン主計と隼人を挙げている。
  駅から歩いて15分のところに、天平18(746)年開山の真義真言宗称名寺がある。境内で写真を撮っていると、老夫婦がやってきて、本堂に上がった。続いて住職が法衣をまとって本堂に現れた。ささやかな法要が始まろうとしているようだ。すでに座していよいよお経を唱え始めようとした住職は、私に気づいて立ち上がり、「見学ですか」と話しかけてくれた。「ええ、そうです」と答えると、お寺のパンフレットをくださり、さらに、いったん母屋に引っ込み、手が離せないご自分の代役の女性を連れてきてくださった。突然のことに、彼女は少々戸惑っている様子だったが、私には、その親切が心にしみた。
  ここ称名寺には、キリシタンの歴史を伝える起請文と十字架が残されている。朗々としたお経が響く中、彼女は丁寧に説明してくれた。
  かつてキリシタンが盛んであった頃には、この寺からほど遠くないところに教会があったという。宣教師たちも、この地にしばしば立ち寄った。見せていただいた起請文は寛永13(1636)年に書かれ、隼人、主計、助三郎、弥七郎が名を連ねている。彼らは、当時の主だったキリシタンであり、厳しい取り調べを何度も受けた末、この起請文を書かされたという。また、十字架は、最上川で漁をしていた漁師の網に引っかかったものとも、古い家の屋根裏から出てきたものとも伝えられているそうである。縦9cm、横7.5cmの金属製の十字架とINRIの文字、そしてキリストのみ姿は、当時のキリシタンの厚い信仰とその苦悩を今に伝えている。

米沢北山原殉教地
  荒砥を後にし、今回の最後の目的地、米沢に向かう。米沢駅から市役所方面を目指して歩き、消防署を過ぎ、しばらくして左に折れると、木立の中に建つ白い十字架が見えてくる。近づくにつれ、緑と白のコントラストの美しさが際立つ。十字架に架けられたキリストと、それを見上げる聖母マリアと使徒ヨハネ。これら3体の像は、寛永5年12月(1629年1月)にこの地で処刑された甘糟右衛門ら53名の殉教300年祭の折に、ドイツから求め、建立されたものである。ここが、多くのキリシタンが処刑された米沢藩の刑場跡、北山原殉教地である。

北山原殉教地

北山原殉教地

  米沢は、会津藩主レオ蒲生氏郷のキリシタン家臣、蒲生郷安が天正19(1591)年から城代を勤めたが、慶長3(1598)年、上杉景勝が会津藩主となったことを受け、城代も景勝の家臣直江兼続に代わり、慶長6(1601)年には、徳川家康によって減封された景勝が米沢藩主となった。この景勝の重臣であったのが、前出の甘糟右衛門である。
  殉教者列福調査委員会編『愛の証 ペトロ岐部と187殉教者』によると、甘糟は、江戸でルイス・ソテロ神父から洗礼を受け、一族はじめ、家臣や知行地の農民ら数多くの人を洗礼に導いた。
  しかし、前述したように、幕府のキリシタン取り締まりはますます強化され、奥羽地方の諸藩もそれに倣うほかなかった。とくに、元和9(1623)年、徳川家光の将軍就任式に合わせてキリシタン50人を火あぶりに処した江戸の大殉教後、諸藩はそれに呼応して、次々とキリシタンを捕らえ、処刑したのである。
  甘糟右衛門とともに処刑された者のなかには、仙台、白石、会津若松、佐渡などの出身者もいた。また、前掲の高木一雄氏によれば、北山原殉教地でのキリシタンの処刑は、記録に残されたものだけでも、寛永2(1625)年から慶安2(1649)年にまで及んでいるという。
  北山原殉教地の十字架像の手前右には、十字架が刻まれた自然石が置かれている。その土台に埋め込まれた銅版には、次のように記されている。
  「この十字碑は徳川幕府の切支丹禁令により寛永5年12月18日永遠の生命を求めてここで死刑に服したカトリック信者米沢藩士甘糟右エ門一族が無足町の自宅でひそかに信仰の対象としていたものである。それが無足町の立身不動尊内に遺してあったので米沢カトリック教会内の北山原会が彼の処刑後335年目の昭和39年12月18日この地に移したものである」
  過去の記憶の継承は、途絶えてしまうことがある。それは、時の流れのなかで仕方のないことかもしれない。しかし、私たちは、遺されたものに時を取り戻すことができる。それに出会ったとき、遺されたものは私たちのなかで再び生き始めるのである。 (下窄英知)

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