教皇ベネディクト十六世の148回目の一般謁見演説 聖パウロの回心

9月3日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の148回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、7月2日から開始した聖パウロの人と思想に関する新しい連続講話の3回目として、「聖パウロの回心」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 今日の講話は、聖パウロがダマスコへの道で行った体験、すなわち普通、聖パウロの回心と呼ばれる体験を考察します。紀元1世紀の30年代前半、まさに聖パウロが教会を迫害した時期の後、ダマスコに向かう道で、パウロの生涯における決定的な出来事が起こりました。当然のことながら、さまざまな観点から、この出来事について多くのことがいわれています。確かなことは、ある転換、すなわち観点の逆転が起こったということです。こうして聖パウロは、思いがけず、それまで自分にとって最高の理想だったすべてのこと、自分の人生の存在理由ともいえるすべてのことを「損失」、「塵あくた」とみなし始めました(フィリピ3・7-8参照)。いったい何が起こったのでしょうか。
 このことに関してわたしたちは2種類の資料を手にしています。第一の、もっともよく知られている資料は、ルカの手による記述です。ルカは使徒言行録の中で3回、この出来事について語ります(使徒言行録9・1-19、22・3-21、26・4-23参照)。おそらく普通の読者はいくつかの詳しい記述にしばらく目をとめたくなることでしょう。たとえば、天からの光、地に倒れたこと、呼びかける声、目が見えなくなった新たな状況、目からうろこのようなものが落ちていやされたこと、そして断食です。しかしながら、これらの詳しい記述のすべては、出来事の中心を指し示しています。すなわち、復活したキリストが輝く光として現れ、サウロに語りかけました。そして、サウロの考えと人生そのものを造り変えたのです。復活したかたの輝きによってサウロは目が見えなくなりました。こうしてサウロの内面の現実が外的な形で示されました。サウロは真理を、すなわち光であるキリストを見ることができませんでした。その後、洗礼によってキリストに決定的なしかたで「はい」ということによって、サウロの目は再び開き、本当の意味で見ることができるようになりました。
 古代教会において洗礼は「照らし」と呼ばれました。なぜなら、この秘跡は光を与え、人が本当の意味で見えるようにするからです。このように神学的に示されることが、パウロにおいては肉体的な形でも実現しました。内面において目が見えないことからいやされた彼は、ものがよく見えるようになりました。それゆえ聖パウロは、思想によってではなく出来事によって造り変えられました。すなわち、あらがうことのできない復活したかたの現存によって造り変えられました。聖パウロはこの復活したかたをもはや疑うことができませんでした。この出会いの出来事はあまりにも明白なものだったからです。この出来事はパウロの生涯を根本的に変えました。わたしたちは回心についてこのような意味で語ることができますし、また語らなければなりません。この出会いが聖ルカの記述の中心です。ルカはおそらくダマスコの共同体で生まれた物語を用いた可能性が強いと思われます。アナニアや、通りの名前、パウロが滞在した家の主人の名前が出てくることなど、地域的な色彩からそう考えることができます(使徒言行録9・11参照)。
 パウロの回心に関する第二の資料は、聖パウロ自身の手紙です。パウロはこの出来事について詳しく語ることはしません。それは、パウロが、皆がパウロの話の本質的な部分を知っていることを前提にできたためだと思います。すべての人が、パウロが迫害者からキリストの熱心な使徒に変わったことを知っていました。そして、この変化は、パウロの考察によって起きたのではなく、復活したかたとの出会いという、強烈な出来事によって起こりました。パウロは詳しいことは述べませんが、次のもっとも重要な事実に何度も触れます。すなわち、パウロもイエスの復活の証人だということです。パウロはイエスの復活についてイエスご自身から直接に啓示を受け、また使徒としての使命を受けました。この点に関するもっともはっきりした箇所は、救いの歴史の中心に関するパウロの記述に見いだされます。すなわち、イエスの死と復活と、証人たちに現れたことです(一コリント15章参照)。パウロもエルサレム教会から受けた、最古の伝承のことばを用いて、彼はいいます。イエスは十字架につけられて死に、葬られ、その後、復活の後に、復活したかたはまずケファ、すなわちペトロに現れ、その後十二人に、次いで500人の兄弟に現れました。そのうちの多くは当時なお生きていました。次いでヤコブに、その後すべての使徒に現れました。伝承から受けたこの記述にパウロは次のように付け加えます。「最後に・・・・わたしにも現れました」(一コリント15・8)。このようにしてパウロは、これが自分の使徒職と新しい生き方の基盤であることを示します。他にも同じことを示す箇所があります。「わたしたちはこのかた(イエス・キリスト)により・・・・恵みを受けて使徒とされました」(ローマ1・5参照)。また、「わたしは・・・・わたしたちの主イエスを見たではないか」(一コリント9・1)。これらのことばで、パウロはこれをすべての人が知っていることを暗示しています。最後にもっとも有名な箇所がガラテヤ1・15-17に見られます。「しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、み心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐに血肉に相談するようなことはせず、また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした」。この「自己弁明」において、パウロは、自分も復活したかたの証人であり、復活したかたから直接に自分の使命を与えられたことをはっきり強調します。
 そこでわたしたちは、使徒言行録とパウロの手紙という二つの資料が根本的な点で一致しているのを見いだすことができます。すなわち、復活したかたがパウロに語りかけたこと。パウロを使徒職へと召し出したこと。パウロを真の使徒、すなわち復活の証人とし、異邦人に、すなわちギリシア・ローマ世界に福音を告げ知らせるという特別な任務を与えたことです。同時にパウロは次のことを学びました。すなわち、パウロは復活したかたと直接の関係をもつとはいえ、教会共同体に加わり、洗礼を受け、他の使徒と一致して生きていかなければならないということです。このようにすべての人と一致して初めてパウロは真の使徒となることができます。コリントの信徒への手紙一の中でパウロがはっきりと述べるとおりです。「とにかく、わたしにしても彼らにしても、このようにのべ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした」(一コリント15・11)。復活したかたについての宣教はただ一つです。なぜなら、キリストはただ一人だからです。
 これらすべての箇所が示すとおり、パウロはこの瞬間を回心の出来事として解釈しません。なぜでしょうか。多くの説がありますが、わたしは、理由はきわめてはっきりしていると思います。このパウロの人生の転換、すなわちパウロの存在全体の変容は、心理的過程の結果でも、知的・道徳的な成熟ないし進展の結果でもありません。むしろそれは、外からもたらされました。それはパウロの思想からではなく、キリスト・イエスとの出会いからもたらされたのです。その意味で、それはたんなる回心でも、パウロの「自我」の成熟でもなく、自分自身の死と復活でした。パウロという存在は死に、復活したキリストとともに新しい存在が生まれたのです。これ以外の形でこのパウロの革新を説明することはできません。心理的な分析はどれも問題を解明することも解決することもできません。キリストとの強烈な出会いという出来事だけが、そのとき起きたことを理解するための鍵です。すなわちそれは、死と復活、ご自身を現し、パウロに語りかけたかたによる革新です。わたしたちはこのようなもっとも深い意味で回心について語ることができますし、また語らなければなりません。この出会いは真の意味での革新です。この革新が、パウロの基準をすべて変えたからです。今やこういうことができます。それまでパウロにとって本質的・根本的だったことが、パウロにとって「塵あくた」になりました。それらはもはや「利益」ではなく損失です。なぜなら、今やキリストに結ばれた生活だけが価値あるものだからです。
 しかしわたしたちは、パウロが出来事の中にものも見えずに閉じこもったと考えるべきではありません。真実はその反対です。なぜなら、復活したキリストは真理の光であり、神ご自身の光だからです。この光がパウロの心を広げ、すべての人に向けて開きました。そのときパウロは、その人生の中で、すなわち彼の受け継いだもののうちで、よいもの、真実なものを失いませんでした。むしろ彼は、律法と預言者の知恵と真理と深さを新たな形で理解しました。彼はそれらを新たな形で自分のものとしたのです。同時にパウロの理性は、異邦人の知恵にも開かれました。心をすべてキリストに開くことによって、パウロはすべての人と開かれた対話を行うことができるようになりました。そして、すべての人に対してすべてのものになることができるようになりました。こうしてパウロは本当の意味で異邦人の使徒となることができたのです。
 ここでわたしたち自身を顧みて、このことがわたしたちにとって何を意味するのかを問いかけてみたいと思います。パウロの回心という出来事の意味はこれです。キリスト教は、わたしたちにとっても、新しい哲学や新しい道徳ではありません。わたしたちはキリストと出会うことによって初めてキリスト者だといえます。もちろんキリストは、パウロをすべての異邦人の使徒にしたときのようなあらがいがたく光に満ちた形で、わたしたちにご自身を現すことはありません。しかし、わたしたちもキリストと出会うことができます。それは、聖書を読むことによって、祈ることによって、教会の典礼を生きることによってです。わたしたちはキリストの心に触れ、キリストがわたしたちに触れるのを感じることができます。このようにキリストと個人的な関係をもち、復活したかたと出会うことによって初めて、わたしたちは真の意味でキリスト者となるのです。そして、そこからわたしたちの理性が開かれます。キリストの知恵と、豊かな真理がすべて開かれます。ですから主に祈ろうではありませんか。どうか主がわたしたちを照らしてくださいますように。そして、現代世界にあっても、ともにいてくださる主と出会う恵みをわたしたちに与えてくださいますように。そうしてわたしたちに、生き生きとした信仰と、開かれた心と、すべての人に対する大きな愛を与えてくださいますように。この愛こそが世界を変革することができるからです。

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