教皇ベネディクト十六世の150回目の一般謁見演説 フランス司牧訪問を振り返って

9月17日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の150回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、9月12日(金)から15日(月)まで、ルルドの聖母ご出現150周年記念に際して行ったフランス司牧訪問を振り返りました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  今日の集いはわたしに、最近の数日間に行ったフランスへの司牧訪問のさまざまな出来事について振り返るよい機会を与えてくれます。ご存じのように、この訪問は、聖ベルナデッタ(Bernadette Soubirous 1844-1879年)への聖母のご出現150周年にあたってのルルドへの巡礼で頂点に達しました。わたしはこの摂理的な訪問を可能にしてくださった主に心から感謝します。また、パリ大司教、タルブとルルドの司教と、それぞれの司教の協力者、そして、さまざまな形でわたしの巡礼が成功するためにご協力くださったすべての人々にあらためて御礼申し上げます。きわめて丁重にわたしを迎えてくださったフランス共和国大統領と他の当局のかたがたにも心から感謝申し上げます。
  訪問はパリから始まりました(9月12日)。このパリで、わたしは理念的な意味で全フランス国民と会い、愛するフランスに敬意を表しました。教会はフランスにおいて2世紀以来、文明化のための根本的な役割を果たしたからです。ちょうどこのような背景の中で、必要とされる政治的領域と宗教的領域の健全な区別が成長したことは興味深いことです。それはイエスの有名なことばに基づいています。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(マルコ12・17)。ローマの貨幣に皇帝の肖像がしるされているなら、そのために皇帝に従わなければなりません。しかし、人間の心には造り主の刻印がしるされています。造り主はわたしたちのいのちの唯一の主です。それゆえ、真の意味での世俗性が、霊的な次元を無視することはできません。むしろ、根源的な意味で、霊的な次元こそがわたしたちの自由と地上の現実の自律を保証するのだということを認めるべきです。このことは造り主である知恵の教えによって可能となります。人間の良心はこの知恵の教えを受け入れ、実現するからです。
  このような展望のもとに「西方神学の起源とヨーロッパ文化の根底」というテーマに関する詳細な考察は位置づけられます。わたしはこの考察を、象徴的な意味によって選ばれた場所で、文化関係者との集会において行いました。集会はコレージュ・デ・ベルナルディンで行われました。故ジャン=マリー・リュスティジェ枢機卿は、12世紀にシトー会士のために建てられ、若者が勉学を行ったこの建物を文化的対話の中心として用いることを望みました。それゆえ、わたしたちの西方文化の起源ともなったこの修道院神学が、まさにここに存在していたのです。わたしの講演の出発点は修道生活についての考察でした。修道生活の目的は「神を求めること(quaerere Deum)です。古代文化が深刻な危機に瀕した時代の中で、信仰の光に導かれた修道士たちは、師の道を選びました。すなわちそれは、神のことばに耳を傾けるという道です。それゆえ修道士たちは聖書を愛する偉大な人々です。また修道院は、知恵の学びやとなり、聖ベネディクトが名づけたように、「主に仕えるための(dominici servitii)」学びやとなりました。こうして神の探求は、自ずから、修道士たちをことばの文化へと導きました。「神を求める(quaerere Deum)」ために、修道士は神のことばの跡をたどり、こうして、みことばをいっそう深く知るようになりました。言語の奥義を探求し、言語の構造を理解することが必要でした。聖書を通してわたしたちにご自分を示してくださった神を求めるために、世俗的学問も重要となりました。それは言語の奥義を深く知るためです。そこから、修道院の中で「教育(eruditio)」が発展しました。この「教育(eruditio)」によって文化の形成が可能となりました。だからこそ「神を求めること(quaerere Deum)」、すなわち神へと歩むことは、昨日も今日も師の道であり、あらゆる真の意味での文化の基盤であり続けます。
  建築も、神を求めることの芸術的な表現です。そして、パリのノートルダム司教座大聖堂は普遍的な意味をもった模範です。この壮麗な聖堂の中で、聖なるおとめマリアの夕の祈りを司式することができたことをうれしく思います。わたしはこの祈りにおいて、フランス全土から集まった司祭、助祭、男女修道者、神学生に勧めました。神のことばに敬虔に耳を傾けることを第一に優先してください。おとめマリアを最高の模範として仰いでください。その後、ノートルダム大聖堂の前で、わたしは多くの熱心な若者たちにあいさつしました。長い徹夜の祈りを始めようとするこの若者たちに、わたしはキリスト教信仰の二つの宝を示しました。すなわち、聖霊と十字架です。聖霊は人間の知性を、知性を超えた地平へと開き、神の愛の美しさと真理を理解させます。そして神の愛は、まさに十字架のうちに示されます。何ものもこの神の愛からわたしたちを引き離すことはできません。そしてわたしたちはこの神の愛を、キリストの模範に従って自分のいのちをささげることによって経験します。その後わたしは、5つのアカデミーの中心であるフランス学士院に短時間立ち寄りました(9月13日)。アカデミーの一つ(科学アカデミー)の会員であるわたしは、同僚たちと会うことができてたいへんうれしく思いました。その後、わたしの訪問はアンヴァリッド広場での感謝の祭儀で頂点に達しました。使徒パウロのコリントの信徒へのことばを繰り返しながら、わたしはパリとフランス全土の信者に願いました。生きた神を求めてください。神は、聖体のうちに現存するイエスのうちに、そのまことのみ顔をわたしたちに示してくださいました。そして神は、神がわたしたちを愛してくださったように、わたしたちも兄弟を愛するようにと促します。
  それからわたしはルルドを訪ねました。わたしはルルドで、「記念巡礼」を行う何千人もの信者にただちに加わることができました。「記念巡礼」では聖ベルナデッタの生地も訪れました。すなわち、聖ベルナデッタが洗礼を受けた洗礼盤のある小教区教会堂。ベルナデッタが少女時代、たいへん貧しい生活を送った「住まい(カショ)」。おとめであるかたが18回ベルナデッタに現れたマッサビエールの洞窟です。午後、わたしは伝統的なろうそく行列に参加しました。この行列は、神への信仰と聖母への信心のすばらしい表現です。まことにルルドは、光と祈りと希望と回心の地です。この地は神の愛の岩を基盤として立てられています。神の愛はキリストの栄えある十字架のうちに最高の形で現されたからです。
  幸いな偶然の一致により、先の主日(9月14日)の典礼は十字架称賛を記念しました。十字架は優れた意味で希望のしるしです。十字架は愛の最高のあかしだからです。マリアは十字架につけられたかたの最初の完全な弟子です。ルルドのマリアの学びやで、巡礼者は、自分の人生の十字架をキリストの栄えある十字架の光のもとで見つめることを学びます。マッサビエールの洞窟でベルナデッタに現れたマリアが行った最初の仕草は、まさしく十字架のしるしでした。マリアは、黙って、ことばを発することなしに十字架のしるしを行いました。そしてベルナデッタは、震える手で、マリアに倣って、十字架のしるしを行いました。こうして聖母はキリスト教の本質への最初の導入を行いました。十字架のしるしはわたしたちの信仰のすべてです。わたしたちは、注意深い心で十字架のしるしを行うことによって、完全な救いの神秘へと導かれます。聖母のこの仕草のうちに、ルルドのメッセージのすべてがあります。神はわたしたちのためにご自分をささげるほどわたしたちを愛してくださいました。これが十字架のメッセージです。すなわち、「死と栄光の神秘」です。十字架はわたしたちに次のことを思い起こさせてくれます。苦しみなしにまことの愛はありません。苦難なしにいのちを与えることはできません。多くの人がこの真理をルルドで悟ります。ルルドは信仰と希望の学びやです。ルルドは愛と兄弟への奉仕の学びやでもあるからです。このような信仰と祈りの雰囲気の中で、フランス司教団との重要な集会が行われました。この集会は深い霊的交わりの時でした。この集会の中で、わたしたちはともに、共通の希望と司牧的課題とをおとめであるかたにゆだねました。
  次の行事は、何千人の信者とともに行った聖体行列でした。この信者の中には、いつものように多くの病者も含まれました。至聖なる秘跡の前で、わたしたちのマリアとの霊的一致はいっそう強く深いものとなりました。神はわたしたちに、御子を聖体のうちに仰ぎ見ることのできる目と心を与えてくださったからです。主の前でのこの何千人の人々の沈黙は感動的なものでした。それは空虚な沈黙ではありませんでした。むしろそれは、祈りと、主の現存の自覚に満たされた沈黙でした。主はわたしたちのために十字架に上げられるまでわたしたちを愛してくださったからです。最後に、9月15日の月曜日の悲しみの聖母の記念日は、特別な形で病者のためにささげられました。ベルナデッタが初聖体を受けた養護施設の礼拝堂を短時間訪れた後、わたしはロザリオの聖母大聖堂の前でミサを司式しました。このミサの中でわたしは病者の塗油の秘跡を授けました。病者と彼らを看護する人々とともに、わたしは、十字架の前でマリアが流した涙と、復活の朝に輝いたマリアのほほえみについて考察しました。
  親愛なる兄弟姉妹の皆様。多くの豊かな霊的たまものに満たされたこの使徒的訪問ができたことを、ともに主に感謝したいと思います。特に主に賛美をささげたいと思います。なぜなら、マリアは聖ベルナデッタに現れることによって、人々をいやし、救う神の愛と出会うための特別な場を世に開いてくださったからです。ルルドにおいて聖なるおとめはすべての人をこう招きます。地上を、天国という最終的な祖国へと向かう旅路と考えなさい。実際、わたしたちは皆、旅人です。わたしたちは、わたしたちを導いてくださる聖母を必要としています。そしてルルドで、聖母のほほえみはわたしたちを招きます。神はいつくしみ深いかたです。そして神は愛です。この自覚と、深い信頼をもって歩みなさいと。

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