教皇ベネディクト十六世の2008年9月21日の「お告げの祈り」のことば 主のぶどう畑で働く者

教皇ベネディクト十六世は、年間第25主日の9月21日(日)正午に、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸の窓から、中庭に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻 […]

教皇ベネディクト十六世は、年間第25主日の9月21日(日)正午に、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸の窓から、中庭に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイタリア語)。
「お告げの祈り」の後、教皇は、まずハリケーンの被害に遭った中米地域への支援に関して次の呼びかけをイタリア語で行いました。
「最近の数週間、カリブ諸国――とくにハイチ、キューバ、ドミニカ共和国――とアメリカ合衆国南部――とくにテキサス州――はハリケーンによって深刻な被害をこうむりました。わたしはあらためてこの愛する国民のかたがたに、彼らを祈りのうちに特別に心をとめることを約束します。さらにわたしは大きな損害を与えられた地域にただちに支援が届くことを願います。主に願い求めます。少なくともこの地域においてすべてに優って連帯と兄弟愛が行われますように」。
ハリケーン「グスタフ」によりハイチとドミニカ共和国では8月27日までに22人が死亡しました。また、ハリケーン「アイク」はハイチで9月4日までに137人の犠牲者を出し、9月13日に米国テキサス州に上陸すると、米国内でも17日までに51人の犠牲者を出しました。
続いて教皇は、9月25日にニューヨークで開催される国連ミレニアム開発目標に関するハイレベル会合に向けて、イタリア語で次の呼びかけを行いました。
「今週の9月25日(木)、ニューヨークで、国連第63回総会と関連して、2000年9月8日のミレニアム宣言で定められた目標の達成を検証するハイレベル会合が開催されます。世界のすべての国の指導者が集まるこの重要な会議にあたり、わたしはあらためてお願いしたいと思います。どうか勇気をもって、極度の貧困と飢餓と教育の欠如と流行病の蔓延を根絶するために必要な手段を採用し、適用してください。これらの災害は何よりももっとも無力な人々を苦しめているからです。こうした取り組みは、世界が経済的困難に直面する現在の時においてとくに犠牲を求めますが、他国の助けを必要とする諸国の発展と、世界全体の平和と繁栄のために少なからぬ貢献を行います」。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  覚えておられるかもしれませんが、教皇に選ばれた日、わたしはサンピエトロ広場におられた大勢の人々に向けて、自然に、主のぶどう畑の働き手として自分を紹介しました。ところで、今日の福音(マタイ20:1-16a参照)の中で、イエスはぶどう畑の主人のたとえ話を語ります。この主人は、一日の違った時間に労働者を招いて自分のぶどう畑で働かせます。そして夕方になって、全員に同じ賃金、すなわち1デナリオンを支払います。すると9時に呼ばれた人々が不平をいいます。1デナリオンが、神がすべての人に約束するたまものである、永遠のいのちを表すことは明らかです。しかし、「後にいる者」と思われる人こそが、このたまものを受けて「先」になり、「先にいる者」が「後」となるおそれがあります。このたとえ話の第一のメッセージは、主人がいわば失業を許すことができないということのうちにあります。主人はすべての人が自分のぶどう畑で働くことを望みます。実際、招かれることがすでに第一の報酬です。主のぶどう畑で働き、主に仕え、主のわざに協力できること。このことがそれ自体で、あらゆる労苦に報いるはかりしれない報酬です。しかし、このことがわかるのは、主とその国を愛する者だけです。反対に、報酬だけのために働く者は、このはかりしれない宝の価値に気づくことができません。
  このたとえ話を語るのは、まさに今日記念される、使徒福音書記者聖マタイです。わたしはマタイが自らこのことを経験したことを強調したいと思います(マタイ9・9参照)。実際、マタイはイエスに招かれる前は徴税人をしていました。そのため彼は罪人とみなされ、「主のぶどう畑」から除(の)け者にされていました。しかし、イエスが収税所を通りかかり、マタイを見て、「わたしに従いなさい」といわれたとき、すべてが変わりました。マタイは立ち上がってイエスに従いました。マタイは徴税人からすぐにキリストの弟子となったのです。神の考えのおかげで、「後にいる者」だった彼は「先」になりました。わたしたちにとって幸いなことに、神の考えは世の考え方と異なるからです。主は預言者イザヤの口を通していわれます。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なる」(イザヤ55・8)。わたしたちはパウロの特別聖年を行っています。この聖パウロも、主のぶどう畑で働くよう主に招かれたことを感じる喜びを体験しました。そして彼はどれほどの働きを行ったことでしょう。けれども、パウロが自ら告白しているとおり、それは彼のうちで働く神の恵みによるものです。この恵みによってパウロは教会の迫害者から異邦人の使徒へと造り変えられました。だからパウロはいいます。「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」。しかしすぐにパウロは続けていいます。「けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしにはわかりません」(フィリピ1・21-22)。パウロは、主のために働くことがすでに地上において報いであることをよく知っていました。
  1週間前、わたしはルルドでおとめマリアを崇敬できたことをうれしく思います。おとめマリアは主のぶどうの木の完全な枝です。この枝から、わたしたちの救い主イエスという、神の愛の祝福された実が育ちました。マリアの助けによって、わたしたちがいつも喜びをもって主の招きにこたえることができますように。そして、天の国のために労苦して働けることのうちに幸いを見いだすことができますように。

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