教皇ベネディクト十六世の2008年9月28日の「お告げの祈り」のことば ヨハネ・パウロ一世について

教皇ベネディクト十六世は、年間第26主日の9月28日(日)正午に、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸の窓から、中庭に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻 […]

教皇ベネディクト十六世は、年間第26主日の9月28日(日)正午に、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸の窓から、中庭に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイタリア語)。
「お告げの祈り」の後、教皇は、イタリア語で次のあいさつを行いました。
「夏の季節が過ぎ去り、わたしは明後日バチカンに戻ります。この季節に多くの恵みをわたしに与えてくださった主に感謝します。とくにわたしはシドニーでのワールドユースデー、ブレッサノーネで過ごした時期、サルデーニャ訪問、そしてパリとルルドへの使徒的訪問のことを考えています。そしてわたしは、この公邸に滞在できたことを考えています。わたしはここでとても暑い時期によく休み、働くことができたからです。カステル・ガンドルフォの共同体の皆様に心からごあいさつ申し上げます。司教、市長、警察の皆様にも心から感謝します。皆様、有難うございます。またお会いしましょう」。
教皇は今年、国内・国外司牧訪問とブレッサノーネでの休暇期間を除き、7月2日から夏季をカステル・ガンドルフォの教皇公邸で過ごしました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  今日の典礼は二人の息子に関する福音のたとえを示します(マタイ21・28-32参照)。二人の息子は父親から父親のぶどう園で働くように命じられます。一人の息子はすぐに「承知しました」といいましたが、その後、出かけませんでした。もう一人の息子は初め「いやです」とこたえましたが、その後、考え直して、父の望みに従いました。イエスはこのたとえ話によって、ご自分が、悔い改めた罪人を何よりも愛することを強調します。そして、救いの恵みを受けるためにわたしたちに必要なのはへりくだりであることを教えます。聖パウロも、今日わたしたちが黙想するフィリピの信徒への手紙の箇所の中で、わたしたちがへりくだるよう勧めます。聖パウロはいいます。「何ごとも利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考えなさい」(フィリピ2・3)。これがキリストの抱いていた思いです。キリストはわたしたちへの愛のゆえに神の栄光を捨て、人間となり、十字架の死に至るまで身を低くされました(フィリピ2・5-8参照)。ここで用いられる「エケノーセン」というギリシア語は、文字どおりキリストが「自分を無にした」ことを表します。そして、優れた意味で謙遜なしもべであるイエスの深いへりくだりと限りない愛をはっきりと示します。
  これらの聖書の箇所を考察するとき、わたしはすぐに教皇ヨハネ・パウロ一世(在位1978年8月26日-9月28日)のことを思い起こします。まさに今日、わたしたちは教皇ヨハネ・パウロ一世の30回目の命日祭を迎えます。ヨハネ・パウロ一世は聖カロロ・ボロメオ(1538-1584年)の標語である「謙遜(Humilitas)」を自らの司教としての標語に選びました。このただ一つのことばは、キリスト教的生活の本質を要約するとともに、教会の中で権威をもって奉仕するよう招かれた者に不可欠な美徳を示します。きわめて短期間の教皇職の間に行った4回の一般謁見の中で、ヨハネ・パウロ一世は、その特徴である親しみやすい口調で、何よりも次のことを述べました。「わたしは主が愛された一つの美徳だけをお勧めしたいと思います。主はこういわれたからです。『わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしに学びなさい』。・・・・『たとえどれほど偉大なことをしたとしても、こういいなさい。「わたしどもは取るに足りないしもべです」』」。そしてヨハネ・パウロ一世はいいます。「しかし、わたしたちは皆、その反対に、自分を示そうとする傾きがあります」(『ヨハネ・パウロ一世の教え』:Insegnamenti di Giovanni Paolo I, pp. 51-52)。わたしたちは謙遜をヨハネ・パウロ一世の霊的遺産と考えることができます。
  この美徳によって、教皇ルチアーニは33日間で十分人々の心に入り込むことができました。教皇は説教の中で、家族の思い出から民衆の知恵に至るまでの具体的な生活の出来事を例に用いました。教皇の素朴さは、堅固で豊かな教えを伝える道具となりました。比類のない記憶力と豊かな教養に恵まれていた教皇は、この教えを教会と世俗の著作家の多くの引用によって美しく語りました。それゆえ教皇は聖ピオ十世(在位1903-1914年)に続く、この上ないカテキスタでした。ピオ十世はヨハネ・パウロ一世と同郷であり、聖マルコの司教座(ヴェネツィア)、また後に聖ペトロの使徒座の前任者でもありました。教皇は同じ一般謁見の中で述べました。「わたしたちは神の前で取るに足りない者であると感じなければなりません」。続けて彼はこういいました。「わたしはみ母の前にいる幼子であることを恥としません。わたしはみ母を信じます。わたしは主を信じます。わたしは主が示してくださったことを信じます」(同:ibid., p. 49)。このことばは教皇の深い信仰をあますところなく示しています。このような教皇を教会と世界に与えてくださった神に感謝したいと思います。そして、教皇の模範を大切にしたいと思います。教皇と同じ謙遜を深めるために努めようではありませんか。この謙遜をもって、教皇はすべての人、とくに小さい者、いわば遠く離れた人にも語りかけることができたのです。この恵みを、主のつつましいはしためである至聖なるマリアに祈り求めたいと思います。

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