世界代表司教会議(シノドス)第12回通常総会 提題解説に対する日本の教会の公式回答

世界代表司教会議(シノドス)第12回通常総会 リネアメンタ(提題解説)に対する日本の教会の公式回答書 「教会生活と宣教における神のことば」をテーマに2008年10月5日から26日までバチカンで開催される第12回シノドスの […]

世界代表司教会議(シノドス)第12回通常総会
リネアメンタ(提題解説)に対する日本の教会の公式回答書

「教会生活と宣教における神のことば」をテーマに2008年10月5日から26日までバチカンで開催される第12回シノドスのために、提題解説(リネアメンタ)が準備され、司教協議会としての正式回答書の提出が求められていた。 これまで2007年度定例司教総会(2007年6月18日~22日)において、2007年8月末日までに各教区と男女修道会・宣教会総長管区長から提出された諸意見に基づき、シノドス代表参加者の髙見三明大司教が作成し、特別臨時司教総会(2007年10月5日)で審議することが決定されていた。提出された回答書をこの特別臨時司教総会で検討した結果、第一部(リネアメンタに対する日本司教団の提言)と第二部(リネアメンタの質問に対する回答まとめ)の構成とし、最終的に11月1日の常任司教委員会で決定し、11月末に教皇庁シノドス事務局に提出した。以下はその公式回答書である。

「教会の生活と宣教における神のことば」
世界代表司教会議第12回通常総会(2008年10月5日~26日)
提題解説(Lineamenta)の質問に対する回答
第一部

日本カトリック司教協議会

《提題解説の質問に対する回答について》
日本カトリック司教協議会は、提題解説とその質問全体を考慮した結果、質問のすべてに答えるよりも、次回シノドスのテーマに関して、現在最も重要かつ緊急と思われる点を提示し、それらについて重点的にシノドスで討議されることを要望する。なぜなら、世界レベルの会議であるシノドスは、現代の教会に共通する課題を取り上げ、それらについて全世界の教会で共通理解を持ち、実現していくことを目指すべきと考えるからである。
したがって、日本カトリック司教協議会としては、この第一部を公式回答とし、日本の教会全体から得られた回答を要約したものを第二部として提示することとする。なお、この第一部は、提題解説の序論5番のシノドスの目的にいくらか呼応している。

《提言》
1. 聖書の統合的理解を目ざす
シノドスは、旧約聖書と新約聖書のつながり、旧約聖書の難解な箇所の真の意味の読み取り、啓示の発展を考慮した聖書全体の明快な説明などについて、世界的視野で指導し、理解を促す必要がある。啓示、教導職、信条、典礼との有機的関係も考える必要がある。したがって、「聖書解釈学の適当な方法を奨励すること」(序論5番)も大切である。

2. 信仰教育(カテケージス)と聖書の関係
教会はかつて教義の証明のために聖書を単に援用していた嫌いがある。またこれまでは要理教育が重要視されてきた(その点『カトリック教会のカテキズム』は聖書と聖伝とのつながりを考慮し、聖書と要理を統合した理想の形に近づけようとしていると思われる)。しかし、これからは信仰を支えるためにまずは聖書と向き合うという姿勢が大切であろう。ところが、現段階ではまだ聖書を軸とした要理教育はまとめ上げられていない。信仰宣言の根拠づけを聖書で補強するのではなく、聖書を出発点として信仰に向き合うよう指導することが今後の課題である。ただし、聖書が典礼や教会の教えと歴史の中で理解されてきたことも忘れてはならず、聖書偏重は避けるべきである。

3. 生活と聖書の関係
キリスト者は、一般的にまだ、信仰を生きるために聖書を十分活かしているとは言えない。レクチオ・ディヴィーナだけでは不十分であり、みことばを生活と結びつけながら理解し、それを互いに分かち合い、生活に生かすことが重要である。現実の中に神の働きがあるということを読み取ることが重要なので、もっと自分自身で読み取り、伝えていかなければならないだろう。聖書が信者の信仰生活に浸透し、それを生かすようになるためには具体的にどうすればよいか、これはこれからも継続して取り組むべき大きな課題である。

4. 「世界の貧しい人に慰めと希望を与えること」
 これは、提題解説の序論5番でシノドスの主要な目的の一つして挙げられているが、本文に反映されていない。貧困問題は現代世界の深刻な問題の一つである。全世界の教会の実践の中から吸い上げられた回答をもとにして、シノドスで、聖書が苦しむ人、悩む人、貧しい人にとって真に慰めと希望になるための具体策が示されることを求める。

5. 諸宗教対話における聖書
2006年FABC主催で開催された「アジア宣教大会」のテーマは「アジアにおけるイエスの物語 “The Story of Jesus in Asia” 」であった。この内容は、「生活の中で、イエスをどう語るか」、「他の宗教を信じている人の中でイエスをどう語るか」、「アジアの文化の中でイエスをどう語るか」という3つの主題で深められた。アジアの諸宗教と諸文化およびアジアの人々の生活の中で、キリスト教経典としての聖書、「教祖」としてのキリスト、キリスト教教義などを前面に出すのではなく、「イエスの物語を語る」という方法で、より普遍的に人間性の根源に訴えることが大切であると思われる。これに関連して、「福音宣教とインカルチュレーションを正しく導くこと」(序論5番)もシノドスの重要な務めであると考える。

「教会の生活と宣教における神のことば」
世界代表司教会議第12回通常総会(2008年10月5日~26日)
提題解説(Lineamenta)の質問に対する回答
第二部

日本カトリック司教協議会

N. B.
(1) 日本のカトリック教会は、日本人の信者約45万人、外国籍信者約50万人から成るが、合わせても全人口の1%に満たない。しかし、460年近い歴史、学校教育、さまざま福祉活動などによって日本社会に少なからず影響を与えてきた。
(2) 本回答は、① 16教区のうち14の教区、② 日本カトリック管区長協議会(男子)および ③ 日本女子修道会総長管区長会から提出されたものをシノドス代表がまとめ、特別臨時司教総会(2007年10月5日)において確認されたものである。しかし、これは、司教協議会の公式回答ではなく、日本の教会の声をある程度反映した回答である。

序論 なぜ神のことばについてのシノドスを行うのか

序-1 シノドスに現代的な意味を与える「時のしるし」とシノドスへの期待
A. 時のしるし
(1) 日本社会:(a) 世俗主義、消費主義、IT革命。(b) 少子高齢化、自殺や殺傷、離婚や家庭内暴力、いじめ、心の病の増加、環境保全。(c) グローバル化の中での市場原理主義、能率優先、弱者排除の論理、国内経済格差の拡大、ワーキング・プア。(d) 日米軍備再編と改憲の動き、平和運動、テロ対策問題。(e) 多文化共生、絶対神の不在、相対主義、教育環境の不具合。(f) ニュー・エイジやセクトへの関心、神を知らない人間・熟年・高齢者による心の拠り所、真の解放・救いの希求。聖書への興味の高まり。
(2) 教会内:(a) 主日ミサ参加者の減少、青少年の教会離れ、召命の減少、信仰と生活および教会と社会の遊離、信徒の役割の増大。(b) 聖書に親しむ人の増加、聖書の普及、聖書の講座・勉強会・分かち合いの増加。司祭や信徒リーダーの養成が急務。殉教の意義の理解。

B. シノドスへの期待
※ ほとんどの信者がシノドスということばを知らない。
(1) 現代の教会が抱える諸問題の原因について討議し、今回の提題の内容をすべての信者が実践し身につくような施策と具体的なプログラムを立案していただきたい。
(2) 神のことばを聞き分かち合う運動が教会の中に定着するために、信徒の生活における聖書の位置づけを明確にし、神のことばに基づいたキリスト者としての生き方について具体的指針を出し、信徒が積極的に神のことばを伝えていくよう励ます。
(3) 現代の人々、特に青少年や苦しみ傷ついた人たちに、神のことばが人生の根源的な意味と希望を与える力となるように、具体的な司牧的指針を示す。
(4) 非キリスト教的世界の只中にある宣教地の教会が宣教司牧を推進する上での示唆。
(5) 聖書の捉え方や解釈に関する教会の明確な公式見解を全信者に浸透させる文書。

序-2前回の聖体についてのシノドスと今回のシノドスとの関係
(1) 聖体と神のことばは、ミサの構造そのものが示しているように、ともに、復活した主の現存を教会に体験させ、教会を生かし変えていく糧であるから、不可分の関係にある。その意味で両シノドスは補完関係にあり、従来の「秘跡中心」から「聖体と聖書中心」へバランスよく移行する教会の動きを推進することになる。
(2) 聖体は信仰者だけに与えられるが、神のことばは信仰者以外の人にも与えられ、大きな影響を及ぼす。教会は、聖体に養われて、神のことばを告げ知らせる使命を持つ。

序-3. 聖書の体験や実践、聖書を研究するグループ
A. 聖書の体験や実践
(1) レベル別:個人、家庭、小教区、教区、修道会、修道院、カトリック学校や施設など。
(2) グループ別:信徒、小・中・高生、女性、高齢者、求道者、幼稚園や学校の職員や保護者、諸運動のグループなど。
(3) 種類:(a) 個人:聖書通読、聖書愛読マラソン、写聖。(b) 祈りの集いと分かち合い:Lectio Divina、聖書100週間、聖書深読会、セブン・ステップ(AsIPA)。(c) 勉強会:司祭の指導による主日の朗読聖書を題材とするなど。(d) 講座:聖書講座、Lectio Divina入門講座、キリスト教入門講座、学校での宗教授業。(e) 黙想会やみことばの祭儀。(f) グループ・ミーティング:傾聴のトレーニング、「神のことばを伝えるための委員会」企画の集会や研修会など。(g) 病者訪問、少年院・刑務所慰問、ホームレス援助、アルコール依存症者援助などの実践。(h) 聖地巡礼

B. 聖書研究
(1) 初歩的な研究をする小さなグループは多い。教区レベルでの聖書研究グル-プのない教区もある。
(2) 全国的に、幼稚園・学校の保護者、信徒同士、修道共同体で司教、司祭、専門家と共に行っている。『ゼーヘル』(毎日の聖書朗読の手引き)を用いた勉強会。教会学校リーダーによる聖書の研究と分かち合い。

第1章 啓示、神のことば、教会

1-1. 救いの歴史における神のことばに関する知識
A. 啓示、神のことば、聖書、聖伝、教導職に関する信者の理解
(1) 多くの信者が、それらが人々を神へ導くために大切であると理解している。しかし、必ずしもその一つ一つを明確に意識し、日常の信仰生活に役立てているとは言えない。
(2) 聖書や聖伝などは、個人や共同体が出会う困難、苦しみ、救いへの渇望が理解され、共感されるところから出発しなければ、深く理解されることはない。
(3) 聖伝に基づく聖書の理解を絶えず心がけ、教会全体の理解を具体的に進める方法を考える必要がある

B. 信者による神のことばのさまざまな意味の違いの理解
(1) 信仰教育、日常生活の中での祈り、みことばに触れる体験によって理解が異なる。

C. イエス・キリストが神のことばの中心であることの理解
(1) 多くの信者は、このことをある程度理解しているが、イエスの生き方とみことばを自分の生活の中心に据えることがうまく出来ていない。

D. 神のことばと聖書の関係
(1) イエス・キリストは神のことばそのものであり、神の霊感によって書かれた聖書はこのイエス・キリストを告げ知らせ、救いの恵をもたらすものである。
(2) 一般的に神のことばとして旧約聖書を理解するのは難しい。聖書の時代背景や文化等を知るための努力と勉強が必要であり、生活に生かすために祈りと努力が大切。

1-2 神のことばと教会
A. 神のことばと教会の一員としての自覚および宣教への参加との関係
(1) 教会共同体と共に神のことばを聴き、それを実生活に具体化する勧めを説教で聴くとき キリストのからだである教会への帰属意識を深めるし、その使命である宣教についても連帯責任を感じざるを得なくなる。これは日本教会の課題でもある。
(2) 信者は「神のことばで生かされ生きる教会のあり方」をどのように具体的に示してよいか難しいと感じている。信徒の宣教参加のためにも、司牧的配慮と司祭の指導が不可欠。

B. 聖書と聖伝の関係
(1) 一般に、聖書と聖伝は当然尊敬をもって受け入れられ、適切に関係づけられているが、聖伝について基本的な教育はまだ十分になされていない。
(2) 教導職には、教会の伝統的な解釈や意味、教父たちや神学者たちが教会の歴史の中で教えてきたことに基づいて聖書を読み深めることが重要であることを教える務めがある。

C. カテケージスにおける聖書の利用
(1) 一般に、信仰教育において聖書は重視されており、神のことばに基づいてなされている。 (2) 司牧者は、信仰教育における聖書の重要性をさらに認識し、カテキスタを養成すべき。
(3) 要理問答形式あるいは聖書の勉強のどちらかに偏らないようにすべきである。

D. 宣教における教導職の重要性
(1) 教導職の重要性と責務は一般信徒にもかなり認識されていると考えられる。自己流の読み方を避けるために、司牧者による適切な個人指導や全体を対象とした講座が必要。
(2) 信徒が求めているものに応えられるような教導職の責務の果たし方が求められている。 (3) 教導職は、権威主義的にならず、文書も、高圧的ではなく平易な文章で提示すべき。

E. 明確にすべき点、強調すべき点
(1) みことばは「読む、見る」態度より「聞く」態度で受けとるべきもの。
(2) キリスト教が道徳と化すことを避けるべきである。神のことばが魂に働きかけ、いのちの力となることを実感することのできるはっきりとした養成がまず必要である。
(3) 明確にすべき点は「キリスト=啓示の完成」、「教会」と「聖書」と「聖伝」との関係。

1-3 神のことばにおける教会の信仰のさまざまなしるし
A. 『啓示憲章』の受容状況
(1) 啓示憲章は、至る所で聖書に対する関心を高めたが、聖書の専門家が不足している。
(2) 信徒はほとんど読んでおらず、学んだはずの司祭もあまり実践していないと思われる。

B. 『カトリック教会のカテキズム』の受容状況
(1) 司牧者が呼びかけて家庭に一冊そろえるよう努力している。ただし、利用は一部に限られている。一般の信者や求道者には分量と内容の難しさのため敬遠されがちである。
(2) 日本司教協議会発行の『カトリック教会の教え』の方が多く読まれている。

C. 神のことばの宣教における叙階された奉仕者(司教、司祭、助祭)の役割
(1) 叙階された奉仕者は、生活に密着した福音の読み方を学び、黙想と実践によっていわば福音を体験し、信者にわかりやすく、生活に響くように伝える。
(2) 司教は、教皇との一致のうちに「神のことば」を権威をもって解釈し、その基本的な要素をできるだけ平易なことばで説明し、信者が日々みことばに生きるよう導き促す。

D. 神のことばと奉献生活の関係
(1) 信者は、神のことばを徹底的に生きる人が奉献生活者であると理解している。
(2) 奉献生活者は「神のことば」であるキリストとそのからだである教会に徹底的に奉献され、永続的に結ばれることによって、神の恵みと永遠の救いのよろこびあかしする者。

E. 司祭養成における神のことば
(1) 神学校では、聖書の勉強以外に定期的にみことばの分かち合いをしている。
(2) 神学生は、現在の聖書研究にそって学び、神のことばの釈義を今の自分に生かす具体的な解釈をし、神のことばに生かされ、キリストの出会いを深めていく体験をすべき。
(3) 神学生には、特に信徒・修道者・司祭が神の前に同じ立場でともにみ言葉を分ち合う方法と実践を習慣づけることが重要である。
(4) 神学生は、神のことばで人々を養う人となってほしい。現代に生きる信徒に世界的視野、特に正義と平和問題にも視野を広げられる指導ができるようになる必要もある。

F. 神の民における神のことばに関する教育
(1) キリストを中心とした信仰共同体をつくるために、神の民の各々が自分の役割を果たしつつ、民全体が、神のことばに生かされ熱誠と喜び、励まし、必要な対話、議論、希望に力づけられるようなコミュニケーションを促進させる必要がある。
(2) 神の民の中での神のみことばに関する養成は、司教の責任のもと、継続的、組織的、有機的、体系的であることが必要である。

1-4 神のことばとしての聖書
A. 現代のキリスト信者が熱心に聖書を探求する理由
(1)「聞く」だけの時代から「自由に読める」今、聖書を学び、心の糧を得たいとの渇望。
(2) 種々の問題と向き合い、現実を深く生きているからこそ、みことばに真摯に耳を傾ける。戦争や貧富の格差、人生の意味を真剣に考え、神のみ旨を知るために聖書を探求する。 (3) 聖書を重視する「分かれた兄弟たち」との出会いと対話を通して、カトリック信者は、自分たちもすでに持っているみことばの宝庫という遺産を再発見しつつある。

B. 聖書の信仰生活に対する影響
(1) 聖書は生き方の根源を示し、信仰生活を鼓舞し、力と糧を与えている。
(2) 奉献生活者の生活形態はみことばの影響を一日中持続させるためにあると言える。

C. 非キリスト者や知識人の間での聖書の受容状況
(1) 聖書は、一般にキリスト教の聖典として知られ、最も多く読まれている書物である。一般の人は、偉人物語や古典文学として、またヨーロッパの教育・文化の理解のために読む。知識人は自分の知的関心事に共感できる聖書の部分だけを読む傾向がある。彼らの間では聖書の知識が教養のしるしとなっているが、信仰には結びつかない場合が多い。
(2) 一般の人は、天地創造、処女懐胎、友のために命を捨てること、死と復活などが理解できないというが、福音を告げられるなら、造り主とのきずなを自覚できるかもしれない。
(3) 教会が、分りやすく、近づきやすい形で聖書を提示し、多くの人がどのように聖書を読み、学べばよいかを教える指針を出せばよい。

D. 聖書の扱い方、聖書に関する問題
(1) 日本の社会では、聖書が恣意的に解釈され、それが宣伝されている。新宗教団体やカルト的セクト集団によって利用されていることもある。
(2) 信者たちに、聖書を正しく理解するための基礎知識を得させ、彼らが、全聖書とくに旧約聖書の霊的およびキリスト教的意味を発見するよう助けることが急務である。
(3) 「教導職」にある司祭たちも、適切かつ十分に聖書を理解しておく必要がある。

E. 霊感と聖書の真理
(1) 一般に信徒の間では、霊感と聖書の関係に関して充分な理解がなされていないようだ。

F. 聖書の霊的な意味
(1) 霊的な意味が神の意図した最終的な意味であることを理解している人はあまりいない。
(2) 聖書を自己流で解釈しないために、『ゼーヘル』(毎日の聖書朗読の手引き)などを読む。

G. 旧約聖書
(1) 主日のミサで読まれるようになったが、新約聖書に比べて読む人が少ない。たとえば次のような理由が挙げられる:かつてある司祭は信徒が旧約聖書を読むのを禁じた、分厚い、内容が難しい、旧約の神は父性的で厳しい、残虐な場面や掟が多い、時代が古く、異民族の固有名詞が多いなど。
(2) 説教やカテケージス、聖書講座で、旧約と新約は一体をなしており、前者なしには後者は理解できないことを、実例を挙げて解説される必要がある。

H. 福音書についての知識と読み方について
(1) イエス・キリストはユダヤ人であることをもう少し詳しく説明する必要がある。
(2) 不十分であるが、現実の生活の中で福音の豊かさに気づき、助けられている。

I. 難しい箇所と対応の方法
(1) イスラエル中心思想、戦争、殺人、異教徒の絶滅、掟の列挙。申命記7:1-8; 民数記21:1-3、21-35; ヨシュア記6:1~7:2; 8:1-29; サムエル記上13; 15; 詩編137:9他。
(2) マリアの処女性と懐胎、悪霊、イエスの奇跡、イエスの兄弟の登場、マルタとマリアの対比、マタイ10:34-39; 20:1-16、神の子の死、復活、最後の審判、黙示録他。
(3) 哲学・神学・聖書について知識を備えている聖職者と修道者や信徒と共に協力し、研鑽、切磋琢磨することで、聖書理解に新たな光りと刷新をもたらすと期待される。

1-5 神のことばへの信仰
A. 神のことばと信仰
(1) 一般に信徒は、自分の信仰生活をいつもみ言葉に照らして軌道修正したり、みことばから信仰の力、いやし、慰めを得たり、そこから社会生活を変革したりするまでは至っていないと思われる。教会は、聖書によって信仰を新たにしていく方法を信者に示すべき。

B. 信者は何のために聖書を読んでいるか。
(1) みことばを通して示される神の望みと計画を受け止め、その望みに適うような生き方や振る舞いができるため、弱いときの神の恵みと導きを求めるため、自分の霊魂の救いのため、イエスや神の愛を感じ、その愛を他の人に実践するために聖書を読んでいる。

C. 聖書朗読の識別基準
(1) 「神のことば」、「救いのことば」、「いのちのことば」、「真理」として信じる。
(2) 教会公認の聖書である。教会における聖書の解釈の下に、信仰の導きに従って「神が我々の救いのために書かれた神のことばとして望んだ真理」として受け入れる。①文学類型 ②聖書作者の時代、社会、文化背景を土台として聖霊の照らしに従い個人的に語りかけられることを聴くこと。

1-6 マリアと神のことば
(1) マリアは、いかなる危機的状況の中でも、日常の平凡な生活の中でも、常にみことばを受け止め、思い巡らし、神への全幅の信頼と絶対的な希望をもって実行した。
(2) マリアのように、まず教会の指導者たちが「聞き、思い巡らす」べき。
(3) イエスのことば、および出来事を聖書と結び付けている(ヨハネ2:5)。
(4) マリアは、聖書を取り入れたロザリオによる黙想を通して大いに理解される。
(5) マリアを見て、教会の中に女性を対等に見て尊重する態度、行動が培われるべき。

第2章 教会生活における神のことば

2-1 教会生活における神のことば
A. 教会共同体または信者の間での聖書の重要性
(1) カトリック人口が45万人(全人口の0.3%)の国で主日のパンフレット『聖書と典礼』が毎週11万部発行。外国籍信徒のため英、西、葡語などでも同様のパンフレットを発行。
(2) 『毎日のミサ』は平日ミサ出席者の4割近くの部数が発行されている。主日に限らず、週日でも、神のことばは非常に大切なものになっている。
(3) ミサの中の聖書のことばがどれだけ心の糧になっているか疑問だが、少しずつ生活の分かち合いに深化されて生活を養う糧となっている。

B. 信者の糧としての聖書の意味
(1) かつての『カトリック要理』で教育を受けた信者たちは、信仰形成の糧として聖書が不可欠であるということを十分理解していない。
(2) 神のことばによって絶えず励まされ、謙虚さや信頼を教えられ、変えられた。神のことばは、キリストに似た者になる霊的成長のために必要な霊的な食物である。
(3) みことばによって養われ、照らされ、支えられているという体験があれば、それが自分と共同体の糧になる。教会の優先課題は、みことばによる大人の霊的な養成。

C. キリスト教は「書物の宗教」に陥る危険があるか。
(1)「みことば」が説明対象にとどまっている場合があることは否めない。現実に生きる生身の人間に共感できず、キリストの生き方につながっておらず、命を与えるみことばが生活と結びつかないならば「書物の上の宗教」に陥る危険がある。それ以上に「儀式だけの宗教」に陥る危険の方がより心配。

D. 個人の生活で、また主日および週日に神のことばが敬われ、よく読まれているか。
(1) 多くの信徒が主日ミサ以外に聖書に触れる機会はあまりない。朗読奉仕者の指導が十分ではなく、会衆がみことばを典礼の場で聴く態度も不十分である。説教が頼り。
(2) 週日に聖書を読んで信仰を深めようとする人はごく稀。毎日のミサの聖書朗読箇所を忠実に読むことが勧められるが、手引書が必要。
(3) 生活に追われている多くの人にとって、ミサのみことば、説教が実生活と結びつけられる時はじめて生きるものとなる。その点、「聖書と典礼」の役割は大きい。

E. 典礼暦の特別な季節に神のことばは敬われ、よく読まれているか。
(1) これらの季節に種々の黙想会や研修会があり、神のことばはよく読まれている。
(2) 所定の典礼を無難にこなしているのみで、み言葉をよく読んで味わうまでに至らない小教区もある。

<提案:女子奉献生活者>
(1) ミサ、聖書朗読も形式的ものから、聴く、黙想する、吟味する、答える工夫が必要。
(2) 聖書朗読は大切な役目であるため、もっと準備と養成が必要。
(3) 教会内で、聖書を分かりやすく伝える人が、小さな集まり、学習会、分かち合いを通して、聖書を信徒にもっと身近で親しみのあるものにする必要がある。
(4) 司祭、あるいは代理の神のことばについての基本的な教養、個人的な読み、準備、祈りが必要。みことばを伝える意識を持つこと。
(5) 教会文書は、各国の現代社会の中でもっと受肉したものにしていく必要があり、入手しやすく分かりやすい解説、広い公布などで、それらを奨励し関心を持たせる努力が必要。

2-2 神の民の教育における神のことば
A. 聖書の包括的な教育
(1) ある教区では、神のことばに関する教えが神の民全体に浸透していない。
(2) 黙想会、勉強会、養成コース等があるが、すべてをカバーしているとは思えない。
(3) 聖書の分野で信徒のリーダーの養成が急務である。司教団は再吟味する必要がある。

B. 聖書の扱いについての神学生、奉献生活者、共同体の奉仕者(カテキスタなど)の養成
(1) 奉献生活者は、初期養成、生涯養成のいずれにも聖書コースがある。修道女連盟、教区主催、地区主催のもの、その他の各会独自のみことばに関する養成コースもある。
(2) 教区司祭には養成の機会が非常に少ない。カテキスタの養成が必要。

C. 信徒のための養成コース
(1) 聖書講座では、聖書を宣教・司牧活動の基礎としてどう生かすかについての養成はなされていない。講座は、都市部で交通の便のよいところで行われ、郡部では難しい。
(2) 信徒養成は、司祭、修道女、信徒の協力体制の中で入信準備、聖書講座、受洗後のアフターケアーがなされることが大切。
(3) ある教区には、集会祭儀司式者養成コース、AsIPAのリーダー養成コースがある。

2-3 神のことば、典礼、祈り
A. 典礼と個人の祈りにおいて聖書に触れることについて
(1) 主日のミサ:多くの小教区では、信徒が当番で聖書を朗読している。主日のミサ朗読箇所を前もって読む。質問があれば司祭に尋ねている。インターネットで福音の解説を読む。
(2) 少数の信者は毎日のミサで聖書に触れ、あずからなくても、『毎日のミサ』を読む。
(3) ある教区では、一般に祈祷書に基づく共通の祈りをする。
(4) ことばの祭儀で聖書の朗読と黙想、詩編の聖歌が、特に熱心に行われている教会もある。
(5) みことばに触れるようにとの指導や勧めの機会はまだ一部に留まっている。

B. ことばの典礼と感謝の典礼についての理解
(1) 一般に理解はまだ十分ではない。これは司式司祭についても言える。感謝の典礼が優位で、ことばの典礼はそれに従属するものと理解されがち。
(2) ことばの祭儀と感謝の祭儀をつなぐのは司祭の説教である。ある人は、ことばの祭儀は、耳から聞く聖体祭儀であると理解している。

C. 典礼の中の神のことばと生活の結びつき
(1) ある信者にとって、ミサで朗読される神のことばは、その日、あるいはその一週間の日常生活を照らす指針であり、光、慰め、勧告、あるいは教訓、時には、人々に伝えるべき事柄であったりする。
(2) ある場合は、みことばの理解が倫理にのみ偏り、自己批判の材料、否定的な理解に留まる。感謝の祭儀で記念されるみことばと信者の日常生活は、多くの場合、遊離している。
(3) 信徒は、聖書のことばが日常生活とかかわるような説教やカテケージスを求めている。

D. 説教は聖書の説明になっているか。
(1) ある説教は、聖書を反映しており、信者の生活の糧になっている。
(2) 別の説教は、内容が生活感に乏しく、共同体の育成の観点も弱い。信者の生活に真の意味で反映されていない。もっとみことばそのものの意味を明らかにして欲しい。司祭の説教は聖書について十分に研究し、味わい、黙想して正しく信徒に伝えられ、かつ日常生活での信徒の生き方をみことばから説き起こし、力を与える語りであって欲しい。
(3) 神学生の時から毎日神のことばを黙想する習慣を身につけるべき。

E. ゆるしの秘跡での聖書
(1) 四旬節や待降節に個別告白赦免を伴う共同回心式が行われる場合を除けば、ゆるしの秘跡の中で神のことばが読まれることはまだ一般化していないと思われる。
(2) ゆるしの秘跡では聖書のことばを一つでも引用すると信者に強い印象を与える。

F. 聖務日課の中で神のことばを聴き、それと対話すること。
(1) 聖務日課の詩篇は司祭、修道者にとって大切な祈りの場。詩編唱和の後の「神のことば」を聞いて、短い沈黙をし、対話をすることもある。神とのつながりを確認するしるし。
(2) 一般に小教区において「教会の祈り」は、ロザリオほど意欲的に行われていない。

G. 信徒は神のことばを聴き、対話しているか。
(1) 多くの日本人にとって、神は「遠くにあって人間を圧倒する存在」であり、卑下が美徳という道徳観から、神と対話するに至らない。
(2) 多くの信者にとって、祈りは神への嘆願。「神のことばを聞き、それに応える」という養成がなされていない。対話としての祈りについて、もう少し説明が欲しい。
(3) 一番必要なことは、生活や信仰を真実に生き生きと分かち合える共同体づくりである。その中でみことばは生きたものとなる。そのために小共同体、リーダーの養成が必要。

H. 聖書に触れる機会
序-3を参照。
(1) 神の民がみことばを味わい、そこから霊的エネルギーを得るという体験はまだ端緒。
(2) 神の民は聖書に触れる機会と時間を自分で作るべき。

2-4 神のことば、福音宣教、信仰教育
A. 神のことばと信仰教育に関する積極的な面と消極的な面
(1) 積極的な面
(a) 聖書を信仰教育の基本テキストとして活用し、それに対応した参考テキストが作られた。
(b) 信徒の役割が重視されてきた。特に、チームで子供、青年、大人を世話する。
(2) 消極的な面
(a) 『カトリック教会のカテキズム』を基本に、系統立てた「要理教育」も不可欠。
(b) 啓示と神のことばについての教えに関する無知や曖昧さ、聖書の勝手な解釈がある。

B. 信仰教育における聖書の活用
(1) 信仰講座が聖書中心に行なわれるようになってきたが、神のことばが知識として与えられ、心に納得のいくことばとして受け止められていない。
(2) 小・中・高生たちを、聖書について学ぶだけではなく、福音を「味わう」よう導くべき。
(3) 「信仰教育はあくまで要理であり、その要理を補足・補強するために聖書を使う」のではなく、みことばをとおして神から直接教えを受けるという考え方が必要。たとえば主日の前に、朗読箇所の逐語的または総合的な説明、質疑応答や感想、分かち合いをし、ミサ後、次週の聖書の箇所を、旧約との関連で解説し、現実の生活にどう取り入れるかを話す。
(4) 一方、聖書だけに偏ってはならず、要理の内容や信徒の義務権利なども教えるべき。

<課題:女子奉献生活者>
(1) 生活の中に生きた神のことばを体験し、それを分かち合ための同伴が必要。
(2) 信仰教育では、知的な面が重視され、信仰体験という霊的、共同体的側面が不足。
(3) 学校教育の場において、真理を求めている現代の若者に聖書の魅力を伝えきれない。
(4) 青少年に通じることばと教導する側のことばのギャップが大きいことや地域の行事、子ども達の社会活動が活発になるにつれ、教会離れで子どもの姿が激減した。この年齢層に関しては、信仰教育の場を設けることも難しい。
(5) 働いている人のため参加しやすいコースがあるとよい。学ぼうとしている人は多い。

C. 聖書研究
(1) 宣教に聖書は不可欠で勉強しなければならないという信徒が徐々に出てきた。

D. 聖書の入門教育あるいは講座
(1) 教区レベルで行われているところもある。ある教区ではほとんどの小教区において聖書を学ぶプログラムを実施しているが、内容や方法については各現場に任されている。

2-5 神のことば、釈義、神学
A. 神のことばは釈義と神学の魂/ 神学研究における聖書の役割
(1) 聖書は神学研究を照らし、それに命を与える決定的なもので、神学の諸分野の研究の基礎、目的、権威となる。
(2) 現代の世界が直面している新しい諸問題を神の啓示と信仰の光で考察する研究が急務。
(3) 釈義を中心に偏ると、聖書と生活とのつながりを理解することが難しくなる。
(4) 司祭養成において、聖書を教えるだけでなく、民から命、祈り、愛することを学ぶべき。

B. 「啓示されたみことば」としての性格は十分理解され、尊重されているか。
(1) 啓示されたみことばに対する敬虔な態度、尊敬を示す態度は不足しているようだ。

C. 聖書に関する学問的研究は、適切な信仰の基盤によって促され、支えられているか。
(1) 聖書の原文の意味を理解するために、教会全体の生きた聖伝と信仰の類比によって研究を進めなければならないことから、信仰は必要不可欠となる。
(2) みことばの研究の中で聖書の方言への翻訳を期待する声もある。

D. 聖書本文を扱う際の通常の方法は
(a) 「文学類型」を見極め、(b) 聖書作者の時代における社会・文化的背景を考慮し、(c)教会の聖伝と信仰の類比による聖書全体の一貫性に留意する。

E. 共同体の司牧的生活における聖書
(1) 聖書は共同体の司牧的生活の中で十分考慮されている。
(2) 共同体で、カリスマ的分野もすべて聖書、教会の教導、会の文書の順に深められている。

2-6 神のことばと信者の生活
A. 神の民と聖職者の霊的生活に与える聖書の影響
(1) 聖書に親しむことによって、信仰の捉え方が聖書的になり、霊的に成長してきている。
(2) 聖職者には神のことばは霊的生活の基盤、心の糧、価値基準、共同体に「奉仕する」際の大きな励みと安らぎを覚える源泉となっている。
(3) 宣教師、修道者は特に熱心に聖書を霊的生活の基本として重んじ、霊的読書や信心書とははっきり区別して、聖書を第一の信仰の書と位置づけている。
(4) 青少年司牧や宣教のためにも、聖書に触れる習慣を教会生活の中に導入すべきである。
(5) 受洗のときの司祭の「聖書に帰れ」ということばが洗礼後の方向性を決定づけた。
(6) 小教区内の地区は、みことばの分かち合いを中心に置くことで、互いがつながり、互いに愛を実践し、互いのことを思いやることのできる共同体となるべきである。

B. マリアの賛歌
(1) 謙遜で信頼に満ちたマリアの態度は、信者の信仰生活に具体的な光となっている。
(2) マリアの賛歌は、神に対する信頼に満ちた態度であると共に、この世に対する厳しい批判の目から見た人間の希望、神への信頼の証しでもある。

C. 物質的な豊かさが神のことばを聴く妨げになっているのは何故か。
(1) 豊かになると、神のことばを聞かなくても絶えず満腹状態であり、平穏無事に生きることができるから、霊的なものへの関心が薄らぎ、心を神に向けることが少なくなる。
(2) 物質的な豊かさを求めるために、情報量が多く、テレビ、インターネット、音楽などにより沈黙が得られず、日常生活に追われ、神のことばに耳を傾けることが少なくなる。
(3) 豊かさは手軽に心地よさ、快適、快楽につながっていて、知らず知らずのうちに大切なことを忘れさせるか、後回しにさせる。神のことばに耳を傾けることは容易ではない。
(4) 物質的な豊かさは、精神的な欲求や渇望をごまかし、真理に向かう意欲と熱意を妨げ、福音の豊さと魅力から人々の心を引き離す。神に頼る必要がなくなる。
(5) 物質的豊かさを神に感謝し、それらを他者ために使用するという道もある。

D. 感謝の祭儀や他の典礼の中で神のことばは信仰を伝える強力な手段となっているか。
(1) 司祭と参加する信者たちの態度にもよるが、ある信者にとって、強力な手段となっている。特に感謝の祭儀、みことばの祭儀、祈りの集いなどで読まれる聖書は、具体的な神の語りかけである。
(2) ある信者にとっては、そう思われない。多くの教会で、典礼の式次第が淡々と進行するだけ。「ことばの典礼」においてみことばを十分に聴いても、その霊的糧を十分に味わい、自分の生活の中でそれを根づかせるまでには至っていない。

E. キリスト信者が聖書に無関心、あるいは積極的な関心をもたないのはなぜか。
(1) ある信者にとって、秘跡中心だから自分で読む必要がない。かってな解釈は許されないと厳しく言われた。
(2) 人が「福音化」されるためには、「秘跡とみ言葉」が不可欠であるという考え方が公会議で打ち出された。しかし、40数年たった今でもまだ十分浸透していないと思われる。

F. レクチオ・ディヴィーナについて
(1) これは、司祭・修道者には知られているが、信徒にはほとんど知られていない。
(2) ある修道会では、合計一時間半程度「Lectio Divina」の時間が設けられている。修道者にとって、「Lectio Divina」は恵みであると同時に修業という側面もある。

G. レクチオ・ディヴィーナを推進する要因と妨げる要因
(1) 推進する要因:司牧者の勧め、適切なガイダンスなど。みことばに魅せられたこと。仲間同士で聖書を読むことは、神との出会いを豊かにする。実践して得る喜びの体験が少しずつ広まっている。会憲に記されている。修道会の初期養成、自己養成のため行う。
(2) 妨げる要因:「活字離れ」、「読書嫌い」。時間の確保が難しい。説明が不十分。慣れていない。面倒くさい、億劫。教え、導く人がいない。司祭に体験がないと信徒まで浸透しない。現世から超越して、神のもとに留まるまでに、潜心の時間と努力がいる。

第3章 教会の宣教における神のことば

3-1 現代世界における神のことばの宣教
A. 神のことばを聴くことを促す、また妨げる要因
(1) 促す要因
(a) 信じ、希望し、愛する能力を家庭や学校で培うことが、「よい土地」づくりとなる。
(b) 聖書に接する機会を増やすことによってみことばに飢え渇くようになるはず。
(c) 病気、災難、家族の帰天、高齢化社会、不安定な世界情勢、神への渇望。教会や学校でキリスト教的雰囲気に触れて。人との出会い、教皇、キリスト者一般に対する信頼。
(d) 他のキリスト信者からの刺激。
(e) 「みことば」は、「読む」ことより「聞く」方が自分の中により深く入り込む。
(2) 妨げる要因
(a) 聖書の難解な解説、すべて自分の力でやっていけるという傲慢、不遜な考えに陥るとき。
(b) 邦訳聖書に対する不満のために、個々の信徒があまり聖書を読む習慣を持っていない。 (c)「福音化」されるためには、「秘跡とみ言葉」が不可欠であるという考え方がまだない。
(d) 世俗化した生活、世俗主義が放つマスコミ全体が、聖書への関心を妨げている。
(e) 洗礼を受けたことの意味、キリスト者が何者かを理解していないことが原因。
(f) 多くの信徒は、聖書は理解しがたいという考え、神のことばに飢え渇く状態にない。
(g) 現代世界の諸問題と教会がかけ離れているので、神のことばは別世界のことばとなる。

B. 内面的な不安や他のキリスト教諸教派が信仰刷新の刺激になり得るか。
(1) 神のことばを聞く点でカトリック以外のキリスト教から学ぶところが大である。
(2) 生きる意味を探すよう促す心配事や苦しみなどが神のことばを聞くのを助ける。

C. 世俗主義、世間からの攻撃、反キリスト教的な生活様式は神のことばを聴くことを妨げるか。
(1) 世俗的な価値観に影響された親たちは、子供たちに受験や部活や習い事を優先させる。
(2) 世俗主義、消費主義、多元主義などが、みことばを受け容れることを妨げている。
(3) 福音と相対する考え方、地域共同体での生活習慣なども妨げとなる。

D. 神のことばをどのように宣教すべきか。
(1) 現代の諸問題をキリストのことばに照らして学び、それを「行動による愛」によって伝える。
(2) 世俗化した時代にあって、生活をもってキリスト者であることの新しさと希望を宣言しなければならない。これは確実に他の人々に考えさせる。
(3) 諸宗教および現代社会と対話、地方の伝統と文化を評価しつつ、教会の価値観を伝える。
(4) 生活の場における信仰体験を分ち合うことがなければ福音宣教にならないと思う。
(5) まず社会をよく見て、みことばの種が落ちて実る環境づくりをし、次に人間の霊的な側面をもう一度正しく評価し直して、みことばをその霊性の精進に結びつけていく。
(6) 特にインターネットなどのITを活用した宣教は、大きな良い影響をもたらし得る。
(7) 神のことばを宣言する共同体が、愛、赦し、正義を実践する共同体となる努力。
(8) 人間の根源的な欲求に応えるものを聖書のメッセージが持っていることを明示する。

3-2 聖書に容易に近づく機会
2-3 A, Hなど参照。
(1) 典礼が日本語になった時点から始まり、共同訳聖書の完成でさらに増大した。
(2) 主日のミサ、聖書通読、聖書勉強会、祈りの集い、分かち合い、聖書講座など。

<問題:女子奉献生活者>
主日以外に「聖書を学ぶ会」を年齢層別に組織できないものか。超小教区で横の連絡を取り、情報を交換し、どこの教会でも与れるようにするとよい。信者全体が高齢化しているので、聖書に親しむよりは単純な祈りや分かち合いのほうが多いように思われる。子どもたちに易しく聖書を伝える努力が欠けている。若い世代のほうが継続的に読んでいるが、聖書の集いに参加しているのは一部の熱心な信者に限られている。聖書に触れたい信者は多いが、人材に乏しい。信徒がそこまで養成されていない。ミサ後に聖書を読み、分かち合う会のお知らせをしても、無関心、忙しさ、分かち合いが苦手などの理由で参加者は少ない。正しい分かち合いの知識と指導が必要。

3-3 聖書の普及
A. 各教区における聖書使徒職、司牧計画
(1) 信徒養成の一環として、「聖書の分かち合いリーダーの養成コース」を設けている。
(2) 聖書を基盤とした司牧計画を立てようとの教区中枢の動き(小共同体活動)はある。
(3) ある教区は、教区全体で、みことばに親しむことに具体的に取り組んでいる。
(4) 毎月主日の典礼の解説を発行。季刊、月刊、週刊などの広報活動。
(5) 聖書は各家庭に普及している。個人的に聖書を贈呈。カトリック学校の保護者に配布。

B. カトリック聖書連盟(Catholic Biblical Federation)について
(1) 聖書協会のことは知っていても、カトリック聖書連盟はほとんどの人が知らないだろう。

C. みことばと出会うための手段
3-2参照。
(1) 一般社会での聖書の普及率は、毎年全人口の1割を越えている。
(2) ラジオ番組「心のともしび」、『カトリク新聞』、出版物、インターネット。
(3) このシノドスを機に、普遍教会レベルで聖書の解説の普及を推進する。
(4) Lectio Divina、聖書深読の会、聖書の分かち合い他。

D. 翻訳聖書(日本語)
(1) E. ラゲ(Emile RAGUET, m.e.p.)私訳『新約聖書』(1910年)
(2) フランシスコ会聖書研究所、「原文からの批判的口語訳の全聖書分冊」(1958年~2002年)
(3) 同『新約聖書』(1979年)サン・パウロ[旧中央出版社](1979年)
(4) バルバロ、デル・コル訳『口語訳旧約新約聖書』ドン・ボスコ社(1964年)
(5) 共同訳聖書実行委員会『聖書・新共同訳』日本聖書協会(1987年)
(6) 新約聖書翻訳委員会訳『新約聖書』岩波書店(2004年)
(7) 旧約聖書翻訳委員会訳『旧約聖書』分冊版(1979年~)
(8) 本田哲郎私訳『小さくされた人々のための福音上・下』新生社(1998年)
(9) 山浦玄嗣私訳『ケセン語訳新約聖書』(福音書の方言訳四巻)イー・ピックス大船渡印刷(2002年~2004年)
(10) DVD聖書
(11) 電子聖書
※ プロテスタントによる多数の日本語訳聖書も刊行されている。

E. 家庭における聖書朗読
(1) 家庭で聖書を読む習慣はほとんどない。子供たちを聖書養成にいかに参加させるか。

F. 世代に応じた信仰養成講座
(1) 世代に応じた養成は信仰養成講座や小共同体づくり入門講座の形で行われているが、修道者が大半で信徒の参加が少ない。子供のときから聖書を読むことを習慣づけるべき。
(2) 教会学校、青少年には年齢別の要理クラス、YGT(Youth Gathering In Tokyo)、「祈りと生活の作業所」の活動、サマーキャンプで聖書を学ぶ会がある。幼児教育で絵、カード、CD、聖歌のテープを使っている。成人は聖書講座などで養成。奉献生活では、毎日のミサ、霊的読書、みことばの分かち合いで養成されている。信仰入門教育において「みことばに根ざす信仰」の実践やその模範が必要である。

G. マス・メディアとその重要性
(1) カトリック出版による月刊誌。通信講座。ホームページ(小教区、教区ほか)。ラジオ、テレビ、DVD、CD、インターネット。音楽。マルチメディア。ケイタイ。子ども向け聖書物語、『こじか』などの小冊子、絵本、ビデオ、漫画の聖書。英語と仏語による子どもの要理クラスの豊富な資料。マス・メディアの重要性は言うまでもない。

3-4 エキェメニカル対話における神のことば
A. 生活のあかしの一貫性
(1) 宣教の意識の高い人は、常に生活のあかしの一貫性を心掛けている。
(2) 生活のあかしの一貫性はキリストが優先された人々(病人、苦しむ人々、排除された人々・・・)との関わりを実際もつことで見られるのではないか。

B. エキュメニカル対話における部分教会の実践
(1) 特にみことばを聞くことを基礎にした、祈りの出会い、「クリスマス会」の共同企画。
(2) 社会に平和と正義を実現するためのエキュメニカルな活動。

C. エキュメニカルな対話や議論で聖書が用いられているか。
(1) 聖書原典の日本語への翻訳は、欧米語同士では想像できないような困難を伴うだけに、『聖書・新共同訳』は、エキュメニカルな対話、一致へ貢献している。
(2) エキュメニカルな運動のために聖書をよく理解することと同時に、聖伝に基づく解釈を大事にし、聖書の翻訳と活用において、カトリック教会の立場を保持することも大切。
(3) 共に祈り、親交を深めることはしたが、聖書に基づいた対話は行わなかった。カトリックとプロテスタントでは聖書のある箇所について根本的な解釈の違いがあるため。
(4) 聖書を用いて共に祈り、協力する機会が増えている。たとえば、朝祷会、祈祷週間、市民クリスマス、聖書100週間、テゼの祈り、アルファコース、黙想会、聖書リレー朗読、日本宗教者会議、聖書展、講演会、正義と平和関係、環境問題、生命倫理、憲法9条擁護、ホームレス援助、聖書研究、聖書学会等。

D. 神のことばに関する一致点や対立点は何か。
(1) 聖書において教会は一つ。聖書は対話のきずなになり、一致を可能にするだろう。

E. 聖書協会連盟との協力は可能か。
(1) 聖書に関する出版物をカトリックは何ら抵抗なく利用している。

3-5 ユダヤ教徒との対話における神のことば
(1) ユダヤ教徒に接する機会がほとんどないのでわからない。
(2) 聖書からの反ユダヤ主義はないが、パレスチナ問題は一般の人々に躓きを与えている。
(3) ユダヤ教徒を尊重して、「旧約聖書」を、たとえば「最初の契約の書」などと改称するのは、対話促進の助けとなるのではないかという声もある。
(4) 旧約聖書は一致点であり、聖書を本当に理解するのに、ユダヤ教徒との対話が必要。

3-6 諸宗教対話・異文化対話における神のことば
A. 固有の聖典を持つ宗教者との、聖書に基づいた対話
(1) 諸宗教の対話はアジア、従って日本において特に重大である。対話の方式を確立して相違点をも明白にし、より良き社会の発展のためにどのように協力できるかを考える時。
(2) 諸宗教との対話において神のことばは有益なものとしてそのまま告げられる場合もあるだろうが、聖書を引用することは少なくとも注意を要する。
(3) 他宗教の経典に対する深い尊敬の念を持たなければ、真の諸宗教の対話とならない。互いを人間として尊重し認め合うことから始め、他の宗教と「連帯し」、他の宗教から学び、そこにおける神のことばの働きを見出そうとする謙虚な態度が要求される。日本には、諸宗教対話に関する書籍が多い。カトリックの立場をはっきりさせながらも、その人の宗教を大切にしたマザーテレサの言動は、諸宗教の対話の模範になると思う。

B. 神のことばを信じない人が神のことばに触れることは可能か。
(1) 聖書はどんな人にとっても、豊かな意味をもち影響を与えている。
(2) 日本では、文化的、思想的な面からでも聖書を知るならば、神のことばとして受け入れられるであろう。キリスト教の神やイエスを信じていない人々でも、聖書のことばから神の尊さと近しさを感じることは可能。

C 神のことばは無神論者のためにも存在するか。
(1) 神は、すべての人に語られたのだから、神のことばは彼らのためにも存在する。
(2) みことばを座右の銘にしている「無神論者」もいる。

D. 聖書はすべての人にとって「大いなる体系」として豊かな意味を持つか
(1) 神のことばとの出会いは、「大いなる体系」、「社会倫理要綱」を通して行われる。
(2) 神のことばをキリスト教が独占しているというナイーブな態度は他宗教や異文化との対話を不可能にすると思われる。

E. 聖書を用いた異文化との対話
(1) 教会は世界のキリスト教化、換言すればキリスト教を軸にした諸文化の一元化、ヨーロッパ化を布教国に求めてきたのはないか。大切なことは文化の福音化にある。
(2) 日本において、キリスト教はヨーロッパ文化の一つとしてみなされているので、異文化対話の必要を感じる。日本において「聖書」を使って対話するというよりも、心情、文化理解からの対話、聖書の正しい学問的理解の普及を目指した対話、正義と平和の行動を通しての対話、祈りの雰囲気を共にした対話などが優先されるであろう。

F. 教会がセクトに対抗するのを助ける手段
(1) まず相手をよく知ること。セクトは、聖書の限られた部分や語句を誤って解釈する場合が多いので、対抗する手段は聖書に対する正しい理解と釈義の確信をもつようにすること。
(2) セクトと戦う最良の方法は、カトリック教会との完全で喜びに満ちた交わりの中で深いつながりをもつグループのよさ、つまり「人間の痛みや悩みを聞き取り、共に歩もうとする姿勢」を人々に語り示すキリスト者の共同体をつくることである。

<その他の意見> この提題解説の内容、その目指すところ、意味がよくわからない。あまりにも上からものを言っている感じがする。この文書の対象を明確にする必要がある。

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