教皇ベネディクト十六世の154回目の一般謁見演説 パウロの思想における教会

10月15日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の154回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、7月2日から開始した聖パウロの人と思想に関する連続講話の8回目として、「パウロの思想における教会」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。謁見には25,000人の信者が参加しました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  先週の水曜日の講話で、地上で生涯を送った復活前のイエスとパウロの関係についてお話ししました。問題はこれでした。「イエスの生涯、ことば、受難についてパウロは何を知っていたか」。今日わたしは、聖パウロの教会に関する教えについてお話ししたいと思います。わたしたちはまず、この「教会」ということば――イタリア語でChiesa、フランス語でEglise、スペイン語でIglesia――がギリシア語の「エクレーシア」からとられたことを確認しなければなりません。「教会」は旧約に由来し、神が呼び集めたイスラエルの民の集いを意味します。その模範となるのはとくにシナイ山のふもとでの集いです。そこから、今度はこのことばはキリストを信じる者の新しい共同体を意味するようになりました。彼らは、自分たちが神の集いであり、すべての民から神によって神のみ前に新たに呼び集められた者だと考えたからです。「エクレーシア」ということばは、キリスト教的著作の最初の著作家である、パウロの著作でのみ用いられます。それはテサロニケの信徒への手紙一の冒頭に見られます。そこでパウロは文字どおり「テサロニケの教会」に向けてあいさつします(後のコロサイ4・16の「ラオディキアの教会」も参照)。別の手紙の中でパウロは神の教会について述べます。すなわち、コリント(一コリント1・2および二コリント1・1参照)にある神の教会、ガラテヤにある神の教会(ガラテヤ1・2など)――それゆえ部分教会――です。しかしパウロは「神の教会」そのものを迫害したともいいます。これは特定の地域共同体ではなく、「神の教会」そのものをさします。そこから「教会」ということばには多くの意味があることがわかります。まずそれは特定の地域(町、国、家)における神の集会を表します。しかしそれはまた一つにまとめた全教会をも意味します。こうして「神の教会」は、単にさまざまな地域教会の総体だけではなく、唯一の神の教会が実現したものでもあることがわかります。それらは全体で「神の教会」です。そして、「神の教会」は個々の地域教会に先立つとともに、地域教会のうちに表現され、実現します。
  重要なのは、ほとんどつねに「教会」ということばが「神の」という形容語を伴って用いられることです。教会は、思想や共通の関心から生まれた、人間の団体ではありません。教会は神によって呼び集められたものです。神が教会を呼び集めました。だから教会はいかなる形で実現されても唯一です。教会がいかなる場所にあったとしても、神が唯一であることが、教会が唯一であることを造り出します。後にエフェソの信徒への手紙の中で、パウロは教会が唯一であるという概念について詳しく論じます。教会が唯一であることは、神の民イスラエルという概念を引き継ぎます。預言者によって「神の花嫁」と考えられたイスラエルは、神の花嫁としての関係を生きるよう招かれました。パウロは神の唯一の教会を「キリストの花嫁」として示します。「キリストの花嫁」は、愛のうちに、からだも霊もキリストご自身と一つです。ご存じのように、青年パウロはキリストの教会に基づく新しい運動に激しく反対しました。パウロが反対したのは、この新しい運動が、唯一の神への信仰に生かされた神の民の伝統への忠誠を脅かすと考えたからです。この忠誠は、何よりも割礼と、純粋な文化に関する規則の遵守、ある種の食物を避けること、安息日を大切にすることによって示されました。イスラエルの人々はマカバイ時代にこの忠誠を示すために血の代償を支払いました。ギリシアの支配者は全民族が唯一のギリシア文化に順応することを強制したからです。多くのイスラエル人がイスラエル固有の召命を血をもって守りました。殉教者は、上記の要素によって示される自分の民の独自性のためにいのちをささげました。復活したキリストと出会った後、パウロはキリスト者が裏切り者ではないことを知りました。その反対に、イスラエルの神は、新たな状況の中で、キリストを通して、ご自分の呼びかけをすべての民へと拡大しました。イスラエルの神はすべての民の神となったのです。こうして唯一の神への忠誠が実現されました。特定の規定やおきてから成る特徴的なしるしはもはや必要でなくなりました。なぜなら、すべての人がそれぞれの違いを残しながら、キリストのうちに、「神の教会」によって、唯一の神の民の部分となるよう招かれたからです。
  新たな状況の中で、一つのことがパウロにはすぐに明らかになりました。すなわち、キリストとキリストの述べた「ことば」が、根本かつ基盤としての意味をもつことです。パウロは、人がキリスト者になるのは強制によってではないことを知っただけではありませんでした。パウロは、新しい共同体が内的に形づくられるに際して、共同体を構成する者は、生きた「ことば」、すなわち生きたキリストが告げ知らせたことばとかならず結びつけられることを知りました。この「ことば」によって神はご自分の心をすべての民に開き、彼らを唯一の神の民へとまとめるからです。ルカが使徒言行録の中で何度も、パウロの場合にも、「みことばを語る」(使徒言行録4・29、31、8・25、11・19、13・46、14・25、16・6、32)という言い方を用いているのは意味深いことです。明らかに、それは「みことば」の宣教が決定的に重要であることをはっきりと示そうとしたものです。このみことばの具体的な内容はキリストの十字架と復活です。キリストの十字架と復活のうちに聖書は実現したからです。ダマスコへの道でパウロの生涯の転換を引き起こした復活の神秘が使徒パウロの宣教の中心であることはいうまでもありません(一コリント2・2、15・14参照)。みことばによって告げ知らされたこの神秘は、洗礼と聖体の秘跡によって実現します。またそれはさらにキリスト教的愛のわざに具体化されます。パウロの福音宣教活動の目的は、キリスト信者の共同体を設立することだけでした。この考えは「エクレーシア」ということばの語源そのものに含まれています。パウロと、パウロに従うキリスト教全体は、「シナゴーグ」というもう一つのことばよりも「エクレーシア」を好みました。それは「エクレーシア」がもともときわめて「世俗的」なことばだったからだけではありません(「エクレーシア」はギリシアで行われる政治集会に由来し、本来は宗教的なものではありませんでした)。「エクレーシア」が単なる集会ではなく、「外からの(ab extra)」招きだという、より神的な意味を直接表したからです。信者は神から招かれた者です。共同体、すなわちご自分の教会を集めるのは神だからです。
  ここからわたしたちは、教会は「キリストのからだ」であるという、パウロにのみ見られる独自の思想を理解することができます。このことに関連して、この思想の二つの側面に注目することが必要です。一つは社会的な側面です。すなわち、からだは部分から成り、また部分なしには存在することができません。このようなからだの意味の解釈は、ローマの信徒への手紙とコリントの信徒への手紙一に見られます。これらの手紙の中でパウロはローマ社会にすでに存在したたとえを用います。パウロはいいます。民はさまざまな部分から成る、からだのようなものです。一つひとつの部分が自分の役割をもっています。しかし、もっとも小さく、意味がないように見える部分も含めて、すべての部分が、からだが生き、自分の機能を果たすために必要です。使徒パウロは適切にも、教会の中に多くの召命があることを認めます。預言者も使徒も教師も単純な人々も、すべての人が日々愛のわざを生きるよう招かれています。すべての人が教会という霊的な有機体の生きた一致を築くために必要とされています。もう一つの意味はキリストのからだそのものに関わります。パウロはいいます。教会は単なる組織ではありません。教会は聖体の秘跡のうちに本当の意味でキリストのからだになります。すべての人が聖体のうちにキリストのからだを受け、本当にキリストのからだになるからです。こうして花嫁の神秘が実現します。すべての人がキリストのうちに一つのからだ、一つの霊となるからです。そこから「キリストのからだ」という現実は社会的な比喩を超えて、真の深い意味での本質を表します。すなわち、洗礼を受けてキリストに結ばれたすべての人の一致です。使徒パウロは、すべての人はキリストのうちに「一つ」であり、キリストのからだの秘跡に似たものに造り変えられると考えるからです。
  このことを述べるときに、パウロは示します。教会はパウロのものでもわたしたちのものでもありません。そのことをパウロはよく知っており、わたしたち皆にも悟らせます。教会はキリストのからだです。教会は「『神の』教会」です。「『神の』畑、『神の』建物・・・・『神の』神殿」(一コリント3・9、16)です。最後の表現はとくに興味深いものです。なぜならそれは、普通、神聖なものとされる物理的な場所を表すために用いることばを、人間関係の意味で用いているからです。それゆえ、教会と神殿の関係は、あい補い合う二つの側面をもつことになります。まず、聖なる建物に見られる、分離され、清いという性格が、教会共同体にあてはめられます。他方で、物理的空間としての概念は乗り越えられて、生きた信仰共同体を表す意味へと変えられます。かつて神殿が神の臨在する場所と考えられていたのであれば、今や、神は石で作られた建物に住むのでないことが知られ、示されます。この世で神の臨在する場所は、信じる者の生きた共同体です。
  一言でいえば、「神の民」の性格を次のように示すことができます。パウロにおいて「神の民」は基本的に旧約の民を表すために用いられ、後に異邦人にも用いられました。異邦人は「民でない者」でしたが、みことばと秘跡を通じてキリストに接ぎ木されることによって、彼らも神の民となったからです。終わりにもう一つのことを簡単に申し上げます。テモテへの手紙の中でパウロは教会は「神の家」(一テモテ3・15)だと述べます。これは本当の意味で独自の定義です。なぜなら、この表現は、教会が、家庭的な性格をもった温かな人間関係をもって人々が過ごす、共同体的な構造をもつといっているからです。使徒パウロは、世における神の集いとしてさまざまな側面をもつ、教会の神秘をいっそう深くわたしたちに理解させてくれます。教会の偉大さ、わたしたちの召命の偉大さはこれです。わたしたちは世における神の神殿です。神がまことの意味で住まう場所です。同時にわたしたちは共同体であり、神の家族でもあります。神は愛だからです。わたしたちは神の家族また神の家として、世において神の愛を実現しなければなりません。そして、信仰に基づく力によって、神の現存の場所またしるしとならなければなりません。主に祈ろうではありませんか。どうか主の助けによって、わたしたちがますます主の教会、主のからだとなり、この世とわたしたちの歴史において主の愛が臨在する場となることができますように。

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