教皇ベネディクト十六世の155回目の一般謁見演説 パウロの教えの中心であるキリスト

10月22日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の155回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、7月2日から開始した聖パウロの人と思想に関する連続講話の9回目として、「パウロの教えの中心であるキリスト」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。謁見には17,000人の信者が参加しました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  これまでの数週間の講話の中で、わたしたちは聖パウロの「回心」について考察しました。聖パウロの回心は、十字架につけられて復活したキリストとの個人的な出会いが生み出したものでした。わたしたちはまた、この異邦人の使徒の地上におけるイエスとの関係はどうだったかと問いました。今日わたしは、パウロがわたしたちに残した、「救いの神秘における、復活したキリストが占める中心的な位置」に関する教えについて、すなわちパウロのキリスト論についてお話ししたいと思います。実際、復活して「あらゆる名の上に置かれた」イエス・キリストは、パウロの考察の中心に置かれます。使徒パウロにとってキリストはあらゆる出来事と事柄を判断する基準であり、福音を告げ知らせようとして行うあらゆる努力の目的であり、世の道を歩むパウロを支えた激しい情熱の源でした。パウロにとってキリストは生きているキリストです。パウロはいいます。具体的にいえば、キリストは「わたしを愛し、わたしのために身をささげられた」(ガラテヤ2・20)かたです。わたしを愛するかた。わたしが語りかけることのできるかた。わたしに耳を傾け、わたしにこたえてくださるかた。このかたこそが本当に世を理解し、歴史の道を見いだすための基盤です。
  聖パウロの著作を読んだことのある人なら、よく知っておられるように、パウロはイエスの生涯を構成する個々の出来事を語ることに関心がありません。もっとも、パウロは講話の中では、手紙の中に書いているよりももっと多く復活前のイエスについて語ったと考えることもできます。手紙は特定の状況に対する勧告だからです。パウロが司牧的・神学的に目指したのは、初期の共同体の設立でした。だからパウロが、今も生きて、ご自分に属する人々の中にともにおられる「主」としてのイエス・キリストを告げ知らせることのみに集中したのは当然のことでした。ここにパウロのキリスト論の本質的な性格を見いだすことができます。パウロのキリスト論は、常に次の関心のもとに神秘の深みを探求するものでした。すなわち、生きているイエスとその教えを正確に告げ知らせること、何よりもイエスの死と復活という中心的な出来事を告げ知らせることです。イエスの死と復活は、イエスの地上における生涯の頂点であり、キリスト教信仰全体、また教会生活全体が発展していくための源泉だからです。使徒パウロにとって、復活は、死と切り離された独立した出来事ではありません。復活したかたは、まず十字架につけられたかたであり続けます。復活したかたは傷を身に帯びておられます。受難は復活したかたのうちにあります。わたしたちはパスカル(1623-1662年)とともにこういうことができます。復活したかたは、復活して、わたしたちとともに、わたしたちのために生きるとともに、世の終わりまで苦しみ続けます。パウロは、このように復活したかたが十字架につけられたキリストと同じであるということを、ダマスコへの道での出会いにおいて悟りました。そのとき、十字架につけられたかたが復活したかたであり、復活したかたが十字架につけられたかただということがはっきりと示されました。この十字架につけられたかたはパウロにこういわれたからです。「なぜ、わたしを迫害するのか」(使徒言行録9・4)。パウロは教会の中でキリストを迫害していました。だから彼はそのとき、十字架は「神に呪われたもの」(申命記21・23)であり、同時にわたしたちのあがないのためのいけにえであることを悟ったのです。
  使徒パウロは、十字架につけられて復活したかたの隠された神秘を観想することに心を奪われました。そして彼は、キリストがその人間性によって味わった苦しみを通じて(地上的な次元)、永遠の存在に達しました。この永遠の存在のうちに、キリストは父と完全に一つだからです(先在の次元)。パウロはいいます。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法のもとに生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者をあがない出して、わたしたちを神の子となさるためでした」(ガラテヤ4・4-5)。父とともにおられる永遠の「先在の」次元と、「受肉」による主の降下という、この二つの次元は、すでに旧約において「知恵」の姿で告げられています。わたしたちは旧約の知恵文学のうちに、先在の知恵の役割を、世を創造することにまで高める箇所を見いだします。たとえば詩編90の箇所をそのような意味で解釈することができます。「山々が生まれる前から、大地が、人の世が、生み出される前から、世々とこしえに、あなたは神」(詩編90・2)。また、造り主である知恵について語る次の箇所もそうです。「主は、その道の初めにわたしを造られた。いにしえのみわざになお、先立って。永遠の昔、わたしは祝別されていた。太初、大地に先立って」(箴言8・22-23)。知恵の書に含まれる、知恵の賛歌もこのことを表します。「知恵は地の果てから果てまでその力を及ぼし、いつくしみ深くすべてをつかさどる」(知恵8・1)。
  知恵の永遠の先在を語る同じ知恵文学の箇所は、この知恵が降下し、地上に降って、人々の間に幕屋を張ることも語ります。ここにわたしたちは、主の肉が幕屋を張ることについて語るヨハネによる福音書のことばがすでにこだましているのを感じます。旧約においても幕屋が張られます。この幕屋は神殿、すなわち「律法(トーラー)」による礼拝を表します。しかし、新約の観点から見ると、この旧約の幕屋は、キリストの肉の幕屋という、より現実的で重要な幕屋の先取りにすぎないことがわかります。わたしたちはまた、すでに旧約のさまざまな書において、この知恵の地上への降下、すなわち知恵が肉となって降ることが、拒絶される可能性も含んでいるのを見いだします。聖パウロはそのキリスト論を展開する中で、このような知恵のあり方に言及します。すなわち、パウロはイエスのうちに、とこしえに存在する永遠の知恵を認めます。この知恵は降ってきて、わたしたちの間に幕屋を張ります。こうしてパウロは、キリストが「神の力、神の知恵」であり、「わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖とあがないとなられた」(一コリント1・24、30)ということができました。同じようなしかたで、パウロは、キリストが知恵と同じく、何よりもこの世の支配者によって拒絶される可能性があることを明らかにします(一コリント2・6-9参照)。それゆえ、神の計画によって逆説的な状況が生まれる可能性が生じます。すなわち十字架です。十字架は全人類のための救いの道に変わるからです。
  知恵が地上に降り、後に拒絶されるにもかかわらず上げられるという、この知恵の還帰に関するさらに発展した考察が、フィリピの信徒への手紙の有名な賛歌に見られます(フィリピ2・6-11参照)。これは新約全体の頂点をなす箇所の一つです。大多数の釈義学者は一致して、この箇所がフィリピの信徒への手紙のテキスト以前に書かれたと考えます。この箇所はきわめて重要な源泉資料です。なぜならそれは、ユダヤ人キリスト教が、聖パウロ以前に、イエスが神であると信じていたことを表しているからです。いいかえると、キリストを神として信じることはギリシア人の発明ではありません。すなわち、イエスが地上の生涯を送ったはるか後に、イエスが人間であったことを忘れ、彼を神聖化することによって行われた発明ではありません。わたしたちは、初期ユダヤ人キリスト教がイエスは神であると実際に信じたことを見いだします。さらにわたしたちはこういうことができます。使徒たち自身も、師であるかたの生涯の重大なときに、師であるかたが神の子であると悟りました。ペトロがフィリポ・カイサリア地方で述べたとおりです。「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子です」(マタイ16・16)。しかし、フィリピの信徒への手紙の賛歌に戻りたいと思います。このテキストの構造は3つの節に分けられます。それぞれの節はキリストがたどった歩みの主要な時期を表します。キリストの先在は次のことばで表されます。「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず」(フィリピ2・6)。その後、第2節の、子の自発的な地上への降下が続きます。「自分を無にして、しもべの身分になり」(同2・7)、へりくだって、「死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(同2・8)。賛歌の第3節は、子のへりくだりに対する父の応答を告げます。「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」(同2・9)。印象的なのは、徹底的なしかたで行われる地上への降下と、それに続く、神の栄光へと上げられることの対照です。この第2節がアダムのうぬぼれと対比されていることは明らかです。アダムは神になろうと望んだからです。それはバベルの塔を作った人々の行動とも対比されています。この人々は天に至るための架け橋を作り、自分たちが神になろうと望んだからです。しかし、この傲慢のわざは自らの滅びを招きました。このようなしかたでは、天にも、真の幸福にも、神にも至ることはできません。神の子が行ったのはまったくその反対でした。愛を実現するのは傲慢ではなく、へりくだりです。愛は神のものだからです。人間の傲慢と対照をなす、キリストの地上への降下と、徹底的なへりくだりのわざは、神の愛のまことの表現です。このへりくだりの後、キリストは天に上げられます。神はご自身の愛によってわたしたちをこの天に引き寄せてくださるからです。
  パウロの著作の中で、神の子の先在と地上への降下というテーマを結びつける箇所は、フィリピの信徒への手紙以外にもあります。テモテへの手紙一は、あらゆる宇宙的・人間的な力を含めて、知恵とキリストが類似することを再確認します。「キリストは肉において現れ、〝霊〟において義とされ、天使たちに見られ、異邦人のあいだでのべ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた」(一テモテ3・16)。何よりもこのような前提に基づいて、キリストの唯一の仲介者としての役割をはっきりと定義することができます。その背景となるのは、旧約の唯一の神です(イザヤ43・10-11、44・6との関連で一テモテ2・5参照)。キリストは、わたしたちを天へと、すなわち神との交わりへと導くまことの架け橋です。
  最後に、コロサイの信徒への手紙とエフェソの信徒への手紙における聖パウロのキリスト論の最終的な展開にごく簡単に触れたいと思います。コロサイの信徒への手紙の中で、キリストは「すべてのものが造られる前に最初に生まれたかた」(コロサイ1・15-20)だと述べられます。この「最初に生まれたかた」ということばは、多くの子どもの中で最初に生まれた者、すなわち多くの兄弟姉妹の長子が、わたしたちを引き寄せるために降り、わたしたちをご自分の兄弟姉妹としてくださったことを表します。エフェソの信徒への手紙には、神の救いの計画に関するすばらしい説明が見いだされます。パウロはこういうからです。神はキリストのうちにすべてのものを再び一つにまとめることを望まれました(エフェソ1・23参照)。キリストは万物を再び一つにまとめるかたです。キリストは万物を再びまとめ、わたしたちを神へと導きます。こうしてわたしたちは降下と上昇の動きに引き入れられます。そして、キリストのへりくだりに、すなわち隣人に対するキリストの愛にあずかるよう招かれます。それは、わたしたちもキリストの栄光にあずかり、キリストとともに、キリストのうちに子とされるためです。祈りたいと思います。主の助けによって、わたしたちが主のへりくだりに、主の愛に倣うことができますように。そこから、主の神性にもあずかることができますように。

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