世界代表司教会議(シノドス)第12回通常総会 最終メッセージ

世界代表司教会議第12回通常総会は、10月24日(金)午前9時から始まった第21回全体会議で「最終メッセージ」を承認し、これを同日発表しました。以下に訳出したのはその全文です(原文はイタリア語)。 世界代表司教会議(シノ […]

世界代表司教会議第12回通常総会は、10月24日(金)午前9時から始まった第21回全体会議で「最終メッセージ」を承認し、これを同日発表しました。以下に訳出したのはその全文です(原文はイタリア語)。

世界代表司教会議(シノドス)第12回通常総会から神の民へのメッセージ

 兄弟姉妹の皆様。「平和と、信仰を伴う愛が、父である神と主イエス・キリストから、兄弟たちにあるように。恵みが、変わらぬ愛をもってわたしたちの主イエス・キリストを愛する、すべての人とともにあるように」。聖パウロはこの激しく情熱的なあいさつをもってエフェソの信徒への手紙を結びます(エフェソ6・23-24)。教皇ベネディクト十六世の指導のもとに、世界代表司教会議(シノドス)第12回通常総会に集まったわたしたちシノドス参加司教も、同じことばをもってメッセージを始めます。このメッセージは、世界のさまざまな地域で弟子としてキリストに従い、変わらぬ愛をもってキリストを愛し続けるすべての人々に広く呼びかけます。
わたしたちは神のことばの声と光をこの人々にあらためて示します。次のいにしえの呼びかけを繰り返しながら。「みことばはあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる」(申命記30・14)。神ご自身も一人ひとりの人にいわれます。「人の子よ、わたしがあなたに語るすべてのことばを心におさめ、耳に入れておきなさい」(エゼキエル3・10)。わたしたちはこれから4段階から成る霊的な歩みを示します。この歩みは世々とこしえに限りない神から、わたしたちの家、わたしたちの住む町の通りへとわたしたちを導きます。

一 神の声――啓示

1 「主は火の中からあなたたちに語りかけられた。あなたたちは語りかけられる声を聞いたが、声のほかには何の形も見なかった」(申命記4・12)。モーセはこう語って、シナイの荒れ野の人里離れたところでイスラエルの民が経験したことを思い起こさせます。主は、像、肖像、あるいは金の牛のような立像としてではなく、「声」としてご自身を示しました。創造の初めに現れたのも声でした。声は無の沈黙を破りました。「初めに・・・・神はいわれた。『光あれ』。こうして、光があった。・・・・初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。・・・・万物はことばによって成った。成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった」(創世記1・1、3、ヨハネ1・1、3)。
  創造は、古代メソポタミアの神話が語るように、神々の戦いから生じたのではありません。創造はことばによって生じました。ことばは無を打ち破り、存在を造り出したからです。詩編作者はいいます。「みことばによって天は造られ、主の口の息吹によって天の万象は造られた。・・・・主がおおせになると、そのように成り、主が命じられると、そのように立つ」(詩編33・6、9)。聖パウロも繰り返していいます。神は「死者にいのちを与え、存在していないものを呼び出して存在させる」(ローマ4・17)。このようにして、最初の「宇宙的な」啓示が示されます。この啓示は、全人類の前に開かれた大きな書物のように被造物を造ります。わたしたちはこの書物の中に造り主のメッセージを読み取ることができます。「天は神の栄光を語り、大空はみ手のわざを示す。昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送る。話すことも、語ることもなく、声は聞こえなくても、その響きは全地に、そのことばは世界の果てに向かう」(詩編19・2-5)。

2 しかし、神のことばは人類の歴史の起源でもあります。神は「ご自分にかたどって」(創世記1・27)男と女を造りました。男と女は自らのうちに神の刻んだ像をもっています。だから男と女は、造り主と語り合うこともできれば、罪によって神から離れ、神を拒むこともできます。それゆえ、神のことばは人を救うとともに裁きます。さまざまな出来事を織り交ぜた歴史の織物の中に分け入ります。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、・・・・彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地・・・・へと彼らを導き上る」(出エジプト3・7-8)。それゆえ神は人間の出来事のうちにおられます。人間の出来事は、歴史の主であるかたのわざを通じて、大きな救いの計画に組み込まれます。それは「すべての人々が救われて真理を知るようになる」(一テモテ2・4)ためです。

3 ですから、力があり、創造し、救いをもたらす神のことばは、存在、歴史、創造、あがないの基盤です。主は人類に向かっていいます。「主であるわたしがこれを語り、行った」(エゼキエル37・14)。それから最後に、神のことばは書かれたことば(グラフェー、グラファイ)、すなわち聖書となります。新約聖書でいわれるとおりです。すでにモーセが山を下るとき、「二枚の掟の板が彼の手にあり、板には文字が書かれていた。その両面に、表にも裏にも文字が書かれていた。その板は神ご自身が作られ、筆跡も神ご自身のものであり、板に彫り刻まれていた」(出エジプト32・15-16)。モーセもイスラエルにこの「掟の板」を守り、あらためて書くように命じます。「あなたは石の上にこの律法のことばをすべてはっきりと書き記しなさい」(申命記27・8)。
  聖書は書かれた文字の形で神のことばをあかしします。聖書は正典と歴史と文字を通じて、創造し、救いをもたらす啓示の出来事を記念します。それゆえ、神のことばは聖書に先立ち、また聖書を超えたものです。聖書はそれ自体、「神の霊感によって書かれ」、力のある神のことばを含みます(二テモテ3・16参照)。だからわたしたちの信仰の中心は書物ではなく救いの歴史であり、以下に示すように、イエス・キリストという人格なのです。イエス・キリストは、肉となり、人となり、歴史となった神のことばだからです。神のことばの力は聖書を包み、聖書を超えています。だからこそ、「あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(ヨハネ16・13)聖霊が常に、聖書を読む人とともにいてくださることが必要です。これが偉大な聖伝です。聖伝とは、教会の中に「真理の霊」がともにいてくださることです。教会は聖書の守護者です。聖書は教会の教導職によって正しく解釈されるからです。この聖伝によって教会は神のことばを理解し、解釈し、伝え、あかしすることができます。聖パウロも、最初のキリスト教の信条をのべ伝えるとき、聖伝から「受けた」ものを「伝え」なければならないことを認識していました(一コリント15・3-5)。

二 みことばのみ顔――イエス・キリスト

4 それはギリシア語原文では3つの基本的なことばにすぎません。「ロゴス・サルクス・エゲネト(ことばは肉となった)」。しかし、これはヨハネによる福音書の序文という詩的・神学的な宝石の頂点であるだけでなく(ヨハネ1・14)、キリスト教信仰の中心でもあります。永遠の神のことばが空間と時間の中に入り、人間の顔と姿をとりました。そこで、人はこのかたに直接近づいて、エレサレムにいた何人かのギリシア人のように、こう願うことができるようになりました。「イエスにお目にかかりたいのです」(ヨハネ12・20-21)。顔をもたないことばは不完全です。それは完全な出会いを実現することがありません。悲惨な探求の歩みの末に、ヨブがこう述べたとおりです。「あなたのことを耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます」(ヨブ42・5)。
  キリストは「神とともにあり」、「神であった」みことばです(ヨハネ1・1)。「見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれたかたです」(コロサイ1・15)。しかしキリストはナザレのイエスでもあります。ナザレのイエスは、ローマ帝国の辺境の属州を歩み、方言を話し、ユダヤ人という一民族とその文化の特徴を表しました。それゆえ、イエス・キリストは実際に壊れやすく、死すべき肉体をもっていました。歴史であり、人間でした。しかし彼は同時に栄光ある神の神秘です。いまだかつて見た者のいない神をわたしたちに示したかたです(ヨハネ1・18参照)。神の子は墓の中に死体として置かれているときも、そのようなかたであり続けます。そして、復活はこのことの生きた明確な証拠です。

5 キリスト教の伝統は、肉となった神のことばを、書物となった神のことばとしばしば対比してきました。それはすでに信条のうちに見られます。信条はこう告白します。神の子は「聖霊によっておとめマリアよりからだを受け、人となられました」。同じ信条はまたこう告白します。「聖霊は預言者をとおして語られました」。第二バチカン公会議は――聖アンブロジオがいうように(『ルカ福音書注解』:Expositio Evangelii secundum Lucam VI, 33)――「御子のからだはわたしたちに伝えられた聖書である」というこの古代の伝統を受け入れて、はっきりとこう宣言します。「実際、かつて永遠の父のみことばが、人間の弱い肉をつけて、人々に似たものとなったように、人間の用語で表された神のことばは、人間の話に酷似するものとなっている」(『神の啓示に関する教義憲章』13)。
  実際、聖書は「肉」、「文字」でもあります。聖書は特殊な言語、文学的・歴史的形式、古代文化と結びついた概念によって書かれています。聖書はしばしば悲惨な出来事の記憶をとどめています。血と暴力の跡が刻まれていることも稀ではありません。聖書の中には、人々の笑いも、流す涙も、苦しむ人の叫びも、愛する人々の喜びもこだましています。そのため、聖書の「肉の」側面は歴史的・文学的分析を必要とします。こうした分析は聖書釈義学が提供するさまざまな方法・技術によって行われます。聖書を読む人は皆、たとえほとんど学識のない人でも、聖書に関する適切な知識をもつ必要があります。そして、みことばは具体的な言語によって表現されていることに留意しなければなりません。人々がみことばを聞き、理解するためには、この具体的な言語に従い、慣れなければならないからです。
  これは必要な手続きです。もしこの手続きを怠るなら、根本主義(ファンダメンタリズム)に陥る可能性があります。根本主義は、実際に、歴史における神のことばの受肉を否定し、神のことばが聖書の中で人間の言語によって表されることも、この人間の言語を解読し、研究し、理解しなければならないことも認めません。そして、神の霊感は人間の著者の歴史的特徴や個人的性格を消し去らないことを無視します。しかし、聖書は永遠の神のことばでもあります。だから聖書は聖霊が与えるもう一つの理解も必要とします。聖霊は、人間の言語のうちに存在する神のことばの超越的な側面を明らかにするからです。

6 それゆえ、ここに「教会の生きた聖伝全体」(『神の啓示に関する教義憲章』12)と、聖書を統一的に完全なしかたで理解する信仰の必要性があります。「文字」だけに注目するなら、聖書は単なる過去に関する立派な文書、すなわち、過去の高貴さと倫理と文化の証言にすぎないものになります。一方、受肉を除外するなら、あいまいな根本主義か、ぼんやりとした精神主義ないし心理主義に陥る可能性があります。それゆえ、釈義の知識を霊的・神学的伝統としっかり結びつける必要があります。イエス・キリストと聖書の神的・人間的統一性を壊さないようにするためです。
  このような調和を回復することによって、キリストのみ顔が完全に輝き、わたしたちがもう一つの統一性を見いだすのを助けてくれます。このもう一つの統一性とは、聖書の深く緊密な統一性のことです。聖書は73書から成りますが、それらは唯一の「正典」、神と人類の唯一の対話、唯一の救いの計画を構成します。「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」(ヘブライ1・1-2)。こうしてキリストは救いの歴史の展開全体にさかのぼって光を当て、この救いの歴史の一貫性、意味、方向を示します。
  キリストは世々にわたって行われ、聖書の中であかしされている、神と被造物の対話の封印であり、その「アルファであり、オメガ」(黙示録1・8)です。この最後の封印の光に照らされることによって、モーセと預言者のことばは「完全な意味」をもちます。イエスご自身がこのことを明らかにしました。春の午後、エルサレムからエマオの町に向かう道で、クレオパとその友人と語り合いながら、イエスは「聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された」(ルカ24・27)からです。
  神のことばがみ顔をもったことが、啓示の中心です。だからこそ、聖書を知ることの究極的な目的は「倫理的な選択や高邁な思想ではなく、ある出来事との出会い、ある人格との出会いです。この出会いは、人生に新しい展望と決定的な方向づけを与えるからです」(教皇ベネディクト十六世回勅『神は愛』1)。

三 みことばの家――教会

 旧約の神の知恵が人々の町に家を建て、7本の柱で家を支えたように(箴言9・1参照)、神のことばは新約においても家を建てます。教会の模範はエルサレムの共同体です。教会はペトロと使徒たちの上に築かれました。そして、今日も教会は、ペトロの後継者と交わりをもつ司教を通じて、神のことばを保ち、告げ知らせ、解釈し続けます(『教会憲章』13参照)。使徒言行録(同2・42)の中で、ルカは4本の理想の柱の上に築かれた建物を示します。「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」。

7 第一の柱は、使徒の教え(ディダケー)、すなわち神のことばの宣教です。実際、使徒パウロはわたしたちに勧告します。「信仰は聞くことにより、しかも、キリストのことばを聞くことによって始まるのです」(ローマ10・17)。使者の声は教会から来ます。教会は「ケリュグマ(宣教のことば)」、すなわち、イエスご自身が公生活の初めに告げ知らせた最初の根本的な知らせを示します。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1・15)。使徒たちは、キリストの死と復活をのべ伝えながら、神の国の始まりを、すなわち、神が人間の歴史に決定的なしかたで介入したことを告げました。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒言行録4・12)。キリスト信者はこの希望を「穏やかに、敬意をもって、正しい良心で」あかしします。拒絶と迫害の嵐に巻き込まれ、おそらくは打ち負かされることを覚悟しながら。なぜなら、キリスト信者は「善を行って苦しむほうが、悪を行って苦しむよりはよい」(一ペトロ3・16-17)ことを知っているからです。
  それから、教会の中でカテケーシス(信仰教育)が行われます。それは、キリスト信者が「みことばの光の下にキリストの神秘の理解を深め、人間全体がその光に照らされるようにする」(教皇ヨハネ・パウロ二世使徒的勧告『要理教育』20)ためです。しかし、宣教の頂点は説教です。説教は、多くのキリスト信者にとって、現代においても依然として、神のことばと出会うためのもっとも重要な時だからです。説教を行う際、奉仕者は預言者と同じようにならなければなりません。実際、奉仕者ははっきりとした、わかりやすい、内容のあることばで、権威をもって「救いの歴史における神のくすしきみわざ」(『典礼憲章』35)を告げなければならないだけではありません――これはまず、典礼の中で聖書をはっきりと生き生きとした形で朗読することによって行われます――。奉仕者はまた、会衆が置かれた時代と時間の中で語りかけ、回心の要求と生きた献身を会衆の心に呼び覚まさなければなりません。「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」(使徒言行録2・37)。
  それゆえ、宣教、信仰教育、説教は、読書と理解、説明と解釈、思いと心を用いることを前提します。説教の中では二つの動きが行われます。第一の動きによって、人は聖書のテキストの起源、出来事、救いの歴史の根源に赴きます。それは、聖書の意味とメッセージを理解するためです。第二の動きによって、人は現在、すなわち、聖書を聞き、読んでいる人の生きる現代に戻ります。ただしそれは常にキリストの光のもとで行わなければなりません。キリストは聖書を一つにまとめる導きの光だからです。すでに述べたとおり、これは、二人の弟子とともにエルサレムからエマオに向かう道で、イエス自身が行ったことです。それは助祭フィリポがエルサレムからガザに向かう道で行ったことでもあります。フィリポはエチオピアの高官と象徴的な意味をもつ対話を行いました。「読んでいることがおわかりになりますか。・・・・手引きしてくれる人がいなければ、どうしてわかりましょう」(使徒言行録8・30-31)。目指す目的は、秘跡におけるキリストとの完全な出会いです。こうして神のことばの家である教会を支える第二の柱が示されます。

8 すなわちパンを裂くことです。エマオの物語(ルカ24・13-35参照)がもう一度模範となります。エマオの物語は、わたしたちの教会で毎日行われていることを再現します。モーセと預言者についてのイエスの説教に続いて、食卓で感謝のパンが裂かれます。これが、神が神の民と行う親密な対話の時です。それはキリストの血によって証印の押された、新しい契約のわざです(ルカ22・20参照)。それはみことばの最高のわざです。みことばはご自身のいけにえのからだを食物としてささげたからです。これが教会生活の源泉と頂点となります。福音書はキリストのいけにえの記念である最後の晩餐について語ります。感謝の祭儀の中で告げ知らせ、聖霊の働きを求めることによって、最後の晩餐は出来事また秘跡となります。そのため第二バチカン公会議はきわめて重要な箇所でこう述べます。「教会は主の聖体と同様に、聖書を常に尊敬し、特に典礼において不断に、ことばの食卓と聖体の食卓とから生命の糧を取り、信者にも与えてきた」(『神の啓示に関する教義憲章』21)。それゆえ、わたしたちはキリスト教生活の中心に「ことばの典礼と聖体の典礼」を置かなければなりません。二つの典礼は「相互に固く結ばれて一つの礼拝行為をなしている」(『典礼憲章』56)からです。

9 みことばの家である、教会という霊的な建物の第三の柱は、祈りです。聖パウロが述べるとおり、祈りは「詩編と賛歌と霊的な歌」(コロサイ3・16)から成ります。いうまでもなく、時課の典礼が特別な位置を占めます。時課の典礼は特別な意味で教会の祈りです。それはキリスト教の日々の流れにリズムを刻み、何よりも詩編によって信者に日々の霊的な糧を与えるからです。この時課の典礼と共同のことばの典礼に、伝統は「霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)」の実践を加えます。「霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)」は聖霊のうちに行われる霊的な読書です。それは信者が神のことばの宝に触れ、生きた神のことばであるキリストと出会うことを可能にします。
  「霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)」は、まずテキストを読むこと(レクチオ)から始まります。読むこと(レクチオ)は、テキストの内容に関する真の知識への問いかけを生み出します。「聖書のテキストはそれ自体として何をいおうとしているのか」。次に「黙想(メディタチオ)」が行われます。そこでの問いかけはこれです。「聖書のテキストはわたしたちに何をいおうとしているのか」。そこからわたしたちは「祈り(オラチオ)」に到達します。「祈り(オラチオ)」の前提となるのは次の問いかけです。「主のことばにこたえて、わたしたちは何を主にいえばよいのか」。そして終わりに「観想(コンテンプラチオ)」が行われます。「観想(コンテンプラチオ)」の中で、わたしたちは神のたまものである、現実を見極めるまなざしをもって、自分に問いかけます。「主はどのような思いと心と生活の回心をわたしたちに求めておられるのか」。
  神のことばを祈りをもって読む人にとっての理想は、主の母であるマリアの姿です。マリアは「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(ルカ2・19。ルカ2・51参照)からです。すなわち、マリアは――ギリシア語原文がいうように――別々のように思われる出来事を一つにまとめる深い結び目を神の偉大な計画のうちに見いだしました。マルタの妹であるマリアの態度も、聖書を読む信者の前に示すことができます。マリアは主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていました。そして、外的な不安に思い悩むことなく、取り上げてはならない「良いほう」のために自由な時間を用いました(ルカ10・38-42参照)。

10 最後にわたしたちは、みことばの家である教会を支える第四の柱に至ります。すなわち、「兄弟の交わり(コイノニア)」です。「兄弟の交わり(コイノニア)」とは、「キリスト教的な愛(アガペー)」のことです。イエスがいわれたとおり、イエスの兄弟・姉妹となるには「神のことばを聞いてそれを行う人」(ルカ8・21)にならなければなりません。真の意味で聞くとは、従い、行うことです。生活の中で正義と愛を実践することです。人生と社会の中で預言者の呼びかけに従うあかしを行うことです。このあかしは、神のことばと生活、信仰と公正、礼拝と社会的実践を常に一致させます。これこそ、イエスが有名な山上の説教から始めて、繰り返し述べたことです。「わたしに向かって、『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父のみ心を行う者だけが入るのである」(マタイ7・21)。このことばはイザヤが示した神のことばをこだましているように思われます。「この民は、口でわたしに近づき、唇でわたしを敬うが、心はわたしから遠く離れている」(イザヤ29・13)。この警告は教会にも当てはまります。教会も忠実に神のことばに聴き従わないことがあるからです。
  ですから、このことがいつも信者の顔と手のうちに見られ、読み取られるようにしなければなりません。大聖グレゴリオが述べたとおりです。大聖グレゴリオは、神と兄弟との交わりをあかしした聖ベネディクトや他の偉大な神の人のうちに、神のことばが生活の中で実現されているのを見いだしたからです。公正で忠実な人は、聖書を「説明する」だけでなく、それを、生き、実践された現実としてすべての人に「提示」します。だから、いつくしみの生活が、神のことばの生きた読書となるのです(viva lectio, vita bonorum)。聖ヨハネ・クリソストモはすでにこう述べています。使徒たちはガリラヤの山から下り、そこで、モーセのように文字の書かれた石の板をもたずに、復活したかたと出会いました。そのときから、彼らの生活が生きた福音となったからです。
  みことばの家の中で、わたしたちは他の教会・教会共同体の兄弟姉妹とも出会います。これらの兄弟姉妹は、いまだに分裂していても、わたしたちとともに、神のことばへの崇敬と愛のうちに、第一のまことの一致の原理・源泉を見いだします。たとえこの一致が完全な一致ではないにしてもです。このきずなを、聖書の共同の翻訳、聖書の普及活動、聖書に基づくエキュメニカルな祈り、釈義上の対話、聖書のさまざまな解釈の研究と比較、さまざまな霊的伝統に含まれた価値あるものの交換、そして世俗的世界における神のことばの宣教と共同のあかしを通じて、常に強めていかなければなりません。

四 みことばへの道――宣教

 「主の教えはシオンから、みことばはエルサレムから出る」(イザヤ2・3)。人となった神のことばは、その家である神殿から「出て」、世の道を歩み、地上の民が真理と正義と平和を求めて行う、大いなる巡礼団と出会います。実際、現代の世俗的な都市の広場や通りでは不信仰と無関心が支配し、悪が善に打ち勝ったように思われます。こうしてバビロンがエルサレムに勝利したような印象を与えています。しかし、そこにも人は隠れた望み、希望の萌芽、かすかな期待を見いだします。預言者アモスの書が述べているように、「見よ、その日が来ればと主なる神はいわれる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、主のことばを聞くことのできぬ飢えと渇きだ」(アモス8・11)。教会の福音宣教はこの飢えに対してこたえようと望みます。
  復活したキリストも、しり込みする使徒たちに呼びかけました。自分たちの守られた囲いを出ていきなさいと。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。・・・・あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタイ28・19-20)。聖書は「黙してはならない」、「大声で叫びなさい」から、「折がよくても悪くても、みことばをのべ伝えなさい」、「無関心の沈黙を破る見張りとなりなさい」まで、呼びかけに満ちています。わたしたちの前に開かれているのは、聖パウロや最初の福音宣教者が歩んだ道だけでなく、彼らに続いて、遠い土地に住む人々のところに出かけたすべての宣教者が歩んだ道でもあります。

11 今やマス・メディアは地球全体を包むネットワークを作り上げています。こうしてキリストの招きは新たな意味を帯びることになりました。「わたしが暗闇であなたがたにいうことを、明るみでいいなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」(マタイ10・27)。聖なることばが、まず印刷物、すなわち地球上のさまざまな言語による翻訳を通して広く伝えられなければならないのはいうまでもありません。しかし、ラジオ、インターネットの情報ハイウェイ、インターネットテレビ放送、CD、DVD、ポッドキャストなどを通じても神のことばを伝えなければなりません。神のことばをテレビ、映画、新聞、文化・公共行事でも示さなければなりません。
  これらの新しいマス・メディアは、伝統的な広報手段と比べて、独自の表現手段を作り出しました。それゆえ、それを使用するためには、技術教育だけでなく文化的教育も必要とされます。特にテレビのような支配的なマス・メディアが提供するイメージの時代である現代においても、キリストの特別な模範は依然として意味をもちます。キリストは今も象徴、物語、比喩、日常的な経験、たとえに向かいます。「イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。・・・・たとえを用いないでは何も語られなかった」(マタイ13・3、34)。イエスは、神の国をのべ伝えるとき、あいまいで抽象的で超自然的なことばで会衆に語りかけることはありませんでした。むしろイエスは、人々が立っている場所から出発して、人々の心をとらえました。それは、日常的な現実から天の国の啓示へと人々を導くためです。それゆえ、ヨハネが語る情景は重要です。「イエスを捕らえようと思う者もいたが、手をかける者はなかった。さて、祭司長たちやファリサイ派の人々は、下役たちが戻って来たとき、『どうして、あの男を連れて来なかったのか』といった。下役たちは、『今まで、あの人のように話した人はいません』とこたえた」(ヨハネ7・44-46)。

12 キリストはわたしたちの町の通りを歩いて、わたしたちの家の戸口に立ち止まります。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者とともに食事をし、彼もまた、わたしとともに食事をするであろう」(黙示録3・20)。家の中で喜びと苦しみをともにする家庭は、神のことばを受け入れる基本的な場です。聖書は、短いものから長大なものまで、家族に関するさまざまな物語で満たされています。詩編作者は父親が食卓に座る穏やかな情景を生き生きと描きます。父親は、豊かな房をつけるぶどうの木のような妻と、「オリーブの若木」のような子どもたちに囲まれています(詩編128)。イスラエルが過越の記念を家庭にゆだねたように(出エジプト12・21-27参照)、キリスト教も、初めから典礼を普通の家庭の中で行いました。神のことばの伝達は世代を通じて行われました。そのため、両親は「信仰の最初の使者」(『教会憲章』11)となります。詩編作者はまたいいます。「わたしたちが聞いて悟ったこと、先祖がわたしたちに語り伝えたことを。子孫に隠さず、後の世代に語り継ごう、主への賛美、主のみ力を、主が成し遂げられた驚くべきみわざを。・・・・彼らもそれを知り、その子らに語り継がなければならない」(詩編78・3-4、6)。
  ですから、すべての家庭は自分の家に聖書をもち、目に見えるふさわしいしかたで聖書を保管し、聖書を読み、聖書で祈らなければなりません。同時に家庭は、聖書の用い方に関する祈りとカテケーシスと教育の模範を示さなければなりません。それは、「若者も、おとめも、老人も、幼子も」(詩編148・12)神のことばを聞き、理解し、賛美し、生きることができるようにするためです。特に子どもと青年を含めた若者に、適切かつ特別な教育を与えるべきです。この教育は、彼らがキリストの魅力を体験し、その思いと心の扉を開くようにするものでなければなりません。そのためには、真のあかしを行う大人との出会いや、友人と教会共同体の優れた仲間のよい影響も必要です。

13 イエスは、種をまく人のたとえによって、乾いた土地、石だらけの土地、茨の茂った土地があることを教えます(マタイ13・3-7参照)。世の通りに出かける人は、スラムにも出会います。そこには苦しみと貧困、侮辱と抑圧、差別と悲惨、身体的・精神的な病、そして孤独があります。道端の石はしばしば戦争と暴力による血にまみれています。権力者の邸には腐敗と不正がはびこっています。迫害された人々は、良心と信仰への忠実を求めて声を上げます。人は人生の危機に圧倒されたり、生きることの意味を感じられなくなることもあります。「影のように移ろうもの、空しくあくせくするもの」(詩編39・7)と同じように、多くの人は神が沈黙していると感じます。神は存在せず、自分に無関心であるように思われます。「いつまで、主よ、わたしを忘れておられるのか。いつまで、み顔をわたしから隠しておられるのか」(詩編13・1)。最後に、すべての人に死の神秘が姿を現します。
  地上から天上に上がるこの深い苦しみの声は、聖書の中に絶えず現れます。聖書は、歴史的で受肉した信仰を示すからです。暴力と抑圧を示すさまざまな箇所を考えれば十分です。ヨブが上げ続ける大きな叫び声。詩編の激しい嘆願。コヘレトの魂に密やかに訪れた内面の危機。社会の不正に対する預言者の厳しい非難。創世記の根本的な箇所における人祖の追放(創世記3章)に始まって、原罪の破壊的な力に対しては容赦のない断罪が行われます。実際、「悪の神秘」が歴史の中に存在し、働いています。しかし、「悪の神秘」は神のことばによってあらわにされます。神のことばは、キリストによって善が悪に打ち勝つことを約束するからです。
  けれども、何よりも聖書を支配するのは、キリストの姿です。キリストは、公生活の初めに、地上で置き去りにされた人々にも希望があることを宣言したからです。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」(ルカ4・18-19)。イエスは繰り返し、病人に手を置きました。ことばをもって正義を告げ、不幸な人を励まし、罪人をゆるしました。最終的にイエスは自ら最底辺に降ります。栄光ある「自分を無にして、しもべの身分になり、人間と同じ者になられました。・・・・へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2・7-8)。
  こうしてイエスは死の恐怖を感じました(「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」)。イエスは孤独を味わいました。友に見捨てられ、裏切られたからです。イエスは十字架のもっとも残酷な苦痛の暗闇の中を歩みました。父の沈黙の暗闇までも歩みました(「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」)。そして、すべての人にとっての最後の深淵である、死の深淵に達しました(「大声を出して息を引き取られた」)。イザヤが主のしもべについて述べたことばは真の意味でイエスに当てはまります。「多くの痛みを負い、病を知っている」(イザヤ53・3)。
  にもかかわらず、最期のときまで、イエスは神の子であり続けました。愛に基づいて人々と連帯し、ご自身を犠牲としてささげることによって、イエスは人間性の限界と悪の中に神性の種をまきました。すなわち、解放と救いの源をまきました。イエスは、わたしたちのためにご自身をささげることによって、ご自分が受け、味わった苦しみと死にあがないをもたらしました。こうして、わたしたちにも復活の朝が訪れました。それゆえキリスト信者には、この神の希望のことばを告げ知らせる使命があります。そのために、貧しい人、苦しむ人と苦しみをともにしなければなりません。真理といのち、聖性と恵み、正義、愛と平和が支配することをあかししなければなりません。愛をもって隣人に奉仕しなければなりません。愛は人を裁かず、非難せず、むしろ、支え、照らし、慰め、ゆるします。そしてキリストのことばに従わなければなりません。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11・28)。

14 神のことばは、世の道を歩くキリスト信者に、ユダヤ人との深い出会いをもたらします。わたしたちは、旧約聖書を共通に認め、愛することにおいて、ユダヤ人と深く結ばれているからです。また、「肉によればキリストも」イスラエルから「出られた」(ローマ9・5)からです。ユダヤ教の聖書全体は神と人の神秘を照らし出します。それは深い考察と道徳の宝庫です。完全な実現に向けた救いの歴史の長い歩みを述べています。神のことばが人間の出来事のうちに受肉したことを力強く明らかにします。わたしたちはユダヤ教の聖書によって、キリストの姿を完全な形で理解することができます。キリストはこう宣言されたからです。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(マタイ5・17)。これが、選ばれた民と対話するための方法です。彼らは神から「神の子としての身分、律法、礼拝、約束」(ローマ9・4)を受けました。わたしたちはユダヤ教の釈義の伝統の実り豊かな源泉によって、わたしたちの聖書解釈を豊かなものとすることができます。
  「祝福されよ、わが民エジプト、わが手のわざなるアッシリア、わが嗣業なるイスラエル」(イザヤ19・25)。それゆえ、主は人々を守る祝福の覆いを地上の諸民族の上に広げます。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(一テモテ2・4)。世の道を歩むわたしたちキリスト信者も――自らの霊的な独自性をあいまいにし、おとしめる混交主義に陥ることなく――、尊敬の心をもって、諸宗教を信じる人々と対話するよう招かれています。彼らもそれぞれの聖典の教えに聞き従い、それを忠実に実践しているからです。まずイスラム教です。イスラム教は多くの聖書の人物、象徴、テーマを自らの伝統に受け入れています。また、唯一の神、すなわち、いつくしみと憐れみに満ちた神、万物の創造主にして人類の裁き主である神への心からの信仰をあかしします。さらにキリスト信者は、東洋の偉大な宗教的伝統との間に共通の一致点を見いだします。それらの伝統は、仏教に見られるように、聖典の中で、生命の尊重、瞑想、沈黙、質素、自己放棄をわたしたちに教えます。またヒンドゥー教は、聖性の感覚、巡礼、断食、聖なる象徴をたたえます。さらに、儒教は、知恵と家庭的・社会的価値観を教えてくれます。儀礼や口承文化で霊的な価値観を表現する土着宗教にも、わたしたちは心からの関心を示し、尊敬の念をもってそれらと対話することを望みます。神を信じてはいないものの、「正義を行い、いつくしみを示し、へりくだって歩む」(ミカ6・8)よう努める人々とも、わたしたちは、より公正で平和な世界を築くために協力して働き、対話によって彼らに神のことばを真の意味であかししなければなりません。神のことばはこれらの人々に真理と愛に関する新たな高次の地平を示すことができるからです。

15 ヨハネ・パウロ二世は『芸術家たちへの書簡』(1999年)の中でこう述べています。「聖書は一種の『巨大な語彙』(ポール・クローデル)と『図像の図解』(マルク・シャガール)となり、それからキリスト教文化と芸術が生まれてきたのです」(同5)。ゲーテは福音が「ヨーロッパの母語」であると信じていました。よくいわれるように、聖書は普遍的な文化の「大いなる体系」です。芸術家は、いわばその絵筆を、聖書の物語、象徴、人物で彩られたこの母語の文字に浸します。音楽家は、聖書、特に詩編から着想を得て作曲を行います。数世紀にわたって、著作家は、実存を比喩的に語るいにしえの物語にさかのぼってきました。詩人は、霊、無限、悪、愛、死といのちの神秘について問いかけ、聖書に息づく詩情にしばしば親しみました。思想家、科学者、そして社会自身も、神のことばに基づく霊的・倫理的概念(たとえば十戒)を、たとえそれが批判の対象としてであっても、しばしば基準として用いました。聖書の人物や思想がゆがめられた場合も、わたしたちはそれが自分たちの文明の本質的で不可欠な要素だということを認めてきました。
  聖書はわたしたちに神を理解し、神に達するための「美の道(via pulchritudinis)」を教えます(詩編47・7はこう招きます。「歌え、神に向かって歌え」)。だから聖書は、信者にとって必要であるだけでなく、さまざまな文化的表現の真の意味を再発見しようとするすべての人にも必要です。何よりも、わたしたちの歴史的、文化的、人間的、霊的独自性をもう一度見いだそうとするすべての人にとって必要です。聖書はわたしたちの偉大さの基盤です。わたしたちは聖書を通して、劣等感を感じることなく、わたしたちの高貴な遺産を他の文明・文化に示すことができます。それゆえすべての人が聖書を知り、学ばなければなりません。聖書は特別な美と、人間的・文化的な富を秘めているからです。
  にもかかわらず、パウロの優れたたとえを用いていうなら、神のことばはある文化に「つながれていません」(二テモテ2・9)。むしろ、神のことばはわたしたちが自らの囲いを出るよう促します。そして、使徒パウロ自身、聖書のメッセージを新たな文化的状況に受肉させることのできた、特別な職人でした。これこそ、教会が、微妙ではあっても、必要な過程を通じて、現代においても行うよう招かれていることです。この作業は教皇ベネディクト十六世の教導職から強い刺激を受けています。教会は神のことばを多くの文化に浸透させなければなりません。それら諸文化の言語、概念、象徴、宗教的伝統を通して神のことばを表現しなければなりません。しかし、教会は、神のことばが変質しないように注意し、制御を行いながら、常に神のことばの真正な本質を保つことができるようにしなければなりません。
  それゆえ教会は、神のことばがすべての文化に与える価値を輝かさなければなりません。それは、それらの文化を清め、豊かにするためです。ヨハネ・パウロ二世が1980年のアフリカ訪問の際にケニヤの司教団に対して述べたように、「インカルチュレーションは真の意味でみことばの受肉の考察となるべきです。それは、福音によって変容され、生まれ変わった文化が、自らの生きた伝統から、キリスト教の生活、典礼、思想の独自の表現を生み出すためです」。

結び

 「すると、天から聞こえたあの声が、再びわたしに語りかけて、こういった。『さあ行って、・・・・天使の手にある、開かれた巻物を受け取れ』。・・・・すると、天使はわたしにいった。『受け取って、食べてしまえ。それは、あなたの腹には苦いが、口には蜜のように甘い』。わたしは、その小さな巻物を天使の手から受け取って、食べてしまった。それは、口には蜜のように甘かったが、食べると、わたしの腹は苦くなった」(黙示録10・8-11)。 
  全世界の兄弟姉妹の皆様。わたしたちもこの招きを受け入れようではありませんか。神のことばの食卓に近づこうではありませんか。わたしたちが養われ、「パンだけではなく、神の口から出る一つひとつのことばで」(申命記8・3、マタイ4・4)生きるためです。キリスト教文化の偉大な人物が述べるように、「聖書はあらゆる状態の人々を慰め、あらゆる状態の人々を恐れさせるために、その章句を用意した」(パスカル『パンセ』:Pensées, no. 532, ed. Brunschvicg〔前田陽一・由木康訳、中央公論新社、2001年、369頁〕)。
  実際、神のことばは「蜜よりも、蜂の巣の滴(したた)りよりも甘い」(詩編19・11)。「あなたのみことばは、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯(ともしび)」(詩編119・105)。しかしまた、「わたしのことばは火に似ていないか。岩を打ち砕く槌(つち)のようではないか、と主はいわれる」(エレミヤ23・29)。神のことばは雨のように大地を潤し、肥やし、芽を出させ、わたしたちの渇いた霊的な荒れ野に花を開かせます(イザヤ55・10-11参照)。しかしまた、「神のことばは生きており、力を発揮し、どんな両刃(もろば)の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができる」(ヘブライ4・12)のです。
  わたしたちは、聖書研究者、カテキスタ、また他の神のことばに仕える人々にまなざしを向け、その貴重で重要な奉仕に心からの感謝を表します。わたしたちはまた、神のことばのゆえに、また主イエスに対して行ったあかしのゆえに(黙示録6・9参照)迫害されたり、殺された兄弟姉妹にも目を向けます。彼らは証人、また殉教者として、「福音の力」(ローマ1・16)を語ります。「福音の力」こそ、彼らの信仰と、希望と、神と人々への愛の源泉だからです。
  今わたしたちは沈黙したいと思います。それは、神のことばをよく聞くためです。そして、聞いた後、沈黙を守りたいと思います。それは、神のことばがわたしたちのうちに住み、わたしたちのうちに生き、わたしたちに語りかけてくださるようにするためです。一日の初めに神のことばに語りかけていただこうではありませんか。それは、神のことばが最初のことばとなるためです。夕べに神のことばに語りかけていただこうではありませんか。それは、神のことばが最後のことばとなるためです。
  親愛なる兄弟姉妹の皆様。「わたしと一緒にいる者たちが皆、あなたによろしくといっています。わたしたちを愛している信仰の友人たちによろしく伝えてください。恵みがあなたがた一同とともにあるように」(テトス3・15)。

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