世界代表司教会議(シノドス)第12回通常総会提言

世界代表司教会議第12回通常総会は、10月25日(土)午前に行われた第23回全体会議で、「提言」(Propositiones)の投票を行いました。「提言」のオリジナル・テキストはラテン語です。シノドスの「提言」はこれまで […]

世界代表司教会議第12回通常総会は、10月25日(土)午前に行われた第23回全体会議で、「提言」(Propositiones)の投票を行いました。「提言」のオリジナル・テキストはラテン語です。シノドスの「提言」はこれまで公開されてきませんでしたが、前回の第11回通常総会(2005年)に続いて、今回も教皇ベネディクト十六世の許可により、シノドス事務局による暫定的なイタリア語訳が同日公表されました。以下はイタリア語版に基づくその全訳です。

序文

提言1:教皇への文書の提出

 本シノドスに関連する、「教会生活と宣教における神のことば」に関する諸文書、すなわち、「提題解説」、「討議要綱」、「基調講演」、「中間報告」、またシノドスホールで述べられた発表と文書で提出されたものを含めた発表原稿、分団会とその討議の報告に加えて、シノドス参加司教が特に重要と考えたいくつかの特別な提言を、教皇の検討に付していただくために提出する。
  シノドス参加司教は、教皇がこの機会に、そして、生誕2000年を記念して異邦人の使徒聖パウロにささげた年にあたって、教会生活と宣教における神のことばの神秘に関する文書を発布してくださることをつつしんでお願いするものである。

提言2:『神の啓示に関する教義憲章』から、神のことばに関するシノドスへ

 シノドス参加司教は、『神の啓示に関する教義憲章』の第二バチカン公会議における公布から40年余が過ぎるにあたり、この文書が釈義、神学、霊性、司牧、エキュメニズムの次元で教会生活に大きな善益を与えたことを感謝とともに認める。
  本憲章は、「信仰の理解(intellectus fidei)」とキリスト教教理の歴史を通じて、啓示における三位一体的また救済史的次元を明らかにした。
  近年、教会が次のことをますます自覚するようになったことは間違いない。すなわち、受肉した神のことばであるイエス・キリストは「自分自身の全的現存と顕現とにより、ことばとわざにより、しるしと奇跡により、中でも、おのが死と死者の中からの栄えある復活により、最後に真理の霊の派遣によって、神がわれわれを罪と死の闇から救い、永遠のいのちに復活させるため、われわれとともにいるという啓示を完全に成し遂げ、そして神的なあかしをもって確証している」(『神の啓示に関する教義憲章』4)。
  これらすべてのことによって、神のことばの限りない価値に関するさらなる考察が可能となった。神のことばは、霊感を受けた啓示のあかしとして、聖書によってわれわれに与えられ、教会の聖伝とともに最高の信仰の規則となる(『神の啓示に関する教義憲章』21参照)。この神のことばは教導職によって保存され、忠実に解釈され(『神の啓示に関する教義憲章』10参照)、典礼において祝われ、永遠のいのちのパンとして聖体のうちにわれわれに与えられる(ヨハネ6章参照)。
  教会は今、近年行われたすべてのことを重視しながら、神のことばのさまざまな表現と司牧的な意味をさらに考察する必要を感じている。そのため、今回のシノドスは次のように望む。すべての信者が、神と人との間の唯一の仲介者であるキリストの神秘をますます自覚するように(一テモテ2・5、ヘブライ9・15参照)。そして、神のことばをうやうやしく聞くことによって刷新された教会が、新たな宣教の歩みへと踏み出し、すべての人に福音を告げ知らせるように。

第一部 教会の信仰における神のことば

提言3:「神のことば」の類比(Analogia Verbi Dei)

 「神のことば」という表現は類比的な意味をもっている。この表現はまず人格としての神のことばを表す。すなわち、世々に先立って父から生まれた神の独り子、肉となった父のことばである(ヨハネ1・14参照)。宇宙の創造と、特別な意味で人間の創造においてすでに存在した神のことばは、救いの歴史において啓示され、旧約と新約の文字によってあかしされた。この神のことばは聖書を超えたものであると同時に、聖書全体を含んでいる。教会は聖霊に導かれながら(ヨハネ14・26、16・12-15参照)、生きた聖伝のうちに神のことばを守り、保存し(『神の啓示に関する教義憲章』10参照)、宣教と秘跡と生活のあかしを通じてそれを人類に与える。それゆえ、司牧者は、神の民が神のことばのさまざまな意味を理解するよう教えなければならない。

提言4:啓示の対話的性格

 啓示における対話は、まず神のことばが人間に向けて語られたことによって行われる。実際、神はその大きな愛によって、人類と出会うことを望み、自ら人間に語りかけ、人間をご自分のいのちへと招き、あずからせた。キリスト教の特徴はイエス・キリストという出来事にうちに示される。イエス・キリストは、啓示の頂点、神の約束の実現、人間と神の出会いの仲介者だからである。イエス・キリストは「神を示された」(ヨハネ1・18)かたであり、人類に与えられた、唯一、決定的なみことばである。人間は、啓示を受け入れるために、思いと心を聖霊のわざに開かなければならない。聖霊は聖書のうちにある神のことばを理解させてくれるからである。人間は、完全な自由と、信仰による従順をもって神にこたえる(ローマ1・5、二コリント10・5-6、『神の啓示に関する教義憲章』5参照)。
  イエスの母マリアは、この信仰による従順を模範的なしかたで体現した。マリアは、神のことばを聞いて受け入れる、教会の信仰の原型でもある。

提言5:聖霊と神のことば

 聖書はキリストの花嫁である教会に聖霊が与えたたまものである。それゆえ、聖書を解釈する場は、教会である。
  ご自身が聖書の著者である聖霊は、世々にわたって「教会の信仰(fides Ecclesiae)」を形成することを通じて、正しい解釈を導く。
  シノドスは次のように勧告した。すべての司牧者は、洗礼を受けたすべての者に、聖書の解釈と理解に際して(『神の啓示に関する教義憲章』12参照)、霊感を与える聖霊の役割を思い起こさせなければならない(『神の啓示に関する教義憲章』11参照)。したがって、弟子であるわれわれは皆、聖霊が降るように何度も祈り求めるよう招かれている。それは、聖霊が、神のことばに関するいっそう深い知識と、信仰のあかしへとわれわれを導いてくださるためである(ヨハネ15・26-27参照)。シノドスは、聖書が、霊と花嫁がともに上げる叫び声で結ばれていることを信者に思い起こさせる。「主イエスよ、来てください」(黙示録22・17、20参照)。

提言6:教父による聖書の読み方

 聖書解釈にとって教父による聖書の読み方を無視することはできない。そこでは文字どおりの意味と霊的な意味の二つの意味を区別する。文字どおりの意味は聖書のことばが意味するもので、批判的釈義の科学的な方法によって見いだされる。霊的な意味は聖書が語る出来事にもかかわる。それは教会全体の生きた聖伝と信仰の類比をも考慮に入れる。信仰の類比は、信仰の真理の、真理相互における、また神の啓示の計画全体における内的なつながりを含む。

提言7:神のことばと聖体の一致

 神のことばと聖体の間の深い一致を考察することは重要である(『神の啓示に関する教義憲章』21参照)。ヨハネ6・35-58、ルカ24・13-35のような特定の箇所にも述べられているとおりである。それは、しばしば神学的・司牧的考察に見受けられる、二つのことがらの対立を乗り越えるためである。こうして聖体に関する前回のシノドスとのつながりがいっそう明確になる。
  神のことばは感謝の祭儀という出来事において秘跡として受肉し、聖書を実現する。聖体は聖書を解釈するための原理である。聖書もまた聖体の神秘を解明し、説明する。その意味でシノドス参加司教は、神のことばのもつ秘跡的性格に関する神学的考察が深められることを望む。聖体における主の現実の現存が認められなければ、聖書の理解はいつまでも実現しない。

提言8:和解と回心のことば

 神のことばは和解のことばである。なぜなら、神はみことばにおいて万物をご自身と和解させたからである(二コリント5・18-20、エフェソ1・10参照)。イエスにおいて体現した神の憐れみ深いゆるしは、罪人を再び立ち上がらせる。
  いやしの秘跡(病者の塗油)における神のことばの重要性を強調しなければならない。教会は、みことばであるイエス・キリストによって和解させられ(エフェソ2・14-18、コロサイ1・22参照)、すべての人に和解と憐れみとゆるしの場を提供する共同体とならなければならない。
  神のことばのいやしの力は、それを聞く者を絶えざる個人的な回心へと招く生きた呼びかけであり、キリストによって父から与えられた和解を勇気をもって告げ知らせるためのきっかけとなる(二コリント5・20-21参照)。
  最近、さまざまな紛争と宗教間の緊張が見られる中で、カトリック信者は、イエスにおいて神が実現した和解のわざに忠実に従いながら、和解の模範となるよう努めなければならない。そして、神と人々との関係において同じ人間的・倫理的・宗教的価値観を分かち合うことを目指さなければならない。このようにしてカトリック信者は公正で平和な社会を築こうと努めるのである。

提言9:聖書を読むことにおける神との出会い

 今回のシノドスは、肉となった神のことばであるイエスとの出会いは恵みの出来事であることを、すべての信者にあらためて強く示す。この恵みの出来事は、聖書を読み、聞くことによって繰り返し起こる。聖チプリアノ(200/210-258年)は教父たちの共通の思想をまとめてこう述べる。「あなたは時には熱心に祈り、時には霊的な読書(lectio divina)をするようにしてください。神と語るそのときこそ、神があなたとともにおられます」(『ドナトゥスに送る』:Ad donatum 15〔吉田聖訳、『南山神学』第24号(2000年)、199頁〕)。
  それゆえわれわれは、このシノドスから、神の民に属するすべての人々が聖書に深い愛を抱く新たな時代が始まることを心から望む。それは、神の民が祈りをもって忠実に聖書を読むことにより、イエスご自身との関係を深めることができるようになるためである。その意味で、できる限り、すべての信者が個人として聖書をもち(申命記17・18-20参照)、聖書を読むことによる特別免償の恵みを得ることが望ましい(パウロ六世使徒憲章『インドゥルゲンチアールム・ドクトリーナ(1967年1月1日)』30参照)。

提言10:キリスト教の聖書における旧約聖書

 イエスは詩編を祈り、律法と預言者を読むとともに、ご自分の説教の中でそれらを引用し、ご自身が聖書の実現であることを示された(マタイ5・17、ルカ4・21、24・27、ヨハネ5・46参照)。新約は常に旧約のことばと表現を引用する。それによって新約はイエスの生涯と死と復活を物語ることができた(マタイ1-2章と出エジプトなど、マルコ6・3、ルカ24・25-31参照)。同時に、さらにイエスの死と復活は「これらの同じ聖書本文にそれまで考えることのできなかった十全的な意味を与えた」(教皇庁聖書委員会『教会における聖書の解釈』ⅢA2〔和田幹男訳、『英知大学キリスト教文化研究所紀要』第16巻第1号(2001年)、272頁〕)。
  したがって、イエスへの使徒的信仰は「聖書に書いてあるとおり」(一コリント15章参照)告げ知らされ、イエス・キリストはすべての約束に対する神の「然り」であることを示した(二コリント1・20参照)。
  そのため、旧約の知識はイエス・キリストの福音を信じる者にとって不可欠である。なぜなら、聖アウグチヌス(354-430年)のことばを用いるなら、新約は旧約のうちに隠され、旧約は新約において明らかにされたからである(『七書の諸問題』:Quaestiones in Heptateuchum 2, 73参照)。
  それゆえ、われわれは、説教と信仰教育が旧約のテキストを適切なしかたで考慮し、それを救いの歴史との関連でふさわしく説明し、神の民がイエス・キリストへの信仰に照らして旧約を評価するための助けとなることを望む。

提言11:神のことばと貧しい人への愛のわざ

 聖書の特徴の一つは、神が貧しい人を特に愛することに関する啓示である(マタイ25・31-46参照)。受肉した神のことばであるナザレのイエスは、いつくしみのわざを行いながらこの世を歩んだ(使徒言行録10・35参照)。神のことばを進んで受け入れるなら、それは教会の中に、すべての人、特に貧しい人に対する愛のわざを豊かに生み出す。回勅『神は愛』が教えるとおり、福音を第一に告げ知らされる権利をもつのは貧しい人にほかならない。貧しい人は、パンだけでなく、いのちのことばを必要としているからである。しかしながら、貧しい人は愛のわざを行う対象であるだけでなく、福音宣教を行う主体でもある。彼らは神に心を開き、寛大に他の人と分かち合うことができるからである。司牧者は、貧しい人に耳を傾け、貧しい人から学び、貧しい人の信仰を導き、貧しい人に歴史を築くよう促すことを求められる。愛の奉仕をゆだねられた助祭はこの領域において特別な責任をもつ。シノドスは助祭がその奉仕職を果たすことを励ますものである。

提言12:霊感と聖書の真理

 シノドスは、教理省が霊感と聖書の真理の概念、またこれら相互の関係を明らかにするよう提言する。それは、『神の啓示に関する教義憲章』11の教えをいっそうよく理解できるようになるためである。特にこの分野におけるカトリックの聖書解釈の独自性を強調することが必要である。

提言13:神のことばと自然法

 シノドス参加司教は、現代という歴史的な時期における大きな困難を自覚している。この困難の一つは、科学が自然の知識において成し遂げた大きな発展と関連する。逆説的にも、自然の知識が増大するほど、人は自然に由来する倫理的なメッセージを見いださなくなる。思想史において、古代の哲学者はすでにこの原理を「自然法」ないし「自然道徳法」と言い慣わしていた。教皇ベネディクト十六世が述べたとおり、このことばは現代、理解不能になったように思われる。「『自然』は形而上学的なものではなく、単に経験的なものにすぎなくなっているからです。自然がそのままではもはや道徳的なメッセージを示さなくなったことは、方向感覚の喪失を生み出しています。この方向感覚の喪失のために、日常生活における決定が不安定かつ不確実なものとなっています」(「自然法国際学会参加者へのあいさつ(2007年2月12日)」〔『霊的講話集2007』カトリック中央協議会司教協議会秘書室研究企画訳、カトリック中央協議会、2008年、44頁〕)。
  特に使徒パウロがローマの信徒への手紙で述べた(ローマ2・14-15参照)聖書の教えに照らして、自然法がすべての人の心の奥深くに記され、すべての人はそれに近づくことができることを強調するのが適切である。自然法の基本的原則は「善を行い、悪を避けよ」である。この真理がすべての人に義務づけられたものであることは明らかである。また、この真理から、すべての人の権利と義務に関する倫理的判断を規制する他の原則が生じる。次のことを思い起こすことがふさわしい。神のことばで養われることは、自然法の知識を深め、道徳的良心の向上を促す。それゆえシノドスは全司牧者に勧告する。神のことばの奉仕者に、自然法の再発見と、良心の教育において自然法が果たす役割を意識させるよう配慮するように。

第二部 教会生活における神のことば

提言14:神のことばと典礼

 告げ知らされた神のことばを聞くように聖霊によって呼び集められた会衆は、祭儀の中で示される同じ聖霊のわざによって造り変えられる。実際、教会のあるところには主の霊もあり、主の霊のあるところには教会もある(イレネオ『異端反駁』:Adversus haereses III, 24, 1参照)。
 シノドス参加司教は、典礼が神のことばを完全なしかたで表すための特別な場であることを再確認する。すなわち、秘跡、特に感謝の祭儀、時課の典礼、典礼暦年である。聖書で語られる救いの神秘は、告げ知らされ、聞かれ、実現する固有の場を典礼のうちに見いだす。
  そのためにたとえば次のことが必要である。
・聖書を、典礼以外のときも、聖堂内の目に見える品位のある場所に置かなければならない。
・『ローマ・ミサ典礼書の総則』(同56参照)に示されているとおり、第1朗読と第2朗読の後と、説教の後、沈黙することを奨励すべきである。
・みことばの祭儀も主日の聖書朗読を中心として行うことができる。
・聖書朗読を、ふさわしい典礼書、すなわち朗読聖書と朗読福音書を用いて行う。聖書に収められた神のことばに対する深い崇敬をもってこれらの書物を扱うべきである。
・特に祭日には、福音朗読に先立つ行列によって福音書を強調すべきである。
・朗読奉仕者、すなわち朗読者と聖歌隊の役割を強調すべきである。
・神のことばをはっきりとわかりやすいしかたで朗読することができるよう、男女の朗読者をふさわしく教育すべきである。朗読者は自分が朗読するみことばの内容を学び、生活によってあかしするよう招かれている。
・コミュニケーションの方法をよく知ることによって、神のことばをはっきりと朗読しなければならない。
・典礼の中で、視覚障害者や聴覚障害者のように、通常のしかたで伝えられる神のことばを聞き取るのが困難な人のことを看過してはならない。
・音響手段を適切かつ有効に用いるべきである。
  さらにシノドス参加司教は、感謝の祭儀の司式者の重大な責任を思い起こさなければならないと感じる。聖書のテキストを他のテキストに決して代えてはならない。いかなる霊的・文学的テキストも聖書の価値と豊かな内容に匹敵することはできない。聖書は神のことばだからである。

提言15:説教の現代化と「説教指針」

 説教は、告げ知らされたみことばを現実のものとする。「この聖書のことばは、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ4・21)。説教は、祭儀で祝われる神秘へと導き、宣教へと招き、信者の喜びと悲しみ、希望と恐れを分かち合い、こうして会衆を信仰宣言と、すべての人のためにささげられたミサの祈りへと向かわせる。
  会衆の参加するミサでは、週日であっても、かならず説教を行わなければならない。説教者(司教、司祭、助祭)は祈りによって心の準備をすることが必要である。それは確信と情熱をもって説教を行うことができるためである。
  説教者は3つのことを自らに問いかけなければならない。
・朗読された箇所はいかなることを述べているか。
・朗読された箇所は自分個人に何をいおうとしているか。
・具体的な状況を考慮しながら、共同体に何をいうべきか。
  説教者は何よりもまず、自分が告げ知らせる神のことばの問いかけに自らをゆだねなければならない。説教を教理によって深め、信仰を強めるために教会の教えを伝え、祭儀の場における回心へと招き、聖体の過越の神秘を現実化する準備を行わなければならない。
  説教者のみことばの奉仕職を助けるため、また、シノドス後の使徒的勧告『愛の秘跡』(同46)の教えに従って、シノドス参加司教は「説教指針」の作成を望む。この「説教指針」は、説教の原則とコミュニケーション技術とともに、典礼で用いられる朗読聖書に現れる聖書のテーマの内容を示すべきである。

提言16:朗読聖書

 ローマ朗読聖書の検討を開始することを提言する。それは、現在の朗読箇所の選択と配置が今の歴史的時期における教会の宣教に本当に適切かどうか考えるためである。特に旧約の朗読箇所と福音の箇所の関係を再検討すべきである。旧約の箇所を制限しすぎたり、いくつかの重要な箇所を排除しないためである。
  朗読聖書の改訂は、この朗読聖書を共通に使用している、エキュメニカル対話の相手の教派と対話しながら行うべきである。
  東方カトリック教会の典礼においても、朗読聖書の問題に関する権限のある権威者による検討を行うことが望ましい。

提言17:ことばの奉仕職と女性

 シノドス参加司教は、信仰を伝える上での信徒の奉仕を認め、奨励する。この点で、特に女性は、家庭と信仰教育において不可欠な役割を果たす。実際、女性は、神のことばを聞く態度と、神との個人的な関係を促し、ゆるしと福音的な分かち合いの感覚を伝えることができる。
  朗読奉仕者の奉仕職を女性にも開くことが望ましい。それは、キリスト教共同体が、女性の果たす、みことばを告知する役割を認めることができるためである。

提言18:みことばの祭儀

 典礼の伝統が示すさまざまな方法によってみことばの祭儀を行うことを勧める(『典礼憲章』35参照)。主日の感謝の祭儀を行うことのできない多くの教会共同体は、みことばの祭儀のうちに信仰とキリスト教的なあかしのための糧を見いだしている。
  みことばの祭儀は主と出会うための特別な場である。みことばが読まれることによって、キリストはご自身を現存させ、ご自分の民に語りかけるからである(『典礼憲章』7参照)。よく耳を傾けることを困難とする現代の喧騒の中にあっても、内的な沈黙と、生活を造り変える神のことばを聞く態度を培うよう、信者に勧めなければならない。
  シノドス参加司教は、養成を受けたカテキスタが神のことばを囲む主日の集会を定期的に指導してきた教会の経験に基づいて、みことばの祭儀の指針が作成されることを提言する。指針の目的は、みことばの祭儀が感謝の祭儀と混同されるのを避けることである。
  みことばの祭儀の要素である、みことばを受け入れること、賛美の祈り、感謝、そして祈願は、信者の心と、神のことばを囲んで集まったキリスト信者の会衆における聖霊の現れである。実際、聖霊は、朗読され、祝われた神のことばの実りを、受け入れる人の心と生活の中で結ばせる。
  さらにわれわれは、巡礼、祭儀、さまざまな民間信心の形態、宣教、黙想、悔い改めと償いとゆるしのための特別な期間も、神のことばを記念し、その知識を深めるために信者に与えられた具体的な機会であると考える。

提言19:時課の典礼

 時課の典礼は神のことばを聞くための特別な方法である。なぜならそれは、信者を聖書と教会の生きた聖伝に触れさせるからである。それゆえシノドスは、信者が時課の典礼、特に朝の祈りと晩の祈りに参加することを願う。そのため、まだそのようなものが作られていなければ、簡単な形態の時課の典礼を作成することが有益である。
  司教、司祭、助祭、修道者、また教会から任命を受けた者は、時課の典礼を祈る聖なる義務を思い起こさなければならない。さらに時課の典礼を祈ることは信徒にも強く勧められる。それは、時課の典礼がいっそう優れた意味で全教会の祈りとなるためである。

提言20:神のことばと結婚と家庭

 神のことばは結婚の起源である(創世記2・24参照)。イエスも結婚をご自分の国の制度の一つとし(マタイ19・4-8参照)、結婚に秘跡としての身分を与えた。秘跡としての結婚式において、新郎と新婦は互いに与え合い、「一体」となるという預言者のことばを唱える。これはキリストと教会の一致の神秘のしるしである(エフェソ5・32参照)。忠実で一致した家庭生活を通して、夫婦は子どもに対して最初に神のことばを告げる者となる。子どもたちが家庭での祈り、家庭でのみことばの祭儀、聖書の読書や、他の祈りの方法を深められるよう、支え、助けなければならない。
  夫婦は、神のことばが、結婚生活と家庭生活の困難に際しての貴重な支えとなることを思い起こさなければならない。

提言21:神のことばと小共同体

 シノドスは、聖書の黙想としてのロザリオを用いることによって、神のことばを聞き、学び、祈る小教会共同体を作ることも勧める(教皇ヨハネ・パウロ二世使徒的書簡『おとめマリアのロザリオ』参照)。多くの国にはすでに小共同体が存在する。これらの小共同体は、いくつかの家庭から成る場合、小教区に根ざす場合、さまざまな運動団体また新しい共同体と関連する場合がある。小共同体は神のことばを囲んで定期的に集まり、互いに分かち合い、力を得ている。
  感謝の祭儀を行うことができるのはごくまれである。人々は共同性を経験し、個人的なしかたで神のことばと出会う。人々は聖書を読むことを通じて、自分たちが神から個人として愛されていることを経験する。こうした共同体を指導する信徒の奉仕を評価し、推進すべきである。彼らは、洗礼を受けたすべての者が招かれている宣教の務めを果たしているからである。

提言22:神のことばと霊的読書

 シノドスは、若者を含めたすべての信者に「霊的で」熱心な読書によって聖書に近づくよう促すことを提言する(『神の啓示に関する教義憲章』25参照)。それは、神との対話が神の民の日々の現実となるためである。
  そのために次のことが重要である。
・霊的読書をマリアと教会史の中の聖人たちと深く結びつける。彼らは聖霊に従ったみことばの読み方を実践したからである。
・聖書に関する教師に学ぶべきである。
・牧者、司祭、助祭、また特別な意味でこれから司祭になる者に、必ず適切な養成を受けさせる。それは、彼らが神の民を生き生きとした霊的な力をもって教育できるようになるためである。
・信者を、その状況、身分、文化に応じて、個人また共同体として行う霊的な読書の適切な方法へと導く(「レクチオ・ディヴィナ」、日常生活における霊操、アフリカやその他の地域における「7つの段階」、祈りのさまざまな方法、家庭や教会基礎共同体における分かち合いなど)。
・教会が主日や週日の感謝の祭儀のために示す朗読箇所を用いた霊的読書を行うことを奨励する。それは、みことばと聖体の関係の理解を深めるためである。
・特に共同体による聖書の霊的読書が愛のわざの実践となるように留意する(ルカ4・18-19参照)。
  シノドス参加司教は、現代において「レクチオ・ディヴィナ」や他の同様の方法が普及していることを知り、そこに希望のしるしを認めるとともに、すべての教会指導者にこの点での努力を強めることを勧める。

提言23:信仰教育と聖書

 信仰教育はキリスト教的啓示に基づいて行われることが望ましい。信仰教育はエマオへの道でのイエスの教育方法を模範とすべきである。
  イエスはエマオに向かう道で、弟子たちの心を開いて聖書を理解させる(ルカ24・27参照)。イエスのやり方は、キリスト教的啓示に基づく信仰教育が聖書の説明を含むことを示す。イエスのやり方はまた、われわれが現代人に近づいて、救いの福音を伝えるように招く。われわれが近づくべきなのは次の人々である。
・子どもたち。子どもたちに特別な関心をもつべきである。
・聖書に基づく教育を深めることを必要とする人々。
・その歩みに同伴することが必要な、洗礼志願者。聖書を読むことを通じて彼らに神の計画を知らせ、キリスト教の入信の秘跡によって主と出会い、共同体に加わり、宣教者となる準備をさせなければならない。
  洗礼志願者に、洗礼後の秘義教育を与えなければならない。この継続教育では、聖書と『カトリック教会のカテキズム』を中心としなければならない。

提言24:神のことばと奉献生活

 奉献生活は神のことばを聞くことから生まれ、福音を生活の規範として受け入れる。奉献生活はみことばの学びやの中で絶えず自らのあるべき姿を再発見し、教会と世界のための「福音的なあかし」へと向かう。神のことばの生きた「解釈」となるよう招かれた奉献生活は(教皇ベネディクト十六世「主の奉献の祝日と第12回世界奉献生活の日の感謝の祭儀の終わりに行われた演説(2008年2月2日)」参照)、それ自体として、神が教会と世界に語り続けるためのことばである。
  シノドスは、奉献生活者の福音のあかしと、それぞれのたまものである奉仕職を通じて地理的・文化的な宣教の最前線で進んで行う福音宣教とに感謝する。同時に、奉献生活者が、神のことばを個人また共同体として聞く場に配慮すること、また、信徒、特に若者に開かれた聖書に基づく祈りを学ぶ場を増やすことを勧める。
  奉献生活者は、貧しい人の心をもって神のことばを聞き、正義と平和と被造物の保護に努めることによってこれにこたえなければならない。
  シノドスは、観想生活の重要性と、観想生活が「レクチオ・ディヴィナ」の伝統に対して貴重な貢献を行うことを強調する。隠世修道共同体は霊性の学びやであり、地域教会の生活を力づける。「修道院という霊的なオアシスは、現代社会にもっとも大事なことを思い起こさせてくれます。それはつまるところ、唯一、決定的に重要なことです。すなわち、人生を生きるに値するものとする究極的な理由が存在します。それは神とその限りない愛です」(教皇ベネディクト十六世「2007年11月28日の『お告げの祈り』のことば」『霊的講話集2007』263頁)。
  観想生活は、神のことばを受け入れ、祈り、記念する。それゆえ、観想生活を行う共同体が、その生活と宣教にとって適切な聖書的・神学的養成を受けられるよう留意すべきである。

提言25:釈義の方法の二つのレベルの必要性

 『神の啓示に関する教義憲章』12に示された聖書解釈は今なおきわめて現実的な意味をもち、有効である。それは適切な釈義を行う上での、互いに異なりながら関連し合う、二つの方法論的レベルを規定している。
  第一のレベルは、実際には、いわゆる歴史的・批判的方法に対応する。これは近代また現代の研究においてしばしば用いられて成果を上げ、特に神のしもべピオ十二世の回勅『ディヴィノ・アフランテ・スピリトゥ(1943年9月30日)』以来、カトリックの世界にも導入された。この方法は救いの歴史の性格そのものによって必要とされる。救いの歴史は神話ではなく、真の歴史だからである。この歴史の頂点は、神である永遠のみことばの受肉である。みことばは人間の時間の中に宿られた(ヨハネ1・14参照)。それゆえ、聖書と救いの歴史は、真剣な歴史的探究方法によっても研究されることを必要とする。
  聖書の正しい解釈にとって必要な第二の方法論的レベルは、聖書の人間のことばが神的なことばでもあるという性格に対応する。第二バチカン公会議は適切にも、聖書が書かれる際に導きとなった同じ聖霊の助けによって聖書を解釈しなければならないことを思い起こさせる。
  テキストの歴史的研究と並んで、適切なしかたで聖書の神学的な次元を探究しないなら、完全な意味で聖書解釈を行ったことにはならない。『神の啓示に関する教義憲章』は、この神的な次元、つまり聖書の神学的な意味に到達するために基準となる3つの決定的な要素を特定し、示している。すなわち、聖書全体の内容と統一性、教会全体の生きた伝統、そして三つ目は、信仰の類比に注意することである。「歴史的・批判的方法と、神学的方法という、この二つの方法論的なレベルを考慮したときに初めて、神学的釈義について語ることができます。これが聖書に適した釈義です」(教皇ベネディクト十六世「世界代表司教会議第12回通常総会での発表(2008年10月14日)」)。

提言26:現代の釈義研究の視野の拡大

 現代の歴史的・批判的研究を使用することによってもたらされる成果は否定できない。しかし、同時に、現代の釈義研究の状態を、その問題にも注意深く目を注ぎながら考える必要がある。カトリックのものも含めて、現代の学問的釈義は、歴史的・批判的方法に関してはきわめて高いレベルで行われている。幸いにも最近、その統合も行われた(教皇庁聖書委員会『教会における聖書解釈(1993年4月15日)』参照)。しかし、同じことを聖書のテキストの神学的次元における研究についていうことはできない。残念ながら、『神の啓示に関する教義憲章』12の3つの要素に示された神学的レベルは、しばしば存在しないかのように思われる。
  この不在の第一の帰結は、聖書が現代の読者にとって単なる過去の書物となり、現代人に語りかけることができなくなるということである。このような状況において、聖書釈義は単なる資料批判、文学批判となる恐れがある。
  第二の、おそらくより重大な帰結は、『神の啓示に関する教義憲章』に示された信仰の解釈学が消失することである。実際、信仰の解釈学の代わりに忍び入るのは、実証主義的・世俗的解釈学である。この解釈学は人間の歴史の中に神的なものが存在し、それに近づきうることを否定するのである。
  シノドス参加司教は、聖書の深い意味を発見するための助けとなった、そして今も助けとなっている多くの釈義学者と神学者に心から感謝しながら、聖書解釈の神学的レベルに力強くはっきりと到達するためにますます取り組むことをすべての人に求める。
  公会議が望む聖書への愛を深めるために、『神の啓示に関する教義憲章』が十全なかたちで明確に示した原則を適用することを心がけなければならない。

提言27:釈義と神学の対立の克服

 教会生活と宣教にとって、また、現代文化における信仰の未来にとって、釈義と神学の対立を乗り越えることが必要である。残念ながら、高度な学問的レベルにおいても釈義と神学の間で非生産的な分離が生じることが少なくない。
  そこから生まれる憂慮すべき帰結は、教会の奉仕職の志願者の養成を含めて、知的な教育方法が不安定かつ不確実なものとなることである。聖書神学と組織神学は、われわれが神学と呼ぶ唯一の現実の二つの側面である。 
  それゆえシノドス参加司教は、尊敬の念をこめて神学者と釈義学者に呼びかけを行う。どうか、はっきりとした一致のうちに協力し合いながら、現代神学に聖書の力を与えるとともに、聖書研究を、霊感を受けたテキストの資料批判におとしめないように。
  「釈義が神学的な釈義でない場合、聖書は神学の中心となりえません。逆もまた真実です。神学が本質的な意味で教会の中で行われる聖書の解釈でなくなれば、このような神学はもはや基盤をもたないものとなります」(教皇ベネディクト十六世「世界代表司教会議第12回通常総会での発表(2008年10月14日)」)。

提言28:釈義学者、神学者、司牧者の間の対話

 司教協議会は、神のことばへの奉仕における一致を深めるために、司牧者、神学者、釈義学者の定期的会合を援助することが求められる。われわれは、釈義学者と神学者が、神の民の信仰の深化と教育のために、それぞれの学問的成果をいっそう分かち合えるようになることを望む。その際、聖書のカトリック的解釈の特徴となる側面に常に留意しなければならない(教皇庁聖書委員会『教会における聖書の解釈』Ⅲ参照)。

提言29:旧約を読む際の困難

  旧約を読む際に困難が生じることがある。テキストが、暴力、不正、不道徳、模範とならない要素を含み、場合によって重要な聖書の人物にもそれらの要素が見られるからである。
  したがって、これらの箇所を読むための信者に対する適切な準備と、テキストを歴史的・文学的背景のもとに読ませ、キリスト教的な読み方を行えるようにするための教育が必要である。このような教育にとって中心的な解釈の鍵となるのは、福音と、復活の神秘によって実現されたイエス・キリストの新しい掟である。それゆえ、旧約を読むことをなおざりにしないことを勧める。旧約は、たとえ多少とも難解なところがあっても、救いの歴史の完全な意味での理解のために不可欠だからである(『神の啓示に関する教義憲章』15参照)。

提言30:聖書司牧

 『神の啓示に関する教義憲章』は、神のことばを神学の魂とするだけでなく、司牧的配慮と教会生活と宣教の魂ともするよう勧告する(『神の啓示に関する教義憲章』24参照)。司教は自分の教区の中で第一にこのことを推進しなければならない。神のことばの信頼することのできる告知者となるために、司教は自らを神のことばで養わなければならない。それは、自分の司教としての奉仕職を支え、実り豊かなものとすることができるためである。シノドスはますます「聖書司牧」を推進することを勧告する。「聖書司牧」は、他の司牧と並んでではなく、司牧全体を聖書によって力づけるために行うべきである。
  司牧者の指導のもとに、洗礼を受けたすべての者は教会の宣教に参加する。シノドス参加司教は、福音宣教への奉仕を心から評価し、感謝し、奨励したいと望む。多くの信徒、特に女性が、復活の喜びの最初の証人であるマグダラのマリアの模範に従いながら、世界中の共同体において惜しみなく福音宣教に取り組むことができるようになるためである。

提言31:神のことばと司祭

 神のことばは、みことばの奉仕者であるよい牧者の心を養成する上で不可欠である。そのため『現代の司祭養成』はこう述べる。「司祭はまず、役務上語ることばが『自分』のものではなく、自分を遣わしたかたのものであることを十分に自覚した上で、まず、みことばの第一の『信者』でなければなりません。司祭はみことばの主人ではなく、みことばに仕える者です。みことばの唯一の所有者ではなく、みことばについて神の民に対して責任を負う者です」(教皇ヨハネ・パウロ二世使徒的勧告『現代の司祭養成(1992年3月25日)』26)。司祭、特に主任司祭は、日々、聖書によって自らを養い、知恵と寛大な心をもって、自分が司牧するようゆだねられた信者に聖書を伝えるよう招かれている。

提言32:司祭志願者の養成

 司祭志願者は神のことばを愛することを学ばなければならない。それゆえ、聖書を神学養成の魂としなければならない。その際、釈義と神学と霊性と宣教が一つながりのものであることを強調すべきである。だから、司祭養成は、以下のように聖書にさまざまなしかたで近づくことを含まなければならない。
・霊的な読書、特に「レクチオ・ディヴィナ」を、個人としても共同体としても、聖書を最初に読む際に行う。このような霊的読書を養成の全過程を通じて継続することが必要である。その際、教会が神学生養成中の黙想・黙想会に関して定めたことを考慮すべきである。
・神のことばを自らの糧とするために、豊かな内容をもつ聖務日課も用いる。
・釈義のさまざまな方法を見いだす。恣意的な解釈に陥る危険を避けるために、解釈の規則を正確に、また幅広く学ぶことが必要である。神のことばを正確に実り豊かなしかたで理解できるために、釈義の方法の可能性と限界を適切な形で知らなければならない。
・教父、聖人、教会博士、現代に至るまでの霊性の師における、聖書の読み方の歴史を知る。
・神学養成における説教のための養成を強化し、奉仕職に就いてからの継続養成に留意する。説教が聴衆に語りかけるものとなりうるためである(使徒言行録2・37参照)。
・神学校での養成と並行して、司祭志願者は、神のことばを囲んで行われる信徒のグループや団体の会合に参加するのが望ましい。十分な時間をかけて行われるこうした会合は、青年も高齢者も含めて、聖霊が教会に集めた信者に語りかけることを聞く経験と感性を将来の奉仕者のうちに培う。
  哲学の真剣な勉学をおろそかにしてはならない。哲学は、聖書研究に適用されるさまざまな解釈学に含まれる前提や意味をはっきりと評価させてくれるからである(『司祭の養成に関する教令』15参照)。
  そのため、哲学科において、超越へと開かれた哲学思想と文化思潮(美術・音楽)を発展させ、教えることが望ましい。それは、学生が、人間の心の望みを唯一、満たすことのできる神のことばを聞いて理解できるようになるためである(教皇ヨハネ・パウロ二世回勅『信仰と理性(1998年9月14日)』83参照)。
  カリキュラムを刷新することが望まれる(教皇ヨハネ・パウロ二世使徒憲章『サピエンチア・クリスティアーナ(1979年4月15日)』参照)。それは、より明確な形で、聖書に照らした神学の体系的研究を行えるようにするためである。さらに、神学校や養成の家における教育課程を見直す際に、養成のさまざまな面で神のことばがふさわしい位置を占めることに注意しなければならない。

提言33:キリスト信者の聖書教育

 聖書を愛することは聖霊の与える恵みである。この恵みは信者の生活全体に行き渡る。それゆえ、キリスト信者はこの神のたまものを大事にすることを学ばなければならない。主はいわれる。「もしあなたが、神のたまものを知っていたならば」(ヨハネ4・10)。
  それゆえ、神のことばを理解し、生き、告げ知らせることを学べる、信者とみことばの宣教者のための養成センターを文化圏ごとに設置することが望ましい。さらに、必要に応じて、釈義学者のための専門的な聖書研究機関を設置するとよい。こうした機関は、堅固な神学的理解と、宣教状況に対する感覚をもつべきである。今述べたことは、神学校や学科のような既存の制度の見直しや強化によって実現することも可能である。最後に、聖書をさまざまな現代語に翻訳する人々に聖書の言語を適切なしかたで教えることも必要である。

提言34:青年に聖書を普及させること

 イエスは青年に向かって、「わたしに従いなさい」と招いた。それと同じように、現代においても、子ども、少年、青年に対して、「あなたがたの求めているこたえを主のことばのうちに見いだしなさい」と、あらためて招かなければならない。青年に聖書を普及させるに際して、ベネディクト十六世の招きを思い起こすべきである。「親愛なる友人である若者の皆さん。わたしは皆さんが聖書に親しむように、強く勧めます。聖書をいつも手に携えてください。それは、聖書が皆さんにとって、行くべき道を指し示す羅針盤となるためです」(教皇ベネディクト十六世「第20回世界青年の日メッセージ(2006年2月22日)」)。聖書が召命にとってもつ意味を示すことが望まれる。それは、多くの青年が完全な奉献をも含む召命の決断をする上で、聖書が助けと方向づけとなるためである。キリスト教共同体は愛をもって若者を受け入れ、耳を傾け、支えなければならない。それは、若者が、教育者から聖書を学ぶことによって、神のことばのまことの情熱的な証人となるためである。こうして、福音を愛し、特に現代人に福音を伝えるように、若者を導くことができる。

提言35:聖書と保健司牧

 イエスは、生涯を通して病人を気遣い、いやし、この奉仕のうちに神の国の現存のしるしを示した(ルカ7・22参照)。聖書は今日も、病者と苦しむ人に、慰め、励まし、心とからだをいやすことばを与え続ける。詩編の祈りは人の心の深みに触れ、すべての人が神のことばそのものによって自分の苦しみと望みを言い表すことを可能にする。それゆえ、シノドス参加司教は、あらゆる種類の病気に苦しむ人に近づく人が、謙遜に、しかし勇気をもって、聖書と聖体のうちに生きている主イエスのことばを病者にもたらすことを勧める。現代においても、神のことばが保健司牧を力づけることが不可欠である。それは、病者が信仰を通じて、自分の苦しみによってあがないをもたらすキリストの苦しみにあずかれることを見いだすように導くためである(二コリント4・8-11、14参照)。

提言36:聖書とキリスト者の一致
 聖書はまことにさまざまな教会と教会共同体が出会う特別な場である。ともに聖書のことばを聞くことにより、われわれは、完全ではないにしても現実の一致を体験する(「中間報告」36)。「神のことばにともに耳を傾け、聖書のレクチオ・ディヴィナ(霊的な読書)を実践することは・・・・聞いた神のことばにこたえて、信仰の一致に達するために歩むべき道です」(教皇ベネディクト十六世「キリスト教一致祈祷週間終了に際しての講話(2007年1月25日)」)。それゆえ、ともに聖書のことばを聞くことは、愛の対話を促し、真理の対話を深める。教会(特に教導職)の解釈における権威を有する者の理解に関して、エキュメニカルな問題が残っている。それゆえ聖書の共同の研究・探求を強化すべきである。同じく、聖書の翻訳と普及に関する共同事業や、神のことばに耳を傾けるための超教派的な祭儀も推進すべきである。

提言37:バルトロマイ一世のシノドス参加

 シノドス参加司教は、他の教会・教会共同体の友好使節と代表がシノドスに参加し発表してくださったこと、特に教皇ベネディクト十六世がコンスタンチノープルの世界総主教バルトロマイ一世とともに晩の祈りを司式したことを神に感謝する。シノドス参加司教に対するバルトロマイ一世のことばは、深い霊的な喜びを与えるとともに、まだ完全ではないにしても現実の深い一致を生き生きと体験させてくれた。われわれはバルトロマイ一世のことばのうちに神のことばの美しさを味わった。バルトロマイ一世は神のことばを聖体礼儀と教父に照らして読んだからである。それは現代に深く適応した霊的な読み方である。
  それゆえわれわれは、聖書の中心に赴くことによって、真の意味でことばの中のことばと出会うのだということを知った。みことばは信者の目を開いて、現代世界の問題にこたえることを可能にする。さらにわれわれは、自分たちが西方教会と東方教会の共通の教父をもつという喜ばしい体験をともにした。このバルトロマイ一世との出会いが唯一の主への燃えるような祈りとなる。どうか、「すべての人を一つにしてください」(ヨハネ17・21)というイエスの祈りができるだけ早く実現しますように。

第三部 教会の宣教における神のことば

提言38:洗礼を受けたすべての人の宣教の使命

 神のことばを告げ知らせるという使命は、洗礼を受けることに基づく、イエス・キリストのすべての弟子の使命である。あらゆる小教区、共同体、カトリック組織においてこの自覚を深めなければならない。すべての人、特に、洗礼を受けながら十分福音を生きていない兄弟に神のことばを届けるための取り組みを行うべきである。神のことばは人間に伝えられるために肉となった。だから、神のことばを知らせるための特別な方法は、それを現存させ、生きる証人との出会いである。
  その固有のカリスマと経験の力によって、宣教会の協力は宣教に特別に役立つ。さらに新しい運動団体の存在は、現代における教会の福音宣教にとって特別に豊かな力となる。それは教会が福音を告げ知らせる新しい方法を発展させるための刺激となるからである。信徒は自らの預言的職務を果たし、家庭、職場、またあらゆる場を含めた日常生活において福音をあかしする責任を再発見するよう招かれている。信徒の預言的職務は、洗礼に直接、由来する。しばしばこのあかしは、福音を理由とする信者の迫害を招く。シノドスは公共生活の指導者に信教の自由を保障するよう呼びかける。
  さらに、キリスト教入信の過程を開かれたものとする必要がある。人々は、神のことばを聞くことや、感謝の祭儀、また共同体の中で経験する兄弟愛を通じて、いっそう成人としての信仰をもつことができるようになる。人の移動と移住の現象から生じる新たな問題を考察すべきである。この現象は福音宣教の新たな展望を開くものである。なぜなら、移住者は福音宣教を受けることを必要とするだけでなく、自ら福音宣教を行う者となることができるからである。

提言39:神のことばとこの世とのかかわり

 聖書と教会の生きた聖伝に含まれた神のことばは、人の思いと心がすべての人と被造物を理解し愛する助けとなる。実際、神のことばは、より公正で住みよい世界を作ろうとするすべての人の努力のうちに、神のしるしを見いだす助けとなる。神のことばは、歴史の中にある「時のしるし」を見分けるよう励ます。信者が、苦しむ人、不正の犠牲となった人のために働くよう駆り立てる。正義と変革のための戦いは福音宣教の不可欠の部分である(教皇パウロ六世使徒的勧告『福音宣教(1975年12月8日)』19参照)。
  シノドス参加司教は、信者として政治・社会生活に従事する人々に特別に思いを致す。神のことばがこの人々の行うさまざまなあかしを支え、世におけるその行動を力づけることを望む。それは、彼らがすべての人のまことの善を求め、すべての人格の尊厳を尊重できるためである。それゆえ、この人々が教会の社会教説の原則に従った適切な教育を通じて養成されることが必要である。

提言40:神のことばと教会美術

 東方教会と西方教会の偉大な伝統は、芸術表現、特に聖書から霊感を受けた聖画像を常に尊んできた。
  われわれは美を愛するすべての芸術家に感謝する。すなわち、詩人、文学者、画家、彫刻家、音楽家、演劇・映画俳優である。これらの芸術家は、教会を美しく飾り、信仰を祝い、典礼を豊かなものとするために役立ってきた。同時に、多くの芸術家は、見えない世界を目に見えるものとし、神の語りかけをさまざまな言語表現に移し変える助けとなってきた。これらすべてのことに対してシノドスは深い感謝を表したい。
  あらゆる文化の分野で新たな時代を生み出すことが必要である。それは、芸術が聖書の霊感とあらためて出会い、啓示された神のことばを告げ知らせ、歌い、観想できるための道具となるためである。
  教会建設に際して、司教は、適切な助けを得ながら、教会が、みことばを告げ知らせ、黙想し、感謝の祭儀を行うためにふさわしい場となるよう配慮しなければならない。典礼以外のための聖なる場所も、神のことばにかかわるキリスト教の神秘を雄弁に示すものとしなければならない。

提言41:神のことばと文化

 神のことばは全人類に向けられている。神のことばが数世紀にわたって、さまざまな文化に霊感を与え、根本的な道徳的価値観や優れた芸術表現、また模範的な生活様式を生み出してきたことを認めなければならない。実際、神のことばには、科学が新たな探究において発見を行い、われわれと信仰を共有しない人々との対話を推進するための助けとなる要素が見いだされる。それゆえシノドス参加司教は、特に現代に見られる意味への問いに関して、聖書と文化の対話が行われることを願う。それは、人々の探求に決定的なしかたでこたえられるようにするためである。
  世俗的な社会や、非信者を含めて、聖書研究グループを作ることが望ましい。それは、聖書のことばを通して世を神に開く道となる。

提言42:聖書と聖書翻訳

 シノドスは隣接した文化や類似する言語圏において同一の聖書翻訳が、典礼での使用においても個人的な使用においても、認可・使用されることを勧告する。
  世界の多くの教会が自らの地域言語に翻訳された聖書をいまだにもたずにいる。それゆえ、諸言語への聖書の翻訳に従事する専門家を養成することが何よりも重要である。

提言43:聖書と聖書の普及

 シノドスは、全信者が聖書テキストを容易に読めることの必要性を思い起こしたい。同時に、シノドスは、現代の技術が提供するあらゆる手段を用いて、特にさまざまな能力の人々にできる限り聖書を普及させるために、多くの力を注ぐことを求める。教会はこのような人々に特別な関心を抱いているからである。
  そのためには教会間の特別な協力が必要である。それは、多くの手段を有する教会が、困窮した教会の必要にいっそうこたえることができるためである。シノドス参加司教は、多くの人が聖書に近づくことができるようにするための世界カトリック聖書連盟の活動を支えることを勧告する(『神の啓示に関する教義憲章』22参照)。聖書翻訳の数を増やし、聖書をいっそう普及させるためである。このことは各国の聖書協会と協力して行うべきである。

提言44:マスメディア

 シノドスは福音宣教のために伝達手段・言語が重要であることを強調する。福音の告知は、さまざまなメディアの交流によって特徴づけられる現代の情報通信手段のうちに新たな可能性を見いだす。
  教会は、メディアを通じて神のことばを広めるだけでなく、何よりも、救いの知らせと、メディアが作り出し、広げた新しい文化とを結びつける必要がある。
  新しいメディア状況は、宣教の手段の多様化と、聖書研究の推進を可能にする。豊かな聖書研究の成果を、新しい通信手段を通じて、遠隔地も含めたすべての共同体にもたらす必要がある。
  シノドスは、メディアをよりよく知り、メディアの急速な変化に同伴し、さまざまな手段を通じてメディアに投資することを勧める。すなわち、ラジオ、新聞、インターネットなどである。いずれにせよ、こうした手段は神のことばを忠実に聞くことを容易にしてくれる方法である。確信をもってメディアの分野で働く、カトリック信者の専門家を作ることが必要である。

提言45:神のことばと国際大会

 現代、さまざまな性格の国際大会が開催される。それゆえ、神のことばに関する特別な大会を開催することが適切だとは考えない。しかし、国際大会の大きな部分を神のことばの研究とみことばの祭儀のために用いることは重要である。さらに司教協議会は、聖書の普及を目的とする週間を支え、推進するよう求められる。

提言46:聖書の忠実な読み方――歴史性と根本主義(ファンダメンタリズム)

 古代から教会の聖伝の中で実践されてきた、聖書の忠実な読み方は、一人ひとりの信者の生活と教会の救いとなる真理を探求する。この読み方は、聖書伝承に含まれた歴史的価値を認める。このような歴史的証言の価値に基づいて、この読み方は、現代の信者の生活にも当てはまる聖書の深い意味を再発見しようと望む。
  このような聖書の読み方は「根本主義的解釈」とは異なる。「根本主義的解釈」は、霊感によって書かれたテキストが人間によって媒介されることと、文学形式を無視するからである。「レクチオ・ディヴィナ」を実り豊かなしかたで用いるために、「無意識の中に聖書のメッセージの人間的限界を、このメッセージの神的本質と混同」(教皇庁聖書委員会『教会における聖書の解釈』IF〔前掲和田幹男訳、253頁〕参照)しないように信者を教育する必要がある。

提言47:聖書とセクト現象

 われわれはセクト現象の増加と変化に深い関心を抱いている。実際、さまざまな起源をもつセクトは、神が個人の生活に近づく体験を提供するとともに、しばしば聖書を根本主義的なしかたで解釈することを通して幸福の幻想を約束するように思われる。
  われわれは次のことを提案する。
・聖書の生き生きとした正しい解釈を通じて、みことばの糧を求める信者にそれを与える司牧活動を強化すること。
・最初の数世紀の教会の豊かな経験から学ぶこと。この時代の教会にも同様の現象があったからである(一ヨハネ2・19、4・2-3参照)。
・現代に見られるセクト特有の性格、原因、指導者をよく知ること。
・神のことばと私的啓示をはっきり区別できるよう信者を助けること。
・セクトと根本主義の魅力と戦うために、分かち合いと黙想を行うグループの活動を奨励すること。
こうした新しい事態に対応できるよう、司祭を適切なしかたで養成することが必要である。司祭が、現代人が感じる問題に合わせて、聖書に基づく司牧を推進できるようにしなければならない。
  われわれは、聖座が、司教協議会と東方カトリック教会の権限のある機関と協力しながら、セクト現象の世界的な広がりと地域的な影響を研究することを要望する。

提言48:聖書とインカルチュレーション

 啓示は、人間のさまざまな文化の中から、神がわれわれの救いのために伝えた真理を表現できる真の価値あるものを用いることによってなされる(『神の啓示に関する教義憲章』11参照)。実際、啓示された神のことばは、それまで知られていなかった真理の認識を文化にもたらし、文化を発展・展開させる。すべての造られたものに神のことばを告げ知らせるようにという教会に対する神の命令は(マルコ16・15参照)、神のことばと、地上の全民族およびその文化との出会いを含む。この出会いは、啓示において行われた神のことばのインカルチュレーションの過程を前提とする。
  それゆえ、神のことばはあらゆる状況に行き渡らなければならない。それは、文化が、生活・典礼・キリスト教思想の独自の表現を生み出せるようにするためである(教皇ヨハネ・パウロ二世使徒的勧告『要理教育(1979年10月16日)』53参照)。このことは、文化に対して示された神のことばが「民族の精神的長所と各民族または各時代の美点を・・・・内面からはぐくみ、強め、完成させ、キリストにおいていやし」(『現代世界憲章』58)、そこから、キリスト教生活の新しい表現を引き出すことによって行われる。
  福音のメッセージの真のインカルチュレーションを行うためには、適切な手段によって宣教者の養成を強化しなければならない。人々が生きる環境や社会的・文化的状況を深く知ることができるようになるためである。こうして宣教者は、環境、言語、地域文化に適応できる。福音のメッセージの真の意味でのインカルチュレーションを実現し、当然のことながら、混交主義の危険に注意を払うのは、第一に地域教会の役割である。インカルチュレーションの質は、どれだけ成熟した形で共同体を福音化できるかにかかっている。

提言49:「諸国民」への宣教

 神のことばはすべての人にとっての善である。教会はこの善を自分だけのためにとっておくのではなく、喜びと寛大な心をもってすべての民族・文化に分かち与えなければならない。それは、すべての民族・文化もイエス・キリストのうちに道、真理、いのちを見いだせるようになるためである(ヨハネ14・6参照)。
  長い教会の歴史の中で福音を諸国民にもたらした、聖パウロと使徒と多くの宣教者の模範を仰ぎ見ながら、シノドスは、現代においても「諸国民」への宣教が急務であることをあらためて確認する。この宣教は、明確なしかたで、教会の内部だけでなく、あらゆるところで行われなければならない。また、宣教は、宣教と一致した生活のあかしを伴わなければならない。このあかしが宣教の内容をはっきりと示し、強めるからである。
  司教、司祭、助祭、奉献生活者、信徒も、典礼に参加せず、教会にあまり来ない人に寄り添わなければならない。教会は霊の力をもってすべての人のところに行き(一コリント2・5参照)、人々が神のことばを聞く権利と自由を預言者として擁護し、迫害の危険があっても、もっとも効果的な宣教の手段を探さなければならない。

提言50:聖書と諸宗教対話

 キリスト教以外の諸宗教との対話は、教会生活と人類との対話において重大な要素である。一神教、アフリカとオーストラリアの伝統宗教、アジアの古来の霊的伝統は、尊重し、ともに協力すべき価値をもつ。こうした協力関係は、人間間、社会間の理解を大いに深めることができる。こうした対話の指針となるのは第二バチカン公会議の『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』である。シノドスはまた、すべての宗教者が、個人としても公にも自分の信仰を表明できる自由と、良心の自由を、実効的に保障する必要を確認する。

提言51:聖地

 パウロ六世は聖地を「第五の福音」と呼んだ。シノドスは、聖地巡礼と、可能であれば、聖地で聖パウロの足跡をたどりながら聖書を学ぶことを勧める。こうした経験を通じて、巡礼者と研究者は、聖書の物理的・地理的環境と、特に旧約と新約の関係をいっそう理解することができる。イエスがその上を歩んだ石は、巡礼者が生き生きと思い起こすことができる石となる。いずれにせよ、聖地のキリスト信者は、すべてのキリスト信者、特に現代において紛争と貧困と恐怖のうちに暮らすキリスト信者との一致を必要とする。

提言52:キリスト教徒とユダヤ教徒の対話

 キリスト教徒とユダヤ教徒の対話は、教会の本性に属する。ご自分の約束を忠実に守る神は、旧約を廃止しない(ローマ9章、11章参照)。ナザレのイエスはユダヤ人であり、聖地は教会の生まれた母なる地である。キリスト教徒とユダヤ教徒は、キリスト教徒が旧約と呼ぶ、ユダヤの民の聖書を共有する。アブラハムの子孫であるユダヤ教徒とキリスト教徒は、人類への祝福の源となることができる(創世記17・4-5参照)。
  ユダヤ教の聖書理解は、キリスト教徒が聖書を理解し、学ぶ上で助けとなる。
  キリスト教の聖書解釈は、肉となったみことばであるイエスのうちに旧約と新約が一致することを基盤とする。イエスの人格のうちに、聖書の完全な意味が、霊感によって書かれたユダヤ人の聖書との連続性と非連続性のうちに理解される。
  司教協議会がユダヤ教徒とキリスト教徒の会議・対話を推進することを勧める。

提言53:キリスト教徒とイスラム教徒の対話

 「教会はイスラム教徒をも尊重する。彼らは唯一の神・・・・を礼拝する」(『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』3)。イスラム教徒はアブラハムに言及し、特に祈りと施しと断食をもって神をあがめる。イスラム教徒との対話は、相互理解と、倫理的・精神的価値観を推進するための協力を可能にする。
  イスラム教徒との対話において、シノドスは、生命、人権、女性の尊重の重要性と、世界における正義と平和を推進するために政治・社会と宗教の次元を区別すべきことを強調する。イスラム教との対話におけるもう一つの重要なテーマは、互恵性と、良心および信教の自由である。
  もしその国においてそれが有益であるなら、当該国の司教協議会に対して、キリスト教徒とイスラム教徒の対話の輪を広げることを勧める。

提言54:神のことばの宇宙的な側面と被造物の保護

 神のことばは、被造物の美しさや、神を映し出す聖なる像、たとえば受肉したみことばの像(イコン)を通して、神の美しさをわれわれに伝える。これらのものは、目に見えない神の神秘が、ある意味でわれわれの感覚で見え、とらえられるようになるための方法である。さらに教父は、肉となった神のことばが宇宙的な側面をもつことを常に強調した。実際、すべての被造物はある意味で神のことばのしるしを帯びている。死んで復活したイエス・キリストのうちに、すべての被造物は決定的なしかたで再び一つにまとめられる(エフェソ1・10参照)。それゆえ、万物またすべての人は、キリストと結ばれて、善なるもの、美なるものとなるよう招かれている。
  残念ながら、現代人は、自らがその中に住み、また神が与えた世界の中で神のことばを観想する習慣を失っている。そのためわれわれは、神のことばをそのすべての側面において再発見することにより、被造物としての自然を尊重しない現代人のあらゆる行動を非難するよう促される。
  聖書と教会の生きた聖伝のうちに示された神のことばを受けることは、事物に対する新しい見方を生み出し、真の意味での環境保護を推進する。この真の意味での環境保護は、神のことばを受け入れる信仰の従順のうちにその深い基盤を見いだす。それゆえわれわれは、教会の司牧活動において、被造物の保護への取り組みを強化し、万物がよいものであることに対する神学的感覚の刷新を推進することを望む。万物は、受肉した神のことばであるキリストによって創造されたものだからである。

結び

提言55:神の母であり、信仰の母であるマリア(Maria Mater Dei et Mater fidei)

 今回のシノドスの目的は、何よりも、神のことばに対する教会の信仰を刷新することであった。それゆえ、シノドスは、受肉したみことばの母であるおとめマリアに目を向ける。マリアは、契約のことばと自分の使命を受け入れることによって、神から与えられた人類の使命を完全なしかたで実現したかただからである。シノドス参加司教は、信者の間で、受肉したみことばを日々思い起こす「お告げの祈り」と、ロザリオが広まることを勧める。
  新しい契約に基づく教会は、人々が聖霊に完全なしかたで従いながら、受肉したみことばを受け入れ、愛し、これに仕えるところで生きる。さらに、マリアの信仰は愛のうちに深められた。この愛のうちに、マリアの信仰は、受肉したみことばの成長と宣教を伴ったからである。御子の十字架の下で、信仰と愛は希望となった。マリアはこの希望によって、愛する弟子とあがなわれた人類の母となることを受け入れたからである。
  マリアは教会の信仰の模範であり原型である。マリアの姿に敬虔で愛を込めた目を注ぐことは、現代においても、教会とみことばの関係のあり方を具体的に変えるためにきわめて重要である。それは、祈りをもってみことばを聞く態度においても、寛大な心をもってみことばを宣教し、告げ知らせる務めにおいてもいえる。
  シノドス参加司教は、シノドスが「すべてのキリスト教共同体に真の意味での刷新の実りをもたらすことができるように」(教皇ベネディクト十六世「ポンペイでの『お告げの祈り』(2008年10月19日)」)と教皇とともに祈りながら、司牧者と信者に願う。マリアに向かい、肉となった神のことばへの生き生きとした信仰の恵みを聖霊に祈り求めてほしい。

PAGE TOP