教皇ベネディクト十六世の156回目の一般謁見演説 パウロのキリスト理解の中心である十字架

10月29日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の156回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、7月2日から開始した聖パウロの人と思想に関する連続講話の10回目として、「パウロのキリスト理解の中心である十字架」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。謁見には20,000人の信者が参加しました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  聖パウロの個人的な経験の中で、議論の余地なく確実なことがあります。パウロは初めはキリスト教徒の迫害者であり、キリスト教徒に暴力を振るいましたが、ダマスコへの道で回心したときから、十字架につけられたキリストの味方になりました。そして、十字架につけられたキリストを自分の生きる理由とし、宣教のテーマとしました。パウロは生涯を魂のために使い果たしました(二コリント12・15参照)。パウロの生涯はけっして穏やかなものでも、策謀や困難を伴わないものでもありませんでした。イエスとの出会いによって、パウロは十字架の中心的な意味を悟りました。パウロは、イエスが「すべての人のために」、またパウロ自身のためにも「死んで、復活した」ことを知りました。二つのことがともに重要です。イエスは本当にすべての人のために死んだという普遍的な性格と、イエスがわたしのためにも死んだという主観的な性格です。それゆえ、十字架において、神の惜しみない憐れみ深い愛が現されました。パウロは何よりもこの愛を自分自身のうちで体験しました(ガラテヤ2・20参照)。そして、罪人から信じる者となり、迫害者から使徒となりました。パウロは新たな人生の中で日々、救いは「恵み」であることを体験しました。すべてはキリストの死から降るのであって、自分のいさおしによるのでないことを体験しました。自分のいさおしは存在しないからです。こうしてパウロにとって、「恵みの福音」こそが十字架を理解するための唯一の方法となりました。それはパウロの新しい人生の基準であるばかりか、パウロへの質問者に対するこたえともなりました。何よりもパウロに質問したのは、ユダヤ人です。ユダヤ人は自分の希望を行いに置き、行いから救いを得ることを期待していました。ギリシア人もパウロに質問しました。ギリシア人は自分たちの人間的な知恵で十字架に反対しました。最後に、一部の異端者のグループもパウロに反対しました。これらの異端者のグループは、自分たちの生活様式に従って自分たちのキリスト教観を作り上げました。
  聖パウロにとって、十字架は人類の歴史の中で第一に根本的なものでした。十字架はパウロの神学の焦点でした。なぜなら、十字架について語ることは、すべての被造物に与えられた「恵みとしての救い」を語ることだからです。キリストの十字架というテーマは、使徒パウロの宣教の第一の本質的な要素となりました。そのもっとも明らかな例はコリントの共同体への宣教に見られます。コリントの教会には、無秩序とつまずきが深刻な形で存在し、一致がさまざまなグループや内部の分裂によって脅かされていました。この分裂はキリストのからだの一致を傷つけるものでした。このような教会に対して、パウロは自分の優れたことばや知恵を示すのでなく、キリスト、それも十字架につけられたキリストを告げ知らせました。パウロの力は、説得力のある話し方ではなく、逆説的にも、「神の力」のみに信頼を置く弱さと恐れでした(一コリント2・1-4参照)。十字架は、それが示すすべてのことのゆえに、また、それがもつ神学的なメッセージのゆえに、つまずきであり、愚かなものです。使徒パウロはそのことを印象的なしかたで力強く述べます。それにはパウロ自身のことばに耳を傾けるのが適切です。「十字架のことばは、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。・・・・神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストをのべ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものです」(一コリント1・18-23)。
  パウロが語りかけた最初のキリスト教共同体は、イエスが今や復活して生きておられることをよく知っていました。使徒パウロは、コリントやガラテヤの信徒だけでなく、わたしたち皆に次のことを思い起こさせようと望みます。すなわち、復活したかたは常に十字架につけられたかただということです。十字架の「つまずき」と「愚かさ」はまさにこのことのうちにあります。すなわち、失敗や苦しみや敗北しか存在しないと思われるところにこそ、神の限りない愛の力が完全な形で存在します。なぜなら、十字架は愛を示すからです。そして、愛は、このような無力と思われるところにこそ現される、まことの力だからです。ユダヤ人にとって十字架は「つまずき(スカンダロン)」、すなわち、罠(わな)、あるいはつまずきの石です。十字架は、信心深いイスラエル人の信仰のさまたげであるように思われます。イスラエル人は聖書に並ぶものを見いだそうとしないからです。パウロはここで少なからぬ勇気をもって、こういっているように思われます。それはきわめて大きな賭けとなるものでした。ユダヤ人にとって十字架は神の本質そのものと矛盾します。神は不思議なしるしをもってご自身を現されるからです。それゆえ、キリストの十字架を受け入れることは、神とのかかわりにおいて深い回心を行うことを意味します。ユダヤ人にとって、十字架を拒む理由は啓示の中にあります。すなわち、太祖の神への忠実のうちにあります。そうであれば、異教徒であるギリシア人にとって、十字架に反対する判断基準は、理性です。実際、ギリシア人にとって十字架は「愚かなもの(モーリア)」であり、文字どおりの意味で無知であり、塩のない食べ物でした。それゆえ十字架は誤りであるばかりか、良識への侮辱でした。
  パウロ自身、何度もキリスト教の宣教を拒絶される苦い経験をしました。キリスト教は「愚かで」、根拠がなく、合理的論理に基づく場で考慮するに値しないものとされたからです。ギリシア人のように、精神、すなわち純粋な思考のうちに完全性を求める人々にとって、神が人となり、時間と空間の限界のうちに完全に入りうるなどということは、初めから受け入れがたいことでした。さらに、神が十字架上で死ぬことがありうるなどと信じることはまったく考えられませんでした。わたしたちはこのようなギリシア的論理が現代の論理とも共通であることを目にします。神は「不受苦(アパテイア)」であり、苦しみを受けることがないと考えられます。そうであれば、神が人となり、敗北し、さらに、復活して生きるためにもう一度からだをとりうるなどということをどうして理解することができるでしょうか。死者の復活ということを聞くと、アテネの人々はパウロをあざ笑いながらいいました。「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」(使徒言行録17・32)。アテネの人々は、完成とは肉体から解放されることだと考えていました。肉体は牢獄だと考えたからです。もう一度からだをとるなどということを、どうして馬鹿げたことと考えずにいられるでしょうか。古代文化において、受肉した神というメッセージを受け入れる余地はないように思われました。「ナザレのイエス」の出来事全体はまったく愚かなことであり、いうまでもなく十字架はその最大の象徴だと思われました。
  しかし、聖パウロはなぜこの十字架のことばを宣教の中心としたのでしょうか。こたえは簡単です。十字架は「神の力」(一コリント1・24参照)を現すからです。この「神の力」は人間の力とは違うからです。実際、十字架は神の愛を現します。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」(同1・25)。パウロから数世紀後、わたしたちは、歴史の中で勝利を収めたのは十字架であり、十字架に反対した知恵ではなかったことを見いだします。十字架につけられたかたは知恵です。なぜなら、十字架につけられたかたは真の意味で神がいかなるかたであるかを示したからです。すなわち、神が愛の力であることを示したからです。愛の力は、人間を救うために十字架にまで赴きました。神は、わたしたちが一見したところでは弱さにしか見えない方法や手段を用います。十字架につけられたかたは、人間の弱さを示すとともに、神の真の力を、すなわち、無償の愛を示します。この完全に無償の愛こそが、真の知恵なのです。聖パウロはこのことを自らの肉体においても経験しました。そして彼は、その霊的な歩みについて述べたさまざまな箇所でこのことをあかしします。それはすべてのイエスの弟子の基準となるものです。「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』といわれました」(二コリント12・9)。また、「神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者を選ばれたのです」(一コリント1・28)。使徒パウロは自分はキリストと同じだといいます。それは、パウロも多くの試練のただ中で神の子への信仰を生きるためです。神の子はわたしを愛し、わたしとすべての人の罪のためにご自身をささげてくださったからです(ガラテヤ1・4、2・20参照)。使徒パウロの生涯はわたしたち皆の模範となります。
  聖パウロはコリントの信徒への手紙二(同5・14-21)の中で、十字架の神学のすばらしい総合を行います。この箇所で、すべては次の二つのことのうちにまとめられます。まず、神はわたしたちのためにキリストを罪となさいました(同5・21)。それでキリストは「すべての人のために死んでくださった」(同5・14)のです。第二に、神はわたしたちの罪の責任を問うことなく、わたしたちを「ご自身と和解させ」ました(同5・18-20)。この「和解のために奉仕する任務」によって、今やすべての奴隷の身分の者は買い取られました(一コリント6・20、7.23参照)。これらすべてのことがわたしたちの生活にもあてはまることがわかります。わたしたちもこの「和解のために奉仕する任務」を行わなければなりません。そのために、常に自分が優位に立つことをやめ、愛の愚かさを選ばなければなりません。聖パウロは自分の人生をあきらめ、和解のために、十字架のために奉仕することに自分のすべてをささげました。十字架はわたしたちすべての者の救いだからです。わたしたちもこのことを行うことができるようにならなければなりません。すなわち、わたしたちは、愛のへりくだりのうちに自らの力を見いだし、自分を捨てる弱さのうちに自らの知恵を見いださなければなりません。それは、神の力を得るためです。わたしたちは皆、このまことの知恵の上に人生を築かなければなりません。自分のために生きるのではなく、神への信仰のうちに生きること。この神について、わたしたちは皆いうことができるからです。「神はわたしを愛し、わたしのためにご自身をささげてくださった」。

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