教皇ベネディクト十六世の157回目の一般謁見演説 キリストの復活についてのパウロの宣教

11月5日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の157回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、7月2日から開始した聖パウロの人と思想に関する連続講話の11回目として、「キリストの復活についてのパウロの宣教」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。・・・・あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」(一コリント15・14、17)。コリントの信徒への手紙一のこの力強いことばによって、聖パウロがイエスの復活をどれほど決定的に重要なものと考えているかがわかります。実際、この復活という出来事のうちに、十字架の悲劇の解決が示されます。十字架だけで、キリスト教信仰を説明することはできません。むしろ十字架は、不条理な生涯を表す、悲惨な出来事にとどまります。過越の神秘は、十字架につけられたかたが「聖書に書いてあるとおり三日目に復活した」(一コリント15・4)ことのうちにあります。原始キリスト教の伝承があかしするとおりです。これこそがパウロのキリスト論の中心です。すべてはこの重力の中心の周りを回ります。使徒パウロの教え全体は、父が死者の中から復活させたかたの神秘「から」出発し、常にこの神秘「へ」と向かいます。復活は根本的な事実であり、いわば自明の前提です(一コリント15・12参照)。この前提に基づいて、パウロはその宣教(ケリュグマ)の要約をこう定式化することができました。すなわち、十字架につけられ、人間に対する神の大きな愛を示したかたが、復活して、わたしたちのただ中に生きておられます。
  宣教と復活の結びつきを理解することが大切です。パウロはそれを定式化しました。またこの定式は、パウロ以前の初期キリスト教共同体で使われていたものです。ここにわたしたちは、使徒パウロに先立ち、パウロが深い尊敬と注意を払いながら自ら伝えようと望んだ伝承の真の重要性を認めることができます。コリントの信徒への手紙一15・1-11に含まれる、復活に関するテキストは、「受ける」ことと「伝える」ことのつながりを際立たせます。聖パウロは、伝承を文字どおり定式化することを重視します。わたしたちが検討している箇所は終わりに強調していいます。「とにかく、わたしにしても彼らにしても、このようにのべ伝えているのです」(一コリント15・11)。こうして、「ケリュグマ」、すなわち、すべての信じる人と、キリストの復活をのべ伝えるようになったすべての人への告知の統一性が明らかにされます。パウロは、自分を結びつける「伝承」を、源泉として用います。パウロのキリスト論の独創性は、伝承への忠実によって決して損なわれることはありません。使徒たちの「ケリュグマ(宣教)」が、常にパウロの個人的な思想を導きます。パウロの議論のすべては共通の伝承から発します。この共通の伝承のうちに、唯一の教会である全教会が共有する信仰が表されるからです。こうして聖パウロは、あらゆる時代の人々に、神学と説教を行う際の模範を示します。神学者も説教者も、世界と人生に関する新しいものの見方を造り出すのではありません。むしろ彼らは、伝えられた真理に奉仕します。キリストと、十字架と、復活に関する真実の事実に奉仕するのです。彼らの務めは、現代のわたしたちが、古代のことばの後ろにある、「神がわたしたちとともにおられる」という現実を理解し、そこから、まことのいのちに関する現実を理解するための助けとなることです。
  ここで次のことを明らかにするのが適切です。聖パウロは、復活についてのべ伝える際に、組織立った教理的説明を行うことには関心がありませんでした。パウロは神学の教科書のようなものを書こうとしたわけではありません。むしろ彼は問題を取り上げ、信者から示された疑問や具体的な問いにこたえたのです。ですからパウロは、状況に応じた講話を行いましたが、それは信仰と生きた神学に満ちたものでした。パウロは本質的なことがらに集中しました。わたしたちは、わたしたちのために「死んで、復活した」キリストによって、「義」とされました。すなわち、正しい者とされ、救われました。何よりも重要なのは、復活の「事実」です。復活がなければ、キリスト教的生活は馬鹿げたものとなります。あの復活の朝、ある特別なこと、新しいことが起きました。同時にそのとき起きたのは、きわめて具体的なことでした。それはきわめてはっきりとしたしるしによって示され、多くの証人によって確認されています。他の新約聖書の著者と同様、パウロにとっても、復活は、復活したかたを直接体験した人々の「あかし」と結ばれています。復活したかたを直接体験するとは、このかたを見、そのことばを聞くことです。それも、目と耳によるだけではなく、内的な光によってです。この内的な光は、外的感覚が客観的な事実として示すものを認識するように導くからです。それゆえパウロは、四福音書と同じように、「現れ」というテーマを根本的に重視しました。「現れ」こそが、空の墓を後に残して復活したかたを信じるための根本的な基盤だからです。次の二つのことが重要です。すなわち、「墓が空だったこと」、そして「イエスが本当に現れたこと」です。そこから伝承の鎖が生まれました。この伝承が、使徒と最初の弟子のあかしを通じて、後に続く世代へともたらされ、ついにわたしたちにももたらされたのです。そこから最初に生じたこと、あるいはこのあかしの最初の表現は、福音の宣教の要約、また救いの歩みの頂点として、キリストの復活をのべ伝えることでした。これらすべてのことをパウロはさまざまな機会に行います。パウロの手紙や使徒言行録に見られるとおりです。そこでは常に、パウロにとって本質的な点は、復活の証人となることだったことが示されます。一つの箇所を引用するにとどめたいと思います。エルサレムで逮捕されたパウロは、被告として最高法院の前に立ちます。自分の生死がかかったこの状況の中で、パウロは自分がそもそも宣教を行う理由と意味を示します。「死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです」(使徒言行録23・6)。パウロは手紙の中でも同じことを繰り返して述べ続けます(一テサロニケ1・9-10、4・13-18、5・10参照)。パウロは手紙の中で、自分の個人的体験や、復活したキリストとの個人的な出会いをも引き合いに出します(ガラテヤ1・15-16、一コリント9・1参照)。
  しかし、わたしたちはこう問いかけることができます。聖パウロにとって、イエスの復活という出来事のもつ深い意味は何だったのでしょうか。パウロは2000年後のわたしたちに何を語りかけているのでしょうか。「キリストは復活した」ということばは、わたしたちにとっても現実的な意味をもつのでしょうか。パウロと現代のわたしたちにとって、復活はなぜそれほど決定的に重要なテーマとなるのでしょうか。パウロはローマの信徒への手紙の初めのところで、この問いに荘厳なしかたでこたえます。「神の福音は・・・・御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです」(ローマ1・3-4)。イエスが受肉の瞬間から常に神の子であることを、パウロはよく知っており、またそのことは何度も語っています。イエスは、へりくだりのうちに過ごした地上の生活から上げられて、「力ある」神の子と定められました。復活の新しさはこのことのうちにあります。十字架の死に至るまでへりくだったイエスは、今や十一人の弟子にこういうことができます。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」(マタイ28・18)。詩編2・8が述べたことが実現されたのです。「求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし、地の果てまで、お前の領土とする」。だから、復活によって、すべての民に向けたキリストの福音の宣教が始まります。キリストの国が始まります。この新しいキリストの国は、真理と愛の力以外の力を知りません。それゆえ復活は、十字架につけられたかたの真の姿と特別な力を決定的なしかたで現します。それはたぐいのない、至高の尊厳です。「イエスは神です」。聖パウロにとって、イエスの隠された姿は、受肉によるよりも復活の神秘によって示されます。聖パウロにおいて、「キリスト」、すなわち「メシア」、「油注がれた者」という称号は、イエス固有の名となります。そして、この「主」の名は、信じる者と主の個人的な関係をはっきりと表します。今や「神の子」という称号は、イエスと神の内的な関係を表すようになるのです。この関係は復活の出来事のうちに完全なしかたで現されました。ですから、こういうことができます。イエスは死んだ人にも生きている人にも主となられました(ローマ14・9、二コリント5・15参照)。別のことばでいうなら、イエスはわたしたちの救い主となられたのです(ローマ4・25参照)。
  これらのことは皆、わたしたちの信仰生活にとってきわめて重要な帰結を生じます。わたしたちは、存在の奥底から、キリストの死と復活の出来事の全体にあずかるよう招かれています。使徒パウロはいいます。「わたしたちは、キリストとともに死んだ」のですから、「キリストとともに生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません」(ローマ6・8-9)。このことは、キリストの苦しみにともにあずかることとして表されます。それは、わたしたちが復活を通じて完全にキリストに似た者に造り変えられることの先取りです。これこそがわたしたちが希望のうちに待ち望んでいることです。これは聖パウロにも行われたことでした。パウロの個人的体験は、手紙の中で正確に、生き生きと述べられます。「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、なんとかして死者の中からの復活に達したいのです」(フィリピ3・10-11。二テモテ2・8-12参照)。十字架の神学は単なる理論ではありません。それはキリスト者の生活の現実です。イエス・キリストへの信仰を生きること、真理と愛を生きることは、日々、自分を放棄することを意味します。苦しむことを意味します。キリスト教は安楽な生活ではありません。それはむしろ、苦労しながら登っていくことです。しかしわたしたちは、キリストの光に照らされながら、またキリストから生まれる希望によって照らされながら登っていくのです。聖アウグスチヌス(354-430年)はいいます。キリスト信者は苦しみを免れることができません。むしろ、より多くの苦しみを味わいます。なぜなら、信仰を生きるとは、人生と歴史にいっそう深く立ち向かう勇気を表しているからです。しかし、このように苦しみを味わうことによって、初めてわたしたちは人生の深みと、すばらしさと、偉大な希望を知ります。この希望は、十字架につけられて復活したキリストによって呼び覚まされます。ですから、信じる者は両極の間に置かれます。一つの極は復活です。復活は、ある意味ですでにわたしたちのうちに存在し、働いています(コロサイ3・1-4、エフェソ2・6参照)。もう一つの極は、すべての人、また万物を完成へと導く過程にすぐに加わらなければならないということです。パウロが大胆な比喩をもってローマの信徒への手紙で述べているとおりです。全被造物がうめき、産みの苦しみを味わっているように、わたしたちも、からだがあがなわれること、すなわち、あがないと復活をうめきながら待ち望んでいます(ローマ8・18-23参照)。
  要するに、わたしたちはパウロとともにこういうことができます。まことの信仰者は、口でイエスは「主」であると公に言い表し、心で「神がイエスを死者の中から復活させられた」と信じることによって救われます(ローマ10・9参照)。何よりも重要なのは、キリストを信じ、信仰のうちに、復活したかたに「触れる」心です。けれども、心に信仰を抱くだけでは足りません。口で信仰を告白し、自分の生活でそれをあかししなければなりません。そして、十字架と復活の真理をわたしたちの歴史の中で現実のものとしていかなければなりません。実際、キリスト信者はこのようなしかたで、あの過程に加わります。この過程を通して、地上で腐敗と死に服した最初のアダムは、天に属する、朽ちることのない最後のアダムへと造り変えられます(一コリント15・20-22、42-49参照)。この過程はキリストの復活によって始まります。キリストの復活は、わたしたちもいつの日かキリストとともにわたしたちの天の祖国に入ることができるという希望の基盤だからです。この希望に支えられながら、勇気と喜びをもって歩み続けていこうではありませんか。

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