教皇ベネディクト十六世の158回目の一般謁見演説 主の再臨についてのパウロの宣教

11月12日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の158回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、7月2日から開始した聖パウロの人と思想に関する連続講話の12回目として、「主の再臨についてのパウロの宣教」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  先週わたしたちが考察した復活というテーマは、新しい可能性を開いてくれます。すなわち、主の再来を期待するという可能性です。そこからわたしたちは現世――すなわち、教会とキリストの国の時代――と、わたしたちを待ち受ける、来るべき世(終末〔エスカトン〕)の関係を考察するよう促されます。この来るべき世において、キリストはみ国を父に引き渡すからです(一コリント15・24参照)。キリスト教が終末について語るときは――それは「終末論」と呼ばれますが――、いつもかならず復活の出来事から出発します。この復活という出来事のうちに、終末はすでに始まっており、ある意味で現存しているからです。
  聖パウロは、その最初の手紙であるテサロニケの信徒への手紙一をおそらく52年に書いたと思われます。この手紙の中で彼は、このイエスの再臨――それは「到来(パルーシア)」と呼ばれます――について述べます。イエスの再臨は、イエスの新たな、決定的な、そしてはっきりとした現存です(一テサロニケ4・13-18参照)。さまざまな疑いと問題を抱えていたテサロニケの信徒に対して、使徒パウロはいいます。「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」(同4・14)。続けて彼はいいます。「キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます」(同4・16-17)。パウロはキリストの「到来(パルーシア)」を、生き生きとした筆致と象徴的な表現を用いて述べます。しかし彼はそれによって、単純で深い意味をもったメッセージを伝えます。すなわち、終わりのとき、わたしたちはとこしえに主とともにいるということです。わたしたちの未来は「主とともにいること」です。さまざまなイメージの彼方にある、これこそが、本質的なメッセージです。わたしたち信じる者は、すでに現世にあって主とともにいます。わたしたちの未来、すなわち永遠のいのちは、すでに始まっているのです。
  テサロニケの信徒への手紙二の中で、パウロは観点を変えます。パウロは、世の終わりに先立って起こるべき、よくない出来事について語ります。パウロはいいます。時を数えることによって、主の日が本当に近づいたかのようにいう人がいても、だまされてはいけません。「さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストが来られることと、そのみもとにわたしたちが集められることについてお願いしたい。霊やことばによって、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によって、主の日はすでに来てしまったかのようにいう者がいても、すぐに動揺して分別をなくしたり、慌てふためいたりしないでほしい。だれがどのような手段を用いても、だまされてはいけません」(二テサロニケ2・1-3)。さらにこの手紙はいいます。主が到来する前に、背教と、「不法の者」、「滅びの子」というほかない人々が現れます(同2・3)。伝統は後にこの人々を「反キリスト」と呼ぶことになります。しかし、パウロのこの手紙がいおうとしているのは、実践的なことがらです。パウロはいいます。「実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、『働きたくない者は、食べてはならない』と命じていました。ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい」(同3・10-12)。いいかえれば、イエスの「到来(パルーシア)」を待つとは、この世の務めをしないでよいということではありません。むしろ反対に、わたしたちは、この世でわたしたちが何をしたかに関して、裁き主である神のみ前で責任をもってこたえなければなりません。まさにそこから、この世「において」、この世「のために」働かなければならないという責任が生まれるのです。わたしたちは同じことを、来週の主日のタラントンについての福音の中に見いだします(マタイ25・14-30参照)。この福音の中で、主はいわれます。主はすべての人にタラントンをゆだねます。それから、裁き主は清算を求めていいます。「あなたはもうけを得ましたか」。それゆえ、再臨を待ち望むとは、この世に対する責任を意味します。
  同じこと、すなわち、「到来(パルーシア)」――裁き主であり、救い主であるかたの再臨――と、現世での務めのつながりは、フィリピの信徒への手紙の中で、別の文脈において、新たな観点から示されます。パウロは牢獄につながれて、判決を待っていました。判決は死刑となると思われました。このような状況の中で、パウロは主とともにいる自分の将来を思います。しかし彼はフィリピの共同体のことも思います。フィリピの共同体は、自分たちの父であるパウロを必要としていたからです。そこでパウロはいいます。「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしにはわかりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストとともにいたいと熱望しており、このほうがはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまるほうが、あなたがたのためにもっと必要です。こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同とともにいることになるでしょう。そうなれば、わたしが再びあなたがたのもとに姿を見せるとき、キリスト・イエスに結ばれているというあなたがたの誇りは、わたしゆえに増し加わることになります」(フィリピ1・21-26)。
  パウロは死を恐れてはいませんでした。むしろその反対でした。実際、死は、完全な意味でキリストとともにいることを意味したからです。しかしパウロはキリストと同じ思いも抱いていました。キリストはご自身のためではなく、わたしたちのために生きたからです。他の人のために生きることがパウロの生涯の計画となりました。だからパウロは、完全に神のみ心に従い、神が望まれることを行いました。将来も、この世で他の人のために生き、キリストのために生き、生き生きとした形でともにいてくださるキリストのために生き、そこから、世が新たにされるために生きること――パウロは何よりもそのために身をささげました。キリストとともに生きることによって、パウロのうちに大きな心の自由が生まれたことをわたしたちは見いだします。それは、死の脅威に対する自由であると同時に、人生のあらゆる労苦と苦しみに対する自由でもありました。パウロは、ひたすら神に従うことによって、真の意味で自由だったのです。
  キリストの「到来(パルーシア)」を待ち望むことについてのさまざまな側面を検討したわたしたちは、今、自らに問いかけたいと思います。終末、すなわち、死と世の終わりについてのキリスト者の根本的な態度とはいかなるものでしょうか。第一の態度はこれです。わたしたちは、イエスが復活し、父とともにおられ、そこから、永遠にわたしたちとともにおられることを確信しています。キリスト以上に力のあるかたはいません。キリストは父とともにおられ、わたしたちとともにおられるからです。だからわたしたちは安心して、恐れを抱きません。これが、キリスト教の宣教が本質的にもたらすことです。さまざまな霊や神々に対する恐れは古代世界全体に広まっていました。現代でも、宣教者たちは、自然宗教の多くのよい要素とともに、わたしたちを脅かす諸霊や不吉な力への恐れが存在するのを見いだします。キリストは生きておられます。キリストは死に打ち勝ちました。これらのあらゆる力に打ち勝ちました。わたしたちは、この確信と自由と喜びをもって生きています。これが、わたしたちが未来を目指して生きることの第一の側面です。
  第二の態度は、キリストがわたしとともにおられることへの確信です。キリストのうちに来世はすでに始まっています。このことが確かな希望をもたらします。未来とは、だれも方向を知ることのできない暗闇ではありません。未来とは、決してそのようなものではありません。キリストがいなければ、現代の世界にとっても、未来は暗闇です。未来はとても恐ろしいものとなります。キリスト者は、キリストの光が何よりも強いことを知っています。だからキリスト者は、はっきりとした希望のうちに生きます。この希望が、確信と、未来に立ち向かう勇気を与えてくれます。
  最後に、第三の態度です。再臨する裁き主――このかたは、裁き主であると同時に、救い主でもあるかたです――は、ご自分の生き方に従ってこの世を生きるようにという務めをわたしたちに残しました。このかたはわたしたちにご自分のタラントンを預けました。それゆえ、第三の態度は、世と、キリストにおける兄弟に対して責任をもつことです。そして、同時に、キリストの憐れみを確信することです。この二つの態度はともに重要です。わたしたちは、神のみが憐れみを示すことができると考えて、善と悪が等しいものであるかのように生きるのではありません。これはいつわりです。実際、わたしたちは大きな責任をもって生きています。わたしたちはタラントンをもっています。わたしたちには、この世が心をキリストに開いて、新たにされるように働きかける務めがあります。責任をもって働くわたしたちは、神が裁き主であることを知っています。しかしわたしたちは、この裁き主がいつくしみ深いかたであることも確信しています。わたしたちはこのかたのみ顔を知っています。それは、復活したキリストのみ顔です。わたしたちのために十字架につけられたキリストのみ顔です。だからわたしたちは、このかたのいつくしみに信頼しながら、大きな勇気をもって歩んでいくことができるのです。
  終末に関するパウロの教えが示すのは、「すべての人が信仰へと招かれている」ということです。この招きが、ユダヤ人と異邦人、すなわち異教徒を一つにします。それは未来の現実の「しるし、また先取り」です。そのため、わたしたちはこういうことができます。わたしたちはすでにキリストとともに天の王座に座っています。それは、限りなく豊かな恵みを、来るべき世に示すためです(エフェソ2・6-7参照)。「後」のものが「前」になります。それは、わたしたちが今生きている、完成の始まりの状態を明らかに示すためです。このことによって、わたしたちは現在の苦しみを耐え忍ぶことができるようになります。現在の苦しみは将来の栄光に比べると、取るに足りないからです(ローマ8・18参照)。わたしたちは、目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいます。ですから、たとえからだを離れて、主のもとに住むほうがよいとしても、決定的に大事なことは、からだを住みかとしていても、からだから離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者であることです(二コリント5・7-9参照)。
  終わりに、わたしたちに少しむずかしく思われる最後の点があります。聖パウロはコリントの信徒への手紙一の結びで、パレスチナ地方の最初のキリスト教共同体に由来する祈りを繰り返して、コリントの信徒にあいさつします。「マラナ・タ」。これは文字どおり、「主よ、来てください」という意味です(一コリント16・22)。これは最初のキリスト教共同体の祈りでした。新約聖書の最後の書である黙示録もこの祈りで結ばれます。「主よ、来てください」。わたしたちもこのように祈ることができるでしょうか。現代のわたしたちが、自分たちの生活の中で、現代の世界の中で、この世が滅び、新しいエルサレムが到来し、最後の審判と裁き主であるキリストが来るようにと心から祈るのはむずかしいように思われます。わたしはこう思います。たとえ、多くの理由から、あえてこのように祈ることができなくても、わたしたちも、ふさわしく正しいしかたで、初期キリスト教とともにこう祈ることができます。「主イエスよ、来てください」。たしかにわたしたちは、世の終わりが今来ることを望みません。けれどもその一方で、わたしたちもこの不正な世が終わることを望んでいます。わたしたちも世界が根本的に変わることを望んでいます。愛の文明が始まり、暴力も飢餓もない、正義と平和に基づく世界が到来することを望んでいます。わたしたちは、これらすべてのことを望んでいます。そして、キリストがともにいてくださらなければ、どうしてこれらのことが生じうるでしょうか。キリストがともにいてくださらなければ、本当の意味で公正で、新たにされた世界は決してやって来ません。ですからわたしたちも、別の意味で、しかも全身全霊で、心の奥底から、現代世界の状況の中で緊急の必要性に促されながら、こういうことができますし、またいわなければなりません。主よ、来てください。あなたの世に来てください。あなたがご存じのしかたで来てください。不正と暴力のあるところに来てください。ダルフールの、北キブ州の、世界の多くの地域の、難民キャンプに来てください。麻薬の支配するところに来てください。あなたを忘れ、自分のためだけに生きる豊かな人々のところにも来てください。あなたを知ることのないところに来てください。あなたのしかたで来て、現代世界を新たにしてください。わたしたちの心にも来てください。来て、わたしたちの人生を新たにしてください。わたしたちの心に来てください。わたしたちも、神の光となり、あなたの現存となることができますように。このような意味で、聖パウロとともに祈ろうではありませんか。「マラナ・タ。主よ、来てください」。そして、祈ろうではありませんか。キリストがまことの意味で今日、現代世界に来て、世界を新たにしてくださいますように。

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