教皇ベネディクト十六世の159回目の一般謁見演説 義認についてのパウロの宣教

11月19日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の159回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、7月2日から開始した聖パウロの人と思想に関する連続講話の13回目として、「義認についてのパウロの宣教」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  わたしたちは聖パウロの導きのもとに歩んでいます。今日わたしたちは、宗教改革の世紀の論争の中心となったテーマについて考察したいと思います。すなわち、義認の問題です。人はいかにして神の目から見て義とされるのでしょうか。ダマスコに向かう道で復活したかたと出会ったとき、パウロは完全な人間でした。彼は律法に基づく義については非のうちどころのない者でした(フィリピ3・6参照)。モーセの掟を守ることにおいては同時代の多くの人をはるかに超え、先祖からの伝承を守るのに熱心でした(ガラテヤ1・14参照)。ダマスコの光はパウロの人生を徹底的に変えました。パウロは、あらゆるいさおしや、誠実な宗教生活で達成したことは、イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさの前では、「損失」だとみなすようになりました(フィリピ3・8参照)。フィリピの信徒への手紙は、パウロにおける、定められたわざを行うことによって得られる、律法に基づいた義から、キリストへの信仰に基づく義への転換に関する感動的なあかしを示します。パウロは、それまで有利と思われたことが、神の前では実際に損失だということがわかりました。そして、そのために、自分の全生涯をイエス・キリストにささげることを決意しました(フィリピ3・7参照)。畑に隠された宝、人が持ち物をすべて売り払って買う高価な真珠は、もはや律法のわざではなく、主であるイエス・キリストなのです。
  パウロと復活したかたとの関係はきわめて深いものでした。この関係に促されて、パウロはこういいました。キリストはわたしの人生であるだけでなく、生きるとはキリストです。それは、キリストに達することができるためであり、死ぬことは利益です(フィリピ1・21参照)。パウロは生きることを軽視したのではありませんでした。むしろ、パウロはこう悟ったのです。わたしにとって、生きることの目的はキリスト以外にありません。だから彼は、競技場で走るように、キリストに達すること、いつまでもキリストとともにいること以外のことを望みませんでした。復活したかたは、パウロの生涯の出発点と終着点、パウロが走る理由と目的となりました。自分が宣教した人々の信仰が成長することについての心配と、創立したすべての教会への配慮だけによって(二コリント11・28参照)、パウロは唯一の主であるかたに向かって走る速さを遅らせ、弟子が来るのを待ちました。パウロは、道徳的な完全さの点で、かつて律法を守っていたことについて何もやましいことがありませんでした。そうだとしても、キリストに捕らえられたパウロは、自分自身について裁くことを望みません(一コリント4・3-4参照)。むしろ、自分を捕らえたかたを捕らえようと走ることだけに努めます(フィリピ3・12参照)。
  このようにイエス・キリストとの個人的な関係を経験したがゆえに、パウロは今や自らの福音の中心において、義に向かう二つの道を譲ることのできないしかたで対立させました。すなわち、一つは律法のわざに基づく道であり、もう一つはキリストへの信仰の恵みに基づく道です。こうして、律法のわざによる義を選ぶか、キリストへの信仰による義を選ぶかということが、パウロの手紙全体を通じて見られるテーマの一つとなりました。「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです」(ガラテヤ2・15-16)。さらにパウロはローマのキリスト者に向けて繰り返し述べます。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによるあがないのわざを通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(ローマ3・23-24)。パウロは付け加えて述べます。「なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」(同3・28)。ルター(1483-1546年)はここを「信仰のみによって義とされる」と翻訳しました。わたしはこの講話の終わりでこの点に戻ります。まずわたしたちは、人がそこから解放された「律法」とは何であり、人を義とすることのない「律法の行い」とは何であるかを明らかにしなければなりません。すでにコリントの共同体には、次のような考えがありました。この考えは後に歴史の中で体系的なしかたで再び現れます。この考えとは次のものです。ここでいわれているのは道徳的な律法です。だから、キリスト者の自由は倫理からの解放です。そこから、コリントでは「わたしには、すべてのことが許されている(パンタ・モイ・エクセスティン)」ということばが広まりました。このような解釈が間違ったものであることは明らかです。キリスト者の自由は自由放任主義ではありません。聖パウロが述べる解放は、よいことを行うことからの解放ではありません。
  それでは、わたしたちがそこから解放され、わたしたちを救うことのない律法とは、いかなることを意味するのでしょうか。同時代のすべての人と同じく、聖パウロにとって、律法ということばは「トーラー」の全体、すなわち、モーセ五書を意味しました。「トーラー」は、ファリサイ派の人々の解釈では、パウロが学び、自分のものとしたものを含みました。すなわち、核となる倫理から、守るべき儀礼と文化に至る行動の集成です。こうした守るべき儀礼と文化が、基本的に、正しい人のあり方を規定しました。特に、割礼、清い食物と清めの儀式一般に関する遵守規定、安息日を守ることに関する規則などです。これらの行動は、イエスと当時の人々の間の論争にもしばしば見られます。社会的・文化的・宗教的なあるべき姿を表すこれらの遵守規定は皆、紀元前3世紀に始まるヘレニズム文化の時代にとりわけ重要になりました。ヘレニズム文化は、当時の世界全体の文化であり、一見したところでは合理的な文化でした。それは、一見したところでは寛容な、多神教的文化でした。このヘレニズム文化は、ある一定の文化を強く圧迫しました。そこから、イスラエルの存在を脅かしました。イスラエルはヘレニズム文化の共通の性格を受け入れることを政治的に強制されたからです。それはイスラエル固有の性格を失うことを伴うものでした。したがって、先祖たちの信仰、すなわち、唯一の神と神の約束への信仰という貴い遺産を失うことを伴うものでした。
  こうした文化的な圧力は、イスラエルの存在を脅かすばかりか、唯一の神とその約束への信仰をも脅かすものでした。それゆえ、この圧力に対抗して、自分たちを区別する壁を作ることが必要でした。すなわち、信仰の貴い遺産を守るための防護の盾です。この壁は、まさにユダヤ教のさまざまな規則とおきてから成りました。パウロは、神のたまものと、唯一の神への信仰の遺産を守るという役割をもつがゆえに、こうした規則を学びました。それゆえ彼は、自分たちのこのようなあり方が、キリスト教徒の自由によって脅かされると考えました。そのために彼はキリスト教徒を迫害したのです。復活したかたと出会ったとき、パウロは、キリストの復活によって状況が徹底的に変わったことを知りました。キリストとともに、唯一のまことの神である、イスラエルの神は、すべての民の神となったのです。エフェソの信徒への手紙が述べるとおり、イスラエルの民と異邦人の間の壁はもはや不要となりました。キリストが、多神教と、多神教がもたらすあらゆる逸脱したものからわたしたちを守ってくださいます。キリストが、わたしたちを唯一の神「と」結びつけ、唯一の神「のうちに」わたしたちを一つにします。キリストが、多様な文化の中で、わたしたちの真のあり方を保障してくださいます。壁はもはや不要です。多様な文化におけるわたしたちの共通のあり方は、キリストです。わたしたちを義とするのもキリストです。義であるとは、まさしく、キリストとともに、キリストのうちにいることを表します。そして、それで十分です。それ以外の規則はもはや不要です。だから、「信仰のみによって(sola fide)」というルターのことばは真実です。ただしそれは、信仰が、愛のわざ、すなわち愛と対立させられない限りにおいてのことです。信仰は、キリストを仰ぎ見ることです。キリストに自分をゆだねることです。キリストに自分を結びつけることです。キリストとその生涯に似た者となることです。そして、キリストのあり方、キリストの生涯とは、愛です。それゆえ、信じるとは、自分をキリストに似た者とし、キリストの愛にあずかることです。だから聖パウロは、何よりも義認についての教えを展開したガラテヤの信徒への手紙の中で、愛を通して働く信仰について語るのです(ガラテヤ5・14参照)。
  パウロは、神への愛と隣人への愛という二つの愛のうちに律法全体が存在し、完成されることを知っていました。こうして、キリストとの交わりのうちに、すなわち、愛を生み出す信仰のうちに、律法全体は実現されます。わたしたちはキリストとの交わりに入ることによって義とされます。キリストは愛だからです。わたしたちはこのことを来週の主日の、王であるキリストの祭日の福音のうちに見いだします(マタイ25・31-46参照)。福音は、愛のみを基準とする裁き主について述べます。この裁き主が問うのはこれだけです。「お前は、わたしが病気のときに見舞ってくれましたか。牢にいたときに訪ねてくれましたか。わたしが飢えていたときに食べさせ、裸のときに着せてくれましたか」。ですから、義は愛によって定められます。そこで、この福音の終わりに、わたしたちはこういうことができます。「愛のみによって、愛のわざのみによって」。しかし、この福音と聖パウロは矛盾しません。考えていることは同じです。つまり、キリストとの交わりが、すなわちキリストへの信仰こそが、愛のわざを生み出します。そして、愛のわざはキリストとの交わりの実現です。ですからわたしたちは、キリストと一つに結ばれることによって義とされます。それ以外の方法はありません。
  終わりに、わたしたちは主にこう祈ることしかできません。信じることができるよう助けてください。本当の意味で信じることによって、信仰はいのちとなります。わたしたちをキリストと一致させ、わたしたちの生活を造り変えます。そして、キリストの愛によって、神への愛と隣人への愛によって造り変えられることによって、わたしたちは本当の意味で神の目から見て義とされることができるのです。

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