教皇ベネディクト十六世の2008年11月23日の「お告げの祈り」のことば 王であるキリスト

教皇ベネディクト十六世は、王であるキリストの祭日の11月23日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です( […]

教皇ベネディクト十六世は、王であるキリストの祭日の11月23日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイタリア語)。
「お告げの祈り」の後、教皇は、翌日の11月24日(月)正午から長崎市・ビッグNスタジアムで行われたペトロ岐部カスイと187殉教者の列福に向けてイタリア語と英語で次のメッセージを述べました。
「明日、日本の長崎市で188名の殉教者の列福が行われます。188名は全員、17世紀初頭に殺された日本人の男女です。日出づる国のカトリックの共同体とすべての国民にとってきわめて重要なこの機会にあたって、わたしはこの人々に霊的に寄り添うことを約束します。(以上イタリア語)・・・・また、日本のわたしたちの兄弟姉妹とともに前もって喜ぼうではありませんか。この兄弟姉妹たちは明日、長崎で、尊崇すべき神のしもべペトロ岐部カスイと187同志殉教者の列福式を行うからです。キリストに結ばれたこの殉教者たちの罪と死に対する勝利が、わたしたち皆を希望と勇気で満たしてくれますように。(以上英語)」


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  今日わたしたちは、典礼暦の最後の主日の、宇宙の王であるわたしたちの主イエス・キリストの祭日を祝います。福音書から知ることができるように、イエスは「支配者たち」(マタイ20・24参照)の基準に従った、政治的な意味での王の称号を拒みました。しかしイエスは、受難のとき、ピラトの前で、自らが特別なしかたで王として支配することを宣言しました。ピラトはイエスに単純に問いました。「やはり王なのか」。するとイエスはこたえました。「わたしが王だとは、あなたがいっていることです」(ヨハネ18・37)。けれどもその直前にイエスはこう宣言しました。「わたしの国はこの世には属していない」(ヨハネ18・36)。実際、イエスが王として支配することは、父である神が王として支配することの現れであり、実現です。父である神は万物を愛と正義によって治めるからです。父は子に、人間に永遠のいのちを与え、最高の犠牲をささげるまで人間を愛するという使命を与えました。同時に父は、子がわたしたち皆と同じ人の子となられたときから、人々を裁く権能を与えました(ヨハネ5・21-22、26-27参照)。
  今日の福音は、聖マタイが受難物語の直前に置いた、すばしい最後の審判のたとえによって、まさにこの裁き主キリストが全宇宙の王であることを示します(マタイ25・31-46)。たとえは単純なもので、ことば遣いは素朴です。しかし、メッセージはきわめて重大です。それは、わたしたちの究極的な行く末と、わたしたちを裁く基準に関わることだからです。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸してくれた・・・・」(マタイ25・35)。この箇所を知らない人がいるでしょうか。それはわたしたちの文明の一部となりました。それはキリスト教文化に属する人々の歴史を特徴づけてきました。すなわち、価値の序列、諸組織、さまざまな福祉・社会活動です。実際、キリストの国はこの世に属していません。しかしそれは、神のおかげで人々と歴史の中にあるすべてのよいものを完成させます。福音のメッセージに従って隣人への愛を実践するなら、わたしたちは、神が主として支配してくださるための場所をつくります。そして、神の国はわたしたちのただ中で実現します。しかし、わたしたちが皆、自分の利益だけを考えるなら、世は破滅するほかありません。
  親愛なる友人の皆様。神の国は名誉や外見の問題ではありません。むしろそれは、聖パウロが述べるとおり、「聖霊によって与えられる義と平和と喜び」(ローマ14・17)です。主はわたしたちの善を心にかけてくださいます。すなわち、すべての人がいのちを得ること、特に自分の子らの「もっとも小さい者」が宴にあずかることを心にかけられます。この宴は神がすべての人のために用意されたものだからです。だから神は、「主よ、主よ」といって偽善を行い、後に神のおきてをないがしろにする人々を知らないのです(マタイ7・21参照)。神は、神のことばを行おうと日々努める人々をその永遠の国に受け入れます。それゆえ、すべての造られたものの中でもっともへりくだったかたであるおとめマリアは、神の目から見てもっとも偉大なかたであり、王であるキリストの右の座に元后として着かれます。子としての信頼をもって、マリアの天からの執り成しにあらためて自らをゆだねたいと思います。それは、わたしたちが世にあって自らのキリスト者としての使命を果たすことができるためです。

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