教皇ベネディクト十六世の160回目の一般謁見演説 義認についてのパウロの宣教(二)

11月26日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の160回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、7月2日から開始した聖パウロの人と思想に関する連続講話の14回目として、前回 […]

11月26日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の160回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、7月2日から開始した聖パウロの人と思想に関する連続講話の14回目として、前回に続いて「義認についてのパウロの宣教」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。

この日の一般謁見にはアルメニアのキリキア公主教アラム一世が出席しました。教皇は一般謁見演説に先立って、アラム一世に次の歓迎のことばを英語で述べました。
「今日わたしは、アルメニアのキリキア公主教アラム一世と、アラム一世に随行された代表者の皆様、そして、さまざまな国から来られたアルメニアの巡礼者の皆様に喜びをもってごあいさつ申し上げます。この友好訪問は、わたしたちの間にすでにある一致のきずなを強めるための重要な機会です。わたしたちは完全な一致をめざして歩んでいるからです。この完全な一致は、すべてのキリストの弟子に示された目的であるとともに、日々、主に願い求めるべきたまものでもあります。
  そのためわたしは、使徒ペトロとパウロの墓前に巡礼されたアラム一世の上に聖霊の恵みを祈り求めます。そして、ここにいる皆様にお願いします。アラム一世の訪問とわたしたちの会見が、完全な一致に向けたさらなる一歩となるよう、心から主に祈ってください。
  アラム一世が、エキュメニズムの分野、特に国際カトリック-正教会神学的対話のための合同委員会と世界教会協議会に自ら関わり続けてくださっていることに特別に感謝申し上げたいと思います。
  サンピエトロ大聖堂の正面外壁には照明者聖グレゴリオス(240頃-330年頃)の立像があります。照明者聖グレゴリオスはアルメニア教会の創立者であり、一人のアルメニアの歴史家は彼を「福音におけるわたしたちの創始者また父」と呼びました。この立像は、アルメニアの人々をキリスト教に導く際に聖グレゴリオスが味わった苦しみを思い起こさせてくれます。しかしそれはまた、多くの殉教者や証聖者のことも思い起こさせます。この人々のあかしはアルメニアの歴史に多くの実りをもたらしました。アルメニアの文化と霊性はこの父祖たちのあかしへの誇りに満ちています。父祖たちは、世の救いのためにほふられた小羊との交わりのうちに、忠実に勇気をもって苦しんだのでした。
  アラム一世と、親愛なる司教と友人の皆様。よくおいでくださいました。照明者聖グレゴリオスと、何よりも神の母であるおとめの取り次ぎをともに祈り求めようではありませんか。聖グレゴリオスと神の母であるおとめが、わたしたちの道を照らし、わたしたち皆が望んでいる完全な一致へと導いてくださいますように」。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  先週の水曜日の講話で、わたしは、人がどのようにして神の前で義とされるかという問題についてお話ししました。聖パウロに従って、次のことがわかりました。人は自分の行いによって自分を「義」とすることはできません。人が神の前で本当の意味で「義」とされるのは、ただ、神が、人を御子キリストと結びつけ、自らの「義」を与えることによります。そして人はこのキリストとの一致を、信仰を通して与えられます。その意味で聖パウロはわたしたちにこう語るのです。わたしたちを「義」とするのは、わたしたちの行いではなく、信仰です。しかし、この信仰は、思想でも意見でも観念でもありません。信仰とは、主がわたしたちに与えてくださった、キリストとの交わりです。それゆえ、この交わりはいのちとなり、わたしたちをキリストに似た者とするのです。また別の言い方をするなら、信仰は、それが真実で本物なら、愛となり、愛のわざとなります。信仰は愛のわざによって表されます。愛のわざ、愛のわざの実りを伴わなければ、真の意味での信仰とはいえません。それは死んだ信仰です。
  それゆえわたしたちは前回の講話で二つの次元を見いだしました。一つは、救いを得るために、わたしたちのわざや行いは役に立たないという次元です。もう一つは、わたしたちは、霊の実を生む信仰によって「義」とされるという次元です。数世紀にわたってこの二つの次元が混同されたことによって、キリスト教の中に少なからぬ誤解が生まれました。このことと関連して重要なことがあります。すなわち、聖パウロはガラテヤの信徒への手紙の中で、一方では、徹底的なしかたで、義認がわたしたちの行いによらないことを強調します。しかし、同時に彼は、信仰と愛のわざの関係、信仰と行いの関係も強調します。「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」(ガラテヤ5・6)。したがって、まず「肉のわざ」があります。「肉のわざ」とは、「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝」(ガラテヤ5・19-21)などです。これらは皆、信仰に反する行いです。その一方で、聖霊のわざがあります。聖霊のわざは「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラテヤ5・22)を促すことによって、キリスト教的生活を成長させます。これらは信仰から生まれる霊の実です。
  この美徳のリストの初めには愛(アガペー)が挙げられ、終わりには節制が挙げられます。実際、霊は、父と子の愛であるがゆえに、その第一のたまものである愛(アガペー)をわたしたちの心に注ぎます(ローマ5・5参照)。愛(アガペー)を完全に表すには節制が必要です。この父と子の愛は、わたしたちに達し、わたしたちの生活を根底から造り変えます。わたしはこのことを最初の回勅『神は愛』でも考察しました。信じる者が知っているとおり、互いに愛し合うことのうちに、神の愛とキリストの愛は聖霊によって受肉します。ガラテヤの信徒への手紙に戻りたいと思います。この手紙の中で聖パウロはいいます。信じる者は、互いに重荷を担い合うことによって、愛のおきてを全うすることになります(ガラテヤ6・2参照)。キリストへの信仰のたまものによって義とされたわたしたちは、隣人に対するキリストの愛を生きるよう招かれています。なぜなら、わたしたちは生涯の終わりに、この愛という基準によって裁かれるからです。実際、パウロはイエスご自身が述べたことを繰り返して述べているにすぎません。わたしたちはこのことを、先週の主日の福音で述べられた、最後の審判のたとえ(マタイ25・31-46参照)によって思い起こしました。コリントの信徒への手紙一で、聖パウロは有名な愛の賛美を行います。いわゆる愛の賛歌です。「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。・・・・愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず・・・・」(一コリント13・1、4-5)。キリスト教的な愛はわたしたちに多くのことを求めます。それはわたしたちに対するキリストの完全な愛から流れ出るものだからです。この愛はわたしたちを必要とし、受け入れ、抱き、支え、場合によって苦しめます。なぜなら、この愛は、わたしたちが皆、自分のことだけ考えて、自分のために生きるのではなく、「自分たちのために死んで復活してくださったかたのために生きる」(二コリント5・15参照)ことを強いるからです。キリストの愛によって、わたしたちは、キリストに結ばれて新しく創造された者となります(二コリント5・17参照)。こうしてわたしたちは、キリストの神秘的なからだである教会の一部となります。
  このように考えると、パウロの宣教で中心的な意味をもつものとして第一に述べられた、行いによらない義認は、愛のうちに働く信仰と矛盾しません。むしろ、行いによらない義認は、わたしたちの信仰を霊に従う生活によって表すことを求めます。パウロの神学とヤコブの神学の間に根拠のない対立が見いだされることがしばしばあります。ヤコブは手紙の中でこういうからです。「魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです」(ヤコブ2・26)。実際はこうです。パウロが何よりも心がけたのは、キリストへの信仰が必要であり、またそれで十分なことを示すことでした。これに対してヤコブは、結果として生じる、信仰と行いの関係を強調しました(ヤコブ2・2-4参照)。それゆえ、パウロにとってもヤコブにとっても、愛のうちに働く信仰は、キリストにおいて人を義とするたまものが無償で与えられたことをあかしします。聖パウロもフィリピのキリスト者に向けて述べるとおりです。わたしたちは、キリストによって与えられる救いを「恐れおののきつつ」守り、あかししなければなりません。「あなたがたのうちに働いて、み心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。何ごとも、不平や理屈をいわずに行いなさい。そうすれば、・・・・いのちのことばをしっかり保つでしょう」(フィリピ2・12-14、16参照)。
  わたしたちはしばしば、コリントの共同体に見られた誤解を抱くことがあります。コリントのキリスト者たちはこう考えました。信仰によってキリストに結ばれ、無償で義とされたのだから、「すべてのことが許されている」。そこで彼らはこう考えました。現代のキリスト者もしばしばそのように考えることがあるように思われます。キリストのからだである教会の中に分裂を作り出すことは許されている。もっとも貧しい兄弟のことを心にかけずに感謝の祭儀を行うことは許されている。自分たちが互いに部分であることをわきまえずに、最高のたまものを望むことは許されている、などです。信仰を愛のうちに具体化しないなら、その帰結は破壊的です。なぜなら、そのような信仰は、自分自身にとっても兄弟にとってもきわめて有害な、専横と利己主義になるからです。その反対に、わたしたちは、聖パウロに従って、あらためてこう自覚しなければなりません。わたしたちはキリストにおいて義とされました。だからこそ、わたしたちはもはや自分自身のものではなく、聖霊の神殿とされたのです。それゆえわたしたちは、自分のからだと全生涯をもって神をたたえるよう招かれています(一コリント6・19参照)。わたしたちはキリストの血という高価な代価によって買い取られました。ですから、もしわたしたちのからだでキリストをたたえないなら、義とされたことの計り知れない価値を安売りすることになります。実際、これこそがわたしたちが「なすべき」、「霊的な」礼拝です。この礼拝についてパウロはわたしたちに勧めます。「自分のからだを神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとしてささげなさい」(ローマ12・1)。典礼は主にのみささげるものです。しかし、もしこの典礼を兄弟への奉仕とせず、愛のうちに表される信仰としないなら、わたしたちはそれをどれほどおとしめることになるでしょうか。使徒パウロもしばしば自分の共同体を最後の審判の前に立たせます。そのとき、「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめいからだを住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです」(二コリント5・10。ローマ2・16も参照)。このように審判を思うことによって、わたしたちは日々の生活の中で自らを顧みなければなりません。
  聖パウロが信じる者に示した倫理は、単なる道徳的教訓ではありません。この倫理はわたしたちにとっても現代的な意味をもちます。それは、この倫理がつねにキリストとの個人的また共同体的な関係から再出発するからです。それは、聖霊に従った生活のうちにこの倫理を実現するためです。根本的なのはこのことです。キリスト教倫理は掟の体系から生まれるのではありません。むしろそれは、わたしたちのキリストとの友愛がもたらすものです。この友愛が生活に影響を及ぼします。もしこの友愛が真実なものであれば、それは、隣人への愛のうちに具体化され、実現します。だから、倫理的な堕落は個人の領域に限られません。それは同時に個人と共同体の信仰をも堕落させます。倫理的な堕落はこの信仰の堕落に由来するとともに、信仰の堕落に決定的な影響を与えます。それゆえ、神がキリストによって与えてくださった和解と、わたしたちに対する神の「狂おしい」愛にあずからせていただこうではありませんか。だれも、また何ものも、神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです(ローマ8・39参照)。この確信のうちにわたしたちは生きます。そして、この確信が、わたしたちに、愛のうちに働く信仰を具体的なしかたで生きる力を与えてくれるのです。

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