
教皇ベネディクト十六世は、待降節第1主日の11月30日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイ […]
教皇ベネディクト十六世は、待降節第1主日の11月30日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイタリア語)。
「お告げの祈り」の後、教皇はまずイタリア語で、使徒聖アンデレの祝日にあたって次のメッセージを述べました。
「11月30日は、シモン・ペトロの兄弟である使徒聖アンデレの祝日です。聖アンデレとシモン・ペトロはともに、初め洗礼者ヨハネの弟子でした。そしてヨルダン川でイエスが洗礼を受けた後に、イエスをメシアと認めて、イエスの弟子となりました。聖アンデレはコンスタンチノープルの守護聖人です。それゆえローマ教会は特別な兄弟のきずなによってコンスタンチノープル教会と結ばれているのを感じています。そのため、慣例に従って、この幸いな機会にあたり、教皇庁キリスト教一致推進評議会議長のヴァルター・カスパー枢機卿に率いられた聖座の使節団が世界総主教バルトロマイ一世を訪問しています。わたしは心からバルトロマイ一世とコンスタンチノープル総主教区の信者の皆様に祝福とごあいさつをお送りします。そして、この皆様の上に天からの豊かな祝福がありますよう祈ります」。
続いて教皇は、最近起きたインドとナイジェリアの流血の事件についてイタリア語で次のように述べました。
「皆様にお願いしたいと思います。わたしとともに、インドのムンバイの残酷なテロ攻撃と、ナイジェリアのジョスで起きた衝突による多くの犠牲者と負傷者、そしてさまざまな形での被害者のために祈ってください。これらの悲惨な出来事の原因と状況は違いますが、残忍で常軌を逸した暴力がもたらした恐怖と悲しみは同じだと思われます。主に願おうではありませんか。どうか主が、このような暴力が地域と世界の諸問題を解決する道だと錯覚している人々の心に触れてくださいますように。そして、わたしたち皆が、神と人間にふさわしい社会を築くために、柔和と愛の模範を示すことへの促しを感じることができますように」。
インド西部ムンバイで11月26日(水)から同時テロ事件を起こした武装組織は、29日(土)までにインドの治安部隊によって制圧されましたが、同市の非常事態対策当局者は29日、事件の犠牲者が195人に達したと発表しています。
アフリカのナイジェリア中部プラトー州の州都ジョスでは、地方選挙の結果発表が遅れたことをきっかけとして、11月28日(金)からイスラム教徒とキリスト教徒の衝突が起き、29日までに死者は300人以上に達したと報じられています。
親愛なる兄弟姉妹の皆様。
今日の待降節第1主日から新しい典礼年が始まります。このことはわたしたちが時間の本性について考えるよう招きます。時間は常にわたしたちの心を深く惹きつけてやみません。しかしわたしたちは、イエスが好んだ模範に従って、具体的な事実から出発したいと思います。わたしたちは皆、「時間がない」といいます。すべての人にとって日常生活のリズムがとても速くなっているからです。このことについても教会は「福音」をもたらします。すなわち、神は「ご自分の」時間をわたしたちに与えてくださいます。わたしたちにはいつも時間がわずかしかありません。特に主のことに関して、わたしたちは時間を見いだすことができませんし、時には時間を見いだそうともしません。にもかかわらず、「神はわたしたちのための時間をもっておられます」。これが、典礼年が始まることによってわたしたちがまず、常に新たな驚きをもって再発見することです。そうです。神はわたしたちに時間を与えてくださいます。なぜなら神は、ご自分のことばと救いのわざによって、歴史の中に入ってこられたからです。それは、歴史を永遠に向けて開き、それを契約の歴史とするためでした。その意味で、時間はすでにそれ自体において、神の愛を表す根本的なしるしです。人間は、他のことがらと同じように、この時間というたまものを大事にすることもできれば、逆に、浪費することもできます。時間の大切さを知ることもできれば、愚かで浅はかな考えによって時間をないがしろにすることもできます。
さらに時間には3つの大きな「蝶番(ちょうつがい)」があります。この3つの大きな「蝶番」が救いの歴史を区切ります。すなわち、始まりのときの創造、中心における受肉とあがない、そして、終わりのときの「再臨(パルーシア)」です。「再臨(パルーシア)」、すなわち終わりの日の主の到来は、公審判も含みます。しかし、これら3つの時が年代を追って順番に来ると単純に考えてはなりません。実際、たしかに創造は万物の初めに行われます。しかしそれは継続し、世の終わりに至るまで、宇宙の生成の全過程を通して実現するものでもあります。受肉とあがないも同じです。受肉とあがないは歴史上の特定の瞬間に、すなわち、イエスが地上におられたときに行われました。しかし、そうだとしても、それが力を及ぼす範囲は、それ以前のすべての時代から、それ以後のすべての時代にまで広がります。また、終わりの日の主の到来と最後の審判も、キリストの十字架そのものにおいて決定的なしかたで先取られ、すべての時代の人々の行動に影響を及ぼします。
待降節は2つの時期における神の到来を祝います。まず待降節は、キリストの栄光の再臨への待望に目覚めるよう、わたしたちを招きます。そして、降誕祭が近づくにあたって、わたしたちの救いのために人となったみことばを迎え入れるよう、わたしたちを招きます。しかし、主はわたしたちの生活の中に到来し続けてくださいます。それゆえ、今日の待降節第1主日にあらためて力強く告げられるイエスの呼びかけは、どれほど時宜にかなったものでしょうか。「目を覚ましていなさい」(マルコ13・33、35、37)。この呼びかけは、弟子たちだけでなく、「すべての人」にも向けられています。なぜなら、すべての人は、神のみがご存じのときに、自分の生涯の報告をするよう招かれるからです。ですから、地上の富から適切なしかたで離脱しなければなりません。自らの過ちを心から痛悔しなければなりません。隣人、特に貧しい人に対して積極的に愛のわざを行わなければなりません。そして、神のみ手に信頼をもって自らをゆだねなければなりません。神は柔和で憐れみ深い、わたしたちの父だからです。待降節の模範は、イエスの母である、おとめマリアです。おとめマリアに祈り求めようではありませんか。マリアの助けによって、わたしたちも、来るべき主のために人間らしい心を広げることができますように。