教皇ベネディクト十六世の161回目の一般謁見演説 人祖アダムとキリストの関係についてのパウロの宣教

12月3日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の161回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、7月2日から開始した聖パウロの人と思想に関する連続講話の15回目として、「人祖アダムとキリストの関係についてのパウロの宣教」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  今日の講話では、聖パウロがローマの信徒への手紙の有名な箇所で述べる(ローマ5・12-21)、アダムとキリストの関係について考えたいと思います。この箇所でパウロは原罪の教理の根本的な内容を教会に教えます。実際パウロは、すでにコリントの信徒への手紙一で、復活への信仰について述べながら、人祖とキリストの比較を始めます。「つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。・・・・『最初の人アダムはいのちのある生き物となった』・・・・が、最後のアダムはいのちを与える霊となったのです」(一コリント15・22、45)。ローマ5・12―21によってキリストとアダムの比較はより明確にされ、わたしたちを照らします。パウロは、アダムから律法へ、また律法からキリストへと救いの歴史をたどります。人類の罪の結果、アダムはこの歴史の中心となりません。しかしそれだけいっそう、イエス・キリストと、キリストを通して人類に豊かに注がれた恵みが、救いの歴史の中心となります。パウロは、キリストについて繰り返し「いっそう」ということばを用いることによって、キリストによって与えられるたまものが、アダムの罪と人類にもたらされたその結果をはるかに上回ることを強調します。そこでパウロは終わりにさらにこういうことができるのです。「しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」(ローマ5・20)。それゆえ、パウロが行うアダムとキリストの比較は、人祖が、優れた第二のアダムに劣っていることを明らかにします。
  他方で、次のことを明確にすることは適切です。すなわち、パウロがアダムの罪によって与えられたと述べた、キリストによる恵みのたまものは計りがたいものだということです。パウロは、恵みが何よりも重要だということを示すためでなければ、あえて罪について論じることはなかっただろうということさえできます。「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだ」(ローマ5・12)。ですから、教会の信仰の中で原罪の教義についての自覚が発展したのは、この教義が、もう一つの教義、すなわち、キリストによる救いと自由という教義と分かちがたく結びついているためです。そこから次のことがいえます。わたしたちはアダムと人類の罪を、救いとの関連から切り離して論じることができません。すなわちわたしたちは、それをキリストによる義認という観点から理解しなければならないのです。
  しかし、現代の人々はこう問いかけるに違いありません。原罪とは何でしょうか。聖パウロと教会は何を教えているのでしょうか。この教理は現在でも通用するものなのでしょうか。多くの人はこう考えます。進化の歴史から見れば、後に人類の歴史全体に広まった、最初の罪に場所を与えることはもはやできません。したがって、復活とあがない主の問題もその根拠を失います。では、原罪は存在するのでしょうか。それとも、存在しないのでしょうか。この問いにこたえるために、原罪の教理のもつ二つの側面を区別しなければなりません。まず経験的な側面があります。それは、具体的で、目で見ることができ、いわばだれでも触れることのできる現実です。もう一つは、神秘的な側面です。これは原罪という事実が存在する基盤にかかわります。経験的な事実とは、わたしたちのあり方の中には矛盾があるということです。まず、すべての人は、自分が善を行わなければならないことを知っており、また、善を行いたいと心から望んでいることも知っています。しかし、同時に、人はその反対のことを行おうとするもう一つの衝動も感じます。それは、利己主義と、暴力の道を歩もうとする衝動です。自分が善と神と隣人に敵対する行動をとっていることを知りながら、自分が好むことだけをしようとする衝動です。聖パウロはローマの信徒への手紙の中で、このわたしたちのあり方の矛盾を次のように言い表します。「善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」(ローマ7・18-19)。わたしたちのあり方におけるこの内的矛盾は、単なる理論ではありません。わたしたちは皆、それを日々、経験しています。そしてわたしたちは、自分たちの周りでこの後者の意志が優勢を占めているのを絶えず目にしています。不正、暴力、偽り、情欲に関する毎日の報道を考えるだけで十分です。わたしたちはこのことを毎日目にしています。このことは事実です。
  わたしたちの心の中のこの悪の力の結果として、歴史の中で汚れた川が増大し、人類の歴史の地図を汚しました。フランスの偉大な思想家ブレーズ・パスカル(1623-1662年)は「第二の本性」について語ります。「第二の本性」はわたしたちの原初のよい本性に優ります。この「第二の本性」によって、悪が人間にとって普通のものに見えるようになります。そこから、「これこそ人間的だ」というよくいわれる表現も、二つの意味をもつようになります。「これこそ人間的だ」は、この人がよい人であり、本当に人がなすべきことを行っていることを意味することもできます。しかし、「これこそ人間的だ」は虚偽を表すこともできます。すなわち、悪こそが普通で、人間的だということです。悪は第二の本性となったかのように思われます。人間のあり方と歴史のこの矛盾が、あがないへの望みを生み出さなければなりませんでしたし、現代においてもこの望みを生み続けています。実際わたしたちは、世界を変革してほしいという望み、正義と平和といつくしみに基づく世界を造り出してほしいという希望を至るところに見いだします。たとえば政治において、すべての人は、世界を変革し、より公正な世界を造り出さなければならないと語ります。それこそがまさに、わたしたち自身のうちに経験する矛盾から解放してほしいという望みの表れです。
  それゆえ、人間の心と歴史における悪の力の存在は否定できない事実です。問題は、この悪をどのように説明することができるかということです。キリスト教信仰以外の思想史において主要な説明方法があります。これはさまざまな形をとっています。この説明方法はいいます。「存在そのものは矛盾である。存在は善も悪も含んでいる」。古代においてこの思想は、善の原理と悪の原理という二つの対等な原理が存在するという考えを伴いました。この二元論は乗り越えられないものでした。二つの原理は同じレベルにあります。それゆえ、存在の初め以来、この矛盾は永遠に存在し続けます。ですから、わたしたちのあり方の矛盾は、いわばこの二つの神的な原理の対立を反映するにすぎません。進化論的・無神論的な世界観においては、同じ見方が新たな形で再現します。進化論的・無神論的な思想における存在観は一元論的であるにもかかわらず、存在はそれ自体として初めから悪と善を含むと考えられます。存在そのものは端的な意味で善ではなく、善と悪に開かれています。悪は善と同じように根源的な存在です。人類の歴史は、先行する進化全体に見られるあり方を発展させるにすぎません。キリスト信者が原罪と呼ぶものは、実際には、存在の混合的な性格をいうにすぎません。存在は善と悪の混じり合ったものです。この理論によれば、善も悪も存在の構造そのものに属しています。つまるところ、これは絶望的なものの見方です。もし事実がそうであるなら、わたしたちは悪に打ち勝つことができません。最終的に重要なのは自分の利益だけです。あらゆる進歩は悪の川を代価として支払わなければなりません。進歩のために役立つことを望む人は皆、この代価を支払うことを受け入れなければなりません。つまるところ、政治はこのような前提に基づいて行われます。わたしたちはその結果を目の当たりにしています。近代のこの思想は、結局のところ、悲嘆と冷酷な心を生み出すことしかできません。
  そこでわたしたちはあらためて問いかけます。聖パウロがあかしした信仰は何をいっているのでしょうか。第一に、信仰は、二つの本性が対立し合うこと、悪の暗闇が全被造物に影を落としていることを確認します。わたしたちはローマの信徒への手紙の7章のことばを聞きました。わたしたちは8章のことばをそれに加えることができます。悪は端的な意味で存在します。わたしたちは二元論と一元論を簡単に考察し、その悲惨さを見いだしました。それらの思想と対照的に、信仰は悪の説明として、次のようにいいます。二つの光の神秘と一つの闇の神秘が存在します。しかし、闇の神秘は二つの光の神秘によって包含されます。第一の光の神秘とは次のものです。信仰はわたしたちにこう教えます。善の原理と悪の原理という二つの原理が存在するのではありません。むしろ存在するのは、造り主である神という唯一の原理だけです。この原理は善であり、悪の闇をもたない、善のみの存在です。それゆえ、存在も善と悪の混じり合ったものではありません。存在はそれ自体として善です。だから、存在すること、生きることはよいことです。信仰はこのことを喜びをもって告げます。存在するのは、造り主という、唯一の善である源だけです。だから生きることはよいことです。人間であることはよいことです。生きることはすばらしいことです。その後に来るのが、暗闇の神秘、すなわち闇の神秘です。悪は存在それ自体を源泉として生じるのではありません。悪は善と同じように根源的なものではありません。悪は被造物としての自由に由来します。それは自由の悪用に由来するのです。
  それでは悪はどうして可能となったのでしょうか。悪はどのようにして生じるのでしょうか。これはよくわからないことです。悪は理にかなったものではありません。神と善のみが、理にかなった、光です。悪は不可思議なものであり続けます。悪は偉大な比喩的表現によって示されます。創世記3章が二本の木と蛇と罪人のたとえを用いて行うとおりです。偉大な比喩的表現は推測を可能にしてはくれても、悪がそれ自体としてどれほど理にかなっていないかを説明することはできません。わたしたちにできるのは推測であって、説明ではありません。わたしたちには悪をはっきりとした事実として語ることができません。悪はまったく底の知れない現実だからです。悪は暗闇の神秘、すなわち闇の神秘であり続けます。しかし、光の神秘がすぐに付け加わります。悪は二次的な源泉から生じるものです。神はその光によって悪よりも力があります。だから悪を打ち負かすことができるのです。だから被造物と人間はいやされることができるのです。二元論も、進化論の一元論も、人間がいやされうるということはできません。しかし、悪が二次的な源泉から生じるにすぎないなら、人間がいやされうることは真実であり続けます。知恵の書はいいます。「神は諸国民をいやされうるものとした」(知恵1・14ウルガタ訳)。終わりに、これが最後の点ですが、人間はいやされうるだけではなく、実際にいやされました。神は人間に回復をもたらしました。神は人となって歴史の中に入りました。いつまでも存在し続ける悪の源泉に、神は完全な善の泉をもって立ち向かいました。新しいアダムである、十字架につけられて復活したキリストは、光の川をもって汚れた悪の川に立ち向かいました。この光の川は歴史の中を今も流れ続けています。わたしたちは聖人たち、すなわち偉大な聖人たちを目にしています。しかしまた、謙遜な聖人たち、すなわち素朴な信じる人々も目にしています。わたしたちは、キリストから流れ出る光の川が、今も力強く流れているのを目にするのです。
  兄弟姉妹の皆様。今は待降節です。教会が語る待降節は二つの意味をもっています。すなわち、現存と期待です。現存とは、光がわたしたちとともにおられることです。キリストは新しいアダムです。キリストはわたしたちとともに、わたしたちのただ中におられます。光はすでに輝いています。わたしたちは心の目を開いて、この光を見、光の川に入らなければなりません。何よりも、神ご自身が新しい善の泉として歴史の中に入ってきてくださったことを感謝しなければなりません。しかし、待降節は期待をも意味します。悪の暗い闇は依然として強力です。だから、古代の神の民とともに祈ろうではありませんか。「天よ、露を滴らせよ(Rorate caeli desuper)」(イザヤ45・8)。そして、粘り強く祈ろうではありませんか。イエスよ、来てください。来て、光と善に向かう力を与えてください。偽りと、神への無知と、暴力と、不正が支配するところに来てください。主イエスよ、来てください。世に善へと向かう力を与えてください。わたしたちを助けてください。わたしたちがあなたの光を担う者、平和のために働く者、真理のあかしとなることができますように。主イエスよ、来てください。

PAGE TOP