教皇ベネディクト十六世の2008年12月7日の「お告げの祈り」のことば 主の道を整えよ

教皇ベネディクト十六世は、待降節第2主日の12月7日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイタ […]

教皇ベネディクト十六世は、待降節第2主日の12月7日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇はまず、12月5日(金)に逝去したモスクワおよび全ロシアの総主教アレクシー二世(1929-2008年、在位1990-没年)を悼んで、イタリア語で次のように述べました。
「モスクワと全ロシアの総主教アレクシー二世が数日前に逝去しました。正教会の兄弟とともに総主教の霊魂を主のいつくしみにゆだねて祈ります。総主教が主の光と平和の国に受け入れられますように」。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  わたしたちは待降節を1週間過ごしてきました。待降節は神の未来に心を開くときです。聖なる降誕祭のために準備するときです。この降誕祭に、まったく新しいかたである主は来て、この堕落した人類のただ中に住み、人類を内側から新たにしてくださいます。待降節の典礼の中で希望に満ちた知らせが響き渡ります。この知らせは、究極的な高みへと目を上げるように招きます。しかし、同時にこの知らせは、わたしたちの中にある神のしるしに気づくように招きます。今日の待降節第2主日に、神のことばはいわゆる「第二イザヤ」の感動的なことばを取り上げます。このことばはバビロニアで何十年もの間、追放の苦しみを味わったイスラエルの人々に、ついに解放を告げます。預言者は神の名をもって語ります。「慰めよ、わたしの民を慰めよ。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ。苦役の時は今や満ちた」(イザヤ40・1-2)。ご自分の民の心に語りかけ、この民を通して全人類に語りかけて、救いを告げ知らせること。これが、主が待降節になさろうと望むことです。今日、教会も声を上げます。「主の道を整えよ」(イザヤ40・3)。貧困と飢餓で疲れ果てた人々、難民の群れ、国家体制によって深刻な形で権利を踏みにじられた多くの人々のために、教会は高い信仰の山の上に見張りとして立って告げ知らせます。「見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られる」(イザヤ40・10)。
  この預言者の知らせはイエス・キリストによって実現します。イエス・キリストは、宣教によって、そしてご自分の死と復活によって、いにしえからの約束を実現し、さらに深く普遍的な展望を示しました。イエス・キリストは脱出を始めました。この脱出はもはや単なる地上の、歴史的な意味での、したがって一時的な脱出ではなく、徹底的かつ決定的な意味での脱出です。それは悪の国から神の国への過越です。罪と死の支配から愛といのちの支配への過越です。それゆえ、キリスト教的希望は、社会的・政治的解放への正当な期待を超えたものです。なぜなら、イエスが造り出したのは新しい人間性だからです。この新しい人間性は「神に」由来します。しかし、同時にそれは、主の霊によって実れば実るほど、わたしたちのこの地上で育っていきます。それゆえ、大事なのは完全な意味で信仰の道に入ることです。神と、その救いの計画を信じ、同時に、神の国の建設に献身することです。実際、正義と平和は神の与えるたまものです。しかし、この二つは、人間が「よい土」となって、神のことばのよい種を進んで受け入れることを必要としています。
  イエスはこの新しい人間性の最初の実りです。イエスは神の子であるとともに、マリアの子だからです。母であるおとめマリアは、神が世に来るために自ら整えた「道」です。マリアは完全なへりくだりをもって新しいイスラエルの先頭を歩みました。あらゆる追放、抑圧、道徳的・物質的な奴隷状態から、「義の宿る新しい天と新しい地」(二ペトロ3・13)をめざして。現代の人々の平和と救いへの希望を、マリアの母としての執り成しにゆだねようではありませんか。

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