教皇ベネディクト十六世の162回目の一般謁見演説 秘跡についてのパウロの教え

12月10日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の162回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、7月2日から開始した聖パウロの人と思想に関する連続講話の16回目として、「秘跡についてのパウロの教え」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  わたしたちは先週の水曜日の講話の中で、聖パウロに従って二つのことを考察しました。一つは、わたしたち人間の歴史は初めから、造られた自由の乱用によって汚されたということです。自由は神のみ旨から自由になろうとしたからです。このようにして人間は真の自由を見いだす代わりに、真理に背き、その結果、人間の現実を歪めました。何よりも人間は根本的な関係を歪めました。すなわち、神との関係、男と女の関係、人間と大地との関係です。すでに述べたとおり、このようなわたしたちの歴史の汚染は、人間の歴史の展開全体に広がりました。そして、この遺産として伝えられた過ちは増大し、今では至るところで目にすることができます。これが第一の点です。第二の点はこれです。わたしたちは聖パウロから、イエス・キリストのうちに歴史「における」新しい始まりが生じたこと、また、それは歴史「の」新しい始まりであることを学びました。イエス・キリストは人間であると同時に神だからです。神から来られたイエスとともに、新しい歴史が始まります。この新しい歴史は、父に対するイエスの「然り」によって形づくられたものです。それゆえこの歴史は、傲慢な誤った解放に基づくのではなく、愛と真理に基づきます。
  しかし、ここで疑問が生じます。わたしたちはどのようにして、この新しい始まり、すなわち新しい歴史に入ることができるのでしょうか。この新しい歴史はどのようにしてわたしに触れるのでしょうか。わたしたちは自分の生物学的な由来によって、避けがたいしかたで最初の汚れた歴史と結ばれています。わたしたちは皆、人類という一つの集団に属しているからです。しかし、イエスとの交わり、すなわち、わたしたちが新しい人類に加わるための新しい誕生は、どうすれば実現するのでしょうか。イエスはどのようにしてわたしの生活の中に、わたしの存在の中に入って来られるのでしょうか。聖パウロと新約全体のこたえはこれです。イエスは聖霊のわざによって来られます。第一の歴史がいわば生物学によって始まったとすれば、第二の歴史は、復活したキリストの霊である聖霊によって始まります。この霊は聖霊降臨から新しい人類の始まりを造り出します。新しい人類とは、キリストのからだである、教会という新しい共同体です。
  しかし、さらに具体的に問わなければなりません。このキリストの霊である聖霊は、どのようにしてわたしの霊となることができるのでしょうか。こたえはこれです。それは、互いに密接に関連し合う三つのしかたで行われます。第一はこれです。キリストの霊はわたしの心の戸をたたきます。わたしの心に触れます。しかし、新しい人類は真の意味でのからだとならなければなりません。霊はわたしたちを一致させ、本当に一つの共同体を造り出さなければなりません。新たな始まりの特徴は、分裂を乗り越え、ばらばらになったものを結び合わせることでなければなりません。そうであれば、このキリストの霊は、結び合わせるための二つの目に見える要素を用います。すなわち、告げ知らされたみことばと、秘跡、特に洗礼と聖体です。聖パウロはローマの信徒への手紙の中でいいます。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」(ローマ10・9)。すなわち、あなたは死の歴史ではなく、いのちの歴史へと導き入れられます。それから聖パウロは続けていいます。「ところで、信じたことのないかたを、どうして呼び求められよう。聞いたことのないかたを、どうして信じられよう。また、のべ伝える人がいなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうしてのべ伝えることができよう」(ローマ10・14-15)。続く箇所でパウロはもう一度いいます。「信仰は聞くことによって始まるのです」(ローマ10・17)。信仰はわたしたちの思想や考察から生み出されるのではありません。信仰はある新しいことがらです。わたしたちはそれを作り出すことができません。むしろわたしたちはそれを、神が造り出した新しい要素として、たまものとして、受け入れることしかできません。信仰はまた、本を読むことによってではなく、聞くことによってもたらされます。信仰は単なる心の問題ではなく、あるかたとの関係です。信仰は告げられたことばと出会うことを前提とします。それは、交わりを告げ知らせ、造り出す他の人を前提とするのです。
  そして、三番目が宣教です。ことばをのべ伝える人は、自分からのべ伝えるのではなく、遣わされた者としてのべ伝えます。のべ伝える人は派遣の構造の中に組み入れられます。派遣はキリストから始まります。キリストは父から遣わされました。この派遣は使徒へと手渡されます――「使徒」とは「遣わされた者」を意味します――。そしてこの派遣は、奉仕職、すなわち、使徒によって伝えられた宣教のわざの中で継続します。新しい歴史の構造は、この宣教の構造の中で姿を現します。わたしたちはこの宣教において、究極的な意味で神ご自身が語られるのを聞きます。すなわち、御子である神のみことば自らがわたしたちに語りかけ、わたしたちのところにまで来られます。みことばはイエスという肉となりました。それは、本当に新しい人類を造り出すためです。それゆえ、のべ伝えられたことばは洗礼の秘跡となります。聖ヨハネが述べたとおり、洗礼は水と霊によって生まれ変わることだからです。聖パウロはローマの信徒への手紙6章の中で、洗礼のきわめて深い意味を語ります。わたしたちはその朗読を聞きましたが、もう一度繰り返すのがよいと思います。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストとともに葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しいいのちに生きるためなのです」(ローマ6・3-4)。
  この講話の中でこの難解な箇所の詳しい解釈に立ち入ることができないことはいうまでもありません。わたしは三つのことを簡単に指摘するにとどめます。第一に、「わたしたちが洗礼を受けた」というのは受動的なことがらです。だれも自分で自分に洗礼を授けることはできません。洗礼を授けてくれる別の人が必要です。だれも自分でキリスト信者となることはできません。キリスト信者になるということは、受動的な過程です。わたしたちはほかの人の手によって初めてキリスト信者となることができます。そして、わたしたちをキリスト信者とし、わたしたちに信仰のたまものを与えてくれるこの「ほかの」人が、教会という信者の共同体の第一の段階です。わたしたちは教会を通して信仰と洗礼を与えられます。この共同体に教えてもらわなければ、わたしたちはキリスト信者になることができません。自律的なキリスト教、すなわち自家製のキリスト教は自己矛盾です。第一の段階として、この「ほかの人」が、教会という信者の共同体です。しかし、第二の段階として、この共同体も、自らの理念や望みに従って自分で行動することはできません。共同体も同じ受動的な過程のうちで生きています。教会を築くことができるのはキリストだけだからです。真の意味で秘跡を授けるかたはキリストです。だれも自分で自分に洗礼を授けられませんし、だれも自分でキリスト信者になることはできません。わたしたちはキリスト信者にしてもらいます。これが第一の点です。
  第二の点はこれです。洗礼とは単に汚れを洗うことだけではありません。洗礼とは死と復活です。パウロ自身、ガラテヤの信徒への手紙の中で、復活したキリストとの出会いがもたらした自分の生活の変化について、「わたしは死んだ」ということばで語ります。そのときパウロは本当に新しい生活を始めたのです。キリスト信者になることは、単に化粧を施すことではありません。化粧とは、すでにある程度完全なものに、ある美しさを加えることです。キリスト信者になるとは、新しく始め、生まれ変わることです。それは死と復活です。もちろん復活によって、以前の生活の中にあったよいものが再び現れます。
  第三の点はこれです。物質が秘跡の部分をなします。キリスト教は単なる霊的なことがらではありません。それは身体をも含みます。宇宙をも含みます。それは新しい天と新しい地に広がります。聖パウロの箇所の最後のことばに戻りたいと思います。パウロはいいます。こうしてわたしたちは「新しいいのちに生きる」ことができます。わたしたち皆が良心を吟味するための要素は、「新しいいのちに生きる」ことです。それは洗礼によってもたらされます。
  ここでわたしたちは聖体の秘跡に目を向けます。すでにわたしは別の講話の中で、最後の晩餐の証人から受けた聖体に関する伝承を文字どおり伝えることを、聖パウロがどれだけ大事にしたかを示しました。パウロはこれらのことばを、自分が忠実に守るようゆだねられた貴重な宝として伝えました。こうしてわたしたちはこれらのことばのうちに本当に最後の晩餐の証言を聞くのです。わたしたちは使徒のことばを聞きます。「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしのからだである。わたしの記念としてこのように行いなさい』といわれました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念としてこのように行いなさい』といわれました」(一コリント11・23-25)。これは汲み尽くすことのできないテキストです。ここでも、この講話の中で、わたしは二つのことを簡単に考察するにとどめます。パウロは杯に関する主のことばをこう伝えます。この杯は「わたしの血によって立てられる新しい契約」である。このことばには旧約の二つの根本的なテキストが背景として隠されています。第一の背景は、預言者エレミヤの書における新しい契約の約束です。イエスは弟子たちにいいます。わたしたちにもいいます。「今、このときに、わたしとわたしの死によって新しい契約が実現します。わたしの血によって、世において人類の新しい歴史が始まります」。しかし、このことばは、シナイ山で契約が結ばれたときのことも背景としています。モーセはシナイ山の上でこういいました。「見よ、これは主がこれらのことばに基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である」(出エジプト24・8)。ここでいわれていたのは動物の血のことでした。動物の血は、新しいいけにえ、すなわち、まことの礼拝への望みと期待を表すことができるものにすぎませんでした。主は杯を与えることにより、わたしたちにまことのいけにえを与えてくださいました。唯一のまことのいけにえは、御子の愛です。とこしえの愛という、この愛のたまものによって、世は新しい契約を結びました。感謝の祭儀を行うとは、キリストがわたしたちにご自身を与えてくださることです。ご自身の愛を与えてくださることです。それは、わたしたちをご自分に似たものに造り変え、新しい世を造り出すためです。
  聖体の第二の重要な側面はコリントの信徒への手紙一に示されます。そこで聖パウロはいいます。「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストのからだにあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つのからだです。皆が一つのパンを分けて食べるからです」(一コリント10・16-17)。このことばの中で、聖体の個人的な性格と社会的な性格がともに示されます。キリストはご自身をわたしたち一人ひとりと個人的に結びつけます。しかしキリストはご自身を、わたしのそばにいる人々とも結びつけます。ですから、パンはわたしのためのものであるとともに、他の人のためのものでもあります。こうしてキリストはわたしたち皆をご自分と結びつけながら、わたしたち皆を互いに結びつけます。わたしたちは聖体拝領によってキリストを受けます。しかし、キリストはわたしの隣人ともご自身を結びつけます。キリストと隣人は聖体において切り離すことができません。だからわたしたちは皆、一つのパン、一つのからだなのです。他の人との連帯性を欠いた聖体は、聖体の乱用です。わたしたちはここに、キリストのからだ、すなわち復活したキリストのからだとしての教会に関する教えの根源また中心を目の当たりにします。
  わたしたちはまたこの教えがきわめて現実的なものであることを見いだします。キリストは聖体においてご自身をわたしたちに与えます。ご自分のからだにおいてご自身を与えます。こうしてキリストはわたしたちをご自分のからだにします。わたしたちをご自分の復活したからだと結びつけます。人が普通のパンを食べると、このパンは消化の過程を通じて、人間の生命を養う栄養素に変わり、その人のからだの一部になります。しかし、聖体拝領においては逆の過程が起こります。主キリストはわたしたちをご自身と同じものとし、ご自分の栄光のからだへと導き入れます。こうしてわたしたちは皆、ともにキリストのからだになるのです。コリントの信徒への手紙一の12章とローマの信徒への手紙の12章だけを読むと、さまざまなたまものの有機体としてのキリストのからだについて語ることばは、一種の社会学的・神学的なたとえにすぎないように見えるかもしれません。実際、ローマの政治学の中で、さまざまな部分から成るからだが一つであるというたとえは、国家そのものについて用いられました。それは、国家が一つの有機体であり、その中で各人は自分の役割をもち、多くのさまざまな役割が一つのからだをなし、各人は自分の場所をもつことをいうためでした。コリントの信徒への手紙一の12章だけを読むと、パウロはこれを教会に当てはめたにすぎず、ここで問題になっているのも社会としての教会のあり方にすぎないかのように思われるかもしれません。しかし、この10章を考慮すると、教会の現実的なあり方がまったく違うものであることがわかります。教会の現実的なあり方は、国家よりも深く、真実なしかたで有機的です。なぜなら、キリストはわたしたちに本当にご自分のからだを与え、わたしたちをキリストのからだとしてくださるからです。わたしたちは本当にキリストの復活したからだに結ばれます。そこから、わたしたちは互いに結び合わされます。教会は国家と同じような単なる団体ではありません。教会は一つのからだです。教会は単なる組織ではなく、真の意味での有機体です。
  終わりに、結婚の秘跡についてごく簡単に述べたいと思います。コリントの信徒への手紙ではわずかな言及があるだけですが、エフェソの信徒への手紙では結婚に関するきわめて深い神学が展開されます。パウロは結婚が「偉大な神秘」だといいます。パウロは「キリストと教会について述べているのです」(エフェソ5・32)。この箇所で強調されるのは、垂直的な次元で形づくられる相互性です。互いに仕え合うには、愛の言語を用いなければなりません。この愛の模範は、教会に対するキリストの愛です。このキリストと教会の関係は、結婚における愛の神的な側面を際立たせ、夫婦の愛情に満ちた関係を促します。真の意味での結婚を十全な形で生きるには、絶えず人間的にも感情的にも成長しながら、常にみことばの力と洗礼の意味と結ばれ続けるよう努めることが必要です。キリストは、みことばとともに、教会を水で洗うことによって清めます。こうしてキリストは教会を聖なるものとします。主のからだと血にあずかることは、解消しえない恵みによる一致を目に見えるものとするだけでなく、この一致を強めます。 
  最後に、わたしたちは聖パウロのフィリピの信徒への手紙のことばを耳にしています。「主はすぐ近くにおられます」(フィリピ4・5)。わたしたちはすでに知っていると思います。みことばと秘跡のうちに、わたしたちの生活全体の中で、主が近くにおられることを。祈ろうではありませんか。どうかわたしたちが自分の存在の奥底から、主が近くにおられることをますます感じ、喜ぶことができますように。この喜びは、イエスが本当に近くにおられることによって生まれるのです。

PAGE TOP