教皇ベネディクト十六世の163回目の一般謁見演説 降誕祭の神秘

12月17日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の163回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、間近に迫った「降誕祭の神秘」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  ちょうど今日から、わたしたちは、主の降誕を直接準備するための待降節の期間を開始します。わたしたちは「降誕祭前の九日間の祈り」を始めます。多くのキリスト教共同体では、この「降誕祭前の九日間の祈り」を豊かな聖書箇所による典礼で祝います。これらの聖書箇所は皆、救い主の誕生への期待を強めることを目指しています。実際、全教会は間近に迫った降誕祭に信仰の目を向けます。そして、いつもの年と同じように、天使の喜びの歌声に声を合わせるための心の準備をします。天使たちは真夜中に、羊飼いたちに向かって、あがない主の誕生という特別な出来事を知らせ、ベツレヘムの洞窟に行くよう招きました。そこにはインマヌエル、すなわち被造物となった造り主が、布にくるまって貧しい飼い葉桶の中に寝ています(ルカ2・13-14参照)。
  このような特別な雰囲気のゆえに、降誕祭は世界中で祝われます。実際、信者でない人も、この毎年祝われるキリスト教の祭のうちに、この世を超えたある特別なもの、親しく心に語りかけてくるものを見いだします。降誕祭はいのちのたまものを賛美する祭です。幼子の誕生は常に喜びをもたらす出来事であるはずです。みどりごを抱けば、普通、親切に気遣う心、感動と優しさが生まれます。降誕祭は、貧しい洞窟で泣いているみどりごとの出会いです。馬小屋のみどりごを仰ぎ見るとき、今日も世界の多くの地域で、ひどい貧困のうちに生まれてくる多くの子どものことを思わずにいられるでしょうか。歓迎されることなく、拒絶されるみどりご、配慮も注意も払われないために死んでいくみどりごのことを思わずにいられるでしょうか。子どもを得る喜びを望みながら、その望みのかなえられない家族のことも思わずにいられるでしょうか。残念ながら、快楽を重視する消費主義の影響によって、降誕祭はその霊的な意味を失い、プレゼントを買って交換するための、単なる消費のときとなる恐れがあります。しかし、本当は、この数か月間、多くの家族が味わっており、また、人類全体に影響を及ぼしている貧困と不安と経済危機は、単純で、友愛と連帯に満ちた温かい心を再発見するよう促します。これらの価値観は、降誕祭の特徴をなすものです。このように消費主義と物質主義の汚れを取り除くことによって、降誕祭は、希望の知らせを一人ひとりへの贈り物として迎え入れるためのときとなります。この希望は、キリストの誕生の神秘からもたらされます。
  しかし、これらすべてのことをもってしても、わたしたちが準備している降誕祭の意味を完全に理解するには不十分です。ご存じのように、降誕祭は歴史の中心となる出来事を記念します。すなわち、人類のあがないのために神のことばが受肉したという出来事です。大聖レオ(400頃-461年)は多くの降誕祭の説教の一つの中で、次のようにたたえます。「親愛なる諸子よ、主において喜ぼう。霊的楽しみをもって喜ぼう。われわれのために新しい救いの日、古くから準備された日、永遠の幸福の日が明けそめたからである。事実、また一年が巡りきて、初めから約束され、ついに与えられ、終わりなく続くわれわれの救いの神秘がふたたび祝われることになった」(『説教22』:Homilia XXII〔熊谷賢二訳、『キリストの神秘――説教全集――』創文社、1965年、149頁〕)。聖パウロは手紙の中でこの根本的な真理について何度も述べます。たとえばガラテヤの信徒への手紙の中で彼はいいます。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、・・・・わたしたちを神の子となさるためでした」(ガラテヤ4・4)。ローマの信徒への手紙の中で、パウロはこの救いの出来事の理由と、それがもたらした要求を明らかにします。「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストとともに苦しむなら、ともにその栄光をも受けるからです」(ローマ8・17)。しかし何よりも、第四福音書の序文の中で、受肉の神秘を深く考察したのは聖ヨハネです。そのため、この序文は古代から降誕祭の典礼の一部となりました。実際、この序文には、降誕祭と降誕祭がもたらす根本的な喜びの真実の表現と深いまとめが見いだされます。「ことばは肉となって、わたしたちの間に宿られた(Et Verbum caro factum est et habitavit in nobis)」(ヨハネ1・14)。
  それゆえ、わたしたちは降誕祭に、一人の偉大な人物の誕生を記念するだけではありません。わたしたちは単に抽象的な形で、人間の誕生の神秘を、一般的なしかたでいえば、いのちの神秘を記念するだけではありません。わたしたちは新しい季節の始まりを祝うだけでもありません。わたしたちは降誕祭に、人間にとってきわめて具体的で重要なことを記念します。それはキリスト教信仰にとって本質的なことがらです。この真理を聖ヨハネはこの短いことばにまとめたのです。「ことばは肉となった」。それは歴史的な出来事です。福音書記者ルカはこの出来事をはっきりとした状況の中に位置づけようと努めました。すなわち、皇帝アウグストゥスが最初の住民登録に関する勅令を出したとき、キリニウスがシリア州の総督となっていたときです(ルカ2・1-7参照)。それゆえ、それは歴史的な日付をもった夜でした。そのような夜に、イスラエルが何世紀にわたって待ち望んでいた救いの出来事が起こりました。ベツレヘムの夜の闇の中で、本当に、偉大な光が輝きました。宇宙の造り主が受肉し、ご自分を人間の本性と分かちえないしかたで結びつけました。そして本当に、「神よりの神、光よりの光」であるとともに、人間、それもまことの人間となりました。ヨハネがギリシア語で「ホ・ロゴス(ことば)」と呼んだもの――ラテン語訳でVerbum、イタリア語訳でVerbo――は、「意味」をも表します。それゆえわたしたちはヨハネのことばをこうも理解できます。世の「永遠の意味」が、わたしたちの感覚と知性で触れることができるものになりました。今やわたしたちはこのかたに触れ、このかたを仰ぎ見ることができます(一ヨハネ1・1参照)。肉となった「意味」は、単に世に記された一般的な観念ではありません。それはわたしたちに語りかけた「ことば」です。この「ロゴス」は、わたしたちを知り、招き、導いてくださいます。この「ロゴス」は、後にそれに基づいてわたしたちが規則を作るような、普遍的な法ではありません。むしろそれは一人ひとりの人に関心をもつ「かた」です。この「ロゴス」は生きた神の子です。このかたがベツレヘムで人となられました。
  多くの人にとって、またある意味でわたしたち皆にとっても、これはあまりにもすばらしすぎて、本当のことだとは思われません。実際には、それはわたしたちに繰り返しこう主張します。そうです。意味は存在します。そして、この意味は、不条理に対する無力な抵抗のようなものではありません。「意味」であるかたには力があります。そのかたは神だからです。このいつくしみ深い神を、決して手の届かない、天の彼方の遠く離れたところにおられるようなかたと混同してはなりません。むしろ、この神はわたしたちの隣人となってわたしたちに近づいてくださいます。わたしたち一人ひとりのために時間をとってくださいます。来て、わたしたちのもとにとどまってくださいます。ここで自然に疑問が湧きます。「どうしてそのようなことが生じうるでしょうか。子どもになることが神にふさわしいことでしょうか」。このわたしたち人間の存在全体を照らす真理に心を開こうとするには、頭を下げて、自分の知性の限界を知らなければなりません。神はわたしたちの傲慢に打ち勝つために、ベツレヘムの洞窟でご自身をつつましい「幼子」として示してくださいました。もしかするとわたしたちは、権力や知恵の前に屈服するほうがもっと簡単かもしれません。しかし、神はわたしたちが屈服することを望まれません。むしろ神は、ご自分の愛を受け入れるようにと、わたしたちの心に、わたしたちの自由な決断に呼びかけます。わたしたちは人間として、自分が偉大なものであるかのように思い上がっています。この思い上がりは傲慢から生じます。このような思い上がりからわたしたちを解放するために、神は小さなものとなりました。神は、わたしたちを本当に自由な者とするために、自由にご自分を愛する者とするために、進んで肉となられたのです。
  親愛なる兄弟姉妹の皆様。降誕祭は、わたしたちの存在の意味と価値を考察するための特別によい機会です。降誕祭に近づくことによって、わたしたちはまず歴史の悲惨さを考察できます。歴史の中で、罪に傷ついた人間は、幸福と、生と死を満たす意味を永遠に探し求め続けます。わたしたちはまた、神の憐れみ深いいつくしみを考察するよう促されます。神は来て、人間と出会い、救いをもたらす真理を直接、人間に伝えてくださいます。そして、ご自分との友愛と、ご自分のいのちに人間をあずからせてくださいます。ですから、へりくだった単純な心で、降誕祭のために心の準備をしようではありませんか。光と喜びと平和のたまものを受ける準備をしようではありませんか。これらのたまものが降誕祭の神秘からもたらされるからです。キリストの降誕を、現代においてもわたしたちの生活を新たにすることができる出来事として迎えようではありませんか。わたしたちが、幼子イエスと出会うことによって、自分のことだけを考えるのではなく、兄弟の望みと必要に心を開く者となることができますように。こうしてわたしたちも、降誕祭が第三千年期の人類を照らす光の証人となります。受肉したことばの聖櫃となった至聖なるマリアと、救いの出来事を沈黙のうちにあかしした聖ヨセフに祈り求めようではありませんか。どうか、お二人がイエスの誕生を待ち望む間抱いておられた思いを、わたしたちに伝えてください。わたしたちも、間近に迫った降誕祭を、聖なる思いをもって、信仰の喜びのうちに、心からの回心への決意に強められながら祝う心の準備をすることができますように。

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