教皇ベネディクト十六世、降誕祭メッセージ(ローマと全世界へ)(2008.12.25)

12月25日(月)正午に、サンピエトロ大聖堂バルコニーから、教皇ベネディクト十六世は降誕祭のメッセージを発表しました。メッセージは「ローマと全世界へ(ウルビ・エト・オルビ)」と呼ばれ、毎年、降誕祭と復活祭に発表されます。 […]

12月25日(月)正午に、サンピエトロ大聖堂バルコニーから、教皇ベネディクト十六世は降誕祭のメッセージを発表しました。メッセージは「ローマと全世界へ(ウルビ・エト・オルビ)」と呼ばれ、毎年、降誕祭と復活祭に発表されます。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
メッセージの発表の後、64か国語による祝福が述べられました。教皇は52番目に日本語で次のように述べました。「クリスマスと新年おめでとうございます」。最後の祝福は、メッセージの中でも引用されていることばを用いて、ラテン語で行われました。「すべての人々に救いをもたらすわたしたちの神の恵みが現れました(Apparuit gratia Dei Salvatoris nostri omnibus hominibus!)」(テトス2・11)。


  「すべての人々に救いをもたらすわたしたちの神の恵みが現れました(Apparuit gratia Dei Salvatoris nostri omnibus hominibus!)」(テトス2・11)。

 親愛なる兄弟姉妹の皆様。使徒パウロのことばによって、わたしはあらためてキリストの降誕を喜びのうちに告げます。そうです。今日、「すべての人々に救いをもたらすわたしたちの神の恵みが現れました」。
  「神の恵みが現れました」。教会はまさにこのことを今日祝います。いつくしみと愛に満ちた神の恵みは、もはや隠されることなく「現れました」。それは肉において示されました。そのみ顔を示してくださいました。どこで示されたのでしょうか。ベツレヘムにおいてです。いつ示されたのでしょうか。皇帝アウグストゥスのもとで最初の住民登録が行われたときです。福音書記者ルカもいっているとおりです。だれが示したのでしょうか。おとめマリアから生まれたみどりごです。このかたのうちに救い主である神の恵みが現れました。だから幼子は「イエホシュア」、すなわちイエスと呼ばれました。「イエホシュア」とは「神は救う」という意味です。
  神の恵みが現れました。だから降誕祭は光の祭です。それは真昼にすべてのものを隈なく照らす光ではなく、かすかな光です。このかすかな光は、夜、輝き始め、宇宙のある一点から、すなわちベツレヘムの洞窟から、広がっていきます。ベツレヘムの洞窟で幼子は生まれました。実際、この幼子は光そのものです。この光が広がり始めます。主の降誕を描いた多くの絵画に見られるとおりです。幼子は光です。現れた光は、闇を貫き、暗闇を消し去り、わたしたちに人生と歴史の意味と価値を理解させます。降誕の馬小屋は皆、単純ながら雄弁なしかたで、わたしたちが心と思いを人生の神秘へと開くよう招きます。わたしたちは馬小屋で、不滅のいのちと出会います。降誕祭の不思議な光景の中で、この不滅のいのちが死すべきものとなったからです。わたしたちはここサンピエトロ広場で、また、世界中の数多くの教会や聖堂、イエスのみ名をたたえるすべての家で、このかたをあがめることができます。
  神の恵みは「すべての人々に」現れました。そうです。「わたしたちを救う神」のみ顔であるイエスは、わずかな限られた人にだけでなく、すべての人々に示されました。たしかに、ベツレヘムのつつましく粗末な住まいでイエスと出会ったのはわずかの人でした。しかし、イエスはすべての人のために来られました。ユダヤ人も異邦人も、豊かな人も貧しい人も、近くにいる人も遠くにいる人も、信じる人も信じない人も含めて・・・・すべての人のために来られました。神のみ心により、超自然的な恵みは、造られたすべてのものに与えられます。けれども、すべての人はこの恵みを受け入れ、マリアと同じように、自ら「はい」とこたえなければなりません。それは、自分の心をこの神の光の輝きで照らしてもらうためです。人となられたみことばを受け入れようと、マリアとヨセフは、この夜、羊の群れの番をしていた羊飼いたちとともに、愛をもってこのかたを待ち望みました(ルカ2・1-20参照)。それゆえ、一つの小さな共同体が、幼子イエスを急いであがめようとしていました。この小さな共同体は、教会とすべての善意の人を代表します。今日も、人生の中でこのかたを待ち望み、探し求めている人が神と出会います。神は愛のゆえにわたしたちの兄弟となってくださったからです。多くの人が心をこのかたに向けます。このかたのみ顔を知り、神の国の到来のために役立つことを望みながら。イエスも説教の中でこの人々について語ります。すなわち、心の貧しい人々、悲しむ人々、柔和な人々、義に飢え渇く人々、憐れみ深い人々、心の清い人々、平和を実現する人々、義のために迫害される人々です(マタイ5・3-10参照)。この人々は、ベツレヘムの羊飼いたちのように、イエスのうちに神のみ顔を見いだし、イエスを愛する喜びによって心を新たにされて、再び歩み始めます。
  わたしのことばに耳を傾けてくださる兄弟姉妹の皆様。降誕祭のメッセージの中心であるこの希望の知らせは「すべての人々に」告げられています。イエスはすべての人々のために生まれました。そして、マリアがベツレヘムでイエスを羊飼いたちに示したように、今日、教会も全人類にイエスを示します。それは、すべての人、すべての人の置かれた状況が、救いをもたらす神の恵みの力を味わうことができるようになるためです。このかただけが悪を善に変えることができるからです。このかただけが、人の心を造り変えて、平和の「オアシス」とすることができるからです。
  今も暗闇と死の陰に座している多くの人々が(ルカ1・79参照)、救いをもたらす神の恵みの力を味わえますように。ベツレヘムの神の光が聖地に広がりますように。聖地では、イスラエルとパレスチナの人々にとって状況は再び悪化しているように思われるからです。神の光がレバノン、イラク、そして中東全土に広がりますように。神の光によって、紛争と暴力に頼る邪悪な思考に屈服することなく、国内の緊張を解き、地域を苦しめる紛争に公正で永続的な解決をもたらすために対話と交渉の道を選ぶ人々の努力が実を結びますように。アフリカのジンバブエの人々も、変革と刷新をもたらすこの光を待ち望んでいます。ジンバブエの人々は、政治的・社会的危機によって長く苦しんできました。残念ながらこの危機は悪化し続けています。コンゴ民主共和国、特に苦難のうちにあるキブ州、スーダンのダルフール、ソマリアの人々も同じです。この人々の終わりのない苦しみは、安定と平和の欠如がもたらした悲惨な結果です。何よりも、これらの国々を初めとする、困難を抱えるすべての国の子どもたちが神の光を待ち望んでいます。彼らの未来に再び希望が訪れるためです。
  人間の人格の尊厳と権利が踏みにじられている地域。個人と集団の利己主義が共通善よりも優先されている地域。兄弟間の憎悪や、人間による人間の搾取が普通のものとなる恐れのある地域。国内紛争が集団や民族を分裂させ、人々の共存を引き裂いている地域。テロが被害を与え続けている地域。生存に必要なものが不足する地域。豊かな国も含めて、人々が、ますます不安定化する未来に不安を抱いている地域――これらの地域に降誕の光が輝き、すべての人がまことの連帯精神をもって自分の役割を果たすよう力づけてくださいますように。すべての人が自分の利益だけを考えるなら、世界は破滅するほかありません。
  親愛なる兄弟姉妹の皆様。力と無力、進歩と危機、希望と不安のうちにある、現代のわたしたちの世界にも「救いをもたらす神の恵みが現れました」(テトス2・11参照)。今日、イエス・キリストの光が輝きます。イエス・キリストは、おとめマリアから生まれた、いと高きかたの子です。このかたこそ「神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神。わたしたち人類のため、わたしたちの救いのために天からくだったかた」です。今日、地上のあらゆるところで、布にくるまれ、粗末な飼い葉桶に寝かされたこのかたをあがめようではありませんか。静かにこのかたをあがめようではありませんか。このかたはまだ幼子でありながら、こういってわたしたちを慰めてくださるように思われます。恐れることはありません。「わたしは神、ほかにはいない」(イザヤ45・22)。人々よ、わたしのところに来なさい。国々の民よ、わたしのところに来なさい。恐れることはありません。わたしは父の愛をもたらすために、平和への道を示すために来たのです。
  兄弟の皆様。ですから、行こうではありませんか。ベツレヘムの夜の羊飼いたちのように、急いで行こうではありませんか。神はわたしたちと出会うために来てくださいました。神は恵みと憐れみに満ちたみ顔をわたしたちに示してくださいました。神の到来が無駄になりませんように。イエスを探し求めようではありませんか。イエスの光に引き寄せていただこうではありませんか。イエスの光は人間の心から悲しみと恐れを取り去ってくださいます。信頼をもって近づこうではありませんか。謙遜にイエスを伏しおがもうではありませんか。皆様、クリスマスおめでとうございます。

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