教皇ベネディクト十六世の2009年1月4日の「お告げの祈り」のことば みことばの受肉

教皇ベネディクト十六世は、1月4日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイタリア語)。 「お告 […]

教皇ベネディクト十六世は、1月4日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で、パレスチナ自治区ガザの状況について次の呼びかけを行いました。
「今日、エルサレムのキリスト教会の総大司教と指導者は、聖地の全教会の信徒に向けて、ガザ地区の戦闘の終結を祈り、聖地のために正義と平和を願い求めるよう呼びかけます。わたしもこれに心を合わせながら、皆様も同じことをしてくださるようお願いします。どうか、呼びかけが述べているように『犠牲者と怪我人、心を引き裂かれ、不安と恐怖のうちに過ごす多くの人々を心にとめてください。どうか神が、神から与えられる慰めと忍耐と平和によってこの人々を祝福してくださいますように』。
  ガザからもたらされる悲しむべき知らせは、対話の拒否が人々を筆舌に尽くしがたいしかたで苦しめる状況をもたらすことを示しています。この人々は再び憎しみと戦争の犠牲となったからです。
  憎しみと戦争は問題を解決しません。最近の歴史もそのことを確認しています。それゆえ、祈りたいと思います。『飼い葉桶の幼子が、現在の悲惨な状況を終わらせるためにただちに行動をとるよう、イスラエルとパレスチナの双方の政治家と指導者を促してくださいますように』」。

なお、教皇はすでに2008年12月28日(日)の聖家族の祝日の「『お告げの祈り』のことば」の中で、次のようにガザ地区の平和を求める呼びかけをイタリア語で行っています。
「親愛なる兄弟姉妹の皆様。この降誕祭の数日間、聖地は世界中の信者の思いと愛情の中心です。この聖地が、かつてない暴力の爆発によって再び混乱しています。わたしは、亡くなったかた、怪我をしたかた、物質的被害を受けたかた、そして、攻撃と報復の悲惨な連鎖の犠牲となった人々が苦しみ、悲しんでいることに対して、深い悲しみを覚えます。イエスの生まれ故郷が、終わりなく繰り返される流血の場となり続けることは、あってはならないことです。わたしはこの暴力が終わることを祈り求めます。暴力はあらゆる点で非難されるべきものです。そして、ガザ地区の停戦が回復することを祈り求めます。国際社会に願います。イスラエルとパレスチナの人々がともにこの袋小路を抜け出し、わたしが数日前に降誕祭メッセージで述べたように、衝突と暴力に基づく誤った考え方に身をゆだねるのではなく、対話と交渉の道を優先するのを助けるために、あらゆることを試みてください。平和の君であるイエスにこの祈りの意向をゆだねようではありませんか。そして、イエスとマリアとヨセフに向かって祈ろうではありませんか。『苦しみをよく知っておられるナザレの家族よ、世界に平和をお与えください』。何よりも今日、聖地に平和をお与えください」。
また教皇は、2009年1月6日(火)にローマで主の公現の祭日を祝うミサの後に行った「お告げの祈り」の中で、あらためて次のようにガザ地区の平和を求める呼びかけをイタリア語で行いました。
「ユリウス暦に従って明日、降誕祭を祝う東方教会の兄弟姉妹の皆様に心よりごあいさつ申し上げます。救い主の降誕の記念が、皆様の心のうちに、神に愛された喜びをいっそう感じさせてくれますように。このわたしたちの信仰における兄弟への思いが、わたしの心を聖地と中東に導きます。わたしはガザ地区で起きている暴力的な武力衝突を深い懸念をもって見守り続けています。わたしは、憎しみと対話の拒絶は戦争以外の何ものももたらさないと、あらためて述べます。そして、今日、心から平和を願いながら、イスラエルとパレスチナの人々がテーブルを囲んで話し合うための助けとなろうと努める人々の取り組みと努力を励まします。神がこの勇気をもって『平和を実現する人々』の働きを支えてくださいますように」。
2008年12月19日(金)に、パレスチナ自治区ガザを実効支配するイスラム原理主義組織ハマスと、イスラエルの停戦が失効した後、27日(土)、イスラエル軍はガザへの空爆を開始し、ハマスもイスラエルへのロケット弾攻撃を行いました。2009年1月3日(土)、イスラエルはガザへの地上部隊の侵攻を開始しました。12月27日の空爆開始以来、1月5日(月)までにガザでの死者は550人に達しています。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  今日の典礼は、降誕祭の日に朗読されたのと同じ福音をわたしたちが黙想するようにあらためて示します。すなわち聖ヨハネによる福音書の序文です。プレゼントを買い求めるあわただしい日々の後、教会はあらためてキリストの降誕の神秘を観想するようわたしたちを招きます。それは、この神秘の深い意味と、それがわたしたちの生活にとってもつ重要性をよりよく理解させるためです。この序文は、キリスト教信仰の全体をまばゆいばかりにまとめる驚くべきテキストです。序文はいと高きところから始まります。「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」(ヨハネ1・1)。「ことばは肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1・14a)。ここに、かつて聞いたことのない、人間的には理解しがたい新しい要素があります。これは修辞学上のたとえではなく、生きた体験です。それを目撃した証人であるヨハネはいいます。「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(ヨハネ1・14b)。それはラビや律法学者の学識豊かなことばではなく、身分の卑しい漁師の情熱的な証言です。この漁師は、若いときにナザレのイエスに心を引きつけられ、3年間イエスと他の使徒たちと生活をともにし、そして、自らを「イエスの愛しておられた弟子」というまでに、愛を体験しました。この漁師はイエスが十字架上で死に、復活して現れたのを見ました。そして後に他の使徒とともにイエスの霊を受けました。これらすべての体験を自らの心で黙想することによって、ヨハネは内的な確信に達しました。イエスは受肉した神の知恵であり、死すべき人間となった神の永遠のことばであると。
  聖書を知っていたまことのイスラエル人にとって、これは矛盾ではなく、むしろ旧約全体の実現でした。神の神秘はイエス・キリストにおいて完全に実現しました。神は友に語るように人間に語りかけ、モーセに律法を与え、知恵ある者や預言者に自らを現してきたからです。イエスを知り、イエスとともに過ごし、イエスの説教を聞き、イエスが行ったしるしを見ることによって、弟子たちは、イエスのうちに聖書全体が実現されたことを悟りました。あるキリスト教的著作家が後にいうとおりです。「聖書全巻は一冊の書です。この一冊の書、それはキリストなのです。聖書全巻はキリストについて語り、聖書全巻はキリストにおいて完成するからです」(サン=ヴィクトルのフーゴー『ノアの道徳的箱舟について』:De arca Noe morali 2, 8)。すべての人は自分が生きるための深い意味を見いださなければなりません。そのために書物だけでは十分ではありません。聖書でさえも十分ではありません。ベツレヘムの幼子は、いつくしみ深く忠実な神の真の「み顔」をわたしたちに示し、伝えてくださいます。神はわたしたちを愛し、死のときにもわたしたちを決して見捨てないからです。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、このかたが神を示されたのである」(ヨハネ1・18)。
  自分の心を開いて、「肉となったことば」を仰ぎ見た最初の人は、イエスの母マリアです。こうして、ガリラヤの身分の低い娘が「知恵の座」となりました。使徒ヨハネと同じように、わたしたちも皆、この「母を自分の家に引き取る」(ヨハネ19・27)よう招かれています。それは、イエスを深く知り、忠実で尽きることのない愛を体験するためです。親愛なる兄弟姉妹の皆様。新年の初めにあたって、わたしはこのことを皆様のために願います。

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