教皇ベネディクト十六世の164回目の一般謁見演説 霊的な礼拝

1月7日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の164回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2008年7月2日から開始した聖パウロの人と思想に関する連続講話の17回目として、「霊的な礼拝」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  2009年最初の一般謁見にあたり、始まったばかりの新年のごあいさつを心より皆様に申し上げたいと思います。思いと心をキリストに開き、キリストの真の友となり、生きていく努力を新たにしようではありませんか。キリストがともにいてくだされば、たとえ困難を避けることができなくても、今年も喜びと平和に満たされながら歩むことができるでしょう。実際、イエスに結ばれ続けることによって初めて、新年は恵み深く幸いなものとなります。
  キリストと結ばれようとする態度について、聖パウロもわたしたちに模範を示します。パウロについての講話の続きとして、今日はパウロの思想の重要な側面の一つを考察したいと思います。すなわち、キリスト信者がささげるよう求められる礼拝です。かつて、使徒パウロは礼拝に反対する傾向をもっているとよくいわれました。すなわちパウロは礼拝の理念を「精神化」したといわれたのです。現代のわたしたちは、聖パウロがキリストの十字架のうちに歴史の転換を認めたことをよく理解しています。この歴史の転換は、礼拝を造り変え、根本的に新たなものとしました。中でもローマの信徒への手紙には、この礼拝に関する新しい考え方を示す3つの箇所があります。
  (一) ローマの信徒への手紙3章25節で、パウロは「キリスト・イエスによるあがないのわざ」を述べた後、続いて不思議な言い方を用いて次のようにいいます。「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供えものとなさいました」。「罪を償う供えもの」というわたしたちには聞き慣れないことばによって、聖パウロは古代の神殿のいわゆる「なだめの供えもの」を表します。「なだめの供えもの」とは、契約の箱の蓋です。契約の箱の蓋は、神と人が出会う場所、すなわち、神が人間の世界に神秘的なしかたで臨在する場所と考えられていました。贖罪の日(ヨーム・キップール)には、この「なだめの供えもの」にいけにえの動物の血が注ぎかけられました。この血は象徴的な意味で一年の罪を神に触れさせます。こうして神の深いいつくしみのうちに投げ入れられた罪は、神の力によっていわば呑み込まれ、打ち消され、ゆるされます。生活は新たなものとされます。
  聖パウロはこの儀式に触れながらいいます。この儀式は、わたしたちのすべての罪を真の意味で神の深い憐れみにゆだね、消し去りたいという望みを表しました。しかし、動物の血でこのことを実現することはできません。人間の罪と神の愛をもっと現実的なしかたで触れさせることが必要です。この接触はキリストの十字架において行われました。まことの人となられた、神のまことの子であるキリストは、わたしたちのすべての罪を自らの身に引き受けました。キリストご自身こそが、人間の悲惨さと神の憐れみとが触れ合う場です。キリストの心において、人類が行った多くの悲しむべき悪は消え、いのちは新しくされます。
  聖パウロはこのような転換を示そうとしていいます。人間の愛となった、神の愛の最高のわざである、キリストの十字架によって、エルサレム神殿で動物のいけにえを用いて行われる古い礼拝は終わりました。この象徴としての礼拝、すなわち望みの礼拝は、いまやまことの礼拝に取って代わられます。まことの礼拝とは、キリストのうちに受肉し、キリストの十字架上の死によって完成した、神の愛です。それゆえ、これは現実の礼拝の精神化ではなく、むしろこれこそが現実の礼拝です。神的であると同時に人間的な愛が、象徴的で仮の姿の礼拝に取って代わったのです。キリストの十字架、すなわち、キリストの肉と血による愛こそが真実の礼拝です。この礼拝は神と人間の現実にこたえるものだからです。パウロの考えでは、すでに神殿が外的な意味で破壊される前に、神殿の時代も、神殿の礼拝も終わりました。この点でパウロはイエスのことばと完全に一致します。イエスは神殿の終わりと、もう一つの神殿について告げたからです。この神殿は「人間の手で造らない別の神殿」、すなわち、ご自分の復活したからだの神殿です(マルコ14・58、ヨハネ2・19以下参照)。これが第一の箇所です。
  (二) 今日お話ししたい第二の箇所は、ローマの信徒への手紙12章1節です。すでに朗読されましたが、もう一度繰り返します。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分のからだを神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとしてささげなさい」。このことばには一見したところ逆説が認められます。いけにえは原則として犠牲とされるものの「死」を必要とします。しかし、パウロはキリスト信者の「生」について語ります。犠牲の概念に続く「自分のからだをささげる」という表現は、「供えものとしてささげる、奉納する」という礼拝上の意味をもちます。「からだをささげる」ようにという勧めは全人格にかかわります。実際、ローマ6・13でパウロは「自分自身をささげる」よう招きます。要するに、キリスト信者の身体的な側面をはっきりと述べたこのことばは、「自分のからだで神の栄光を現しなさい」(一コリント6・20)という招きと一致します。ここでいわれているのは、日々の具体的な生活の中で神をたたえることです。日々の生活は人間関係と目に見えるものから成るからです。
  パウロはこうした態度を「神に喜ばれる聖なる生けるいけにえ」と呼びます。ここでわたしたちはまさに「いけにえ」ということばを見いだします。多くの場合、このことばは儀式との関連で用いられ、動物を屠殺することを表します。屠殺した動物の半分は神々をたたえるために焼かれ、残りの半分は犠牲をささげる人が食事の中で食べます。しかし、パウロはこのことばをキリスト信者の生活について用います。実際、パウロは3つの形容詞でこのことばを性格づけます。第一の形容詞「生きた」は活力を表します。第二の形容詞「聖なる」はパウロの聖性に関する思想を表します。パウロにとって聖性は場所やものではなく、キリスト信者の人格そのものと結びつけられます。第三の形容詞「神に喜ばれる」は、おそらく「なだめの香り」(レビ1・13、17、23・18、26・31など参照)によるいけにえを表すためによく用いられる聖書の表現を指しています。
  パウロはその後すぐにこの新しい生き方をこう定義づけます。それは「あなたがたのなすべき礼拝」です。この箇所の注解者がよく知っているとおり、このギリシア語表現(テーン・ロギケーン・ラトレイアン)は翻訳がむずかしいことばです。ラテン語聖書は「理にかなった礼拝(rationabile obsequium)」と訳しています。「理にかなった(rationabile)」という同じことばは、第一奉献文、すなわちローマ典文の中で用いられます。ローマ典文の中で、わたしたちは神がこのささげものを「理にかなった」ものとして受け入れてくださるようにと祈ります。伝統的なイタリア語訳「霊的な礼拝(culto spirituale)」はギリシア語の意味を(ラテン語の意味さえも)完全に反映したものではありません。いずれにせよ、ここでいわれているのは、真実でない礼拝でも、まして比喩的な意味での礼拝でもなく、いっそう具体的かつ真実な礼拝です。この礼拝において、人間は、理性を与えられたその存在全体をもって、生きた神をあがめ、たたえる者となるからです。
  後にローマ典礼の奉献文でも用いられた、このパウロのことばは、キリストに先立つ数世紀の宗教体験の長い発展から生まれたものです。この体験において、旧約の神学の発展とギリシア思想の思潮が出会いました。わたしはこの発展のいくつかの要素を示すにとどめたいと思います。預言者と多くの詩編は、神殿における残酷な犠牲を強く批判しました。たとえば詩編50では、神自身がこう語ります。「たとえ飢えることがあろうとも、お前にいいはしない。世界とそこに満ちているものはすべてわたしのものだ。わたしが雄牛の肉を食べ、雄山羊の血を飲むとでもいうのか。告白を神へのいけにえとしてささげよ・・・・」(詩編50・12-14)。同じ意味で次の詩編51はいいます。「もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くすささげものがみ旨にかなうのなら、わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」(詩編51・18-19)。ギリシア人の支配者の手で神殿が再び破壊された時代(前2世紀)に書かれたダニエル書補遺の中に、わたしたちは同じ方向に向けた新たな歩みを見いだします。火の中で、すなわち迫害と苦しみの中で、アザルヤは祈ります。「今や、高官も預言者も指導者もなく、焼き尽くすささげものもいけにえも、供えものも香もなく、憐れみを得るためにささげものをみ前に供えるところもありません。ただ、砕かれた魂とへりくだる心をもつわれらを受け入れてください。焼き尽くすささげものの羊と牛のように・・・・。今日のわれらのいけにえが、み前に受け入れられますように。・・・・」(アザルヤ15以下)。聖所と礼拝が破壊され、神の臨在を示すあらゆるしるしが奪われた状況の中で、信じる者は、砕かれた心、すなわち神を求める心を、まことの焼き尽くすささげものとしてささげるのです。
  これは重要ですばらしい発展ですが、そこには危険も認められます。すなわち、礼拝の精神化、道徳化です。礼拝は、心のことがら、魂のことがらにすぎなくなります。しかし、そこにはからだと共同体が欠けています。そこから、詩編51やダニエル書補遺が、儀式を批判するにもかかわらず、いけにえをささげる時代の復活を望むわけがわかります。しかし、そこでいわれるのは、刷新された時代であり、新しいいけにえです。この刷新は、まだ前もって見ることもできず、考えることもできなかった総合によって行われます。
  聖パウロに戻りたいと思います。パウロはこのような発展、すなわち、まことの礼拝への望みを引き継ぎました。それは、人間自身が神の栄光となり、存在全体で生き生きと神をたたえるような礼拝です。そのような意味でパウロはローマの信徒に向けていいます。「自分のからだを・・・・生けるいけにえとしてささげなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ローマ12・1)。こうしてパウロはすでに3章で示したことを繰り返します。動物の犠牲や、身代わりの犠牲をささげる時代は終わりました。まことの礼拝をささげる時代が来ました。しかし、ここでも誤解に陥る危険があります。この新しい礼拝は道徳主義的な意味で受け取られがちです。わたしたちは、自分の生活をささげることで、まことの礼拝を行うのだというようにです。こうして、動物を用いる礼拝は、道徳主義に取って代わられます。人間は自らの道徳的な力であらゆることを自ら行うことができると考えられます。もちろん聖パウロがいおうとしたのは、このようなことではありません。しかし、まだ疑問が残ります。それでは、この「なすべき(霊的な、理にかなった)礼拝」をどのように解釈すべきでしょうか。パウロが常に前提としていることがあります。それは、わたしたちが「キリストにおいて一つ」(ガラテヤ3・28)となったこと、洗礼によって死に(ローマ1章参照)、今やキリストとともに、キリストによって、キリストのうちに生きていることです。わたしたちは、このような一致によって、また、このように一致することによって初めて、キリストのうちに、キリストとともに、「生けるいけにえ」となり、「まことの礼拝」をささげることができます。動物のいけにえは、人間に代わって自らをささげることをめざしていました。しかしそれは動物にはできないことでした。御父とわたしたちにご自身をささげたイエスは、身代わりではありません。イエスはご自身のうちに真の意味で人間を担います。すなわち、わたしたちの罪とわたしたちの望みを担います。イエスは真の意味でわたしたちを代表します。わたしたちをご自身のうちに引き受けます。わたしたちは、信仰と秘跡のうちに行われるキリストとの交わりによって、どれほど不十分なしかたであっても、生けるいけにえとなります。こうして「まことの礼拝」が実現します。
  ローマ典文の基盤にあるのは、このような基本的な考え方です。わたしたちはローマ典文の中で、このささげものが「理にかなった(rationabile)」ものとなり、霊的な礼拝が実現することを祈るからです。教会は、聖体のうちに、キリストの自己贈与、すなわちキリストのまことの奉献が現存することを知っています。しかし教会は、祭儀を行う共同体が本当の意味でキリストと結ばれ、造り変えられるよう祈ります。教会は、わたしたち自身が、自分の力ではなることのできない者となるよう祈ります。すなわち、神に喜ばれる「理にかなった(rationabile)」ささげものとなるということです。このように、奉献文は聖パウロのことばを正しく解釈しているのです。聖アウグスチヌス(354-430年)はこれらすべてのことを『神の国』第10巻ですばらしいしかたで説明します。「救済された国、換言すれば聖なる者たちの集う社会は、自らをもささげられた偉大な司祭(キリスト)を介して神にささげられている」(『神の国』:De civitate Dei X, 6, CCL 47, 27ss.〔茂泉昭男・野町啓訳、『アウグスティヌス著作集12 「神の国」(2)』教文館、1982年、308頁。ただし表記を一部改めた〕)。
  (三)最後に、新しい礼拝に関する、ローマの信徒への手紙の第三の箇所を簡単に考察したいと思います。聖パウロは15章でいいます。「神から恵みをいただいて、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めている(ヒエルールゲイン)からです。そしてそれは、異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供えものとなるためにほかなりません」(ローマ15・15-16)。このすばらしい箇所の二つの側面と、パウロ書簡独特のことば遣いを指摘するにとどめたいと思います。まず、聖パウロは、普遍教会を築くために世の諸国民の間で行う自らの宣教活動を、祭司のわざと考えました。復活したキリストとの交わりのうちに諸国民を一つにするために福音を告げ知らせることは、「祭司」のわざなのです。福音の使徒は真の意味での祭司です。彼は祭司職の中心にあることがらを行います。すなわち、真のいけにえを準備することです。次に、第二の側面はこれです。宣教活動の目的は、――こういうことができるなら――宇宙的な典礼です。すなわち、キリストに結ばれた民と世界が、神の栄光として、「聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供えもの」となることです。ここに、パウロの礼拝に関する考え方の動的な側面、すなわち希望に満ちた側面が現れます。キリストの自己贈与は、すべてのものをキリストのからだとの交わりへと引き寄せ、世を一致させることをめざします。人間の模範であり、神と一体であるキリストと一致することによって初めて、世はわたしたち皆が望むような姿に、すなわち、神の愛を映し出す鏡になります。聖体の中に常に存在するのは、このような動きです。この動きがわたしたちの生活を力づけ、形づくらなければなりません。この動きをもってわたしたちは新年を始めます。ご清聴くださり感謝します。

略号
CCL Corpus Christianorum Series Latina

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