教皇ベネディクト十六世の165回目の一般謁見演説 コロサイの信徒への手紙とエフェソの信徒への手紙

1月14日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の165回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2008年7月2日から開始した聖パウロの人と思想に関する連続講話の18回目として、「コロサイの信徒への手紙とエフェソの信徒への手紙」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  パウロの手紙の中には、コロサイの信徒への手紙とエフェソの信徒への手紙という二つの手紙があります。この二つの手紙はある意味で双子のようなものだと考えられます。実際、二つの手紙はともに、この二つの手紙だけに見いだされる語り方を用い、コロサイの信徒への手紙のことばの三分の一以上がエフェソの信徒への手紙のうちにも見いだされます。たとえば、コロサイの信徒への手紙の中では文字どおり「互いに・・・・諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい」(コロサイ3・16)という招きが行われます。エフェソの信徒への手紙も、同じように「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」(エフェソ5・19)と勧めます。これらのことばを次のように考察することができます。心から、また声に出して、詩編と賛歌で歌わなければなりません。それは、旧約と新約に基づく教会全体の祈りの伝統を生きるためです。こうしてわたしたちは、互いに結ばれ、また神と結ばれることを学びます。さらに、二つの手紙にはともに、他のパウロの手紙にはない、いわゆる「家庭訓」が見いだされます。「家庭訓」とは、夫と妻、両親と子ども、主人と奴隷に対する一連の勧告です(コロサイ3・18-4・1、エフェソ5・22-6・9をそれぞれ参照)。
  さらに重要なのは、この二つの手紙の中でのみ、イエス・キリストに「頭(ケファレー)」という称号が与えられているのが認められることです。この称号は二つの次元で用いられます。第一の意味として、キリストは教会の頭と考えられます(コロサイ2・18-19、エフェソ4・15-16参照)。これは二つのことを意味します。何よりもまず、キリストは統治者、導き手、キリスト教共同体を指導者また主として指導する責任を負うかたです(コロサイ1・18「御子はそのからだである教会の頭です」参照)。第二の意味は、キリストが頭として、自らが頭であるからだの部分全体を育て、生かすということです(実際、コロサイ2・19によれば、「この頭の働きにより、からだ全体は・・・・支えられ、結び合わされ」なければなりません)。ですから、キリストは単に命令を下すだけでなく、有機的なしかたでわたしたちと結びつけられています。このかたから、正しく行動するための力も生まれます。
  二つの手紙ではともに、教会はキリストに従うものとされます。それは、キリストの優れた導き――すなわち掟――に従い、キリストから流れ出る生きた水を受け入れるためです。キリストの掟は単なることばや命令ではなく、キリストから発して、わたしたちを助ける生きた力です。
  こうした思想はとくにエフェソの信徒への手紙で展開されます。エフェソの信徒への手紙では、教会の職務も、聖霊に帰されるのではなく(一コリント12章のように)、復活したキリストによって与えられます。キリストが「ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです」(エフェソ4・11)。そして、キリストにより「からだ全体は、あらゆる節々が補い合うことによって・・・・からだを成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです」(エフェソ4・16)。実際、キリストは「しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会をご自分の前に立たせる」(エフェソ5・27)ことを心から望みます。すなわち、教会を築き、導き、教会に正しい方向づけを与える力は、キリストの愛にほかならないのです。
  それゆえ、第一の意味はキリストが教会の頭だということです。キリストは、教会を導き、何よりもその愛の力で教会を力づけ、生かします。次に第二の意味として、キリストは、教会の頭であるだけでなく、天上の力と宇宙全体の頭と考えられます。そこでコロサイの信徒への手紙にはこう書かれています。キリストは「もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました」(コロサイ2・15)。同じように、エフェソの信徒への手紙もこう述べています。神はキリストを復活させることにより、キリストを「すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました」(エフェソ1・21)。これらのことばによって、二つの手紙はわたしたちにきわめて積極的で実り豊かなメッセージを示します。メッセージとはこれです。キリストは場合によって自分と競う者を恐れる必要はありませんでした。なぜなら、キリストは人間をおとしめようとするいかなる力にも打ち勝つからです。キリストだけが「わたしたちを愛して、ご自分を・・・・わたしたちのために・・・・ささげてくださった」(エフェソ5・2)かたです。だから、キリストと結ばれているなら、わたしたちはどんな敵も災いも恐れてはなりません。けれどもわたしたちは、キリストにしっかりとつかまり、手を放さないようにしなければなりません。
  異教世界は、世界が霊的存在に満ちていると信じていました。霊的存在の多くは危険で、人々はそれらから身を守らなければなりませんでした。それゆえ、キリストは唯一、勝利を収めるかたであり、キリストとともにいれば何も恐れることはないという知らせは、異教世界にとって真の意味での解放と考えられました。同じことが現代の異教思想にもいえます。なぜなら、現代の同じような異教思想の信者も、世界はもろもろの危険な力に満ちていると考えているからです。こうした人々にも、こう告げ知らせなければなりません。キリストは勝利を収めるかたです。だから、キリストとともにおり、キリストと結ばれている人は、だれも、また何ものも恐れることはありません。わたしは、これはわたしたちにとっても大事なことだと思います。わたしたちも、あらゆる恐れに立ち向かわなければなりません。そして、キリストは、あらゆる支配に打ち勝つ、世のまことの主だからです。
  じつに宇宙全体はキリストに従い、自らの頭としてキリストに向かいます。エフェソの信徒への手紙の次のことばは有名です。神の計画は「あらゆるものが・・・・天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられる」(エフェソ1・10)ことです。コロサイの信徒への手紙も同じようにこう述べています。「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも・・・・万物は御子において造られた」(コロサイ1・16)。「その十字架の血によって、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物を・・・・ご自分と和解させられました」(コロサイ1・20)。それゆえ、一方に巨大な物質的世界があり、他方に地上のちっぽけな歴史、すなわち人間の世界があるのではありません。万物はキリストのうちにあって一つです。キリストは宇宙の頭です。宇宙もキリストによって造られました。わたしたちがキリストと結ばれているかぎり、宇宙はわたしたちのために造られました。これが、宇宙に関する合理的で人格主義的な見方です。わたしはこれ以上に普遍的な見方を考えることはできなかったと思います。そして、この見方は復活したキリストによってのみ可能となります。キリストは「全能者(パントクラトール)」です。万物はこのかたに従います。わたしはビザンツ教会の後陣のドームを満たす「全能者(パントクラトール)キリスト」のことを思います。この「全能者キリスト」は、全世界の上、あるいは虹の上に高く座した姿で描かれることがあります。それは、このかたが神と等しいことを示すためです。キリストは神の右の座に座すかただからです(エフェソ1・20、コロサイ3・1参照)。だからキリストは人間の行く末をたぐいのないしかたで導くのです。
  このような考え方をすることができるのは教会だけです。これは、教会が自分に属するものでないものを不当にも自分のものとするわけではありません。むしろそれは、別の二つの意味によっていうのです。第一に、教会はキリストがいわば自らよりも大きいことを認めます。キリストの支配は教会の境を超えたところにまで及ぶからです。第二に、教会だけがキリストのからだと呼ばれるのであって、宇宙はキリストのからだとは呼ばれません。これは次のことを意味します。わたしたちは地上のものを積極的な意味でとらえなければなりません。キリストは地上のものをご自身のうちに再び一つにまとめるからです。同時にわたしたちは自分たちの教会という特別な存在を完全な意味で生きなければなりません。教会はキリストご自身の存在ともっとも本質を同じくするからです。
  この二つの手紙の特徴である、もう一つの特別な概念があります。それは、「神秘」という概念です。「神秘」は、神の「秘められた計画」(エフェソ1・9)について1回用いられ、他の場合には、「キリストの秘められた計画」(エフェソ3・4、コロサイ4・3)について用いられます。さらに、「神の秘められた計画であるキリスト」について用いられます。「知恵と知識の宝はすべて、キリストのうちに隠れています」(コロサイ2・2-3)。この「神秘」とは、人間と諸国民と世界に関する神のはかりがたい計画を意味します。二つの手紙は、この用語を用いて、この神秘がキリストのうちに実現するのだといいます。もしキリストとともにいるなら、わたしたちは、すべてを知性で悟ることができなくても、自分が「神秘」の中心のうちに、真理に向かう途上にあることを知ります。キリストは、その人格の一つの側面や、生涯の一つの時においてだけでなく、その全体で、神のはかりしれない救いの計画をご自分のうちに実現します。キリストのうちに「いろいろの働きをする神の知恵」(エフェソ3・10)と呼ばれるものが形をとります。なぜなら、キリストのうちには「満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っている」(コロサイ2・9)からです。それゆえ、これからは、わたしたちが個人としてキリストの人格に向き合うことなしに、神のご計画と天からの計らいを考えることも、あがめることもできません。この「神秘」はキリストのうちに受肉し、手で触れられるものになりえたからです。だから人は、人間の理解をまったく超えた、「キリストのはかりしれない富」(エフェソ3・8)を仰ぎ見ることができるようになるのです。神はご自分が歩んだ跡を残さなかったのではありません。なぜなら、キリストご自身が神の足跡だからです。神が残した最大の跡だからです。しかし、この神秘の「広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを」理解することができますように。それは「人の知識をはるかに超える」(エフェソ3・18-19)からです。ここでは、単なる知的な理解だけでは足りません。わたしたちは、多くのことがわたしたちの理解力を超えているのを知っています。だからわたしたちは、精神だけでなく、心でもって、謙遜な喜びのうちに、観想に身をゆだねなければなりません。教父がいうとおり、愛は理性よりも多くのことを悟ります。
  最後に、すでに示した、キリストの花嫁としての教会という思想について述べたいと思います。使徒パウロはコリントの信徒への手紙二の中で、キリスト教共同体を婚約者にたとえて、次のようにいいます。「あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています。なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストにささげたからです」(二コリント11・2)。エフェソの信徒への手紙はこのたとえを発展させていいます。教会は単なる婚約者ではなく、本当にキリストの花嫁です。わたしたちはこういうことができます。キリストは教会を自分のものとして勝ち取りました。そしてキリストはそれを自分のいのちを代償として行いました。テキストが述べるとおり、キリストは「教会のためにご自分をお与えになった」(エフェソ5・25)のです。これ以上に大きな愛の表し方があるでしょうか。しかし、さらにキリストは、教会の美しさに心を寄せます。キリストが心を寄せる美しさは、洗礼によってすでに得られたものだけではありません。教会は、道徳的な振る舞いにおいて、「しみやしわやそのたぐいのものは何一つない」、非の打ちどころのない生活によってその美しさを成長させなければなりません(エフェソ5・26-27参照)。そこから、キリスト教的結婚に関する共通の経験までの距離はごくわずかです。しかし、手紙の著者が最初に述べたかった点はあまりはっきりしません。著者はキリストと教会の関係を述べて、そこから、男と女の一致を考えようとしたのでしょうか。それとも、結婚の一致の経験に基づいて、キリストと教会の関係を考えようとしたのでしょうか。しかし、いずれの側面も互いを明らかにします。わたしたちはキリストと教会の交わりから、結婚がいかなるものであるかを学びます。またわたしたちは、結婚の神秘に基づいて、どれほどキリストがご自身をわたしたちと結びつけるかを学びます。いずれにせよ、わたしたちの取り上げている手紙は、預言者ホセアと黙示録の幻を見る者の中間に位置づけられます。ホセアは神と神の民の関係を、すでに行われた婚姻ということばで示します(ホセア2・4、16、21参照)。黙示録の幻を見る者は、終わりの日の教会と小羊の出会いを、永遠の婚礼の喜びとして示します(黙示録19・7-9、21・9参照)。
  いうべきことはまだありますが、以上の説明からも、二つの手紙が偉大な教理講話であることがおわかりいただけると思います。わたしたちはこの二つの手紙から、どのようにすればよいキリスト信者となれるかを学ぶだけでなく、どのようにすれば真の意味で人間となれるかをも学ぶことができます。秩序ある世界はキリストの足跡です。このことを学ぶならば、秩序ある世界との正しい関係を学べます。秩序ある世界の保護は大きな問題だからです。こうしてわたしたちは世界を理性をもって、それも愛に導かれた理性をもって見ることができるようになります。そして、世界に対して、へりくだりと尊重の心をもてるようになります。このような態度によって、わたしたちは正しく行動することができるからです。教会はキリストのからだです。キリストは教会のためにご自分をお与えになりました。このことを考えるなら、わたしたちは、互いに愛し合いながらキリストとともに生きることを学べます。愛はわたしたちを神と結びつけるからです。愛は、わたしたちが、他の人のうちにキリストの姿を、そしてキリストご自身を見ることを可能にするからです。主に祈ろうではありませんか。主の助けによって、わたしたちが聖書、すなわち神のことばをよく思いめぐらし、そこから、本当の意味でよく生きることを学べますように。

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